古民家を訪ねて 南部の曲家(旧藤原家住宅)

東北地方の農家は、広い平野にそれぞれの位置を占めた散村を形作り、敷地背面に防風林をもつ永い独立した生活を送った姿をとどめています。
移設元旧岩手県紫波郡矢巾町煙山

昭和39年(1964)に移築されたこの民家も、かつては一つ家(ひとつや)と呼ばれ、この家がぽつりと一軒建っていたという名残りを伝えています。

旧南部藩(なんぶはん)に属するこの地方は、かつての馬の産地として栄えました。

大きな厩(うまや)と母屋(おもや)をカギ型に接続させた「曲家(まがりや)」が多いのもそのことからです。

母屋は座敷・板張りの広間(ジョイ)・狭い2つのネマからなっています。
奥側が寝床。

厩(うまや)と母屋の接続部には、台所と広いニワ(土間)があります。

いろりは台所を切りこんで作られていますので、土足のまま火を囲んで家族がだんらんできるようになっています。

特に冬期は、母屋が煙出しがなく厩が入母屋(いりもや)になっているので、いろりの暖が厩を通って屋外に出るようになっています。

これらの事から、馬に対する家族の細やかな心遣いがみうけられます。

雪国らしくソリ、スキーが展示されている。

厩を外から見る。

ちょうずどこ(便所)、直径1m以上ある木桶が2、3個埋められていた。

クラブツーリズムのお勧めツアーはこちら!

鳴子で見た朝日夕日

旅行で訪れた土地の朝日夕日を時間の許す限り撮影している。
今回も鳴子に滞在した3日間の朝日夕日をお届けする。

初日の夕日は敵地を見つける時間的余裕もなく宿近くの神社の境内で撮影した。

二日目の朝日、前日ホテルのフロントで、朝日のきれいに見える場所を訊ねた。

当ホテルの女風呂の露天風呂からの朝日はいいですということであったが、まさか朝日が撮りたいので女風呂に入れろというわけにいくまい。

いつもそうであるが、結局満足のいく回答は得られず、当地の人は意外と自分たちの近くで起きていることに無頓着なのかなあ。

結局一か八かで白鳥のいる弁天淵まで行くことにした。
結果は上々、白鳥のシルエットとともに川面に映える朝日を撮ることができた。

二日目の夕日は江合川(荒雄川)で迎えた、滔々とと流れる川面に夕日の残照がとてもきれいだった。

同じく二日目の夕日、駅を見下ろす小高い丘から踏切、江合川(荒雄川)の向こうに沈む夕日を捉えた。

三日目の朝は江合川(荒雄川)を渡り川向うを流れに沿って下ることにした。
前方の空が白んでくる。

ブルーモーメントの時間帯だ、周りの景色が青味がかって幻想的。

上空まで赤く焼け、池への映り込みがきれいだ。

日の出です、瓦を照らして陽が登っていきます。

堤防を散歩中の犬を連れた人と会った、この朝あったただ一人の人だった。

再び川を渡り、ホテルへ向かう途中、前方に虹がかかる、直後、パラパと雨だ。
雨具の用意などない、仕方なく濡れるに任せたが、ほどなく止んだ。

ただ今6時、通りを歩く人は誰もいない、今日、虹を見たのは俺だけだったのかなと思ってしまう。
のどかないい旅だった。

クラブツーリズムのお勧めツアーはこちら!

湯のまちカランコロン散策

826年に起きた鳥屋ヶ森山の噴火で、現在の温泉神社より温泉が湧出し始めたのが鳴子温泉の始まりだとか。

源義経と郷御前の子供の産湯に使われたことから「啼き子(なきこ)」と呼ばれ、それが転じて「鳴子」となったという伝承がある。

2007年、「旅の手帖」(交通新聞社)による「青春18きっぷで行く温泉番付」で「東の横綱」に認定された。

鳴子温泉駅の駅舎内にある待合室が面白い形をしています。
すり鉢状で真ん中の一番下のところにストーブがあります。

鳴子温泉駅の待合室には鳴子温泉旅館組合の女将さんたちとボランティアさんたち手作りによる暖かい座布団が置いてあります。

陸羽東線と言えば奥の細道湯けむりラインの愛称を持つ路線、沿線には数多くの温泉街がひしめいている路線なんですけど、その核になるのがこちら、鳴子温泉郷の玄関口の鳴子温泉駅。

かわいい電車がカタコと走ります。

駅を出たところにある「ぽっぼの足湯」駅員さんに頼めば途中下車で足湯を楽しめるとか・・・・?!!

