黒田長政は、慶長5年(1600年)10月、筑前の領主となり、名島城に入城したが、治政上適地でないとみて、この地に福岡城を築いた。
この地は、当時、福崎といっていたが、長政は祖先の領地備前(岡山県)の福岡にちなんで改名したといわれる。
長大な多聞櫓は福岡城のシンボルの一つになっているが、ご覧の通り木が伸び放題でみっともない姿をさらしている、何とかしてもらいたいものだ。
下之橋御門より入城する。
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下之橋御門と(伝)潮見櫓。
潮見櫓は、三ノ丸北西角(福岡城の西端角の土塁の内側)に建てられたもので、遠く玄界灘、博多湾の形勢を望み、海上からの防禦を担った。
母里太兵衛邸長屋門
筑前今様の「酒は飲め飲め」で知られる母里太兵衛(母里但馬守友信)は、黒田24騎の1人で、福島正則から名槍日本号を飲み取った豪傑として知られている。
黒田長政が筑前入国後、6つの支城の一つ大隈城主となったが、慶長20年(1615)6月6日病没した。
現在の天神2丁目の野村証券株式会社の地は、母里太兵衛の当時の屋敷で、この長屋門はそこに構えられていた。
名島門
黒田長政が筑前入国時に入った名島城の遺構。
天守台礎石
従来の通説では、正保3年(1646年)に作成された福岡城を描いた最古の絵図『福博惣絵図』には天守は描かれていないため、幕府への遠慮から天守は造築されなかったとされている。
近年になって、当時豊前国小倉藩主であった細川忠興が、彼の三男で次期藩主の忠利へ宛てた元和6年(1620年)3月16日付の手紙に「黒田長政が幕府に配慮し天守を取り壊すと語った」と天守の存在を窺わせる記述が発見されたことによって、天守があった可能性が示されている。
天守の解体を語ったとされるこの当時は、徳川氏の大坂城普請に諸大名が築城に駆り出されたことから、天守を解体し築城資材として投入することによって幕府の信任を得ようとしたと言う説も上がっている。
本丸表御門櫓跡
二の丸
本丸祈念櫓(本丸北東隅に鬼門封じのため建立)
鉄(くろがね)御門跡から天守台へ上がる。
天守台礎石。
天守台への入口となる「鉄(くろがね)御門跡」が残っていますが、要衝の門にふさわしく、敵の侵入を防ぐため幅が狭くなっています。
埋門跡
現在は、埋門の上に鉄柵が渡してあり、大天守台(写真左)へ行くにはここを通る必要がある。
往時には、ここに渡り櫓があって、やはり大天守台への入口となっていた。
埋門というのは、石垣の間に埋め込むように作られた門の一般的な名称。
武具櫓跡の発掘調査中。
天守台礎石。
福岡城の別名は舞鶴城。
博多湾側から見た城の形が、空を舞う鶴の姿に似ていたからといわれる。
豊臣秀吉が主導した文禄・慶長の役の際に、長政が攻めあぐんだ朝鮮の難攻不落の城・晋州城をモデルにして造られたといわれています。
二ノ丸水の手門跡石垣。
二の丸。
現存の多聞櫓。国指定の重要文化財である。
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福岡城へのアクセス、行き方歩き方
住所:福岡市中央区城内
電話:092-711-4783(福岡市教育委員会文化財整備課)
地下鉄「赤坂」、「大濠公園」から、徒歩約8分
西鉄バス「平和台・鴻臚館前」「大手門」「城内美術館東口」から、徒歩約5~8分