二本松城は、別名、霞ヶ城・白旗城と呼ばれる。
2007年(平成19年)7月26日、二本松城跡として国の史跡に指定された。
「霞ヶ城公園」として日本さくら名所100選に選定されている。
簑輪門付近の石垣は特に美しい。
格好の撮影スポットだ。
箕輪門前 千人溜は兵を集結させる場所である。
現在は二本松少年隊の銅像が建っている。
戊辰の役(戊辰戦争)でふるさとを守るために、若い命を散らした二本松少年隊を顕彰する群像。
二本松市名誉市民であります彫刻家・橋本堅太郎氏に依頼して制作したものです。
平成8(1996)年7月28日建立。
良く見ると、後でわが子の出陣服を仕立てる母の姿が物悲しく哀愁をさそいます。
具体的には、藩主・丹羽氏の家紋・直違紋(すじかいもん)の肩印を、万感迫る思いで縫い付けている母の姿を現しているそうです。
ガトリング砲を打つ「二本松少年隊」の銅像。
箕輪門から入場しますが、この日はあいにくの雨。
本日も 手に持たずにさせる折りたたみ傘 肩ブレラが大活躍です。
階段の途中に大城代・内藤四郎兵衛戦地の地碑があります。
城門を開いて敵勢に斬り込み、 獅子奮迅の末、壮絶な戦死を遂げた。
簑輪門は正門(大手)にあたり、丹羽光重の時代に築かれたといわれています。
戊辰戦争時に焼失し、昭和に再建されました。
洗心亭は二本松城内に設けられた茶室の1つで「墨絵の御茶屋」と呼ばれていました。
茶室は数棟あったそうで洗心亭はその内の1つで17世紀中頃に建築されました。
天保8年(1837)に城内に崖崩れが起こったことで阿武隈川畔の地蔵河原に移築され藩主の釣殿とされた事で、戊辰戦争で二本松城が落城し、廃城となりほとんどの建物が焼失した中、奇跡的に残りました。
明治30年(1897)に現在地に移築され二本松市指定有形文化財に指定されています。
この特徴的な松は「霞ケ城公園」にある樹齢300年といわれる「傘松」です。
昔、ここに霊松二本があって、この山を二本松と呼んでいたことが二本松の地名の由来とも言われています。
わざわざ人の手で押えないと枝がおれてしまうほど重いんですね。
「あれが阿多多羅山、あのひかるのが阿武隈川」
明治、大正、昭和にかけて詩人・彫刻家として 有名な高村光太郎が、最愛の妻・智恵子を偲んで 詠んだ「樹下の二人」の冒頭の句です。
昭和35年(1960年)に建立されました。
この自然石は「牛石」と呼ばれ、畠山満泰が築城の際に、 いけにえにした牛が、石に化したものと云われております。
二本松城跡の南西中腹にある「少年隊の丘」と呼ばれる平坦地は、戊辰戦争直前まで少年隊が砲術の練習をした場所。
「二本松を守りたい」との念から、年齢をごまかした結果、通常では考えられない12歳という年齢の少年まで隊に加わることとなりました。
少年隊奮戦の様子を描いた銅板レリーフも、年少ながら必死に戦った二本松武士道の姿を今日に伝えています。
搦手門跡
二本松城の裏手に位置する門。
現在も石垣が残ります。
この門は、二本松城始築時の慶長初期(1590年)頃に建てられ、その後に何度か修復改築されたことが絵図等でわかります。
一般的に、城は敵に対する正面(大手)の防備は堅固ですが、裏面(搦手)はそれに比べて弱い所からこの語の起源になっております。
本丸石垣:こちら側の石垣内部には、慶長期(二本松城初期)とみられる別の石垣が埋もれています。
もちろん、写真以外には見ることもできませんが。
本丸枡形虎口:本丸へは階段を登り、右へ折れる虎口となっており、山頂部に厳重な曲輪としての本丸が存在していました。
決して飾りではない本丸です。
本丸天守台。
家老丹羽和左衛門と勘定奉行安部井又之丞自刃の碑。
