築城年代別リスト
日本100名城と続日本100名城は、公益財団法人日本城郭協会が選定した優れた文化財・史跡であるお城の一覧です。
これらのお城は、著名な歴史の舞台であり、時代や地域を代表する存在として選ばれました。
日本100名城は2006年に選定され、平成18年に選ばれた100城を含みます。
一方、続日本100名城は2017年に選定され、平成29年に選ばれた100城を含んでいます。
これらの名城をめぐるスタンプラリーに挑戦する人々も増えているようですね!
戦国時代、日本には3~5万もの城があった。
現在残る天守はわずか12だけ。現存天守の記事を見る
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一国一城令
しかし、明治時代までは多くの城が残っていたのだ。
慶長20年(1615)、江戸幕府が一国一城令を発したことで、それまで数万もあった城が一気に約170まで激減する。
幕府は一つの国に一城のみ認め、そのほかの城を廃城にすることで、諸大名の勢力を鎮圧しようとした。
また、武家諸法度を発令し、新城はおろか、許可のない増築も禁止したため、最低限の修復以外、城の工事はなくなった。
さらに太平の世になったことで天守を築くこともなくなり、築城技術は必然的に廃れていった。
廃城令発令
江戸時代が終焉を迎えると、幕藩体制を維持する役割を担っていた城も役目を終え、明治6年の廃城令発令後は、ほとんどの城が売却・撤去された。
莫大な維持費がかかることから保存は難しく、取り壊された建造物は木材として破格値で売買され、薪とされた例は少なくない。
姫路城のように、撤去費用すらなく放置されて残った天守もあれば、松本城のように、文化的価値を見出した地元有力者の尽力により守られた天守もある。
廃城をまぬかれた城
お城がつぎつぎと壊されていくなかで、お城を残そうとしていた人もいました。
陸軍の「中村重遠」大佐は陸軍卿「山県有朋」にたいして、建築学的にも芸術としても価値のあるお城をどうにか保存できないかを訴えました。
中村大佐の訴えを聞き入れた山県有朋はお城の保存を決定し、1879年には陸軍の費用で姫路城と名古屋城の修理がされています。
また松本城は民間人によって守られたお城。
当時「信飛新聞」を発刊していた「市川量造」は、松本城天守が落札された話を聞きつけて保存することができないか奔走。
「笹部六左衛門」という人が松本城天守を買ったわけですが、市川量造は取り壊しを待ってくれと頼みに行きました。
その後、市川量造は有志とともに資金を集め、とりあえず松本城を「10年間借用」することができました。
市川量造と有志らは松本城での博覧会を開催(5回)。
その博覧会での収益でやっと松本城を買い戻すことができたのである。
また明治天皇の一言で取り壊しをまぬがれたお城もあります。
明治天皇が彦根に立ち寄った際、大隈重信(早稲田大学をつくった人)が明治天皇に対して彦根城の保存を提案。
明治天皇はこの提案に同意し、彦根城の保存を命令。
このようにして彦根城は守られました。
廃城令で取り壊しをまぬがれたお城(一部)
弘前城
築城時の天守は五層で本丸西南隅に構築されていましたが、1627年(寛永4年)に落雷により焼失しました。
松本城
全国のほかの城と同様、明治維新の直後に松本城は取り壊しが決まっていました。しかし、解体の危機を救ったのは、松本の市民たちでした。
丸岡城
一時は競売にかけられ落札されたが、町民によって買い戻され丸岡町(現・福井県坂井市)に寄付される。
犬山城
廃城令で天守以外取り壊し。明治24年の濃尾地震で被害を受けたが修復を条件に旧藩主・成瀬家に譲渡される。
大垣城
全国的にも珍しい4層の天守で廃城令を乗り越え、戦前には国宝に選定されますが、戦災により惜しくも焼失します。
彦根城
安土桃山時代から江戸時代の櫓・門など5棟が現存し、国の重要文化財に指定されています。
中でも馬屋は重要指定文化財であり全国的にも彦根城でしか見られない貴重なものです。
