春日山城(かすがやまじょう)は、新潟県上越市にあった中世の山城。
主に長尾氏の居城で、戦国武将上杉謙信の城として知られる。
春日山城跡ものがたり館では、上杉謙信公や、当時の春日山城の様子などを大型画面のビデオで紹介しているほか、川中島合戦図屏風などを展示しています。
ここで情報を仕入れて山に入ります。
雪を頂いた火打山、焼山が見えています。
春日山城史跡広場では、調査によって確認できた土塁や堀、道堀立柱建物などが復元され、中世の春日山城を体感できます。
林泉寺(りんせんじ)は、越後国守護代・長尾氏およびその後裔である上杉氏の菩提寺として知られる曹洞宗の寺院である。
山号は春日山(かすがさん)。
謙信公の祖父である長尾能景が、父・重景の菩提を弔うため明応6年(1497年)に建立した寺院。
ここで謙信公は名僧・天室光育(てんしつこういく)の厳しい教えのもと、7~14歳までを過ごしました。
戦国の武将の中でも教養が高く、信仰心が厚い謙信公の素養はこの時期に培われたといわれています。
林泉寺の惣門は、春日山城の搦手門を移築したものであると言われているが、確証はない。
しかし、最低でも慶長まではさかのぼるものであるとも言われ、春日山城で最も古い建築物であると思われる。
謙信公建立の山門は江戸末期に地震によって焼失、大正14(1925)年謙信公生誕400年を記念して再建された。
仁王像は台座の高さも合わせると4m近くに及ぶ。
山門に掲げられた「第一義」の扁額(宝物館で保管され、現在掲げられているものは複製)は謙信の直筆である。
龍の図、作者不明。
林泉寺本堂。
本堂に安置される謙信公木造。
謙信公墓所へ向かう。
謙信公墓所。
川中島合戦戦士供養塔。
きれいな杉並木を春日山城へ向かう。
先ずは春日山神社への急な階段を上る。
春日山神社は山形県米沢市の上杉神社より分霊された上杉謙信命を祀る。
突然謙信公が出現!!
「よう参られた」「気を付けて参られよ」と激励。
登山道は整備されており、歩きやすい。
千貫門跡を左下に見てさらに上る。
空堀が続く虎口付近、登りはかなりきつい。
直江屋敷への緩やかな上り。
直江屋敷を見てさらに上を目指す。
毘沙門堂下の急登、本丸まであとわずか。
毘沙門堂(復元)
この毘沙門堂は昭和6年に復元されたものなので、大きさ形などが謙信がこもったと言われる毘沙門堂とどの程度似ているのかは不明。
戦の前にこもったと言われる毘沙門堂としてはちょっと小さいように思う。
お花畑石碑と説明板
この先は謙信公が出陣の前に護摩を焚いたという護摩堂跡です。
やっと本丸到着です。
春日山城は上越市中部にある春日山山頂に築かれ、天然の要害を持つ難攻不落の城とされ、為景、晴景、上杉謙信(長尾景虎)、上杉景勝の四代の居城となった。
しかし、上杉景勝が会津へ移った後に越後を支配した堀氏は、政治を取り仕切るに不便として、1607年(慶長12年)に直江津港近くに福島城を築城して移り、春日山城はその役目を終えた。
向かいに天守台。
前方に直江津の街を望む。
ここからも火打山、焼山の眺めがよい。
本丸を裏側に見ると、「大井戸」があります。
かなりの大きな井戸で、この郭は「井戸曲輪」と呼ばれています。
現在でもなみなみと水があるようですが、暗くて確認できませんでした。
この位置にこれだけの水量があると、かなり籠城に有利になります。
また、本丸側への崖がかなり急です。
あまりの急斜面で登っても滑ってしまうことから「油流し」と言われているそうです。
これからは下りです、二の丸屋敷跡は本丸から毘沙門堂を経てお花畑に到る実城と呼ばれる郭群の東裾を取り巻くように造られた郭で、実城とともに春日山城の中心地区を成しています。
本丸の直下にあって、本丸を帯状に囲っている様子は、まさに本丸の警護として造作されたことを示すものと考えられます。
