あまりにも質素な薩摩藩の拠点 鹿児島城

九州

本城である鹿児島城は北に本丸、南に二の丸が位置していたが、単純な構造で防御には問題のある「屋形造」の城であった。
そのため裏山である城山を籠城のための「後詰めの城」としていた。

大手口から本丸への石段。
大規模な枡形も残っています。

鹿児島城は表高77万石(実高は100万石を超える)という大身の大名の本拠としては、極めて小規模でかつ、天守を持たず、櫓の数も僅かということで、外見はやや堅固な居館といった感じであったようです。

忠恒(家久)の実父の義弘は海岸に近いこの地は防御に問題があり城を築くのに適さないとし、最後まで築城に反対していた。

家康の薩摩征伐は実施されることなく、薩摩藩は外様大名として存続を許されることとなり、忠恒の代に鶴丸城が実戦で用いられることはなかった。

しかし、数百年後、幕末の薩英戦争の時に義弘の懸念は現実のものとなり、イギリス軍艦から奥御殿に砲弾を何発か打ち込まれるなど脅威にさらされることになる。

しかし、簡素な造りだったためにイギリス軍艦は寺を天守と間違えて砲撃している。

鹿児島城本丸石垣
北東の角(鬼門)を凹ませる「鬼門除け」の角落とし形状となっている。

現在も鹿児島城の石垣には西南戦争の時の弾痕跡が残っています。

島津重豪(しげひで)公頌徳碑

1901年以降、城址は第七高等学校造士館の校地として使用され、戦後、鹿児島県立大学医学部、国立鹿児島大学医学部基礎教室、現在は本丸跡に鹿児島県歴史資料センター黎明館、二の丸跡には鹿児島県立図書館、鹿児島市立美術館、鹿児島県立博物館などが建っている。

鹿児島県歴史資料センター黎明館
島津氏の居住であった鶴丸城跡に建っている。
日本100名城スタンプはこちらにあります。

2008年の大河ドラマで一躍有名になった、徳川幕府13代将軍・徳川家定の正室である篤姫の像、島津家の養子となった篤姫が2ヶ月間暮らしていたといわれている。

大河ドラマでは生き生きとした感情豊かな女性になっていたが、実像は肝っ玉母さんだ。島津家の分家に生まれた彼女にとって、殿様の養女になってどこかの大名の奥方になることくらいは想定の範囲だったが、思いもかけず、御台所になってしまった。

彼女はこの幸運を絶対離したくなかった。
和宮が降嫁するときや、幕府が倒れた時に薩摩に帰るという話もあったが、断固拒否したし、旅行すらしなかった。

理由は単純だ。
薩摩に戻れば分家の娘という成り上がる前の立場に戻らざるを得ないからだ。

だから、婚家で姑としての地位を主張し、また、将軍家でなくなっても名門であり続けられるように最善を尽くした。

形の上で養女だった近衛家から十六代家達の夫人を入れ、生まれてくる子供には島津家から嫁を貰うように言い残して死んだ。
まことに見事な女将さんであり、自分自身の利益も守ったが、養父である斉彬などと違い、天下国家のために一身を捧げようなどと意識はかけらも感じられない。

それではドラマにならないから、そうは描かないが、実際はそういう身も蓋もない現実的な人物だ。
本当は恐ろしい江戸時代 八幡 和郎

鶴嶺(つるがね)神社は、鹿児島市吉野町の仙巌園と尚古集成館の間にあり、島津氏初代・忠久公以降歴代当主とその家族が祀られている神社です。

鶴嶺神社と亀寿姫(ジメサア)

第18代島津家久の夫人となった亀寿姫も御祭神の一人として、鶴嶺神社に祀られています。
亀寿姫は幼い頃豊臣秀吉の人質となるなど薄幸の生涯を送りましたが、心優しい人であったと伝えられています。

また、良妻賢母の鑑とも敬われました。
昔、島津氏の祈願所大乗院(鹿児島市清水町)にあった白地蔵は、いつしか『ジメサア』の名で親しまれるようになり、鶴嶺神社で分けていただいた紅でお化粧をして差し上げると女児が美しく育つ、あるいは鶴嶺神社におまいりすれば美しい女性になれるという信仰が生まれ、女性の美しさを守ってくださる神様として知られるようになりました。

そして今も、姫をまつった鶴嶺神社には多くの方々が参拝に訪れています。

大阪の住吉大社にある誕生石。
源頼朝の寵愛を受けた丹後局 (たんごのつぼね) がここで出産した場所と伝えられ、その子が薩摩藩「島津氏」の始祖・島津忠久公です。
この丹後局の伝説が語りつがれて、今でもここで安産を祈る人々が絶えません。

この事跡が下に記す斉彬の曽祖父重豪(しげひで)が水戸藩と交渉して「大日本史」に「一説として」という注釈付きながら、先祖が源頼朝の庶子であると書かせたことにつながる。

斉彬の曽祖父重豪(しげひで)こそ近代への扉を開いた傑物

延享2年11月7日生まれ。
島津重年の長男。
宝暦5年11歳で薩摩(さつま)鹿児島藩主島津家8代となる。
蘭学や本草学をこのみ,藩校造士館,医学院などを創設。

3女茂姫(広大院)が将軍徳川家斉(いえなり)の正室となり、幕府内で重視される。
天明7年隠居し,斉宣(なりのぶ)に家督をゆずったが孫の斉興(なりおき)の代まで藩政の実権をにぎった。

天保(てんぽう)4年1月15日死去。89歳。

それまで島津氏は将軍家や有力大名との婚姻を避ける傾向があった。
が、重豪は積極的に政略結婚を進める政略に転じ、将軍・家斉に娘を娶わせ、中津藩や福岡藩などの有力譜代大名や外様の大藩に息子たちを養嗣子として送り込んだことから、江戸時代後期の政界に絶大な影響力を持ち、高輪下馬将軍と称された。

また水戸藩と交渉して「大日本史」に「一説として」という注釈付きながら、先祖が源頼朝の庶子であると書かせ、鎌倉に頼朝の立派な墓を建立して徳川家以上の名門であるような体裁を整えている。

この人のすごさは、すぐに役立つことだけでなく、迂遠かもしれないがいつか大きな意味を持つような手を次から次へと展開したことであり、そのスケールの大きさは、対を成す者を見ない。

また大変という表現すら不足なほどの恐るべき酒豪であり、酒の相手をするのも一苦労であるため、諸家では重豪がやってくるのを(酒の相手をしなくてはならないのを)嫌ったとされる。

この重豪を唯一飲み負かすことができたのが牧野千佐であり、彼女は後に重豪の側室となって黒田長溥を生んでいる。重豪69歳の時の話である。戦国時代の毛利元就とも並ぶ絶倫ぶりと言えよう。

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鹿児島城へのアクセス、行き方歩き方

住所:鹿児島県鹿児島市城山町7-2
電話:099-222-5100

JR日豊本線 鹿児島駅 徒歩約12分