二条城
陸軍から宮内庁へ引き渡され、二条離宮として残された。
姫路城
10万円で売られた姫路城、大隈重信の説得で命脈を繋いだ
松江城
明治8年の廃城令よって建物の取り壊しの危機が訪れた際には、地元の有志が資金を調達し保存されることとなり、山陰地方で唯一現存する天守となっています。
備中松山城
昭和2年、地元中学校の教師である信野智春が城の研究成果を「備中松山城及其城下」という形で発表してから一気に城保存の機運が高まりました
福山城
1873年 (明治 6年)の 廃城令 によって、 大蔵省 の所管となり、建物の払い下げ、取り壊しが実施されていたが、翌 1874年 (明治7年)に所在自治体の福山町などの請願によって、本丸の天守(付櫓を含む)・筋鉄御門・伏見櫓・御湯殿・鐘櫓の5棟の建築物が残されることとなった。
その内鐘櫓を除く4棟について、 国宝保存法 の国宝に指定された
丸亀城
櫓や塀は順次取り壊されたいたが、旧藩士の嘆願により天守と大手門は取り壊しをまぬがれる。
伊予松山城
1873年 (明治6年): 廃城令 による処分により 大蔵省 と 内務省 の所管となり、主に麓の城門・櫓・御殿など城外に払い下げられる。
建物の解体は行われたが、入札はなかった。
同年、愛媛県が成立。 1874年 (明治7年):本丸一帯を聚楽園という公園とする。
宇和島城
廃城令により競売にかけられ取り壊しが決まると、下横田町の副戸長・市川量造が私財を投げ打ち買い戻しに奔走。
資金が足りなかったため、博覧会ブームを受けて天守内での博覧会開催を提案し、1873(明治6)年から1876(明治9)年まで5回の博覧会を催して、その利益で補充したという。
老朽化が進んだ天守はその後、松本中学校長の小林有也(うなり)が資金調達に奔走。
高知城
明治 6年(1873年)に発布された 廃城令 や、 太平洋戦争 による 戦災 を免れて天守、本丸御殿、追手門など15棟の建造物が現存し、全て国の 重要文化財 に指定されている。
現在これらは高知県の所有物となっている。
また、この15棟の現存建造物に加えて、土佐山内家宝物資料館に丑寅櫓の一部であると伝わる部材が収蔵されている。
昭和20年の第二次世界大戦の空襲で20天守までに減少
それでも、廃城令後、60以上現存していた天守は、徐々に姿を消し、20天守までに減少。
昭和20年の第二次世界大戦の空襲で、水戸城、名古屋城、大垣城、和歌山城、岡山城、福山城、広島城の7天守が焼失し、翌年松前城が火災で焼失したため、12天守だけになってしまった。
幾多の危機を乗り越えて生き残る、幻の天守を見に行こう。
水戸城
昭和戦前期までは残っていたが、1945年(昭和20年)8月2日の水戸空襲により焼失 した。
なお、 空襲等太平洋戦争の戦災で焼失した天守相当の建築のうち復元されていないのは現在は水戸城だけ である (略) ・1945年(昭和20年)8月2日 水戸空襲により三階櫓を焼失。
1952年(昭和27年) 弘道館が国の特別史跡に指定 される
名古屋城
1945年5月14日の名古屋空襲により、1612年に完成した名古屋城天守は焼失した。
石垣は残ったものの、それまで街のシンボルとして定着していた天守とその頂に輝く 金鯱 きんしゃち が消えてしまったのだ。
名古屋の街も米軍による 執拗 しつよう な爆撃によって焼け野原となり、当時の市民の喪失感の大きさは想像に難くない。
そんな中、早くも天守再建に向けた動きが出てくることになる。
大垣城
戦災で失われた国宝の城といえば名古屋城が有名だが、4層4階の優美な天守閣をもった大垣城(岐阜県大垣市)も焼けている。
1945年7月29日、空襲で全焼。
11年後、市民の間で再建の機運が高まり、59年4月に名古屋城より半年早く完成。
詳細な資料があったおかげで、鉄筋コンクリート製だが外観は焼失前とほぼ同じになった。
費用は市民らの寄付で賄われた。
和歌山城
