鍋島父子が築いた広大な堀 佐賀城

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古名は佐嘉城。
別名、沈み城、亀甲城。
江戸時代初頭に完成し、外様大名の佐賀藩鍋島氏の居城であった。

佐賀城鯱の門および続櫓<重文>
1836年(天保7年)に建立された。
屋根の両端に青銅製の鯱が載ることから「鯱の門」と呼ばれている。

明治時代初期に起こった佐賀の乱により大半の建造物は焼失し、鯱の門と続櫓のみが残っており国の重要文化財に指定されている。

本丸西側の堀も復元されつつある。

佐賀城の堀。
幅100mはあろう。
とにかく広い。
こんなに幅広い水堀は江戸城を除けば、全国でもトップクラスであろう。

平坦な土地にあるため、城内が見えないように土塁にはマツやクスノキが植えられている。

城が樹木の中に沈み込んで見えることや、かつては幾重にも外堀を巡らし、攻撃にあった際は主要部以外は水没させ敵の侵攻を防衛する仕組みになっていたことから、「沈み城」とも呼ばれてきた。

また城の完成予想図とは異なる部分が多く、厳密には未完成の城である。

南西隅櫓台は、切り石による「亀甲乱積」という手法で積まれている石垣。

高さ約9m、南北31m×東西27mの巨大な天守台の上に1726年(享保11年)の火災で焼失した天守が建っていた。

江戸城の天守が焼失以来再建されなかったこともあり、佐賀藩では、幕府への遠慮もあり、佐賀城の天守を再建することはなかった。

ところで、この天守台、本丸からでははなく外側の二ノ丸からでないと登れないようになっている。

こんな天守台、全国でもここだけである。
一説によると、鍋島直茂は、かつての主君竜造寺氏に本丸を譲り、自分は二ノ丸で生活する予定だったので、天守も二ノ丸からしか登れないようにしたのだという。

鯱ノ門。
現存建造物である。
これがまた近くで見ると異常に大きく見える。
日本三大櫓門の1つであろう。

佐賀城はもともと龍造寺氏が居城としていた村中城を改修・拡張したものである。
九州北部に覇を唱えていた龍造寺隆信は1584年(天正12年)に島津・有馬連合軍に敗れて戦死した。
これを機に龍造寺家臣の鍋島直茂が実権を握った。

1874年(明治7年)江藤新平を中心とした佐賀の乱が起こり佐賀城はこの反乱軍に一時占拠された。こ

の戦闘の際に建造物の大半を失った。
なお、鯱の門には当時の弾痕が現在も生々しく残っている。

以後、佐賀城址には学校、測候所、県庁など公共施設が次々と建設された。

この歴史館は、佐賀十代藩主鍋島直正が天保期に再建した佐賀城本丸御殿(1838年完成)の一部を忠実に復元しており、本丸御殿の復元としては日本初、木造復元物としては日本最大規模となる2,500㎡の広さを誇る。

本丸御殿を入ったところには時節柄、お雛様が飾られていた。

本丸御殿廊下。

外側書院
世継ぎのお披露目や、幕府からの贈答品お披露目などの藩の公式行事で使われた場所。
藩主側から見たもの。

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佐賀城へのアクセス、行き方歩き方

住所:佐賀県佐賀市城内2-18-1
電話:0952-41-7550(佐賀県立佐賀城本丸歴史館)

JR長崎本線 佐賀駅 徒歩約30分

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