古絵図には、「御二階」「台所」と記されたものもあり、現在も笹井戸といわれる井戸跡が残っていることも、当時の二の丸における生活を知る手掛かりとなっています。(案内板の記述)
三の丸屋敷跡は春日山では最も良好な状態で土塁が残る「米蔵跡」、謙信公が自らの名前を与えて住まわせた養子「三郎景虎屋敷跡」などを総称して「三の丸屋敷跡と呼ぶ。
それぞれの屋敷は段違いに造られて区分され、「景虎屋敷跡」の東端に入口が設けられ、今も道が残っている。
「米蔵跡」の名が示すように、城機能の中核施設が置かれた場所と考えられている。
三郎景虎公は謙信公の死後に起こった「御館の乱」で敗れ悲運の死を遂げた。
公を慕って屋敷跡を訪れる人も多く。
今、春日山上の中で最も注目を集めている所である。(案内板の記述)
上杉三郎景虎屋敷跡
上杉謙信の死後、跡目を争った「御館の乱」で破れた悲劇の武将三郎景虎。
小田原城主北条氏康の子で、人質として春日山城に来ました。
謙信から景虎の名を与えられたことでも、人質としては破格の待遇であったことがわかります。
また、美男として伝えられています。
跡目争いでは越後国外からの人質であったためか次第に援助の武将も離れ、最後は自害して一生を終えました。(案内板の記述)
本丸跡を背に緩やかな坂道を一気に下る。
春日山神社の入口の高台に立つ上杉謙信の銅像。
生涯不犯の上杉謙信が本当に手を出したかった女性
戦国時代の風習として、男子は14~15歳頃までには女性を経験する。
本人の意思とはかかわりなく周囲が女性を接近させたのだ。
謙信も、越後守護代の家に生まれたのだから、手ほどきくらいは受けたのではなかろうか。
少なくとも身の回りの世話をする女性は、謙信の身辺に二人存在していた。
重臣・直江実綱の娘二人で、妹の方は後に直江兼続の妻となるが、姉は、謙信の上洛中に出奔して信濃・善光寺の尼になったという。
謙信との間に確執が生まれたためと噂されるくらいだから、彼女はひょっとすると、謙信の恋人だったのかもしれない。
また、謙信に縁組を勧めようとする人物もいた。
関白・近衛前嗣が自分の妹・絶姫(たえひめ)と引き合わせて婚約を勧めたのだが、謙信は彼女の美貌に驚きながらも辞退している。
こうした女性遍歴をたどると、本当に生涯不犯を貫き続けてしまったかに見える謙信であるが、実は彼自身が心を動かされた女性もいた。
関東管領・上杉憲正を追い払って敵にまわした上州平井城主・千葉采女が、自分の娘・伊勢姫を人質として謙信のもとに送ってきたのだか、謙信は彼女の美貌に魅せられて夢中になってしまったのだ。
だが、伊勢姫は敵の娘である。
美貌の娘を人質に差し出した千葉采女の側には、伊勢姫が謙信に気に入られて側室になれば、わが身は安泰・・・・・といった計算があったのではなかろうか。
謙信の家臣たちにとっては、主君が敵国の美女に籠絡されては一大事。
家臣たちは、敵国の女に手を出さないようにと必死に謙信を戒めたようで、謙信は泣く泣くあきらめたと伝えられている。
生涯不犯といわれた謙信も、この伊勢姫だけには手を出したかったようだ。
もしも千葉采女と敵対しておらず、友好的な関係のうちに伊勢姫と出会ったのなら、謙信も彼女を側室にするか、ともすれば正室に迎えていたかもしれない。
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春日山城へのアクセス、行き方歩き方
住所:新潟県上越市中屋敷字春日山
電話:025-544-3728(春日山城跡ものがたり館)
JR北陸本線 春日山駅 徒歩1時間30分
JR北陸本線 直江津駅からバス「春日山荘前経由中央病院行き」で約20分「春日山下」下車、本丸まで徒歩約1時間