弘化3年(1846年)7月26日、天守閣に落雷があり、大小両天守・櫓・蔵・多門を焼失し、嘉永3年(1850年)に再建されたが、昭和20年(1945年)7月の和歌山大空襲によって再び焼失した。
昭和33年(1958年)に嘉永3年再建時の外観で復元、平成17年(2005年)に御橋廊下(おはしろうか)が復元された。
岡山城
本来の天守は1945年の空襲で焼失しましたが、1966年に鉄筋コンクリート造で外観復元され、現在は博物館機能を備えた施設として公開されています。
内部には、宇喜多氏や池田氏といった歴代の城主に関する展示、甲冑や古文書、模型などが整備されており、歴史学習と観光の両面から楽しむことができます。
また、石垣や水堀などの遺構は現在も多く残っており、岡山城が築かれた当時の面影を伝える重要な文化財となっています。
福山城
明治6年 (1873年)に廃城となり、多くの城の建物が取り壊され、更に昭和20年 (1945年)8月の空襲により国宝に指定されていた天守閣と御湯殿も焼失することとなります。
その後昭和41年 (1966年)の秋に市制50周年事業として天守閣と御湯殿、月見櫓が復元され、天守閣は福山市の歴史を伝える博物館として藩主の書画・甲冑など展示しています。
広島城
安土桃山時代、毛利輝元により築城された広島城の木造天守は、 1945年(昭和20年) 8月6日に原子爆弾の爆風により倒壊しました。 広島城
1958年(昭和33年)に鉄筋コンクリート造で外観復元され、 同年6月1日、歴史博物館として新たな歴史を刻み始めます。
再建から67年。
復興のシンボルとして広島の発展を見守ってきた天守は、 耐震性の不足などを理由に2026年3月に閉城することが決まっています。
100名城選考で落選した城郭
日本城郭協会は選考委員会を設置し、各都道府県の教育委員会や研究者から推薦された候補城に対して、複数の観点から審査を行った。評価項目は以下の通り。
歴史的・学術的価値
遺構の残存状況
国史跡など文化財としての指定状況
地域における代表性
現地へのアクセスや整備状況
対象には、現存天守をもつ近世城郭だけでなく、中世の山城や古代の城柵跡なども含まれ、時代・地域・構造のバランスが意識されている。石垣や堀、縄張といった遺構の保存状態が良好な城も高く評価された。
100名城選考で落選した残念な城 訪問記
高崎城 |
富山城
現在の富山城のシンボルとなっているのは、1954年に再建された鉄筋コンクリート製の模擬天守です。
本来、富山城には天守は存在しなかったという説が有力であり、史実に基づかない天守が建てられたことは、お城ファンにとっては残念な点と言えるでしょう。
郡上八幡城
現在の天守は、大垣城(当時)を参考に昭和8年(1933年)に造られた全国的にも時期的にも珍しい木造模擬天守。
小倉城
小倉城は破風が無かったのに復元時につけた
中津城
中津城は天守が無かったのに再建時に作ってしまった。
また逆に岩国城は「復元整備に問題あり」とのことで、 (財)日本城郭協会の「日本100名城」から危うく落選するところでした。
これは天守の再建時に錦帯橋と同時撮影が可能なように天守の再建位置をずらしたことが問題視された。
選定に漏れた城郭からは以来観光客がガタ減りになった等の恨み節も聞かれる。
三大平城
近世を中心に水運など海上交通を活用でき、街道など陸上交通の要衝に築かれたのが平城。
天下普請(てんかぶしん)で築かれた名古屋城、三重の堀に囲まれた岡山城、「最も広い島地」に築かれた広島城が、日本三大平城と称されています。
名古屋城を外し、二条城を三大平城に数える場合もあります。
これらの城は平地に建設されており、広い土地を利用できるメリットがありますが、敵からの攻撃を受けやすいというデメリットもあります。
名古屋城
織田信長の居城だった那古野城(現・名古屋城二の丸部分)のあった場所に名古屋城の築城
熱田湊と名古屋城を結ぶ堀川を開削して築城に使う木曽檜などを運搬
