松前城は、外国船の出没に備えて江戸幕府が嘉永三年(1850)に松前藩に命じて築城させた。
軍学に基づいた最後の日本式城郭である。
7基の砲台と25門の大砲を備えていたが、海への防備に主体を置いたため背後は手薄になっていた。
そのため戊辰戦争で、土方歳三らの旧幕府軍に背後から攻められて落城した。
この時天守は破壊されなかったが、昭和24年(1949)に火事で焼失した。
福山城(ふくやまじょう)とも呼ばれる。
福山街道を松前を目指します。
車窓からは津軽海峡の美しい海岸線が続きます。
この辺りは知内町、北島三郎さんの出身地です。
青函トンネル北海道出口のある福島町の辺りです。
当地出身の横綱(千代の山、千代の富士)が2人誕生した出身地は、全国どこを探しても福島町だけです。
松前城三の丸広場。
「松前藩屋敷」 江戸時代の松前の城下町を再現したテーマパークです。
中には14棟の建物があります。
時代劇のセットみたいな感じです。
入ってすぐ左手に「松前藩沖の口奉行所」があります。
蝦夷地へ入る人、船、荷物を改め、徴税を課すところです。
蝦夷地へわたろうとする人には取り調べが厳しかったそうです。
かの吉田松陰が蝦夷地渡航を考えながらも断念し、津軽まで来て引き返したのもこれ故。
商家。
松前の城下には近江商人や北陸出身の商人等、他所から来た商人が多かった。
八幡商人
現在の近江八幡市を中心とした地域から生まれ、江戸初期から活躍した商人です。
松前藩領で活躍したグループと、江戸で活躍したグループとに分かれる。
近江商人達は、松前藩と手を組んで、蝦夷交易を担い、大変な勢力を誇りました。
国の重要文化財「旧中村家住宅」は、近江商人の大橋宇兵衛が江戸時代の終わり頃に建てたもので、道指定文化財の山車「松寶丸」を作った近江屋利兵衛という人も近江商人だったといいます。
林の中を松前藩主墓所を目指す。
松前藩主墓所
松前藩の始祖・武田信広から19代にわたる歴代藩主、その室や子などが眠る墓所で、イチョウやオンコの古木にかこまれて55基の墓碑が静かに並んでいる。
墓碑は五輪塔形式で、石造りの屋形風覆屋(やかたふうおおいや)に収められているものが多く、なかにはキリシタン信仰と関係があるとされる織部(おりべ)灯籠や十字型H字が刻まれた墓も見られる。
国指定史跡になっている。
法幢寺(ほうどうじ、曹洞宗)
松前家の菩提寺で、裏手には松前藩主松前家墓所があります。
本堂左手の御霊屋みたまやは、1834(天保5)年に再建され、歴代藩主の位牌が安置されています。
かつて藩主を諌いさめたために流刑となり首をはねられた門昌庵事件の柏巌和尚はこの寺の住職でした。
松前城資料館の入口にあった家紋。
「四つ割菱」、別名「武田菱」。
松前城は1、600年、松前氏の家祖・武田信広の五世武田慶広が徳川幕藩体制の一員となった時、姓を松前と改めて現在の松前城の前身である福山城を築城しました。
本丸御門と天守。
本丸御門は築城当時からの遺構のひとつで、国の重要文化財に指定されている。
天守は昭和24年に焼失したが、昭和35年に鉄筋コンクリート造りで再建された。
搦手二ノ門は、東側から城内へ通じるルート(搦め手)にあった門の一つで、搦手門を守る重要な役割をもっていました。
記録によれば、間口は2間二尺(4.24m)で瓦葺きだったことが分かっていました。
三本松越しに望む天守。
城の前面は津軽海峡です、遠く霞むのは竜飛岬。
幕末の築城にも関わらず、松前城は激しい攻防戦を体験している。
1868年(明治元年)秋、蝦夷が島に独立政権樹立を目指す旧幕府の榎本武揚を首領とする軍勢は、渡島半島の各地を制圧し、11月5日にはもと新選組の土方歳三が700名ほどを率いて松前城を攻撃した。
