京都駅ビル グラフィカルイルミネーションPlus


京都駅ヒルがイルミネーションで賑わっています。

大階段のグラフィカルイルミネーションPlusで放映するクリスマスツリーをメインに、空中径路や東広場など駅ビル各所を華やかに彩ります。

メインとなるのが、4階・大階段の「グラフィカルイルミネーションプラス」。

171段中125段の階段に散りばめた約15,000個のLEDでグラフィックを描く、通年を通して実施する人気イルミネーションがシーズナルな表情に変化。

12月はクリスマスにちなみクリスマスツリーをLEDの光で描き出す。

大階段 171 段中 125 段に、約 15,000 球のフルカラーLEDをちりばめて、四季折々の京都らしいデザインをはじめ、ハロウィンやクリスマスなどの定番のイベントなど、季節感あふれるデザインを演出します。

4階大階段前ではスマホをかざした多くの人が詰めかけ大混乱。

どれだけ撮れば気が済むのかとばかり撮りまくる人も。

クリスマスにちなんだコンテンツがたくさん登場!

美しく装飾された巨大なクリスマスツリーや、ソリの上にサンタクロースをのせてトナカイが走る風景など刻々と移り変わります。

コロナも一休みの感、皆さん十分に楽しんでいます。

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東寺 紅葉ライトアップ


東寺は、平安京鎮護のための官寺として建立が始められた後、嵯峨天皇より空海(弘法大師)に下賜され、真言密教の根本道場として栄えた。

明治維新まで、東寺の長官である4人の東寺長者は真言宗の最高位であり、中でも長者の筆頭である東寺一長者は律令制における仏教界の首座である法務も兼任する慣例だった。

中世以降の東寺は弘法大師に対する信仰の高まりとともに「お大師様の寺」として庶民の信仰を集めるようになり、21世紀の今日も京都の代表的な名所として存続している。

1934年(昭和9年)に国の史跡に指定、1994年(平成6年)12月には「古都京都の文化財」の構成資産として世界遺産に登録された。

なお、東寺の執行は代々に渡って空海の母方の叔父である阿刀大足の子孫が、弘仁14年(823年)から1871年(明治4年)まで務めた。

1934年(昭和9年)3月13日に境内が国の史跡に指定され、1994年(平成6年)12月には「古都京都の文化財」として世界遺産に登録された。

こちらは、重要文化財の「宝蔵(ほうぞう)」。

東寺の宝物を保存してきた建物で、周りを堀で囲っているのは火事による延焼を防ぐためなのだそうです。

五重塔は東寺のみならず京都のシンボルとなっている塔である。

高さ54.8メートルは木造塔としては日本一の高さを誇る。

天長3年(826年)空海による創建に始まるが、実際の創建は空海没後の9世紀末であった。

暗闇に浮かびあがる逆さ五重塔と紅葉は、まさに幽玄の世界です。

雷火や不審火で4回焼失しており、現在の塔は5代目で、寛永21年(1644年)、徳川家光の寄進で建てられたものである。

初重内部の壁や柱には両界曼荼羅や真言八祖像を描き、須弥壇には心柱を中心にして金剛界四仏像と八大菩薩像を安置する。

真言密教の中心尊であり金剛界五仏の中尊でもある大日如来の像はここにはなく、心柱を大日如来とみなしている。

諸仏は寛永20年(1643年)から翌年にかけての作で、江戸時代初期の作風を伝える。

初重内部は通常非公開だが、特別に公開される場合もある。

東大時境内のライトアップとともに、金堂と講堂も公開され、講堂では須弥壇北面が特別公開され、「立体曼荼羅」を360度ぐるりと周回することができます。

北にある池は瓢箪池といい、五重塔とともに池泉回遊式庭園の要素になっている。

紅葉ライトアップは毎年紅葉が見ごろを迎える時期に行われています。

紅葉ライトアップでは普段ライトアップされている高さは約54.8メートルの五重塔だけでなく、北側にある瓢箪池(ひょうたんいけ)を中心とした回遊式庭園・東寺庭園などがライトアップされます。