名古屋城の築城に伴う清洲越し(きよすごし=6万人規模の都市移転)と呼ばれる城下の大移転を慶長17年(1612年)頃〜元和2年(1616年)に実施
往時の国宝天守は空襲で焼失、現在の天守は昭和34年再建の復興天守、本丸御殿も平成30年に完成し公開
日本三名城のひとつ
岡山城
宇喜多秀家は、旭川を取り込み豊臣家の一翼を担う大大名としての居城にふさわしい姿に7年を費やして大改修
関ケ原合戦後、小早川秀秋が外堀を築いてさらに守りを固め、池田忠雄は用水路として西川を整備し、城下の西限に
池田光政が藩主となった寛永9年(1632年)までに西(毛利氏、福島氏)を睨む三重の堀と、西川という近世的な城郭が完成
その結果、池田光政の子・池田綱政は大名庭園として後楽園(日本三名園)を築庭しています
広島城
毛利輝元が太田川河口のデルタ地帯の「最も広い島地」に築いた(そのため「島普請」とも)平城
築城前年の天正16年(1588年)には、毛利輝元が叔父の小早川隆景を伴って京の聚楽第(じゅらくだい)と大坂城を視察、縄張りには小早川隆景と親しい黒田孝高(黒田如水)も参加(比治山に築城するという意見を退けたのも黒田孝高)
往時の天守は原爆で倒壊し、現在の天守は昭和33年復興天守(大天守、表御門、平櫓、多聞櫓、太鼓櫓を再建)
二条城
徳川将軍家の京の守護を担う城、上洛時の宿所
現存する本丸御殿は京都御所にあった旧桂宮御殿を明治26年から1年をかけて移築
二の丸御殿は桃山時代武家風書院造りの代表格(二の丸御殿の黒書院は、将軍と親藩大名・譜代大名の対面所、白書院は、将軍の居間・寝室)、二の丸庭園は小堀遠州作の名園で国の特別名勝
大政奉還の発表が行なわれたのは二の丸御殿大広間です
三大山城
山城が多く建設されたのは、まさに戦闘が頻繁に起きた戦国時代です。
高地での建築は非常に難しいことから、他の城に比べて質素な作りが多いのも特徴です。
小規模なものであれば、何層か柵で中心にある城館を囲んだだけの作りです。大規模なものになると、いくつかの周辺の山に、本丸や二の丸といった支城を建て、山系全体を防御施設にするものもあります。
しかし、日本の代表的な城に見られる大きな堀は少なく、地形を最大限に生かして敵に対して有利に立つのが山城の基本のようです。
残念なことに、山城は人を寄せ付けない地形に建てられたことや、近世以降はあまり建設されなかったことから遺構のみ残されていることが非常に多いのが現状です。
それは、日本で最も謎に包まれている城「安土城」も同様です。
あの織田信長が建てた安土城は山城にもかかわらず巨大な天守を備えた城だったと伝わっていますが、現在に至るまで城の詳細は明らかになっていません。
山城の中でも、近年特に有名になったのが、兵庫県朝来市にある「竹田城」でしょう。
条件が良ければ、雲海に囲まれた姿を見られるということで話題を集めました。
それだけでなく、珍しく完全な状態で残る規模の大きな山城の遺構という点も見逃せません。
竹田城のほかにも、「日本三大山城」と呼ばれるのが、岐阜県の岩村城、奈良県の高取城、岡山県の備中松山城であり、どれも日本最大規模の山城となっています。
三大山城訪問記
高取城
高取城は岩村城(岐阜県)や備中松山城(岡山県)とともに日本三大山城のひとつに数えられている山城。
標高583mで城下町との標高差は400m以上と、近世(戦国末期〜江戸時代)に作られたお城では特に高い場所に作られた山城です。
そのため眺望はよく、条件が良ければ大阪や六甲山まで見ることができます。
また高取城の場所が高すぎたために、江戸時代の城主は城下町で政務を行なっていました。
岩村城
城は江戸諸藩の府城の中でも最も高い所 (標高717m)に築かれ、高低差180mの天嶮の地形を巧みに利用した要害堅固な山城で、霧の湧き易い気象までも城造りに活かされており、別名「霧ケ城」ともよばれています。
この城が名城と言われる由縁は、単にその規模と大きさだけでなく、その永い歴史に由来しています。
備中松山城
臥牛山から切り出した花崗岩や木材を巧みに活用した城造りは一見の価値あり。