街を歩けば下駄も鳴子・・・・・・
今日から御世話になる四季の宿 ますや

ますやの玄関ホール、こけしの切り抜きの向こうにはレトロな電話、生粋な演出だね。

下駄履きで温泉街を歩いて巡る「下駄も鳴子」というキャッチフレーズを打ち出しており、各旅館には宿泊客への貸し出し用の下駄が備えられている。

鳴子温泉駅の観光案内所でも町歩き用の下駄を貸し出している。

春本番の温かい陽気に誘われ早速街歩きに出かける。

滝の湯は温泉神社のお湯を使っており鳴子温泉で最も古い歴史を持つ。
滝の湯保存会がこの浴場を管理している。

古くは隣に位置し、仙台藩に湯守を命じられたゆさや旅館が管理をしていた。

なお、ゆさや旅館はアルカリ性の強い「うなぎ湯」で知られ、源泉は酸性泉である滝の湯のそのすぐ側にある。
酸性度、アルカリ性度が強い源泉が近接して湧出している。

鳴子温泉神社にある「啼子(なきこ)之碑」には「義経が奥州へ落ちる途で北の方(正室)が出産した赤ちゃんが、この地の温泉に浸かったところ、初めて元気な泣き声をあげたので『啼子』と呼ばれるようになった」と鳴子の地名の由来が伝えられている。

「ご利益足湯」と名付けられた小さな足湯、街を歩けば大小さまざまな足湯にであえる。

竹下夢二ばりの美人画が、思わず入ってみたくなる雰囲気。

下地獄温泉の足湯。

源泉はすぐ近くにあり、

湯を適温に覚ますため、わざわざ、樋で引かれている。

早稲田桟敷湯は昭和23年に、早稲田大学理工学部土木工学科の7人の学生がボーリングの実習で源泉を掘り当てた。

それを利用して造られた共同浴場である。
平成8年に改築された。早稲田大学理工学部建築学科の教授石山修武によってデザインされた、共同浴場としては極めて前衛的な内外観が特徴。

早稲田桟敷湯への配管。

「下駄も鳴子」というキャッチフレーズ、街中いたるところで下駄をモチーフにした看板が目立つ。

湯めぐり広場にある手湯、足湯に比べ手軽に利用できるのがいい。

散策中に見かけた古い看板類を展示した町屋、見ていると御主人が出てきて色々と説明してくれた。
伊達藩の士族とか。

義経ゆかりの湯と言われる姥の湯由来。

文治元年源義経が奥州に難を避けた時北の方(卿御前)が亀割峠(現最上町)にて男子亀若君を出産し此の地に来て川原に涌出ずる温泉で産湯を使いその時はじめて子声をあげたのでここを啼子の里と名付後に鳴子と云う地名に改めたと云われている。

その折当館の温泉で産湯を使った事から古来より姥の湯と云う名で鳴子温泉では滝の湯と共に最も古い温泉である。

鳴子が湯治客で賑わうようになったのは、江戸時代の後半から。温泉の湯量も泉質も豊富で、日本国内にある泉質11種類のうち8種類までもある。
源泉は400近くあるといわれている。

主な成分は、ナトリウム、炭酸水素塩、塩化物、硫酸塩水、弱アルカリ性高泉(重曹泉)で、効能は一般的禁忌症以外ほとんどにあると、町の人は自慢する。

千年以上の歴史を誇る「滝の湯」や早稲田桟敷湯」など、温泉街に3箇所の共同浴場があり、浴場を巡りながら、じっくり「湯くらべ」を楽しめるのも鳴子温泉郷の魅力の一つ。

特産のあけび蔓細工、文字通り、あけびの蔓を編んで作るカゴが有名。
手作りにしか出せないあじと温かみは、手に取った瞬間伝わってきます。

クラブツーリズムのお勧めツアーはこちら!

鳴子温泉へのアクセス、行き方歩き方

鉄道:JR陸羽東線・鳴子温泉駅すぐ。
高速バス:仙台駅前からミヤコーバス・仙台 – 鳴子線で終点・車湯下車。

支払いは「生ゴミ」で–鳴子温泉でエコでお得なカフェを発見!!