慶応4年(1868)7月29日、戊辰戦争による二本松城落城に際して、共に自刃(割腹)した両人の供養碑です。
丹羽の自刃の様子は、床机に腰を下ろし、軍扇の上につかみ出し、前屈みになって絶命したと伝えられています。
当初この碑は、天守台の中央横に建っていましたが、平成7年本丸石垣修築復元工事完成に伴い、この場所に移設しました。
(現地説明板参照)
皇太后陛下行啓記念碑と明治天皇行孝所二本松製紙會社阯。
三の丸。
明治天皇駐蹕碑
明治9(1876)年、明治天皇が東北巡幸に際して二本松製糸会社を訪れたことを記念する碑。
昭和13年(1938年)、市町村制施行50周年の節目に建立されました。
明治天皇は工場内や城址を見学し、会社に25円、工女に50円を下賜したといいます。
二本松城跡箕輪門のアカマツ
箕輪門北側の石垣上に植えられているアカマツの古木群で、4本は三ノ丸への石段の南東に段状に一列に並び1本は石段の裾右側の石垣上に立っている。
目通り幹囲が2~2.5m、樹高9~12mあり、樹冠が傘状をしているのが多く長い枝を石垣下に垂れている。
これらの松は、土塀に代えて石垣上に植えられたものと思われ、明暦3年(1657年)に箕輪門周辺石垣の破損を修理した記録などから推察すると樹齢は350年を越える。保存状況が良好で樹勢は旺盛である。
個々の木が美しい樹形を持つとともに全体が周囲の石垣や石段とよく調和し、見事な景観を呈しており、二本松城跡石垣の松の大木として高い価値がある。
白虎隊より本当によく働いたのは二本松少年隊だった。
正式に編成され名が付けられた会津藩の少年16、17歳からなる「白虎隊」とは違って、二本松藩の場合は西軍(討幕軍)が二本松城下に切迫する直前に、出陣を志願した12歳から17歳までの少年たちが緊急に各部隊へ配属されたため、正式な名称はありませんでした。
同盟軍が二本松城の南大壇口に急いで防禦線を張ったとき、この主力の一部は数 え年で十二歳から十七歳までの少年兵であった。
彼ら総勢六十数名は二十歳の隊長 木村銃太郎に引率されて深い霧の中で陣を敷いた。
やがて夜明けの霧が晴れようとしたころ、正面の敵の猛攻撃が始まった。
砲弾は 目の前の松林で凄まじい勢いで破裂し、銃弾は無数に飛んでくる。
少年らも負けず に重い百匁銃で応戦したが仲間はばたばたと倒されていった。
乱戦のさなか一弾が 隊長木村銃太郎の二の腕を貫き、つづく一弾が腰に命中した。
木村はドーッと倒れ た。
「この傷では城まで行けない。早く己の首をとれ!」と叫んだ。
少年たちは泣 きながら隊長の首を斬り、あまり重いので二人がかりで髪を掴んで退却した。
背後の城中からは火の手があがり、味方はいつの間にか戦場から姿を失い、少年隊も二十二名の戦死者を出した。
会津藩兵も、桜井弥右衛門率いる朱雀二番隊足軽 組が日光口より駆けつけ、井深守之進率いる猪苗代隊とともに正法寺・大壇の街道 筋に奮戦したが、小隊頭小笠原主膳をはじめ、約三十名が戦死、負傷者多数をだし て敗退した。
その頃、城主丹羽長国は重臣たちの諌めで一方を切り開いて米沢へ落ち、夫人は 会津へ逃れた。
戦火が二本松の城下を包むころ、後に残った家老丹羽一学をはじめ とする重臣内藤四郎兵衛・服部久左衛門・丹羽和左衛門・阿部井又之丞・千賀孫右 衛門ら七名は本丸に火を放ち、従容として国難に殉じた。
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二本松城へのアクセス、行き方歩き方
住所:福島県二本松市郭内3丁目、4丁目
電話:0243-23-1111(二本松市役所観光課)
JR東北本線 二本松駅 徒歩20分