国指定重要文化財の天守や二重櫓、土塀以外にもみどころたくさん。
備中松山城の歴史は古く、鎌倉時代に大松山に砦が築かれたことに始まります。
時代とともに城は大松山から小松山へと移動し現在の形となりました。
幾多の城主交代を経て幕末まで備中の中心として栄えました。
戦国初期の八大名城
戦国初期の八大名城訪問記
春日山城
春日山城 (かすがやまじょう)は、 越後国 頸城郡 中屋敷春日山(現在の 新潟県 上越市 春日山町) にあった中世の 日本の城 (山城)。
主に 長尾氏 の居城で、戦国武将 上杉謙信 の城として知られる。
春日山城跡は国の 史跡 に指定されている 。
日本五大山城の一つとされることもある 。
一乗谷城
乗谷城は 朝倉義景館跡の唐門 や 復元された町並み 、 諏訪館跡庭園 、城戸など見どころが多数あります。
朝倉氏の本拠地として当時の人々が生活していた断片を感じ取る事が出来る、歴史ロマンあふれる場所です。
福井県福井市の一乗谷城です。 (一乗谷城は城下町と4つの山城を含む縄張りを指す)1471年朝倉孝景が越前守護の斯波氏を倒し、一乗谷川沿いの山の谷間に拠点を築いた事に始まります。
七尾城
室町時代 から 戦国時代 にかけての 山城 跡で、国の 史跡 に指定されている。
能登畠山氏 によって拡張され、最終的には南北2.5キロメートル、東西1キロメートルにも及ぶ巨大な城となった。
小谷城
城跡は国の 史跡 に指定されている。
日本五大 山城 の一つに数えられる。
標高 約495mの 小谷山 (伊部山)から南の尾根筋に築かれ、 浅井長政 と お市の方 との悲劇の舞台として語られる城である。
井ノ口城(稲葉山城)
永禄10年(1567年)8月、織田信長は美濃国(岐阜県)にあった斎藤氏の本拠地「稲葉山城」を攻め落として斎藤龍興を下し、美濃を平定しました。
「稲葉山城の戦い」と呼ばれるこの戦い以降、信長は稲葉山城を「岐阜城」と改称して拠点化し、本格的に天下統一に突き進みます。
要害山城
武田氏 (躑躅が崎) 館の詰城として築かれた戦国期の 山城。
要害山 ようがいさん 城・ 積翠寺 せきすいじ 城・ 要害山 ・積翠寺の 丸 まる 山・積翠寺の要害など多くの異称がある。
甲府盆地中央北側の 相 あい 川扇状地扇頂部の要害山に位置し、標高七七五メートル、比高二五〇メートルを測る。
観音寺城
近江国(現在の滋賀県)の守護(しゅご:地方における軍事司令官)であった「六角氏」(ろっかくし)の居城として、標高約435mの「繖山」(きぬがさやま)に整備されたのが「観音寺城」(かんのんじじょう:滋賀県近江八幡市)。
中世城郭でありながら本格的な石垣造りが見られる山城で、山頂周辺に広がる曲輪の複雑さは全国屈指。
もともと寺院が広がっていた削平地を活用して城郭が築かれたため、特殊な構造となりました。
|信貴山城
世界遺産の城
世界遺産の城訪問記
姫路城
大天守をはじめとする5つの国宝がある姫路城は、17世紀初めの城郭建築の代表として高く評価され、平成5年(1993)に法隆寺とともに日本で初めての世界文化遺産となりました。
日本の城郭建築の傑作といわれる姫路城。
外壁だけでなく屋根瓦の間まで白漆喰で塗り籠める白漆喰総塗籠造により、美しい白壁が広がることから、白鷺城の愛称で呼ばれることも。
二条城
江戸時代の徳川将軍家の平城であり近代においては皇室の離宮の役割を担った。
正式名称は元離宮二条城(もとりきゅうにじょうじょう)である。
京都市街の中にある平城で、足利氏・織田氏・豊臣氏による二条城もあったが(旧二条城跡について)、現存するものは徳川宗家の城のみである。
当城は京都御所の裏鬼門に位置する。
徳川家康が都および朝廷のある京都に江戸城の分身の役割として徳川幕府の武威を示すため京都御所・公家町(現:京都御苑および冷泉家一帯)および洛中の守護並び上洛時の居城として造営した城である。