鳴子温泉の湯めぐり駐車場内に温泉熱と食品廃棄物由来のメタンガスでホットドリンクを提供する「エネカフェ・メタン」があることをタクシーの運転手さんに教えてもらい早速連れて行ってもらった。。

熱源は下地地獄、生ゴミを温泉の熱と微生物の働きで発酵させ、メタンガスと液体肥料を作り出しているのだ。

メタン発生装置、高い塔の中にゴミの投入口がある。
階段を上がりタンクの蓋をあけてごみを投入するだけ。

発酵槽。

ガスバルーン・貯留槽。

カフェの隣りにあるメタン発酵装置に食品廃棄物(生ゴミ等)120gを投入すると発生したメタンガスでカップ1杯分のお湯を沸かせる仕組みです。
メニューは、温泉熱で乾燥させた「エノキ茶」がオススメです。

福島の原発事故以来、再生可能なエネルギーの使用に関して今まで以上に注目が集まってきている。

太陽光発電や風力発電、波力発電など、自然の力を利用してエネルギーを得る方法が真っ先に脚光を浴びたが、今回の「エネカフェ・メタン」のようにバイオマスエネルギーを活用するという方法もある。

自然エネルギーの活用と比較すると、廃棄物を利用するという点で「循環型のエネルギー活用」ということが言える。

家庭から生ゴミをそのまま捨てるのではなく循環させるという発想は、エコ活動にもつながるという大きな利点があるのではないだろうか。

「生ゴミを持って行くとお茶が無料で飲める」という付加価値をつけることで、手間がかかることを楽しさに変えるという仕組みや工夫が必要となっているような気がする。

そういった施設が増えてくると、循環型の社会が徐々に浸透して行くのではないかと感じた。

「エネカフェ・メタン」の詳細はこちらをご覧ください

メタンガスバーナー。

初回は会員登録だけでコーヒーがいただけるのだ。

今お湯を沸かしているところです、なんと、バーナーの向こうの素敵な女性、東北大学 農学研究科 准教授 多田千佳さんと知りびっくり。
普段は学生がサービスをしているそうだが今は春休み、代わりに教授の出番となったとのこと。

教授の点てたコーヒーの味は格別でした。

その場でエコバッグを頂きホテルへ持って帰り、夕食の食べ残し、残飯を入れ翌朝装置に投げ込んできました。

このような循環型の社会が理想だね、いい勉強をさせてもらった。

クラブツーリズムのお勧めツアーはこちら!

鳴子温泉へのアクセス、行き方歩き方

鉄道:JR陸羽東線・鳴子温泉駅すぐ。
高速バス:仙台駅前からミヤコーバス・仙台 – 鳴子線で終点・車湯下車。

紅葉の名所鳴子峡

国道47号に平行して走るV字型峡谷は、大谷川の侵蝕により成立した峡谷で、高さ約100mの断崖絶壁が2.5kmに渡って続く。

奇岩と松の緑が点在する中に織りなす紅葉美は数ある名所の中でも第一級といわれるほど。

しかし、今はシーズンオフ、雪が深くここ大深沢橋の上から眺めるだけ。

津波被害のことが頭の中を占めていましたが、こんな内陸の観光地にも大震災の影響が出ていたのかと改めて驚かされました。

現在鳴子峡は崖崩れの影響で歩行が制限されています、震災復興が優先で中々ここまで手が回らないようです。
一日も早い復旧を願うのみ。

北上川水系の荒雄川(江合川)の支流、大谷川が形成したもので、一帯には白色凝灰岩が露出する。

一帯には奇岩が卓越し、虫喰岩、夫婦岩、弁慶岩、屏風岩などの岩が見られる。
また一面に落葉広葉樹林が繁茂し、アカシデ、ミズナラ、カエデなどが見られる。

前方に鉄橋が見えています。

ズームアップして見ます、紅葉シーズンには列車が一時停止するサービスがあるそうです。

鉄道マニアにはたまらない風景ですが、列車本数が少なく忍耐力がいりそうです。

工事の人達はこのロープを伝って上がり降りするという。

紅葉期の画像をウィキペディアより拝借。

途中に尿前の関(しとまえのせき)という難読の地名がある。

義経一行が平泉に向かう途中、岩手の森で北の方が腹痛を訴えた。
産後の旅疲れからと大欅(けやき)の根元でしばらく休んでいたが、一向に回復せず困っていたところ、山鳩がイカリ草をくわえて舞い降り、北の方の口に含ませた。

