ペリー提督の上陸の地 久里浜

東印度艦隊司令長官の浦賀来航と開国要求は、実は二度目 なんです。

1846(弘化3)年・・・。
ジェームズ ・ ビッドル提督が二隻の帆船を従えて来航し、幕府との交渉を試みましたが、全く相手にしてもらえない儘退去させられています。

ペリーが最初から高圧的態度で交渉に臨んだのは、良くも悪くも、ビッドルの失敗に学んだ為とも云われています。

ペリーが上陸したといわれる久里浜は浦賀水道入口の今は静かな海浜です。

《ペリー上陸の図・嘉永6年7月14日図・ペリー上陸記念館所蔵》

ペリー公園は1853年(嘉永5年)に黒船を率いて同市の浦賀に来航したマシュー・ペリー提督の上陸の地である久里浜に整備されている。

園内にはペリー来航を記念して1901年(明治34年)7月14日に米友協会が建立したペリー上陸記念碑を中心に、ペリー記念館、児童広場がある。

上陸記念碑の碑文「北米合衆国水師提督伯理上陸紀念碑」は伊藤博文の揮毫(きごう)によるものである。

ペリー記念館は、横須賀市の市制80周年を記念して1987年に開館したペリーの足跡を記念する記念館である。

建物は2階建てで、館内は1階が受付と黒船来航当時の久里浜周辺の地形と黒船を再現したジオラマ模型の展示、2階がペリーの久里浜上陸図や当時の絵図といった資料の展示室となっている。

ペリーの上陸記念碑は国書の受け渡しから48年経った明治34年に建てられたそうです。
何も記念碑がないことに驚いた当時の乗組員ピアズリーが来日時に嘆き遺憾の意を表明したことがきっかけだったようです。

明治34年の除幕式にはペリーの孫のロジャースが来日しアメリカ側のロジャース日本側の金子堅太郎(米友協会会長・当時司法大臣)のお手植えの松が記念碑の隣に並んでいます。

1853年6月3日(旧暦)
ペリーは戦闘準備を行って、武力で威嚇しながら、徳川幕府に開国を迫り、国書を渡して、来年の春に返書を受け取りに来ると告げて帰国した。
(シーボルトから日本人は考える時間を与えれば冷静に対処するが即決を要求すれば駄策でも命がけになると助言を受けた結果)

ペリーは、1854年1月16日(旧暦)に7隻で再度来航。
江戸湾羽田沖まで来て礼砲・祝砲の名目で55発の大砲を発射するなど軍事的な威圧を加えて交渉を行い、同年3月3日(旧暦)に幕府と日米和親条約を締結した。

条約の内容は、箱館(現在の北海道函館)と下田(現在の静岡県伊豆半島)の開港、薪水・食料・石炭などの供給、両港における遊歩区域の設定、アメリカ船の必要品購入許可、アメリカへの最恵国待遇の承認などである

幕府の全権大使・浦賀奉行戸田伊豆守(1799-1858年)の像。

幕府は氏栄と井戸弘道を幕府代表として久里浜でペリーとの会談をもたせた。
戸田・井戸らは鎖国している中のことではあるが、黒船を率いて強気に返答を求めるアメリカ側の姿勢を見て、やむなくフィルモア大統領の親書を受け取った。

この時、氏栄は本家の大垣藩に藩兵を送る様に要請、これに基づき大垣藩家老・小原鉄心から送られた130名の大垣藩兵を率いてペリーと接見したという。

この人物の苦労は並みたいていのことではなかっただろうと同情する。

公園の片隅には、ペリーの生まれ故郷であるアメリカ・ロードアイランド州ニューポート市から贈られた石が置かれている。

何の変哲もない石で、由来を記したプレートがなければ何でここに石が置かれているのかわからないくらいである。

プレートには「マシューC、ペリー准将の出生地である米国ロード アイランド州ニューポート市からの記念石」と記されている。

昭和62年7月14日(ペリー上陸記念日)に公園内のペリー准将記念館の開館を記念して、在日米海軍司令官とニューポート市長から寄贈されたものである。

泰平の ねむりを さます じょうきせん
たった四はいで 夜も 寝られず

江戸幕府は約二百年にわたり、外国との通商・交通を禁止する鎖国政策をとっていました。
その日本に対し、突如として泰平の夢を破るように、1853年7月8日(旧暦・嘉永6年6月3日)開国を迫る四隻の黒い艦隊が浦賀・鴨居沖に現れ、同艦隊は6日後に久里浜に上陸しました。