二条城では徳川家康の将軍宣下に伴う賀儀、江戸幕府による禁中並公家諸法度の公布、後水尾天皇の行幸、幕末期は徳川慶喜の居城となり大政奉還の上奏、離宮時代には大正天皇の行啓や饗宴の儀など徳川幕府の始まりと終わりをはじめ日本の歴史を見届けてきた歴史的に重要な場所である。
小堀遠州の代表作と知られる特別名勝・二の丸庭園から国宝・二の丸御殿黒書院を眺める。
明治維新により徳川将軍家から接収された二条城は、1884年に皇室の「二条離宮」へ変遷した。
その後、1939年(昭和14年)二条離宮は京都市に恩賜され、元離宮二条城[8]と改称、そして現在に至る。
首里城
首里城は琉球王朝の居城で、那覇市内を見下ろすように丘陵地帯に築かれたもの。
創建ははっきりとはしていないものの、14世紀には中山王国(現在の那覇市、浦添市を中心としたエリア)の城として建造され、やがて中山王国が沖縄本島を統一し、琉球王国の首都となると、ここは政治や経済、文化の中心地となりました。
今帰仁城
今帰仁城跡(なきじんじょうあと)は、沖縄県本島の北部 本部(もとぶ)半島にある今帰仁村(なきじんそん)に位置する城跡。
今帰仁城跡は、2000年に首里城跡などと共に9の資産が『琉球王国のグスク 及び関連遺産群』として”世界遺産”に登録されました。
沖縄県を代表する歴史的価値のある城跡と、美しい景観が魅力的な観光スポットとなっています。
中城城
中城城跡は沖縄本島の中部、中城村にある城跡。
中城城跡は、2000年に世界遺産に登録され観光地としても有名なスポットです。
この城跡は6つの郭で構成されていてとても広く、所要時間は約60-90分程度で回ることができます。
無料駐車場も完備されていますので、気軽に行くことができる観光地です。
100名城築城年代別リスト
弥生時代の城訪問記
お城のはじまりは、 弥生時代の「環濠集落」 にさかのぼります。
お城とは、敵から身を守るために住居の周りに堀や柵などをめぐらしたものです。
自分の土地のまわりに濠 (ほり)をめぐら 「環濠集落」 が、お城の先祖です。
環濠集落は、今から約2000年前の 弥生時代 中期から後期に数多くつくられました。
佐賀県の吉野ヶ里遺跡が代表例です。 吉野ヶ里では環濠集落の様子がわかるよう大規模に再現されていますよ。
吉野ヶ里遺跡
飛鳥時代の城訪問記
中世の山城は、たくさんの曲輪を備えた複雑な縄張になっていますが、古代山城は山上にドンと大きな曲輪をひとつ設けて、その周囲をぐるりと囲んだシンプルな縄張になっています。
周囲を囲んだ城壁は、土塁が主体。こちらも、臨時的な施設だった中世山城のやや大ざっぱな土塁とは違い、板などで囲んだ枠の中に土を詰め、たたいて突き固めることを繰り返した、版築土塁(はんちくどるい)だったようです。
665年 大野城
7世紀後半? 鬼ノ城
奈良時代の城訪問記
西日本の古代山城に対して、東北には先住民・蝦夷(えみし)の支配を進めるために、城柵(じょうさく)が築かれました。
城柵は柵や塀で囲まれた政庁(役所)で、官庁としての機能を持ち、蝦夷に対する軍事的な拠点でもありました。
代表的な城柵は多賀城で、約3.5キロメートルの外郭を柵などで囲み、さらに中心部に置かれた政庁は100メートル四方の塀に取り囲まれていました。
724年 多賀城
平安時代の城訪問記
平安時代半ばになると武士が出現し、南北朝時代には本格的な武士同士の武力衝突が起こり、戦略的優位性から険しい山の上高くに山城が築かれるようになりました。
平安時代末期 足利氏館
鎌倉時代の城訪問記
中世山城が普及したきっかけは元弘3年・正慶2年(1333)、楠木正成(くすのき まさしげ)率いる軍勢が、三方を絶壁で囲まれた千早城に籠もり鎌倉幕府の大軍に対抗したことによります。
以降、各地の武士は少数の兵で大軍を退けることができる中世山城をこぞって築きました。
13世紀頃 今帰仁城
1332年 千早城
1334年 根城
14世紀後半 中城城
室町時代の城訪問記
室町時代は「乱世に始まって乱世に終わる」と言われるほど、争いばかりの時代でした。