すると途端に痛みが治まり、北の方が臥していた跡に、見たことのない薬師如来像が置かれていた。

義経はこれを見て、飛び去った山鳩が薬師如来だったのではと思い、弁慶に命じて岩手の森に薬師堂を建てたという。

「尿前」の地名については、このとき北の方が苦しみの余り尿をもらしたことを起源とする口碑がある。

また、芭蕉一行が尿前の関を通過するのに難儀をした話が伝わる。

・・なるごの湯より、尿前の関にかかりて、出羽の国に、越えむとする。この道、旅人稀(まれ)なる処なれば、関守(せきもり)にあやしめられて、漸(ようよう)にして関をこす。

尿前の関では、番所の役人の取り調べは厳しく、芭蕉と曽良は難渋させられたようです。
 
やっと関を通過した二人は、この先難所つづきの「中山越」へと歩みを進めます。

クラブツーリズムのお勧めツアーはこちら!

鳴子温泉へのアクセス、行き方歩き方

鉄道:JR陸羽東線・鳴子温泉駅すぐ。
高速バス:仙台駅前からミヤコーバス・仙台 – 鳴子線で終点・車湯下車。

エメラルド色に輝く潟沼(かたぬま)

潟沼(かたぬま)、エメラルド色に輝く湖水は、世界でもトップクラスの酸性度を持つ。晴れた日には、水面の色が変化すると言われる、俯瞰で見られたらもっとキレイだろうと思うんだけど。

しかし、現在は雪に覆われていてシーズンオフです。

シーズンになると一周約30分、湖水の変化を楽しみながら周囲を散策したり、ボート遊びに興じることもできるのだが。

湖にはレストハウスもあり湖を眺めながら簡単な食事が楽しめる。

湖水は世界的に見てもかなりの強酸性であり、水素イオン濃度(pH)は2.4にも達する。
pHはかつては1.4であったが徐々に上昇している。

湖には生物は生息できないが沖を見るとカモが泳いでいるではないか、どうもないのかなあ。

周囲を胡桃ヶ岳、尾ヶ岳、松ヶ岳、鳥谷ヶ岳に囲まれた東西約500メートル、南北約400メートルのやや潰れた円形をなす。

湖はこれら鳴子火山群の火口湖と考えられていると同時に、火山活動により流出した溶岩による堰止湖とも言われている。

湖底からは絶えず熱泉ガスや水蒸気が発生しているため、東北地方の山間部にありながら冬季になっても一部は凍ることがない。

また,湖底からの熱源のため成層が弱く、夏期に突発的に全層循環があると、湖底からの硫化水素と上層の酸素の反応によってできた粒状硫黄により湖面が一面白濁する。

晴れた日には、水面の色が変化すると言われ、朝は青・昼は濃緑色・夕にかけてはエメラルドグリーンへと水の色が変化し、それぞれの趣を楽しむことができる。

紅葉の時期には山の紅と水の緑のコントラストが見事。

下り坂の途中の大きな橋、水道橋から雄大な景色が広がる。

覗き穴からチラリと鳴子の街を。

水道橋からの景色、鳴子の街を俯瞰する。

上野々スキー場は鳴子温泉郷の裏山に位置し、宮城県のスキー発祥の地と言われる。
シーズンを通して気象が穏やかで、雪質も良い。

全体的に緩やかな斜面で、特に、最大でも10度という超なだらかな初心者コースは、ビギナーやファミリーに最適だ。

鳴子温泉郷より徒歩でアクセスできるのも魅力のひとつ。

と、いったところだが、スキーヤーの減少で経営は苦しいらしい。

クラブツーリズムのお勧めツアーはこちら!

鳴子温泉へのアクセス、行き方歩き方

鉄道:JR陸羽東線・鳴子温泉駅すぐ。
高速バス:仙台駅前からミヤコーバス・仙台 – 鳴子線で終点・車湯下車。

こけしのまち鳴子は木地師のまち

江戸末期文化文政(1800年代前半)の頃、木地師達が温泉みやげとして作った鳴子こけしは、今も昔ながらの技法で工人が一つ一つ手作りで作っています。

岩下こけし資料館には豊臣秀吉の免許状 ・織田信長の免許状 ・木地師免許書などが展示される。

秀吉の免許状は、秀吉の五奉行増右ェ門長盛の発行した御免状。
天正15年11月15日ロクロ師を保護するためだされました秀吉の免状と言われております。

もともと木地師は良質の木材を求めて移動するため定住することはない漂泊の山の民であった。
しかし明治を迎えると国はその暮らし方を認めず、木地師たちは放浪をやめて定住するようになった。