この艦隊の指揮をとっていたのが、ペリー提督でした。
江戸湾の守備に当たっていた諸藩の藩士や浦賀奉行所の人たちは、この大きな黒船の姿を見て、驚き動揺しました。

開国を促す黒船の来航に、幕府要人はもちろんのこと、その威容を見聞きした人たちの驚きはどのようなものだったでしょう。
その驚きを端的に表現したのが、この落首です。
なお、「久里浜村誌」によれば、この落首は、老中間部詮勝(まなべあきかつ・号 松堂)作ともいわれています。

クラブツーリズムのお勧めツアーはこちら!

ペリー公園へのアクセス、行き方歩き鷹

住所:横須賀市久里浜7丁目14番
電話:046-834-7531

JR横須賀線久里浜駅・京急久里浜線京急久里浜駅から徒歩20分

東郷平八郎と三笠記念艦

三笠(みかさ)は、大日本帝国海軍の戦艦で、敷島型戦艦の四番艦。
奈良県にある三笠山にちなんで命名された。

日清戦争後、ロシア帝国に対抗するために日本海軍は軍拡を進めた。
その中で『六六艦隊計画』の一環、その最終艦として三笠はイギリスのヴィッカースに発注され建造された。

三笠の前に立つ東郷平八郎元帥の像。
東郷元帥はロシア・バルチック艦体を殲滅勝利したことで、世界に知られる名提督として讃えられた。

日本海海戦時の三笠艦橋上に集まった高官たちの絵。
中央の軍刀を持った人が東郷司令長官。

左は加藤参謀長、右は秋山先任参謀。

東郷司令長官の「敵艦見ゆとの警報に接し・・・」の有名な連合艦隊出撃報告はこの電信室から発信された。

<Z旗>
旗旆信号では、旗の組合せによりいろいろの意味を持たせるが、一般に重要な信号には1旗だけを使う。
マストに揚がっている信号旗はアルファベットの最後の字であるZを表示しており、普通Z旗と呼ばれている。

日本海海戦のとき、三笠はこのZ旗をこのマストに掲げて「皇国の興廃この一戦にあり各員一層、奮励努力せよ」との東郷司令官の号令を全軍に伝えて奮戦し、遂にこの海戦で大勝利を収めることができた。

その後、この故事に因んで、難事を打開する場合に、「Z旗を掲げる」という慣用語ができ、またZ旗が「大成功を期する旗じるし」として使われるようになった。

8cm砲台と人力操舵用舵輪。

860名の乗員のうち中尉以下830名がハンモックで過ごした。
ハンモックは戦闘時は断片防護等の役にも立った。

戦艦三笠の主砲(形状を復元したもの)
主砲は40口径30.5cm連装砲を艦前後に各1基(計4門)を備える。

洗面台、浴室、トイレなど。

展示を見終えたら、かつては長官専用だったというラッタルを上がって甲板へ上がる。

艦首部の菊の御紋章。
艦内に就役当時のものが保存・展示されている。

竣工時から1987年(昭和62年)迄装着されていた貴重なものである。

現在の三笠の砲塔、煙突、マストなどは、戦後に作成されたレプリカである。
下甲板以下は、ワシントン軍縮条約に基づきコンクリートや土砂で埋められているため、艦内で見学できるのは上甲板と中甲板だが、資料展示室や上映室などが作られているために、かつて軍艦であった面影は後部地区の一部を除いて見ることができず、事実上、軍艦の形をした資料館となっている。

管理は三笠保存会に委託されているが、三笠は現在も防衛省所管の国有財産である。

公園内には、1980年に横須賀市が設置した災害時に備えた飲み水のタンクがあり、外観を国鉄D51形蒸気機関車に似せて造ってある。
これは、海岸に近く工事上地下にタンクを設置できず、また公園内に無粋なタンクをそのまま設置したくなかったということから、蒸気機関車に似せてあるものである。