松前藩の軍は防戦に努めたものの、わずか数時間で落城した。
これは、函館湾からの旧幕府軍軍艦の艦砲射撃もさることながら、城の構えがあまりに脆いものであったためである。
長沼流の軍学者であった市川は、大手門からの通路は曲がりくねって鉄砲の的になりやすい効果的な構えとしたが、搦手方は敵は攻めてこないものとして、直線に通路が続き鉄砲狭間も少ない防御力の低い配備としていたのである。
これを土方に衝かれた形となってしまった。
現在も石垣にこのときの弾痕がいくつも残っている。
かつて城内へ通じる坂は馬出口・天神坂・馬坂・湯殿沢口、新坂の5ヶ所だったが、そのうちの一つ。
細いく風情ある石段が続き、三の丸跡への入口に天神坂門が建つ。
三の丸には七ヶ所の砲座が設けられていたが、現在は最も東側にあった七番台場のみが復元整備されている。
独り言
とかく松前藩は評判がよろしくない。
松前藩の非道、藩主の無責任
この松前城攻防を含め徳川遺臣軍と戦った松前兵は、必ず敗走の際に民家や村に火を放って逃げたので、後世の批判を受けている。
榎本の学んだ国際法知識を適用した徳川遺臣軍は、戦争に直接関係しない市民を巻き添えにしないよう配慮し、俘虜として監禁した松前兵にも津軽行きの便宜を図ったり、町民・農民として生きる選択肢を与えるなど、それまでの封建日本にない新しい考えを示した。
落城後の松前藩主松前徳広の行く末は悲惨であった。
土方軍が松前城に迫る前にひそかに城を脱し、家族と共に館の新城に移る予定であったが、別働隊が五稜郭から館城に向かっているとの報を聞き、江差北方の熊石に逃げた。
そこから津軽藩をたよって渡船したが、あいにくの荒天で姫を失い、津軽に渡った後には持病の労咳が悪化したため、わずか25才の若さで死亡している。
高田屋没落に松前藩暗躍
高田屋は嘉兵衛の死後、幕府から1833年(天保4年)、家屋、財産とも没収されます。
容疑とされた密輸の事実はなかったものの、航海中に高田屋の商号を染めた旗を掲げれば、ロシア船はいかなる危害も加えないとの約束があり、それを咎められました。
ロシア側にすれば、ゴローニン釈放に尽力した嘉兵衛への感謝の証しでした。
幕府が重罰に処した裏には、松前藩の暗躍があったそう(松前藩は1821年、転封された陸奥梁川=現在の福島県伊達市=から松前に復帰しています)。
函館市史によると、事件以前に松前藩は2年続けて1万両(天保2年時の換算で3億7千万円)の御用金(実態は藩の借金)を高田屋に命じました。
2年目はさすがに全額用意できず、江戸などの問屋から5千両を借りて工面しました。
ところが、高田屋が幕府の取調べを受けると「高田屋が問屋から運上金を取り立てている」と幕府に告発したのです。
後の幕府の調べで松前藩がでたらめを申し立てていたことが判明します。
「松前藩は有力商人からしばしば御用金を借上げた。
そして借財がかさむと、僅かな過失を理由として取り潰してしまうというやり方は、寛政2年(1790年)の飛騨屋久兵衛を始めとし、同8年の村山伝兵衛、そして高田屋金兵衛に至る常套手段であった」(函館市史)。
松前藩は為政者というよりは、ごろつきの集団としか思えません。
高田屋没落後、松前商人が商権をにぎり、嘉兵衛が築いた商業都市・箱館は1854年のペリー箱館来航まで停滞の時代を送ります。
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松前城へのアクセス、行き方歩き方
住所:北海道松前郡松前町松城144
電話:0139-42-2216
JR江差線木古内駅から函館バス松前行きで1時間29分、松城下車、徒歩10分