奥羽山脈にいた木地師たちも、やがてこけし職人として山麓の集落に居を定めたのだろう。

漆器は江戸時代寛永の頃(1624年~1643年)に創始されたと伝えられている。

安永2年(1773年)「鳴子風土記書出」に塗物、はし、楊枝等が記載されており、鳴子温泉地域の主要産物として、また、文化2年(1805年)「漆出来記」に漆採取の記録も残っています。

鳴子漆器の特徴は、挽物木地の塗立て技術にある。
塗りは木目を生かした木地呂塗りやふき漆仕上げ、また、独特の墨流しの技法の竜文塗があり、しっとりとした美しさがあります。

鳴子の「こけし通り」

伝説には、木地師の祖は惟喬親王に遡る。
文徳天皇の皇子である惟喬親王が近江国小椋谷(おぐらだに)に隠棲していた際に、その木工技術を伝授したのが創始という。

これが史実かは別として、木地師と呼ばれる職人集団がこの伝説を携えて各地を渡り歩いていたことは事実であり、近江にいた木地師たちは、その後北陸から、四国、九州、そして関東、東北に広がったとされる。

綱引きロクロ(二人引きロクロ)
文化文政(1800年頃)~明治中期(1890年頃)

綱の引き手とロクロの挽き手との呼吸がぴったり合う事が重要で、この綱をとるのには主に、木地屋の妻や弟子達の大切な役目となっていました。

木地師達は、お盆やお椀などを作る一方で、男の子には「独楽(こま)」を、女の子には「きぼこ(こけし)」などの木地玩具を作ってあげました。その後、それらは子供の玩具から大人のコレクションへと変化していったのです。

宮城県内には、「鳴子こけし」「作並こけし」「遠刈田こけし」「弥治郎こけし」「肘折こけし」の5つの伝統こけしがあり、系統作者により形・描彩にちがう特徴があります。

小さなこけしの頭が卵の容器に入れられていた、なかなかのアイデア。

「湯めぐり回廊」の前ではこけしが車道と歩道を分けるポールの役目を果たしている。

屋根にこけしを乗せたユニークな公衆電話。

こけしのできるまで
(1)原木の乾燥(木の皮をむいて 6ケ月~1年間自然乾燥させる)
(2)玉切り(寸法に合わせて原木を切る)
(3)木取り(木の余分な部分を切り取る)
(4)荒挽き、頭挽き、胴挽き(ろくろを回転させて頭の部分、胴の部分を鉋で削る)
(5)磨き(サンドペーパー、とくさなどで磨く)
(6)さし込み、はめ込み(胴や頭をたたき込む)
(7)描彩(顔や胴の絵柄を描く)
(8)仕上げ(仕上げにロウをひく)

岩下こけし資料館前の特大こけし。

こけしのポスト。

JR鳴子温泉駅には電車の車掌のこけしが。

こけしの提灯です。
灯されたところが見たかった。

橋の欄干もこけし。

自動販売機もこけし。

泊ったホテルのキーホルダもこけしでした。

そして最後はマンホールの蓋。
何から何までこけしのまちでした。

伝統をまちぐるみで守ろうとする意気込みを感じた。

クラブツーリズムのお勧めツアーはこちら!