夜間拝観の入り口(受付)は、東門(慶賀門)のみとなります。

ライトアップは大人気なので入場する際長い列に並ぶことあり、晩秋の京都の夜は気温が下がりますので、しっかりと防寒対策をしていきましょう。

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神戸散策


ラインの館という名前は市民からの愛称募集で入選した名前で“この館の下見板の横線(ライン)が美しいから”というのが入選者の言葉です。

また、神戸市が購入する直前に住んでいたオバーライン氏の故国ドイツのライン川にちなんで、この名称になりました。

建築主は、J.R.ドレウェル夫人(Josephine.R.Drewell)で、1857年フランスに生まれ、明治4年(1871)に来日しています。

ラインの館を建築した時ドレウェル夫人は58歳、大正9年(1920)に亡くなるまでこの館で暮らしていました。

ドレウェル夫人は神戸市北区山田町にある国指定記念物(名勝)「再度山公園・再度山永久植生保存地・神戸外国人墓地」内に埋葬されています。

ドレウェル夫人の死後、この館にはドイツ人が住んでいました。

うろこの家は、神戸で最初に公開された代表的な異人館で、国の登録有形文化財や兵庫県住宅百選にも指定されている伝統的な建築物です。

天然石のスレートで覆われた建物の外壁が魚のうろこに似ていることから「うろこの家」と愛称で呼ばれ、親しまれています。

そばにあった解説には「王家の橇(そり)」と書かれていて、こちらも調度品のうちの一つ、デンマークの王子がアマリエンボー宮殿で使っていたもので、1750年頃のものだそうです。


ソクラテスの灯。

ソクラテスが真理を捜し求める様を隠者に重ねて作った作品なんでしょうか?値打ちある彫刻らしいですが。

以前訪問した時は通路に近いところに展示してあったと記憶しているのですが・・・



通りで見かけたかわいい像。

1904年(明治37年)にドイツ人貿易商の住宅として建てられた異人館(西洋館)で、重厚な煉瓦造りの外観と、屋根上の風見鶏を特徴とする。

その風見鶏により風見鶏の館と呼ばれ、また当初の居住者の名から旧トーマス邸、旧トーマス住宅とも呼ばれる。
国の重要文化財に指定されている。

風見鶏の館の前にあり、公園には日本のJAZZ発祥の地神戸らしい、ジャズを演奏する銅像が合計4体あります。

1868年に神戸港が開港し、外国人用の居留地が設けられた。

当時、清国との間には通商条約を結んでいなかったため、華僑は居留地内に住むことを許可されずに、西隣に住み始めたのが南京町の始まりとされる。

画像は南京町東端入口の長安門。

1945年の神戸大空襲で全焼。戦後は主に進駐軍相手の歓楽街として復興したが、その名残もあって退廃化が進み、1970年代までは路地の舗装もされず、周辺には船員向けのバーが立ち並び、夜になれば街娼が立つようなエリアとなっていた。

1960年代には純粋な中華料理レストランが1軒まで減少したこともあった。

画像は南京町西端入口の西安門。

1975年3月、神戸市議会は「核兵器積載艦艇の神戸港入港拒否に関する決議」を決議しました。

この決議は「核兵器を搭載した艦艇は神戸港への入港を一切拒否する」という内容で、世界的にも例のない決議であることから「非核神戸方式」と呼ばれています。

また「神戸市港湾施設条例」で神戸港に入港しようとする外国軍の艦艇には、非核証明書を提出することを義務づけました。

決議後も、イギリスやフランスなどの軍隊の艦艇が神戸港に入港していますが、事前に非核証明書を提出して入港しています。

前身は1962年に開館した神戸国際港湾博物館。

海事博物館としては世界有数の規模であり、1987年に、幕末の神戸港開港120年を記念して開館した。

展示内容は、近代神戸港だけでなく、平清盛が修築した大輪田泊や福原京まで遡る。
大小200点以上の船舶模型が展示されている。

波または帆船の帆をイメージさせる独特な外観の屋上構造物は白色のフレームでできており、夜間は青系の光でライトアップされる。

画像は、ロドニー、1922年のワシントン海軍軍縮条約下で建造されたため、排水量は35,000トンまで制限されていた。

3基の3連装16インチ砲塔は全て艦前方に配置され、ヴァイタル・パートは集中化したもののその代償に低速力に悩まされることとなる。

1936年以降に新世代の戦艦が就役するまで、2隻のネルソン級戦艦は最も強力な戦艦と見なされていた。

同館内では2006年より、川崎重工業が企業博物館「カワサキワールド」を展開している。

新幹線0系電車の先頭車両(運転台や客席の体験可)やKV-107 II型ヘリコプター(JA9555 川崎重工業社用機「美濃」)(客席のみ体験可)の現物を展示。

陸・海・空・環境などをテーマとしたクイズゲーム、「電車でGO!2高速編 3000番台」のゲーム、フライトシミュレーター、マリンスポーツシミュレーターなども設置されている。

