藤堂高虎が改修した名城 伊賀上野城

東海

近世城郭として上野城が築かれたのは、天正13年(1585)大和郡山から移封された筒井定次による。

慶長16年(1611年)に徳川家康の命を負って藤堂高虎が拡張したが、大坂の役によって、当時高虎が従属する徳川家康に対立していた豊臣氏が滅んだため築城が中止され、本丸・二ノ丸などの主要部分は城代屋敷を除いて未完成のまま江戸時代を過ごした。

芭蕉の旅姿をイメージした俳聖殿。

高石垣を下から見たところ。堀際はやはり草が茂っていて、写真を撮影するポイントがあまりない。

本の丸東側に一段高く石垣が組まれた曲輪がある。 
これが筒井時代の本丸で、藤堂時代には城代屋敷があった所だ。  


実際この曲輪に立つと、この城の一番高所で「ここが本当の本丸」といった思いがする。 
筒井時代にはここに三層の天守があり、現在天守台上に石碑が建てられている。

長年日本一といわれてきた藤堂高虎の高さ約30メートルの石垣

現在、天守台にある3層3階の天守は昭和初期築の模擬天守で、正式には伊賀文化産業城という。

模擬天守の内部。

天守からの眺め、俳聖殿が見える。

忍び井戸
「大阪城の攻略が不首尾に終わったときは上野城に籠城する」という秘命を徳川家康からうけた藤堂高虎は当時、城郭構築の随一とうたわれた西島兵衛尉を奉行として城郭の縄張りをはじめました。

兵衛尉は三年間の籠城に耐えるためには、水と塩とを確保することであると判断して小天守内に井戸を掘りました。

五十間の深井戸を掘り、井戸側から外へ3箇所の道を作って抜け穴とし、抜け穴は、城を中心に四方に通じ兵糧の搬入、外部との連絡、援軍を城内に引き入れる路でもあったそうです。

また、万が一落城した場合もこの通路を利用して忍びの者をはなち城内をかく乱して奪取することも考えて設計されたといわれます。

当時は、井戸の秘密を守るために小天守に忍者を常駐させて、井戸の監視に当たり、藩士でさえ覗くことを許されなかったそうです。

「高石垣」の高台に「川端康成」が「横光利一」を偲んだ石碑が建っています。

筒井古城跡の石垣。
筒井古城跡は、本丸より高い位置にある。

筒井定次が築城した本丸の跡。

伊賀上野城へのアクセス、行き方歩き方

住所け三重県伊賀市上野丸之内106
電話け0595-21-3148

近鉄伊賀線 上野駅 徒歩約8分

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