市民1万人に1日3リットルの水を3日間程度供給できるように、100トンの水を常時蓄えている。
前照灯など一部の部品は本物を入手して使用している。

消火栓マンホールの蓋、真ん中に横須賀市のマーク入り。

三笠記念艦へのアクセス行き方歩き方

三笠記念艦公式サイト

住所:神奈川県横須賀市稲岡町82-19
電話:046-822-5225/FAX.046-822-9822 公益財団法人三笠保存会 

京浜急行「横須賀中央駅」下車、徒歩15分

源氏ゆかりの古社 鶴岡八幡宮

康平6年(1063年)8月に河内国(大阪府羽曳野市)を本拠地とする河内源氏2代目の源頼義が、前九年の役での戦勝を祈願した京都の石清水八幡宮護国寺(あるいは河内源氏氏神の壺井八幡宮)を鎌倉の由比郷鶴岡(現材木座1丁目)に鶴岡若宮として勧請したのが始まりである。

永保元年(1081年)2月には河内源氏3代目の源義家(八幡太郎義家)が修復を加えた。

「三の鳥居」は、大正12年の関東大震災で倒壊するまでは石造鳥居だったが現在の鳥居は鉄筋コンクリート。

治承4年(1180年)10月、平家打倒の兵を挙げ鎌倉に入った河内源氏後裔の源頼朝は、12日に宮を現在の地である小林郷北山に遷す。

以後社殿を中心にして、幕府の中枢となる施設を整備していった。
建久2年(1191年)に、社殿の焼失を機に、上宮と下宮の体制とし、あらためて石清水八幡宮護国寺を勧請した。

太鼓橋は源平池を横切るように作られている石造の橋。
創建当時は木造で、朱塗りだったため「赤橋」と呼ばれた。

北条氏の庶流・赤橋家の苗字はこの橋の名称に由来する。
現在は柵で締め切られているが昭和時代までは自由に通行可能で、橋上は記念撮影のスポットとして良く使われていた。

源平池
北条政子が掘らせたと伝わる池。源氏池には島が3つ、平家池には島が4つ浮かび、それぞれ産と死を表すという。
源氏池の島には旗上弁天社がある。

旗上弁天社の周囲には源氏の二引きの白旗が多く見られる。
1221年(承久3)の承久の乱の際に、鎌倉幕府軍がこの地で旗揚げして戦勝を祈願したといわれる社です。

頼朝公が旗揚げをした後、大願成就したご神徳により、開店、事業拡張をはじめ、必勝祈願、家内安全、商売繁盛、病気平癒、縁結びなどのご利益が授かると信仰を集めています。

旗上弁財天社の裏に「政子石」と呼ばれる石があります。
 
源頼朝公が政子の安産を祈ったとされる石で、別名「姫石」とも呼ばれる霊石です。
古来より縁結びの霊験があり、夫婦円満の祈願石と信仰されています。

鶴岡八幡宮流鏑馬神事馬場。

鶴岡八幡宮流鏑馬神事馬場を少し進んだ辺りが下拝殿と奥にある本宮が重なって見えるベストアングル。

若宮社殿の回廊の跡に建つ舞殿。
下拝殿とも。

前面にある建築物は21世紀に入ってから増築されたもので、当初は朱塗りではなく白木造りであった。

なお、源頼朝の求めに応じて舞った静御前が源義経を慕う次の歌を詠んだとされるが、当時はまだ舞殿は建立されておらず、若宮社殿の回廊で舞ったとされている。

 吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき
しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな


建保7年(1219年)1月27日、源頼家の子で八幡宮の別当を務めていた公暁がこの銀杏の木に隠れて待ち伏せ、源実朝を殺害したという伝説があり、隠れ銀杏という別名がある。

しかし、当時の樹齢を考えると、人が隠れることのできる太さにはまだ成長していなかったという説もあるため真偽は不明。
伝説を疑問視する説もあれば、公暁が身を隠したのは先代の樹であり現在の樹は2代目であるとする説もある。

昭和30年(1955年)より神奈川県の天然記念物に指定され、鶴岡八幡宮のシンボル[4]として親しまれていた。樹齢800年とも1000年余ともいわれていた[4]。

平成22年(2010年)3月10日4時40分頃に、強風のために大銀杏は根元から倒れた。

倒れた大銀杏は3つに切断され、3月15日、根元から高さ4メートルまでが、7メートル離れた場所に移植された。

残る2つは境内に保存される。倒壊から約1ヶ月たち、再生への努力が実を結び、若芽(ひこばえ)が確認された。

傍らにはガンバレオオイチョウの書き込みも。

大石段は61段あり登りきると桜門、その奥に拝殿とつながった本宮がある。

本宮(上宮)
文政11年(1828年)に徳川家斉が再建した流権現造で、国の重要文化財に指定されている。

本宮(上宮)楼門に掲げられた額の「八」の字は、神聖な神の使いとされている二羽の鳩で表現されている。

源氏の幟旗に書かれた「八幡大菩薩」の「八」の字も鳩で描かれていた。
神仏混淆であったため「八幡宮」の下に「寺」という字があったが、明治の神仏分離によって消されている。

クラブツーリズムのお勧めツアーはこちら!