鳴子温泉へのアクセス、行き方歩き方

鉄道:JR陸羽東線・鳴子温泉駅すぐ。
高速バス:仙台駅前からミヤコーバス・仙台 – 鳴子線で終点・車湯下車。

北帰行直前の白鳥 鳴子温泉

江合川(荒雄川)に白鳥がいるというので出かけてみることに、折角だから日の出とからめてと欲を出した。

宿を5時過ぎに出発、目的地までは徒歩20分と聞いた。
辺りはまだ暗い、後ろの目立つ山は何という山だろう、ホテルへ帰って聞いたら「ミミズク山」だと教えられた。

徒歩20分と聞いただけで出かけるのだから気ままなものだ、そうだ俺はきままな旅人だったんだ。

いました、首がひょっこり見えている、驚かしては元も子もないのでそろそろと歩を詰めていく。

日の出に照らされる白鳥、いい雰囲気だねえ。

一羽の白鳥が羽ばたいてくれた、素晴らしいシャッターチャンス、しかし眼の前のブッシュが無粋だね。

そこへ餌を持ったおじさんが現れた。
ずっとここで餌付けしているという、もう北帰行が始まっていて昨日は12羽いたが今日は8羽だという。

ここには4月の初旬までいるという、それから北海道を足場にシベリアに向かう。

鳥インフルエンザの前までは100羽ほどいたそうだがその後数が減っているという。
色の黒っぽいのが子供だ、来年も子供を伴ってくるそうだ、かわいいね。

おじさんは周りの畑にも餌をまいていた。

ふと横を見ると川面から湯気が、川霧だ、幻想的な風景にしばし見とれる。

近づいたとたんに数羽のカモが飛び立った、いいシャッターチャンスだったのに、カメラマンとしてはまだ未熟だなあ。

昼食後気になってもう一度出かけてみた。
川から上がって日向ぼっこの最中だった。

丘にいるときは近づくと逃げる、やはり水の中は安全だとよく知っているんだ。
クラブツーリズムのお勧めツアーはこちら!

鳴子温泉へのアクセス、行き方歩き方

鉄道:JR陸羽東線・鳴子温泉駅すぐ。
高速バス:仙台駅前からミヤコーバス・仙台 – 鳴子線で終点・車湯下車。

春待つ仙台へ

鳴子温泉を訪れるべく機上の人となる、寒さを心配していたが幸い突然の陽気で東北も最高気温18℃という温かさ、快適な旅となりそうだ。

快晴の天気、富士もきれいに見えました、手前の山は秩父あたりの山々かな。

仙台は1年半振りの訪問だが、空港近くの農地は当時とあまり変わっていないように感じられた。
そろそろ作付けできるのかなあ、この風景を見るたびに胸が痛む。

名取川を渡る、津波は6㌔以上川上まで遡上したという。

持ち主が不明で手を付けられない家屋がたくさんあると聞く、この家もそうなのかなあ。

堤防機能を付加したかさ上げ道路の建設が始まっている。

閖上(ゆりあげ・名取市)地区を行くと、このような津波到達高さを表示した家屋が目立つ。
歩道橋に逃げてひざ上までつかりながら助かったとか、当時の様子が生々しく語られる。

一日も早い復興を願う。

クラブツーリズムのお勧めツアーはこちら!

上杉鷹山のすごさを感じる 米沢城址

米沢城は、伊達氏、上杉氏の居城で、松岬城、舞鶴城とも呼ばれた。

米沢城の起源は、暦仁元年(1238)に地頭長井時広が築城したと伝えられるが、判然としない。

城は米沢市街地のほぼ中心に位置する。
戦国時代後期には伊達氏の本拠地が置かれ、伊達政宗の出生した城でもある。

江戸時代には米沢藩の藩庁が置かれて上杉景勝・上杉鷹山などの歴代藩主が居住した。

輪郭式に本丸から外側へ二ノ丸、三ノ丸を構え、10基の櫓と17棟の門が開かれた。
上杉氏築城当時30万石の大名の居城であって、石垣や天守は構えられず、土塁を築き本丸に2基の三階櫓を建てて天守の代用としていた。

