悲劇はここから 朝鮮出兵の前線基地 名護屋城

九州

名護屋城は波戸岬の丘陵(標高約90メートルほど)を中心に170,000平方メートルにわたり築かれた平山城の陣城。
ルイス・フロイスが「あらゆる人手を欠いた荒れ地」と評した名護屋には、全国より大名衆が集結し、「野も山も空いたところがない」と水戸の平塚滝俊が書状に記している。

唐入りの期間は、肥前名護屋は日本の政治経済の中心となった。
平成18年(2006年)には日本100名城(87番)に選定された。

大手口前井戸
城内にはこの他6箇所の井戸が残っている。

井戸の深さは約1.6mと浅いものの、地下水脈に重なっているのか、調査後しばらくは水がわきだしていた。
10万人もの将兵が駐屯していた際には水が足りず、水争いの喧嘩も耐えなかったという

大手口、名護屋城の正面玄関口。
右手の石垣の上には刻を告げる櫓が築かれていた。

石垣も江戸時代の島原の乱の後に一揆などの立て篭もりを防ぐ目的で要所が破却され、現在は部分が残る。
歴史上人為的に破却された城跡であり、破却箇所の状況が復元保存されている。

登城坂の右側には、芝生の広がる長屋建物跡の空き地が広がり、その向こうに東出丸の石垣が続いています。

東出丸は東方に張り出した長方形の曲輪で、”千人枡”とも呼ばれている。
大手口・三の丸警固のための侍詰所があったと推定される。

イチョウの落ち葉に埋まる三の丸を二の丸へ向かう。
本丸より一段低いところに位置する三の丸は、東西68メートル、南北124メートルあり、大手口から本丸に通じる重要な曲輪で、本丸周辺を警固した武士が詰めていたという。
又、馬場を経由して二の丸にも通じていた。

三の丸井戸跡は名護屋城内で発見された井戸の中で一番高所にあるのがこの井戸。
自然の割石を積み上げた石組みで造られている。
文禄の役では最終的に20万以上の兵が名護屋から朝鮮に渡った。

当地には西国衆の渡海後も東国衆と秀吉旗本衆約10万の兵が駐屯している。
多くの人員を養うには水源が足りなかったようで、水不足が原因の喧嘩が絶えなかったという。

三の丸南西櫓台跡から下を見下ろす、左手が大手口。

三の丸南西櫓台跡石垣は、名護屋城で最大規模を誇り、その西側正面には城内最大の鏡石をも用いて、石垣を築いている。

馬場は本丸の一段下、南側に位置する長さ100メートル、幅15メートルの細長い曲輪です。
ここで乗馬の訓練をしたとも伝えられ、二の丸から三の丸へ至る重要な通路と考えられています。

馬場本丸南面石垣は櫓に通じる石段も残り、築城時の様子と崩壊した状況を同時に観察することができます。

馬場の途中には馬場櫓台があり、この櫓台は城内でも得意な配置となっており、馬場の通路の途中に設けられています。

自然荒廃した名護屋城は、黒澤明監督の代表作品の1つであり、仲代達矢のインパクトある風貌と演技に圧倒された映画 「乱」の中にも登場した。
前方は弾正丸。

弾正丸は二ノ丸から搦手口へと続く位置、名護屋城取締本部のあった場所。
取締役、浅野弾正長政にちなんでこの名で呼ばれている。

本丸南西隅石垣(崩れた石垣の中から江戸時代の銭が出土され、破壊時期が推定。)

二の丸は本丸の一段下、西側に位置する曲輪。
肥前名護屋城図屏風では、二の丸に桧皮葺あるいはこけら葺きで入母屋造りの屋根を持つ御殿風建築や、瓦葺の門や塀、西面の石塁上には多聞櫓が描かれています。