そのため山城が作られるようになり、武士の館も堀や土塁をつくって防御を意識するようになっていきます。
1469年 金山城
1500年 大垣城
15世紀後半 一乗谷城
1471年? 観音寺城
16~18世紀 根室半島チャシ跡群
1504~28年頃 七尾城
1508年 長篠城
1519年 武田氏館
1523年 小谷城
1535年 湯築城
1537年 犬山城
1547年修改築 高遠城
1551年 吉田郡山城
1558~70年 山中城
1558~70年 岐阜城
1560年 鉢形城
1560年頃 松代城
1万円以下の宿はこちら
安土桃山時代の城訪問記
荒々しい中世山城に対して、優美な天守を持つ近世山城が安土桃山時代後期から築かれていきます。
比較的緩やかな山に築かれるケースも多く、居住性を重視した城も多くなります。
本格的な天守を持つ城は、織田信長が築城した安土城が初めてと言われています。
安土城の中心部には五重の天守(現地では「天主」と表記)が建てられ、全山が総石垣で囲い込まれていました。
また、楽市・楽座の城下町を設け、城下から権威の象徴として巨大な天守が見えるように築城されました。
安土城は城の概念を変え、以降、全国に天守と石垣、そして城下町を持つ城が普及していきます。
1573~92年 春日山城
1575~1660年 岩村城
1576年 安土城 |丸岡城
1583年 金沢城 |上田城
1584年? 八王子城
1585年 高取城
1586年 徳島城
1588年 高松城 |松阪城
1589年 広島城 |人吉城
1590年 掛川城 |箕輪城
1590年代 甲府城
1591年 岡崎城
1592年 名護屋城
1592~1600年 竹田城
1593~94年 松本城
1596年 岡城 |宇和島城
1597~98年 盛岡城
1597年 岡山城|大分府内城
1598年頃 新発田城
1600年 仙台城 | 月山富田城
1601年 津和野城 | 姫路城 | 岩国城 | 高知城 ||福岡城 ||熊本城
1601年? 鹿児島城
1602年 鳥取城 |今治城
江戸時代の城訪問記
戦国末期になり、小大名は淘汰され、多くの国々を領有する戦国大名が現れると、城は軍事拠点に止まらず、政治や経済の拠点としても使われるようになります。
こうした流れの中で、平野の中にそびえる小高い丘に立地する平山城(ひらやまじろ)や平地に築かれた平城(ひらじろ)が誕生しました。
とくに、力のある大名は家臣を城下に住まわせるため城と城下町は巨大化していきました。
また、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い後、全国的な大名の配置換えが行われ、新たな城が数多く築かれました。
豊臣秀吉が築城した大坂城は平山城、徳川家康が築城した名古屋城と居城した江戸城は平城に分類されます。
この後、江戸時代となり、徳川幕府によって一国一城令が出されると、各藩の築城は制限され、新規築城だけではなく、改修や修復も幕府の許可が必要になり、日本の城発展の歴史は終焉を迎えました。
1603年 久保田城
1604年 彦根城 |津山城 |萩城
1607年 駿府城 |松江城
1608年 佐賀城
1609年 高岡城|篠山城
1610年 名古屋城 |大洲城
1611年 弘前城|佐賀城 |伊賀上野城
1614~15年 小諸城
1618年 島原城
1619年 明石城|和歌山城 |福山城
1620年 大阪城
1623年 山形城
1625年 水戸城
1626年 二条城
1627年 松山城
1629~32年 白河小峰城
1633年 小田原城
1637年 江戸城
1639年 若松城
1642年 丸亀城
1643年 二本松城
1648年 赤穂城
1651年 川越城
1681年 備中松山城
1686年 飫肥城
1704年 平戸城
1715年 首里城
1850年 松前城
1857年 五稜郭
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