米沢城本丸跡の南東部。
高台になっているのが分かります。

舞鶴橋 【国登録有形文化財】
1886(明治19)年築。米沢城本丸跡の堀に架かる石造橋で,上杉神社への参道となっています。

本丸南東隅の高台への階段。

招魂碑が建てられたのは明治11年4月、戊辰戦争および西南戦争(明治10年)で戦死した郷土の人を慰霊するためのものでした。

上杉謙信祠堂跡
越後の虎、軍神と称された戦国大名・上杉謙信は天正6年(1578)に越後春日山城で亡くなります。

その遺骸は甲冑を着せカメに収め、漆で密封して葬られたそうです。

謙信の後継者・上杉景勝が米沢へ移封となると、謙信の遺骸は米沢城内の高台に移され御堂を建てて安置されます。

歴代藩主の位牌も祀られる等、この場所は江戸時代には最も神聖な場所として祀られています。

謙信は米沢藩主ではありませんでしたが藩祖として崇敬の念を集めたそうです。

しかし、明治4年に廃藩となると米沢城は廃城となり、謙信公の遺骸は歴代藩主の眠る上杉家墓所に改葬されます。

米沢城跡には現地に残る謙信の魂を祀るために上杉神社が建立され、祠堂跡には碑が建てられました。

上杉神社。
米沢城(よねざわ)の本丸跡。

振返れば後方の山並みは雪をかぶりまだ春遠しと言ったところ。

明治7年(1874年)には城跡は松が岬公園として市民に一般開放された。
明治9年(1876年)、謙信霊柩は上杉家廟所へ、上杉神社を現在の地である本丸跡に移した。

上杉鷹山公。

米沢はキリシタン大名 蒲生氏郷が支配奥州仕置後に蒲生氏郷(がもう うじさと)が60万5千石を与えられると、米沢は支城として蒲生郷安が入居し松ヶ岬城と命名。

氏郷が亡くなると秀行が13歳で家督を相続するが慶長2年(1597年)に内紛が起き、秀吉に統制能力がないと見なされ宇都宮18万石に減封。

蒲生氏の米沢支配は7、8年で終わった。

会津120万石から米沢30万石へ

上杉家は慶長5年(1600年)に起こった関ヶ原の合戦で西軍側につき戦ったため、慶長6年(1601年)7月26日に上杉景勝は大阪城で徳川家康に背いたので120万石から30万石へ削封されてしまった。

貴重な金の調達場の佐渡の金山も失い禄を3分の1に減らされ、越後時代から居た家臣や社員・およそ6千余りがそのまま景勝に従い米沢へ移ったため、財政が困難になり大変苦しい時代を迎えた。

上杉家存続の危機と15万石の削封

さらに上杉家3代・綱勝(つなかつ)には、子も養子もいない状況で腹痛で急死したため、跡継ぎがいない上杉家は幕府により改易されるのが当時のルールだったが、上杉家存続のため会津藩主・保科正之(ほしな まさゆき)の尽力により綱勝の妹・参姫と吉良義央との間に生まれた子の綱憲(つなのり)を、上杉家の養子にすることにより上杉家の存続を認められた。

しかし領地の15万石を取り上げられてしまいさらに苦しくなった。
吉良義央(きら よしなか)とは『忠臣蔵』で有名な吉良上野介(きら こうずけのすけ)のこと。

『なぜば成る なさねば成らぬ 何事も』
上杉鷹山公は借金返済のため、自らの給料を削減し、当時の下級武士以下の生活だと言われている『一汁一菜』の食事をし木綿の服を着て、自ら藩の手本となって大倹約を行った。

伊達家17代・伊達政宗の誕生の地。
今では米沢城は、上杉の城下町であるが伊達家8代・宗遠から17代・政宗までの212年間は伊達家が米沢を支配していた。

伊達政宗・幼名・梵天丸(ぼんてんまる)は永禄10年(1567年)8月3日に父・輝宗の嫡男として米沢城に生まれた。

政宗は会津の葦名氏等を破り、戦国大名として飛躍するが、天正19年(1591)に豊臣秀吉に命により、岩出山城(宮城県)に移され、青春期を過ごした米沢を去った。

母は最上義光の妹の義姫(よしひめ)。

上杉鷹山は1751年に日向高鍋藩主である秋月種美の次男として生まれます。

高鍋藩秋月家は学問を尊重する家風で鷹山も幼き頃より優れた教育環境の中で育ちました。

そして鷹山が14歳の時に生涯の師と仰ぐ細井平洲(ほそいへいしゅう)と出会います。
細井平洲は高名な儒学者で、数ある儒学の良い点を取り入れた折衷学の学者でした。

鷹山は平洲より君主の何たるかを学び、国家の繁栄のための基礎を身につけます。

そして鷹山が17歳の時に米沢藩上杉家の第九代藩主として家督を継ぎました。
鷹山は、その時の決意を和歌にして残しています。

『受けけつぎて国のつかさの身となれば忘るまじきは民の父母』

民主主義という言葉が無かった時代にわずか17歳の若き君主が、為政者はその土地に暮らす人々の事を第一に考えないといけないと誓ったのです。

上杉謙信公の家訓16か条。

 ・心に物なき時は心広く体泰(からだやすらか)なり
 ・心に我儘なき時は愛敬失わず
 ・心に欲なき時は義理を行う
 ・心に私なき時は疑うことなし
 ・心に驕り(おごり)なき時は人を教う
 ・心に誤りなき時は人を畏(おそ)れず
 ・心に邪見なき時は人を育つる
 ・心に貧りなき時は人に諂(へつら)うことなし
 ・心に怒りなき時は言葉和かなり
 ・心に堪忍ある時は事を調(ととの)う
 ・心に曇りなき時は心静かなり
 ・心に勇ある時は悔やむことなし
 ・心賎(いや)しからざる時は願好まず
 ・心に孝行ある時は忠節厚し
 ・心に自慢なき時は人の善を知り
 ・心に迷いなき時は人を咎(とが)めず