モーターサイクルギャラリー

歴代のモーターサイクルを実物で紹介している。
実際に触ったり乗ったりできる物も用意されている。
ベストセラーになったものもある。

写真撮影が許可されており、格好のフォトスポットとなっている。

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洛東散策


頂法寺は、京都市中京区六角通東洞院西入堂之前町にある天台宗系単立の寺院。

山号は紫雲山。本尊の如意輪観世音菩薩(如意輪観音)は秘仏。
西国三十三所第18番札所。

「恋の寺」六角堂と京のヘソ石
頂法寺は、京都市中京区堂之前町にある天台宗系単立の仏教寺院。 山号は紫雲山。 本 … 続きを読む →

早咲き六角堂の御幸桜
頂法寺は、天台宗系単立の仏教寺院。 山号は紫雲山。本尊は如意輪観音(秘仏)。 西 … 続きを読む →


寺号は頂法寺であるが、本堂が平面六角形であることから一般には六角堂の通称で知られている。
華道、池坊の発祥の地としても知られている。

中京郵便局旧庁舎

1871年(明治4年)の郵便制度発足時に、東京、大阪と共に設けられた郵便役所を前身としており、日本で最も歴史のある郵便局の一つ。

1902年(明治35年)に建設されたネオルネサンス様式、赤レンガ造りの美しい外観が特徴。

当局の面している三条通のこの一帯は、京都文化博物館別館や日本生命京都三条ビルなど、明治期以来の近代建築が多く残っていることで知られ、京都市から「歴史的界隈景観地区」に指定されている。

また本局舎は京都市登録有形文化財であり「景観重要建築物」として指定もされている。

京都文化博物館

前身は平安博物館と称し財団法人古代学協会の施設として1968年(昭和43年)に作られた私立博物館であった。

平安博物館の建物は旧日本銀行京都支店(重要文化財)であったが、京都文化博物館を創設するにあたり財団法人古代学協会から京都府に寄贈された。

旧日本銀行京都支店の建物は現在は京都文化博物館の別館として使用されている。

中京の街並み

「TIME’S」、二階(地上階)にはTシャツ屋「Design Tshirts Store graniph(グラニフ)」が入っていましたが、そこが撤退してテナントゼロになったようです。

2020年夏時点でこのTシャツ屋だけという状態だったようなのですが、いつの間にかそのお店も撤退してゴーストタウン化しています。

安藤忠雄の世界 TIME’S
建物は京阪・地下鉄三条駅より三条大橋を渡り、少し歩いた先にかかる三条小橋西詰に建 … 続きを読む →


瑞泉寺

文禄4年(1595年)7月、秀次は叔父豊臣秀吉から謀反を疑われ関白の職を剥がれて高野山に追放された。

7月15日(8月20日)、賜死を命じられた秀次は切腹した。

山本主殿、山田三十郎、不破伴作など家臣5人もまた殉死した。

秀吉は伏見で首実検し、8月2日(9月5日)、秀次の首は三条河原で梟首(キュウシュ。さらし首)されることになるが、その時に秀次の妻妾、幼児などを合わせて30余人が打首とされた。

遺体は秀次の首とともに河原に埋められ、塚、石塔が建てられて(石櫃に)「秀次悪逆塚文禄四年七月十四日」と刻されたという。

この首塚と墓は、殺生塚、関白塚、摂政塚、畜生塚などと称され、かえりみる者は無かったが、慶順という行者はそのかたわらに草庵を結び、菩提を弔った。

豊臣秀次菩提寺 瑞泉寺
悲劇の人豊臣秀次の墓所「瑞泉寺」は鴨川の西、三条小橋東詰南、高瀬川沿いに建つ。 … 続きを読む →


竜馬通り界隈。

先斗町歌舞練場

あちこちの店先に鴨川ちどりが描かれた提灯が掲げられ、情緒豊かな雰囲気を醸し出している。

京都には現在「五花街」と呼ばれ、賑わっている祇園甲部、上七軒、先斗町、祇園東、宮川町の五つの花街がある。

これらの花街にはそれぞれ紋章がある。
先斗町の紋章は「鴨川ちどり」。

明治5年(1872年)に鴨川をどりが初めて開催されたときに創案されたものである。

かつては鴨川に数多くいたという鳥類も今ではあまり見かけなくなったが、先斗町通を歩いていると、千鳥の画が描かれた提灯があちらこちらの店先に掲げてあり、街の雰囲気を和やかに盛り上げている。