鶴岡八幡宮へのアクセス、行き方歩き方

鶴岡八幡宮公式サイト
神奈川県鎌倉市雪ノ下2-1-31 

TEL 0467-22-0315

JR鎌倉駅(東口)から徒歩約10分
江ノ電鎌倉駅から徒歩約10分

鎌倉唯一の国宝物 鎌倉大仏

高徳院は、鎌倉のシンボルともいうべき大仏を本尊とする寺院であるが、開山、開基は不明であり、大仏の造像の経緯についても史料が乏しく、不明な点が多い。

高徳院(鎌倉大仏)の仁王門は、18世紀初めに他所から移されてきたものと考えられ、安置されている仁王像も同時期のもの考えられている。

大仏殿は高さ40メートルにもなる巨大な建物だったというが、1495年(明応4年)の「明応の大地震」による津波で流された(1498年(明応7年)ともいわれる。)。
以後、鎌倉大仏は露坐(ろざ)となる。

鎌倉の大仏は、銅造阿弥陀如来坐像として、国宝に指定されています。鎌倉時代を代表する仏教彫刻として、貴重なものだと認められている。
ほとんどが作られた当時のままであるということも大変貴重なものです。

鋳造は体部が7段、頭部は前面が5段、背面が6段に分けて行われていることが、像の内外に残る痕跡からわかる。
材質は通常「銅造」とされているが、正確には青銅(銅、錫、鉛等の合金)である。

全部の工程が完了した時には大仏の外側も内側も土で埋め尽くされていたはず。
内側の土は大仏の背中にある窓から出したと思われる。

大仏の胎内が博打場や男女の密会の場になっていたり、江戸末期には盗賊が住み着いていたとも言われる。
>
鎌倉大仏裏側の観月堂の傍らには、有名な与謝野晶子の歌碑が建てられている。
 「かまくらやみほとけなれど釈迦牟尼は美男におわす夏木立かな」

おばちゃん、鎌倉大仏は「釈迦牟尼」ではなく「阿弥陀如来」ですよ。
歌にするには具合が悪かったのだろうか?

それに高岡大仏を「鎌倉大仏より一段と美男」と評したというが、鎌倉を訪れたのが1904年、高岡を訪れたのが1933年ということで前言を訂正したのかな。

木立の下でやさしく境内を見渡す地蔵さん。

境内の紅葉はまだまだきれい。

大仏近くのこの紅葉、いろいろなアングルで写真を撮る人が多い。

お先にどうぞ・・・とかいろいろ言いながらやっと撮ったのがこの一枚。

神奈川県営水道のマンホール。
県の木いちょう、県の花やまゆり、県の鳥かもめをデザイン。

クラブツーリズムのお勧めツアーはこちら!

鎌倉大仏へのアクセス、行き方歩き方

鎌倉大仏殿高徳院公式サイト

住所:神奈川県鎌倉市長谷4-2-28
電話:0467-22-0703

最寄り駅は江ノ電 長谷駅 で、駅から徒歩7分

国内最大級の観音様が見守る 長谷寺

長谷寺(はせでら)は、山号を海光山、院号を慈照院と称し、長谷観音と通称される。
本尊は十一面観音、開山は僧侶の徳道とされる。

伝承では長谷寺の創建は奈良時代とされているが、中世以前の沿革は明確でなく、創建の正確な時期や経緯についても解明されていない。

寺伝によれば、天平8年(736年)、大和の長谷寺(奈良県桜井市)の開基でもある徳道を藤原房前が招請し、十一面観音像を本尊として開山したという。

この十一面観音像は、観音霊場として著名な大和の長谷寺の十一面観音像と同木から造られたという。

すなわち、養老5年(721年)に徳道は楠の大木から2体の十一面観音を造り、その1体(本)を本尊としたのが大和の長谷寺であり、もう1体(末)を祈請の上で海に流したところ、その15年後に相模国の三浦半島に流れ着き、そちらを鎌倉に安置して開いたのが、鎌倉の長谷寺であるとされる。

