新緑の洛北 蓮華寺

京都府
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蓮華寺は京都市左京区にある天台宗の寺院。
山号は帰命山(きみょうざん)。近世初期に造営された池泉鑑賞式庭園によって知られる。

創建当時の山門が今日も残されている。
山門を入ると庫裏まで延びる石畳の参道が目に入ってくる。

参道右手にある土蔵(非公開)。
1872年(明治5年)の学制まで、男女共学の寺子屋の教場として使われていた形跡が残されている。

蓮華寺は鴨川源流のひとつの高野川のほとり、かつての鯖街道(現・国道367号線)の京都口の傍ら、上高野の地にある。

しかし、もとは七条塩小路(現在の京都駅付近)にあった西来院という時宗寺院であり[1]、応仁の乱に際して焼失したものを江戸時代初期の寛文2年(1662年)に、加賀前田藩の家臣、今枝近義が再建したもの。

書院から右手に見えるのが本堂。
本堂の正面は、書院から見て裏側にあたり、蓮華寺形灯籠として知られる2基の灯籠が佇んでいる。

上高野は、かつて近義の祖父、重直の庵があった土地であった。

重直は、美濃国出身の武士で、豊臣秀次に仕えた後、加賀前田家に招かれた。晩年に至って得度し、宗二(そうじ)居士と号して、詩書や絵画、茶道に通じた文人として草庵を結んだ。

また、仏道への帰依の念も深く、上高野の地に寺院を建立することを願っていたが、果たせずして寛永4年(1627年)に死去した。

近義が蓮華寺を造営したのは、祖父の願いに応え、菩提を弔うためと考えられている。

蓮華寺の造営にあたって、詩人・書家で詩仙堂を造営した石川丈山、朱子学者の木下順庵、狩野派画家の狩野探幽、黄檗宗の開祖である隠元隆琦や第二世の木庵性瑫らが協力した[ことが、天和元年(1681年)付の黒川道祐の「東北歴覧之記」(『近畿游覧誌稿』所収)に記されている。

また、天明6年(1786年)の「拾遺都名所図会」には境内図が描かれている。

上述のような文人たちの協力を得て造営されたことにより、蓮華寺は黄檗宗の様式の建築と江戸初期の池泉鑑賞式の典型ともいえる庭園をもつ寺院となった。

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