新春花街舞初め特別講演2013
先斗町歌舞練場で行われた新春花街舞初め特別講演2013の様子を報告します。 先ず … 続きを読む →


先斗町(ぽんとちょう)は京都市中京区に位置し、鴨川と木屋町通の間にある花街及び歓楽街。

「町」と付くが地名としての先斗町はない。

先斗町通については「先斗町通四条上る柏屋町」等、公文書(四条通地区地区計画:京都市都市計画局)にも使用されている

また、鴨川寄りに面したお茶屋・料亭・レストラン・バー等は納涼床を設ける店舗も多数存在している。

黄昏時 先斗町
先斗町では住民が5年ほど前から景観に合わない大型看板、ネオンなど広告物を自主的に … 続きを読む →


東華菜館

四条大橋と鴨川の風景になじむ「スパニッシュ・バロックの洋館」で伝統的な北京料理を提供。

現存する日本で一番古いエレベーターを体験出来、異国情緒がある落ち着いた空間でゆっくり食事を楽しめます。

鴨川、納涼床、川床(ゆか)ともいう。

二条大橋から五条大橋にかけての鴨川西岸の料理店では、5月から9月にかけて河原に張り出した木組みの床が設けられる。

北エリア(二条通から先斗町公園の上木屋町、先斗町北)と南エリア(先斗町公園から五条通の先斗町南、西石垣、下木屋町)に位置し、観光客を魅了している。

切り通し(きりとおし)は京都市東山区内の南北の通りの一つ。

北は新橋通から南は四条通までの僅か約180mの通りのように見えるが、実際には北は古門前通まで続く。

東の花見小路通、西の縄手通と共に、祇園の中心となる通り。

新橋通、白川南通から末吉町通の間は狭い路地のような通りであるが、新橋通などと同様、石畳が敷かれており、飲食店も点在し風情ある景観を見ることが出来る。

昔は舞子の追っかけのようなことをしたこともあるなあ・・・・・
祇園の八朔2012
今年も八朔へ出かけた。 今までと違ったシーンを撮りたいなと思いつつ足はついついい … 続きを読む →

祇園放生会 [祇園白川・巽橋] 
祇園放生会は、遥か中国陳代(557~589)、今より約1400年以前の天台宗の高 … 続きを読む →


木屋町から白川通りへ夜桜の路を彷徨
吉井勇が「かにかくに 祇園はこひし 寝るときも 枕の下を 水のながるる」と詠ったのもこの辺りにあった料亭でのこと。 … 続きを読む →

この白川沿いの石畳の道は昭和20年頃まではなく、お茶屋が立ち並んでいたそうです。

祇園白川に「大友」あり「大友」に「お多佳さん」ありというぐらい有名なお茶屋がその中にありました。

「大友」には、夏目漱石、谷崎潤一郎ら有名作家や画家が多く訪れたそうです。

「大友」のあった場所には「かにかくに」の歌碑がある。

谷崎潤一郎ら数名が吉井の古希の祝いに建立したそうです。

毎年十一月八日には「かにかくに祭」が祇園甲部お茶屋組合によっておこなわれています。

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陶板名画の庭


陶板画は、原画を撮影したポジフィルムを元に、写真製版技術により陶製の板に転写し焼成したものである。

その性質上、変色や腐食が起こらないので、屋外にあっても永く保存することが可能である。

どの絵も複数の陶板で構成されている。

この種の美術展示施設としては、世界初のものである。

展示されている絵画は世界の名画8点が選ばれており、内4点は元々1990年の国際花と緑の博覧会の為に制作され、安藤忠雄の設計によるパヴィリオン『名画の庭』に展示されていた。

残り4点は、この施設の為に作られたものである。

制作は、大塚オーミ陶業株式会社の信楽工場で行われた。

これらの陶板画は、堺屋太一の企画発案により、所有者であったダイコク電機取締役、栢森新治より京都府に寄贈されたもの。

オープンエアの建物は、安藤忠雄の設計により平成6年(1994年)3月に完成した。

陶板画は全部で8点。

このうち「最後の審判」など4点は「1990年国際花と緑の博覧会」に出品されたもので、「テラスにて」など4点はこの施設のために新しく制作されたものです。

陶板とはセラミックの板片のことで、この陶板に原画を撮影したポジをブロックごとに転写して焼成し、それをパズルの様に嵌め合わせて一つの作品に組み上げたのが陶板複製画。

セラミックなので腐食も変色もしないことから、屋外展示に有効とのことでパブリックアートに採用されたり、徳島の鳴門に「大塚国際美術館」という陶板画が100点もある美術館もあったりします。