入山口でもある下境内は、妙智池と放生池の2つの池が配され、その周囲を散策できる回遊式庭園となっております。

妙智池への映り込み画像。

卍池(まんじいけ)
「卍」はインドに伝わる吉祥の徳相で、功徳円満の意味を持っています。池に座っている像は奪衣婆(だつえば)と懸衣爺(けんねおう)

奪衣婆は三途の川のほとりにいて冥途の旅人の衣服を剥ぎ取り懸衣爺に渡します。
その衣服を衣領樹という木の枝に懸けその枝のしなり具合で生前の罪の軽重を判断するという伝説があります。

千体地蔵(せんたいじぞう) 
地蔵堂の両側には、不幸にしてこの世に生まれることのできなかった子供たちのために、千体地蔵といわれる無数のお地蔵様が供えられています。

下境内への参道は満艦飾のモミジ。

観音堂には長谷観音と呼ばれる十一面観音立像を安置する。
奈良の長谷寺の観音像と同じ、右手に数珠と錫杖、左手に水瓶を持つ長谷寺式の像容である。

残念ながら内部は撮影禁止で画像をお見せできません。

阿弥陀堂は観音堂の右手に位置し、厄除阿弥陀と呼ばれ、鎌倉六阿弥陀(高徳院の「鎌倉大仏」、光触寺の「頬焼阿弥陀」、の他光明寺、浄光明寺、宝戒寺の各阿弥陀如来像等)に数えられる阿弥陀如来坐像を安置する。

同像は長谷にあった誓願寺(廃寺)の旧仏で、源頼朝が造立した像という伝承があるが、実際の制作は室町時代とされる。

大黒堂は観音堂の左手に位置し、鎌倉江ノ島七福神の1つに数えられる大黒天像を祀る。応永19年(1412年)作の大黒天像は宝物館に移され、現在は新しい大黒天像が祀られている。

聖観世音菩薩の向こうは見晴台。
鎌倉の海と街並みが一望できる。

聖観世音菩薩
この聖観音、「政界の寝業師」と呼ばれた政治家の大麻唯男(おおあさただお)が建てた観音像として、或る筋では有名です。

相模湾の西方。

東方を望む、白い塔の右側が名越切り通し。

もう少し南に目をやると岬の端に城ケ島が望まれる。

傾斜地を利用した「眺望散策路」があり、鎌倉でも有数の景勝地となっております。

散策路の途中にある千手観世音菩薩。

猫は散策を終えて帰るところかな。

散策路途中の地蔵。

散策路を降り切ったところには多くの地蔵。

弁天窟の入り口付近には閻魔大王が。

長谷寺弁天窟入口の鳥居。

入口左奥面。

長谷寺の弁天窟は、弘法大師が参籠した洞窟として知られ、宝物館に収蔵されている「八臂弁財天像」は弘法大師の作と伝えられている。

「弁天窟」は、ちょっとした洞窟探検の気分を味わえます。

長谷寺へのアクセス、行き方歩き方

長谷寺公式サイト

住所:神奈川県鎌倉市長谷3-11-2
電話:0467-22-6300

江ノ島電鉄(江ノ電)長谷駅から徒歩5分

夜と朝 藤沢・江の島散策

今回の泊りは「ホテル法華倶楽部藤沢」連泊です。

今日は雨模様、夜の江の島はあきらめ、藤沢の街をブラブラ。

街はクリスマスへ向けての装い。
ただ客引きが多いのには驚きました。

翌朝、5時33分、始発の小田急で江の島へ向かう、日の出を撮る積り。

小田急片瀬江ノ島駅舎、なんだか竜宮城みたい。

向かいの三浦半島上空はほんのり紅くなっているのだが、このあとどんどん黒雲に覆われ日の出は拝めず。

反対側では相模湾越しに富士の姿。

一日の観光を終え、夜、再び江の島へやって来ました。
シーキャンドルがライトアップされています。

辺りは予想外に暗く、今回は三脚も持参していないのでこれ以上の撮影は断念。
風が冷たい。

翌朝、再び江の島を訪問、今回は晴れです、日の出が期待できそうです。
しかし、外気は予想外に冷たく、駅前まで引き換えし、コンビニでホカロンを調達。

対岸が紅くなってきました、いよいよ始まりです。

日の出前になると鳥たちが騒ぎ始めます。

海岸をワンちゃんが走っていますがこの犬、昨日もあいました。

いよいよ日の出です、空が真っ赤です。

寒さを忘れてただ日の出を見つめていました。
この日は不思議な体験をしました。

じっと日の出を待っていたのですが、ふと気が付くと橋のたもとにバイオリンを抱えた少女が佇んでおり、そのうちケースからバイオリンを取りだし弾きはじめました。
思わずシャッターを押してしまったのですが、肖像権の問題もあり掲載できないのが残念。