二の丸長屋建物跡は発掘調査で掘立柱式の建物が2基発見されており、建物礎石が復元表示されている。

二の丸跡から天守台を望む、名護屋城は二ノ丸から本丸への直接的な通路がないのが謎…。

二の丸跡から遊撃丸を望む。

遊撃丸は本丸の一段下、北西に位置する曲輪です。文禄2年(1953)に明の講和施設(遊撃将軍)が滞在し、もてなしを受けた曲輪といわれています。

天守台の真下に位置するこの曲輪からは、天守がさぞ立派に見えたことでしょう。
秀吉は自分の力を誇示するために明の講和施設をこの曲輪でもてなしたのではないでしょうか。
一部では金箔瓦が出土。

遊撃丸からは呼子大橋をはじめ呼子の町が望める。

本丸大手門跡は本丸への入口で、三の丸から本丸へと通じた門。
2層の門が築かれていたが、廃城となった後に伊達政宗の仙台(青葉)城の大手門として移築されたというが、昭和20年(1945)の空襲で焼失した。

名護屋城は、基本的には三段の渦郭式縄張りである。
大手門(博物館前)から東の丸、三の丸、二の丸、そして本の丸へと登城道を登る。
本の丸に至る登城ルートには、破却された石垣が累々と連なる。

埋うめられた石垣いしがき(本丸)
本丸では、一度築かれ、のち拡張のために埋められた石垣が一部見られる。

本丸の新石垣櫓台。
本丸拡張後の新しい櫓跡です。
土台石の上に材木を横に置き、その上に柱を立てて建物を組み上げていたようです。

本丸南西隅櫓跡は10m四方の敷地に2階建ての櫓と付櫓があったようだ。

玉石敷きの復元

本丸跡西側の本丸多聞櫓跡は全長約55m、幅約8mの長大な建物が建っていたと考えられる。

本丸跡から西を望む、下に広がるのは遊撃丸、海上は左から松島、加唐島。

左は馬渡島、その右松島との間にうっすらと壱岐が見える。

名護屋城最大の曲輪である本丸は、東西145メートル、南北125メートルの広さで、天守台は本丸の西北隅に築かれた。

今は何もない天守台だが、かつてここに豪華絢爛な5層7階の天守閣がそびえていた天守台でこの眺めなので、天守閣からの眺めは素晴らしかったのだろう。

呼子大橋その向こうに鷹島が見える。

前方は玄界灘、朝鮮へはここからの方が渡りやすかったようだ。
天気の良い日には、遠く壱岐や対馬も望めるという。

傍には俳人青木月斗(1879~1949)の句碑が建つ。
1933年にここを訪れた。
太閤が睨みし海の霞かな」。

今は何もない本丸台だが、元帥伯爵東郷平八郎揮毫の「名護屋城跡」碑が建つ。

五重天守や御殿が建てられ、周囲約3キロメートル内に120ヵ所ほどの陣屋がおかれた。
城の周囲には城下町が築かれ、最盛期には人口10万人を超えるほど繁栄した。

加藤清正、寺沢広高が名護屋城の普請奉行となり九州の諸大名を中心に動員し、突貫工事で8か月後の文禄元年(1592年)3月に完成した。
規模は当時の城郭では大坂城に次ぐ広壮なものであった。

秀吉の死後、大陸進攻が中止されたために城は廃城となったと考えられており、建物は寺沢広高によって唐津城に移築されたと伝わる。

画像は帰途バスの車窓から撮影した唐津城、修理でもしているのかクレーン車が映っています。

帰途、明石海峡大橋の辺りで日の出を迎える。

入港を控え船員が用意した日章旗と後方は遠ざかる明石海峡大橋。

東方では雲の隙間から太陽の光芒が眩しい。
あまりに美しく、寒さも忘れてシャッターを押し続けていた。

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名護屋城へのアクセス、行き方歩き方

住所: 鎮西町名護屋1938-3
0955-82-5774(名護屋城跡観光案内所)
JR筑肥線唐津駅から徒歩5分の唐津バスセンターから昭和バス波戸岬行きで45分、名護屋城博物館入口下車、徒歩5分