未来への偉大な贈りもの
大塚製薬グループの創業75周年事業として1998年(平成10年)に開設され、運営 … 続きを読む →


安藤氏によると陶板画は平面なので、建物は立体的なものにしようと、地中に深く沈みこんだ形状にしたとか。

アクセス

地下鉄「北山」駅下車、3番出口徒歩約1分
市バス4「北山駅前」下車、西へ徒歩約5分
市バス北8「植物園北門前」下車すぐ

京都植物園の入り口にありわかりやすい。

京都植物園 なからぎの森の紅葉
クニフォフィア:クリスマスチアー 旧トリトマと言われていたクニフォフィアです。 … 続きを読む →


北山エリアには素敵なカフェや緑豊かな植物園もあり、古都とはひと味違った京都散策ができます。

公式ウェブサイト

TEL 075-724-2188
FAX 075-724-2189

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京都植物園 なからぎの森の紅葉


クニフォフィア:クリスマスチアー 旧トリトマと言われていたクニフォフィアです。

クリスマスの時期に咲くので、クリスマスチアーという名前らしいですが、花が少なくなる時期、鮮やかな色合いのお花が咲いており、凄く目立っておりました!明るい色で綺麗です。

『麦わら帽子と少女』のモニュメント、今日は後ろ姿です。

大小四つの池に囲まれた「なからぎの森」は、古くから「流れ木の森」ともいわれ、ここ下鴨の地に残された山城盆地の原植生をうかがい知ることのできる園内唯一の貴重な自然林です。

落葉樹であるエノキやムクノキの古木や、常緑樹であるシロダモ、カゴノキ、シイ、カシ類が混生する森の特徴が見られます。

森の広さは約5,500平方メートルで、ほぼ中央には、上賀茂神社の境外末社である半木神社があります。

また、池の周りにはカエデ類が多く、特に秋の紅葉は園内有数の美しさです。

現在の植物園の敷地は、明治時代までは上賀茂神社の境外末社である半木神社とその鎮守の森(半木の森)を中心とした田園地帯であった。

大正天皇の即位を祝い企画した「大礼記念京都大博覧会」の開催用地として、1913年(大正2年)に京都府によりこの地が購入された。

しかし、議会等の反対、国による博覧会事業と会場アクセスのための電車敷設費の起債不可決定などのため、博覧会は開催されず、植物園が代案として計画されることとなり、1915年(大正4年)に「大典記念植物園」の設置が決定された。

日本初の公立植物園であり、現在の京都府立植物園の前身である。

1917年(大正6年)に建設工事が始まったが、この際、敷地内の半木の森は、古代の山城盆地の植生を残す貴重な自然林としてそのままの形で活用するよう設計され、半木神社も移転することなく園内に存置された。

1923年(大正12年)11月10日、大正天皇大典記念日に開園し、翌年1月1日から入場者制限のため、有料公開が始まった。

その際、名称を「大典記念京都植物園」と正式決定している。

有料公開開始時の入園料は、大人5銭、子ども2銭、温室観覧料は別途で7歳以上10銭だった。

戦後、当初計画された京都御苑の代替地として、占領軍住宅が建設されることとなった。

1946年(昭和21年)10月に全面接収された。
この際、育っていた植物の伐採もあったとされ、25,000本以上あった樹木は6,000本に減ったともされる。

1951年(昭和26年)2月24日には、火災が発生し、昭和御大典の第一朝集所であった昭和記念館が全焼するなど施設の消失もあった。

接収から12年目の1957年(昭和32年)12月12日に返還され、占領軍の住宅の撤去は1958年(昭和33年)12月に完了した。

1961年(昭和36年)4月24日に再開園し、新設のドーム型温室前で竣工開園式が行われた。

1970年(昭和45年)には「日本の森」というエリアを造成している。

皇帝ダリアがきれいです。

珍しく虹が・・・この後、雨が降ったり止んだりの異常気象となる。

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紅葉の慈眼堂


慈眼堂(じげんどう)は、滋賀県大津市坂本にある天海(慈眼大師)の廟所。
恵日院の境内にある。

慶長12年(1607年)から比叡山南光坊に住み、織田信長の比叡山焼き討ち後の延暦寺の復興に尽力した天海の廟所である。

江戸時代初期の禅宗様を基本とする仏堂で、正保3年(1646年)に建立された。

正面三間、側面三間、一重、宝形造、桟瓦葺の建物である。
建物は国の重要文化財に指定されている。

堂内には木造慈眼大師坐像(重要文化財)が祀られていた(現在は延暦寺国宝殿にある)。

堂建立と同時に整備された石燈籠16基(江戸時代初期)