反対側は相模湾越しに紅く焼けた富士。
すっかり時間を過ごしてしまいました、ホテルではもう朝食が始まっている時間です。
バスの出発は8時、急ごう。

お馴染み、マンホールの図柄、市の木「クロマツ」

雨水用の蓋に描かれているのは市の花「フジ」

マンホールだと思ったら、違うみたいです。
中央に「FUZISAWA CULTURE ZONE」と描れています。

ミズキ・コナラ・ムラサキシキブ・エゴノキ

クラブツーリズムのお勧めツアーはこちら!

鎌倉七口 亀ヶ谷(かめがやつ)坂散策

鎌倉では山と山の谷間を、ヤツと呼び、六十六谷あるといわれています。
山の軍事的要害性は失わず、人々の往来や物資の運搬のため最小限の道が必要であった。
このため鎌倉幕府は山を最小限度だけ切り取って鎌倉と各地を結ぶ道を作った。
これが「切通し」でした。

その中で主要な七つの切通しのことを「七口(ななくち)」とか「七切通し(ななきりとおし)」と呼んでいる。

これは長谷観音から見た鎌倉市街地。

源頼朝が、鎌倉に幕府を開いた最大の理由は一方は海に臨み、三方は山に囲まれて、敵の攻撃を守る軍事的要害の役割を果たせるからでした。

いわば、ここは城塞都市でした。
しかし、逆に言いば、敵の攻め方によっては孤立を強いられる危険も持っていた。

そこで、山の軍事的要害性は失わず、人々の往来や物資の運搬のため最小限の道が必要であった。
このため鎌倉幕府は山を最小限度だけ切り取って鎌倉と各地を結ぶ道を作った。これが「切通し」でした。

鎌倉には、このような切通しが相当数ありますが、その中で主要な七つの切通しのことを「七口(ななくち)」とか「七切通し(ななきりとおし)」と呼んでいる。

扇ヶ谷のJR横須賀線ガード近く亀ヶ谷坂の入口に、源頼朝の娘大姫の守本尊を祀る岩船地蔵堂がある。

大姫の婿となった義高(清水冠者)は、木曽義仲の長男。
1183年(寿永2年)に挙兵した木曽義仲は、源頼朝と対立したが、長男義高を人質として差し出すことで和睦した。

義高は、名目上、大姫の婿ということで鎌倉に送られてきている。

大姫も義高に懐き幸せに暮らしていたが、1184年(元暦元年)正月、頼朝の命によって上洛した源義経らに父義仲が討たれた。
頼朝は子の義高も殺そうとしたが、それを察知した大姫は、義高に女装させて逃がしたといわれている。

しかし、義高は、頼朝が派遣した堀親家によって、武蔵国入間川で殺害された。

父頼朝によって義高が殺されたと知ると、幼い大姫は病の床に臥し、水も口にできないほど衰弱したという(義高を婿としたのは6歳のときだったといわれている。)。

このような娘の姿を見た母政子は、義高を討った堀親家の家臣藤内光澄を引き出し、その首を斬っている。

亀ヶ谷坂 (かめがやつさか)は鎌倉七口のひとつ。
現在の鎌倉市山ノ内から扇ガ谷を結ぶ坂道。

別名、亀返坂(急坂のため亀も引き返した、ひっくり返った)と。

鎌倉七口(かまくらななくち)とは三方を山に囲まれた鎌倉への陸路の入口で、現在一般に言われるのは以下の7つである。

極楽寺坂切通し
大仏切通し
化粧坂
亀ヶ谷坂
巨福呂坂
朝比奈切通し
名越切通し

切通し道頂部付近の岩壁を背にして立つ六地蔵像です。
この六地蔵像はそんなに古いものではないとは思われますが、この切通し道では人々の往来が頻繁であったことを物語るものです。

