江戸時代は島原藩の政庁であり藩主の居所であった。
成立当時の領主である松倉氏の知行は4万石であったが、総石垣で天守と櫓49棟を建て並べた。
火山灰や溶岩流でなる地盤での普請工事は困難であったとされ、関わった領民の一揆を引き起こす一因となった。
今回は遠く島原まで走らねばならず、名門カーフェリー1便を使用。
本来なら出港時にきれいな夕日が見れるはずだったがあいにくの雨天゛さみしい船出となってしまった。
天守は昭和39年(1964年)に鉄筋コンクリート造りで再建。
白色総塗籠めの5層の建物(地下1階、地上五階)。
最上階を除いて破風がまったくない典型的な層塔型天守。
築城当時の外観にほぼ復元されている。
有明海に臨み、雲仙岳の麓に位置する。
城郭の形式はほぼ長方形の連郭式平城で、高く頑丈な石垣が特徴である。
別名、森岳城、高来城。
西の櫓、城内のいちばん高い所に建つ。
天草四郎像。
丑寅櫓(民具資料館)
御馬見所
幕末頃、藩士の訓練状況を見るために島原城三之丸に建築されたもので、口之津町への移築を経て、現在の島原城本丸へと移築された。
島原城の数少ない遺構のひとつとしても非常に貴重なものである。
内部は10畳ほどの広さで、裏側に入り口、前面と左右両側に明彰子が張られ、大きな開口部を持つ開放的なつくりとなっている。
石の水道管
島原城桜門外の水源と城内三の丸に敷設してあったもので中央をくりぬいた石を漆喰で管状に接合し、この一本約七〇センチの石管をさらに接合して水道管にしたものです。
敷設したのは城主松平氏の後期、十八世紀末以降といわれています。
島原市教育委員会 案内文より
キリシタン墓碑
永禄五年(一五六二)領主有馬義直キリスト教の布教を許す。
寛永十四年(一六三七)島原の乱起る。
現在、島原半島で発見されている墓碑は約百二十基で蒲鉾型、箱型、庵型、九庵型、平庵型、平型、薄型、自然石型等があります。
【右側の墓碑:島原市指定有形文化財】
市内三会亀の甲で発見蒲鉾型表の右側に慶長八年十二月二十二日、中央に干十寺が刻まれてあり刻みは判読できない。
【中央の墓碑:島原市指定有形文化財】
南島原市西有家町で発見蒲鉾型干十字が記されています。
【左側の墓碑】
市内大手旧島原藩家老職奥平氏宅の庭から発見されたものです。
碑面の部分が削り取られて手洗盤として再利用されていました。
島原市教育委員会 案内文より
観光客のサービスにくノ一姿の女の子が配されていましたがあいにくの寒さで震えていました。
かわいそうに、手前の自衛隊員は石垣の草取りをしていました、こちらも雨の中ご苦労様。
本日も 手に持たずにさせる折りたたみ傘 肩ブレラが大活躍です。
観光用の入り口、バスが本丸まで入れるため後からの撮影になってしまった。
安土・桃山様式の壮麗な面影を残す島原城本丸を望む。
左から天守、巽櫓、その周りにめぐらされた多聞塀と打込接ぎの高石垣。
本丸には5層の天守がそびえ、城内には49基もの隅櫓が立ち並ぶ規模は、4万石という石高には過ぎたものであった。
この築城のための過酷な労役、重税とキリシタン弾圧が相まって重政の子勝家(重治)の時に「島原の乱」が起こり、この乱の終結後、責任を問われ松倉家断絶となります。
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島原城へのアクセス、行き方歩き方
住所:長崎県島原市城内1丁目1183-1
電話:0957-62-4766(島原城天守閣事務所)
島原鉄道島原駅から徒歩約5分