あと慈眼堂の隣には天海僧正が後陽成上皇より京都にある法勝寺の建物を下賜されてこの地に移築建立した寺である滋賀院の門跡があります。

この地は比叡山延暦寺の麓の大津市坂本にありますが、天海僧正は織田信長に焼き尽くされた比叡山延暦寺の復興に尽力しています。

それら含めた生前の功績を評価され天海に対して朝廷より贈られた諡号が慈眼大師で、その天海僧正を祀る廟所だから慈眼堂なんですね。

非常に静かな場所ですが、厳かな雰囲気の場所でした。

慈眼堂の横には、桓武天皇、後陽成天皇、後水尾天皇、清少納言、紫式部、和泉式部、新田義貞らの供養塔が並んでいる場所もありました。

あくまでも供養塔ですが不思議な組み合わせです。

境内には天海によって高島市から当地に移された鵜川四十八体石仏群のうちの13体の阿弥陀如来坐像のほか、歴代天台座主の墓、桓武天皇の御骨塔などがある。

鵜川四十八体石仏群のうち13体 – 天文22年(1553年)に六角義賢が高島郡(現・高島市)鵜川に亡き母の菩提を弔うために建立した48体の阿弥陀如来坐像のうちの13体。

この13体は江戸時代初期に当地に移されたもの。

>白洲正子が何度も採り上げた鵜川四十八体石仏群
高島市高島の白髭神社付近に「いにしえの道西近江路」の道標があり、上り坂になってい … 続きを読む →

天海の廟所 慈眼堂
慈眼堂(じげんどう)は滋賀県大津市坂本にある天海(慈眼大師)の廟所。 慶長12年 … 続きを読む →

黒衣の宰相と呼ばれた金地院崇伝ゆかりの 金地院
金地院(こんちいん)は京都府京都市左京区にある臨済宗南禅寺派の寺院。 小堀遠州作 … 続きを読む →


暴れん坊将軍 II 「わらべ地蔵の子守唄」では、汐路章演じる地回りが立てこもる寺子屋。

このときはお堂自身も使われている。

同じく II の「疑惑を呼んだ小さな命!」では、「上様の子」を身籠った大奥の中﨟の恋人が隠れるお堂。「吉宗婚約、五郎左は家出!?」では、珍しく上様と相愛になる娘が、加納じいとともに監禁されてしまう飛鳥山の荒れ寺。

いずれも殺陣はお堂前で行われ、灯籠群の間を行き交っての立ち回りとなる。

闇の仕事師たちとお庭番が死闘を繰り広げたこともある。
ツナギのシーンなどには、灯籠の開口部が効果的に使用される。

第三シリーズの「危うし!妖刀に正義ありや」では、山田朝右衛門が刃引きの刀で灯籠を両断する場面もある。

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紅葉の滋賀院門跡


坂本比叡山口駅は京阪電車全駅の中で、一番北に位置しています。

1997(平成9)年の穴太駅~坂本駅間の複線化工事とともに現在の駅舎に生まれ変わりました。

2000(平成12)年に、京阪電車では宇治駅とともに、第1回近畿の駅百選に選ばれました。

坂本一帯は延暦寺や日吉大社の門前町で、中世には京都への中継地として栄えました。

いたるところで「穴太積み」と呼ばれる美しい石垣を見ることができます。

西に10分ほど歩くと、日本一長い坂本ケーブルのケーブル坂本駅があります。

2018年3月17日に「坂本」から現在の駅名になりました。

延暦寺の門前町・坂本には、穴太衆と呼ばれる石工集団がいました。

穴太衆による石垣は、「石の声を聞け」という口伝に象徴されるように、加工しない自然石を巧みに組み合わせる「穴太衆積み」という技法で作られ、戦国時代には城壁にも用いられました。

里坊の町には今も石垣が美しい町の景観を作り出しています。

滋賀院門跡、以前の訪問記。

延暦寺の里坊を代表する滋賀院門跡
坂本の町には、穴太(あのう)積みの石垣が見事な里坊が数多く残っていますが、中でも … 続きを読む →

京阪電鉄坂本駅の南西すぐの所にあります。
天台宗。

もともと京都の北白川にあった法勝寺(ほうしょうじ)を、江戸時代初期に現在地に移し、のち後水尾(ごみずのお)上皇から滋賀院の号を賜わりました。

江戸時代末まで天台座主(ざす)となった皇族代々の居所であったため高い格式を誇り、滋賀院門跡と呼ばれます。

坂本の町には、穴太(あのう)積みの石垣が見事な里坊が数多く残っていますが、中でも滋賀院門跡はひときわ背の高い石垣と白壁に囲まれて、延暦寺の本坊らしい堂々とした外構えを見せています。