地蔵菩薩は六道を輪廻転生する衆生を救う仏として信じられてきていて、近世には民間信仰と結びつき広まって行きました。

普通自動車が一台通れるだけの広さです。
亀ヶ谷坂切通へ向かうこの道は一般の自動車は通行禁止となっていますので、散策には安心して歩ける道になっています。(ただ、2輪車は時よりここを通っています。)

JR横須賀線の踏切があり、踏切を渡って暫く進むと長寿寺の門が見えてきます。

山門の前に亀趺碑があり、「佛頂尊勝陀羅尼」と刻まれた碑が亀の台石の上にのっています。

参道の階段を上がった左手に座る……柔らかい石彫仏像。

かつて境内は非公開であったが、近年は春(4月~6月)と秋(10月~11月)の週末(金~日)限定で公開を行っている。

創建年・開基ともに不明であるが、鎌倉公方足利基氏が父尊氏の菩提を弔うために建立したと伝える。

境内には足利尊氏の遺髪を埋めたと伝わる五輪塔がある。

亀ヶ谷の散策を終え、今日の宿泊地藤沢に向かう頃、江の島に沈む夕日。

今日は江ノ島でバスを降り、江ノ電で藤沢に向かいます。

江ノ電は1902年(明治35年)に「江ノ島電気鉄道」として開業。
1910年(明治43年)に全線が開通し、1949年(昭和24年)には小町にあった鎌倉駅が現在の地に移された。

鎌倉・藤沢間を約34分で結んでいます。

クラブツーリズムのお勧めツアーはこちら!

鎌倉五山第五位 「鎌倉の語源となった」 浄妙寺

寺の裏山で、藤原鎌足が子孫のために「霊鎌」を埋めた地とされ、これが「鎌倉」の地名由来となったという伝承がある。
複数ある「鎌倉」の地名由来伝承の一つである。鎌足稲荷神社の小祠がある。

鎌倉五山の第五位の寺院として、かつては広大な寺地を有し、23箇院の塔頭を有していた。
現在でも付近一帯の地名を「浄明寺」といい(地名は「妙」の代わりに「明」字を用いる)、住宅団地名にも使用されるなど、その名残を残している。

足利義兼による文治4年(1188年)の創建と伝えられる。
初めは極楽寺という密教(真言宗)の寺院であったが、建長寺開山蘭渓道隆の弟子、月峯了然(げっぽうりょうねん)が住職となってから禅刹に改め、ついで寺名も足利貞氏の法名をとって浄妙寺と称した。

本堂は寄棟造、銅板葺(もと茅葺)。
江戸時代中期の建物だが、仏壇周辺などには室町時代の材が用いられている。

真っ赤な紅葉が美しい喜泉庵入り口。

喜泉庵は天正年間(1573 – 1591年)に建立された茶室喜泉庵を復興したもの。
枯山水庭園があり、有料で茶菓が供される。

枯山水の庭園を撮るため回り込む。

水琴窟の調べが心地よいなごみの空間、枯山水庭園全体を見渡すならここからがベスト。

喜泉庵の廻りは紅葉に埋め尽くされる。

境内の左奥にある「石窯ガーデンテラス」は憩いの場所として食事やお茶を楽しむことができる。
さらに天然酵母を使用した焼きたてのパンも大変人気があります。

本堂裏の墓地に足利貞氏の墓と伝える明徳三年(1392年)銘の宝篋印塔がある。
基台の銘文により、罪障消滅・後生善根を願う逆修塔とされる。

浄妙寺へのアクセス、行き方歩き方
住所:神奈川県鎌倉市浄明寺3-8-31
電話:0467-22-2818

鎌倉駅から京急バス金沢八景、太刀洗方面行きに乗車し「浄明寺」で下車。徒歩数分。

鎌倉五山第四位 荘厳な雰囲気の山寺 浄智寺

浄智寺(じょうちじ)は、神奈川県鎌倉市山ノ内にある禅宗の寺院。
臨済宗円覚寺派に属する。

鎌倉五山第4位。
山号を金峰山(きんぽうざん)と称する。
本尊は阿弥陀如来・釈迦如来・弥勒如来の三世仏で、それぞれ過去・現在・未来を象徴する。

境内は「浄智寺境内」として国の史跡に指定されている。

浄智寺の西にある東慶寺(とうけいじ)は、神奈川県鎌倉市山ノ内にある臨済宗円覚寺派の寺院。

寺伝では開基は北条貞時、開山は覚山尼(かくさんに)と伝える。
現在は円覚寺末の男僧の寺であるが、開山以来明治に至るまで本山を持たない独立した尼寺で、室町時代後期には住持は御所様と呼ばれ、江戸時代には寺を松岡御所とも称した特殊な格式のある寺であった。