春日四柱大神を祭神とする春日神社は、上杉謙信公が奈良の春日大社から分霊し創建した社です。

越後春日山城から会津、米沢と上杉家とともに移され現在に至っています。
米沢では春日山林泉寺の境内や城下を何度も移動し、更には大正8年(1919年)の米沢大火で焼失するなど数奇な運命を辿って来ています。

昭和56年(1981年)に現在の社が建立されましたが、それまでは松岬(まつがさき)神社に合祀されていました。

本丸菱門橋、本丸の南側入口である。

上杉謙信公座像。

本丸御三階櫓跡
本丸北東隅には御三階櫓と呼ばれた三層櫓が設けられ、天守の代わりになっていた。
現在は顕彰碑が建っている。

二ノ丸跡 松岬神社
かつての二ノ丸世子御殿跡に建てられ、上杉景勝・直江兼継・竹俣当綱・莅戸善政・上杉治憲(鷹山公)・鷹山公の師、細井平洲の6人が祀られている。

旧上杉伯爵邸(上杉記念館) 【国登録有形文化財】
米沢城二の丸跡に、1896(明治29)年に上杉茂憲伯爵の邸宅として、米沢出身の建築家、中條精一郎(作家の宮本百合子の父)の設計で建てられたのが始まりで、現在の建物は1919(大正8)年の米沢大火で焼失したために、再び中條精一郎の設計により1925(大正14)年築に建てられたものです。

旧上杉伯爵邸(上杉記念館) 【国登録有形文化財】
戦前は皇族の御宿所としても使われた立派な建築。

戦後は進駐軍の将校クラブとして接収されましたが、返還後は1949(昭和24)年に上杉家から米沢氏へ寄贈。

中央公民館として使われた後、1979(昭和54)年から上杉記念館として使用され、米沢の郷土料理などを味わうことができます。

当日の昼は上杉伯爵邸で献膳料理をいただきました。

献膳料理とは、お殿様に食べていただくにふさわしい料理という意味を込めて命名いたした、伝統の郷土料理のことです。

うるいの冷汁        米沢鯉のことこと煮
筍と米沢牛の煮物    丘ひじきの辛子醤油
くきたち干しの煮物    くるみ寒天
塩引寿司          六浄豆腐の味噌汁
うこぎのご飯        おみ漬け

庭には雪が残りまだ春が遠いことをうかがわせる。
今朝、郡山で見た、あの満開の桜はなんだったのだ。

表門前から見た庭園への門。

旧上杉伯爵邸(上杉記念館) 【国登録有形文化財】
庭園は東京の浜離宮に依って造られたもの。
建物との組み合わせも、また格別です。

正門は大型の一間薬医門で,左右に袖塀が付くのが特徴。
大正時代に建てられたものとは言え、武家屋敷らしい雰囲気です。

米沢市上杉博物館(米沢市)

平成13年、米沢城二の丸跡地にできた「伝国の社」内に開館した博物館です。
国宝「上杉本洛中洛外図屏風」と国宝「上杉家文書」を中心に、数千に及ぶ上杉家ゆかりの品々が収蔵されています。

米沢牛の恩人 チャールズ・ヘンリー・ダラス

明治初期に、米沢藩校「興譲館」に赴任した英国人チャールズ・ヘンリー・ダラス(おかかえのコックは万吉)が、任期中に食べた米沢牛の美味しさに感動し、任期を終えて横浜に戻る際に一頭持ち帰り、知人に振舞ったことをきっかけとして、その美味しさはたちまち人々に伝わり「米沢牛」が世に知られるようになりました。

山形県南部の置賜地方の3市5町で、30ヶ月以上飼育され、肉質が5等級または4等級の牛が「米沢牛」として認められます。

米沢市内に現在も残るウコギ垣

兼続は、米沢藩の収入を増やすため殖産興業にも力を入れました。
青苧、紅花、漆などの換金作物の栽培、鯉の養殖、ソバやウコギの栽培などを奨励しました。

これらのものは、その後中興の祖上杉鷹山に受け継がれ、今では米沢の名産品になっています。

ウコギは、現在も米沢の郷土食として活躍しています。

クラブツーリズムのお勧めツアーはこちら!

米沢城址へのアクセス、行き方歩き方

住所:山形県米沢市丸の内1-4-13
電話:0238-22-3189

JR奥羽本線 米沢駅から、上杉神社まで徒歩約30分(約2km)