約2万平方メートルという広大な境内は、内仏殿・宸殿・書院・庫裏(くり)・土蔵などが立ち並ぶ。

書院には、江戸時代初めの狩野派の障壁画(しょうへきが)がたくさん見られ、豪華な雰囲気に溢れています。

また、名庭として知られる庭園は、宸殿の縁側から鑑賞することができます。

滋賀院御殿と呼ばれた長大な建物は1878年(明治11年)火災により焼失し、比叡山無動寺谷法曼院の建物3棟が移されて再建された。

築地塀脇に立つ根本伝教大師像

伝教大師はこの坂本の生まれです。
伝教大師御生誕地 生源寺
奈良時代後期、最澄(さいちょう・767-822)によって開山されたと伝えられる。 … 続きを読む →

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紅葉が見事な西教寺


日吉大社の前を北(右)に曲がりしばらく進むと西側に明智光秀が坂本城から移築したと伝わる西教寺の総門が建ち、総門から勅使門への直線の参道の両側に紅葉の並木が続きます、春には桜が咲き並んでいます。

見どころは総門より勅使門までの約150mの参道で、11月の色づきはじめから12月落葉まで、真っ赤に染まった「もみじ参道通り抜け」として圧巻だ。

比叡山東麓の大津市坂本地区の北方にあり、比叡山三塔の一つである横川(よかわ)への登り口に位置する。

西教寺は、天台宗総本山の延暦寺、天台寺門宗総本山の園城寺(三井寺)に比べ知名度は高いと言えないが、天台系仏教の一派である天台真盛宗の総本山として、400か寺以上の末寺を有する。

西教寺は室町時代の文明18年(1486年)、中興の祖とされる僧・真盛が入寺して以降、天台念仏と戒律の道場として栄えるようになったが、それ以前の歴史は必ずしも明らかでない。

草創については、『西教寺縁起』や近世の地誌類には推古天皇26年(618年)、聖徳太子が師である高麗の僧慧慈、慧聡のために建立したとする説もあるが、これは伝説の域を出ないものである。

真盛の弟子にあたる真生が明応4年(1495年)に著した『真盛上人往生伝記』によれば、西教寺は比叡山中興の祖である良源(慈恵大師、元三大師)が建てた草庵に始まり、その弟子で『往生要集』の著者として知られる源信(恵心僧都)が伽藍を整えたという。

良源と源信はいずれも平安時代中期、10世紀に活動した人物である。

西教寺と良源および源信との結び付きについても確証はなく、その後鎌倉時代末頃までの歴史も判然としないが、比叡山と関係の深い一寺院として平安時代中期頃に草創されたものと推定される。

信長による比叡山焼き討ちの後、近江国滋賀郡は明智光秀に与えられ、光秀はこの地に坂本城を築いた。

光秀は坂本城と地理的にも近かった西教寺との関係が深く、寺の復興にも光秀の援助があったと推定されている。

光秀が戦死した部下の供養のため、西教寺に供養米を寄進した際の寄進状が寺に現存している。

また、境内には光秀の供養塔や光秀一族の墓が立っている。

勅使門横の門の内側はまた見事な紅葉。

そして念仏小僧と羅漢像がお出迎え。

羅漢とは、釈迦の弟子の中で最も位の高い弟子に与えられる称号のようなもの。

この称号を与えられるということはそれだけ名誉のあることなのです。

これ以上学ぶことがない人に与えられる称号とも言われており、「無学位」とも呼ばれることもあったくらい釈迦の弟子の中ではずば抜けた存在でした。

長らく荒廃していましたが、室町時代末期に延暦寺で20年間もの修行を積んだ真盛(1443-93)が入寺して再興しました。 

当時は、混乱した世相を反映して宗教界全体が大きな転機を迎えていたので、真盛は戒律の厳守と称名念仏(しょうみょうねんぶつ)の励行を唱えました。

以来、西教寺は戒律(かいりつ)・念仏(ねんぶつ)の道場となり、現在に至るまで1日も絶えることなく念仏が唱え続けられています。

幽玄静寂(ゆうげんせいじゃく)な空気が漂う境内には、念仏と鉦(かね)の音が低く響き渡り、独特の雰囲気が漂います。

画像は宗祖真盛上人(1443~1495)御廟。

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穴太衆積み石垣の町並みから山の辺の道へ


左手は日吉東照宮、徳川家康公は没後、静岡の久能山東照宮、後に栃木の日光東照宮にお祀りされましたが、東照宮造営に縁の深い天海上人が天台宗の僧侶であったこともあり、元和九年(1623)徳川三大将軍家光公の時に比叡山の麓に造営されました。

