在原業平の子孫が築いたと言われる箕輪城

関東

日本100名城の一つ。
箕輪城は榛名山からのびる低い尾根の末端部を巧みに利用して造られています。
標高274メートル、西は榛名白川の清流に望む約20メートルの断崖、南は椿名沼の沼地、なだらかな北東部は水堀で囲まれていました。

この城を見学するには搦め手から入るのが一番手っ取り早い。
ここは武田信玄との攻防戦における最大の激戦地だった。

この城は武田信玄が猛攻を六回繰り返したが城主、長野業政には歯が立たず業政の死後ようやく手に入れた城といわれる。

箕輪城は榛名山を望む地に建つ。

箕輪城は大永6年(1526年)、長野業尚(ながの なりひさ)によって築かれた丘城である。(1512年と言う説もある)

業政、業盛と引き継がれ、業盛の代になって永禄9年(1566年)、甲斐の武田信玄の攻撃を受けて落城。長野氏は滅亡した。
その後武田家の家臣、内藤昌豊が城主として入るが、武田家滅亡後は織田信長の家臣、滝川一益の居城となり、本能寺の変で信長が死ぬと小田原・北条氏が支配することになった。

北条氏滅亡後、関東に入った徳川家康は徳川四天王の一人、井伊直政を入城させた。
しかし慶長3年(1598年)、井伊直政が南方の和田宿に新たな城(高崎城)を築き、和田宿を高崎を改名して移転するとともに、箕輪城は72年の歴史を終えた。

御前曲輪(ごぜんくるわ)、本丸の北側にある。
持仏堂があり、落城の際、長野氏一族はここで自刃したといわれる。

昭和2年に発見された井戸から多数の五輪塔などの墓石が発見された。

御前曲輪北堀。

本丸堀の橋台
本丸(写真右)から蔵屋敷(写真左)にかけて橋が渡してあったそうで、その橋脚の台があるため、この部分で堀の幅が狭くなっている。

御前曲輪西石垣
城内ではこれだけの石は採れないので 城のすぐ西側を流れている 榛名白川から運んできたのではないかといわれる。

急な階段を下って 鍛冶曲輪に向かいます。

大堀切
箕輪城はこの大堀切で南北に分けられたとえ一方が攻め落とされても もう一方の城郭で 戦を続けることができる仕組みになっています。

東西約500メートル、南北約1100メートル、面積は47ヘクタールにおよぶ広大な城で、低い尾根の線に沿って、東北から西南の方面に、各郭が深堀で仕切られて並んでいました。
特に二の丸の南の大堀切は、城を南北に二分し、ただ一つの土橋によって連絡されていました。

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箕輪城へのアクセス、行き方歩き方

住所:群馬県高崎市箕郷町西明屋
電話:027-321-1292(高崎市文化財保護課)

高崎駅から群馬バス「箕郷行き」で約30分、「箕郷本町」下車 徒歩約20分