その際には本殿と拝殿を繋ぐ「権現造り」という様式を用い、できあがった社殿が素晴らしく、その様式を基に日光東照宮を再建したといわれています。

権現川、朝日を受けて流れがきれいです。

権現とは、仏・菩薩(ぼさつ)が衆生(しゅじょう)を救うために仮(かり)(権)の姿をとって現れること。

本来、仏教で用いられたことばであるが、平安時代になると、権現は、わが国の諸神と結び付き、日本の神々を仏・菩薩が衆生を済度(さいど)するために仮に現れた姿であると考えるようになり、諸神を権現号でよぶようになった。

春日(かすが)権現、山王(さんのう)権現、三島(みしま)権現、熊野(くまの)権現などの類であるが、このような権現号も1868年(慶応4)3月の神仏分離によって廃止された。

早尾地蔵尊(六角地蔵堂)は、変じて真盛上人(西教寺開山)として現れ、入寂の後に再び地蔵尊に復したと言われる。

そのため、地蔵前に次の歌が書かれている。
  伝教の彫みおかれし石地蔵 姿を変えて出ずる真盛

伝教大師が、童子養育に心を注ぎながら地蔵を彫ったので、「子育て地蔵」とも呼ばれている。

聖徳太子が開山した西教寺ですが、この寺を15世紀後半に再興したのは、一日も絶えることなく念仏を唱える不断念仏で有名な真盛上人(しんせいしょうにん)です。

さらに西教寺を有名にしたのが、1493年の法難時に、手の白い猿が現れ、念仏の鉦(かね)を打ち続けたという言い伝え。

それ以降、身代わりの猿は、護猿(ござる=まもりざる)として縁起の良いものと考えられています。

右手は、日吉馬場からケーブル坂本駅へ、美しい石積みを眺めながら山の辺の道へ急ぐ。

石積みの美しさと、紅葉の美しさにいつも心洗われる。

大宮川、走井橋を渡り日吉大社への道。

ここも紅葉が大変美しい場所だが今日はパス。

東本宮のすぐ東側をほぼ北方向に向かう小径が山の辺の道です。

うっかりすると見過ごしてしまいそうな細い道。

この道で、西教寺まで約900m、15分位を目標に西教寺を目指します。

スタート地点となる日吉大社東本宮の桜門下に「猿の霊石」(写真)があります。

山の辺の道へは東本宮桜門東側から入って行きます。

まるでしゃがんでいるような猿の霊石、日吉神社では、猿を神の使い、魔除けとして「神猿(まさる)」と呼んでいるのです。

「山の辺の道」というと、日本最古の道として知られる奈良の古道を思い浮かべる方も多いでしょう。

一方、坂本の「山の辺の道」は、日吉大社から900m程、約15分で天台真盛宗総本山・西教寺まで。素朴な千体仏地蔵や、西教寺からの琵琶湖一望の絶景も楽しめます。

なだらかに左右にカーブしながら多少の高低差がかえって興味をそそる道です。

山の辺の道に入るとすぐ左手に日吉古墳群の案内板と岩穴が現れます。

古代の歴史を感じることができます。

比叡山延暦寺への人々の憧れが今も色濃く残る古道。

右手が田んぼにかわると琵琶湖が全体に広がる光景。

大パノラマをゆっくり堪能して歩きます。

以前の散策記録、琵琶湖絶景!日吉大社から西教寺へ~山の辺の道を行く

昔、日吉大社の北側に八講堂と呼ばれる谷があり、寺屋敷が残っていたそうです。

比叡山は、行者の修行場の為、一般の人の参詣は不可。

比叡山へのあこがれから、遠く比叡山から聞こえてくる読経に合わせ山麓の人々が小さな地蔵尊を谷のあちこちに祀り成仏を祈ったといわれています。

こうした地蔵尊が少し掘り起こされたものがいつの間にかこの場所に集められ、「千体仏地蔵」と呼ばれるようになったそうです。

いずれも30cmから大きなものでも70、80cmほどで丸みを帯びた仏様です。

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