また江戸時代には群馬県の満徳寺と共に幕府寺社奉行も承認する縁切寺として知られ、女性の離婚に対する家庭裁判所の役割も果たしていた。

覚山尼は安達義景の娘で、鎌倉幕府の8代執権北条時宗の夫人。
1284年(弘安7年)4月、北条時宗の臨終の間際、無学祖元を導師として夫婦揃って落髪(出家)し、覚山志道大姉と安名した。

江戸時代には大坂落城の翌年の1616年(元和2年)に豊臣秀頼の娘の天秀尼が千姫の養女として東慶寺に入り、後に20世住持となった。
なおこの天秀尼以降、東慶寺は幕府(寺社奉行)直轄の寺であり住持任命も幕府による

鎌倉幕府第5代執権・北条時頼の3男である北条宗政の菩提を弔うために、弘安6年(1283年)に創建された。

開基は宗政の子・北条師時としたが、当時の師時は8歳であり、実際には宗政の妻と兄・北条時宗による創建である。

宝所在近の文字が外門の額に書いてあります。
これは経文にある言葉で「立派なお坊さんになるために努力をしなさい。」という意味です。

禅宗の修行は個を極限にまで磨き上げることによって得られるものであり、今も昔ながらの厳しい修行が続けられております。

浄智寺の中国風鐘楼門様式の山門へと続くすり減った鎌倉石の石段。

重層一間一戸の三門は、上層が鐘楼を兼ねている珍しい形式のもので、花頭窓をあしらった中国風の意匠が特徴である(近年、この門は全面的に改築されてまったく新しくなった)。

この門をくぐったところに、本尊の三世仏を安置する曇華殿(仏殿)がある。

境内の敷き落ち葉がとてもきれいです。

海会堂(永代供養墓所)への径。

子持ち観音の石仏。

本堂(曇華殿)裏手に書院があります。
本堂の左側から回り込むようにいきます。
茅葺の素朴な造りの書院とその前に広がる庭園を観ることができます。

きれいな落ち葉を踏みしめながらさらに奥へ進みます。

竹林の向こうに横穴が沢山。
鎌倉の崖には、やぐらと呼ばれる横穴と言うか洞窟が数多くあります。
寺院の場合、このやぐらが墓地や仏殿(社殿)として利用されている事が多い。

鎌倉市山ノ内にある浄智寺にもやぐらは多く残る。
浄智寺の墓地横の境内には看板が立っている。

「やぐら この横穴は古くは住いとして、その後墓所になり、やがて倉庫としても使われました。大正から昭和初期までは、薪や木炭などのしまい場所になっていました。」

墓石(無縫塔)が並ぶやぐらの奥には横井戸がある。

無縫塔が並んでいます。
浄智寺の関係僧侶の墓と思われます。

基礎の上に請花を乗せその上に卵形の塔身が乗せられ、一つの石で構成され、縫い目がないので無縫塔と呼ばれ、中世紀には宋風形式ということで主に高僧、特に開山僧の墓塔として使用され、その後、僧侶の墓として流行りました。

やぐら跡と宝塔・仏像。
やぐらだったものにふたをしたようです。

鎌倉浄智寺裏山の三匹の狸。
竹林の中、墓地の入り口にあります。

狸の隣は櫓が並んでいて、冬の陽射しが石仏を優しく照らしています。

鎌倉をハイキングすると、途中でかならず見かけるやぐらは、1200~2000くらいあると
言われています。

漢字では、「矢倉」「屋蔵」「窟」「岩倉」「谷戸倉」などを当てはめるようですが、今ではひらがなで書きます。

横穴をくりぬいたものか、この穴の向こうに布袋和尚の像が。

庫裏裏手の洞穴の中に立っている浄智寺の布袋さまは、「鎌倉・江の島七福神」の布袋和尚。

お腹をさするとご利益があるとされ、参拝者が皆触っていくので、お腹のあたりが黒くなっている。

やぐらの中に観音さまが祀られている。

クラブツーリズムのお勧めツアーはこちら!

浄智寺へのアクセス、行き方歩き方
住所:神奈川県鎌倉市山ノ内1402
電話:0467-22-3943

JR横須賀線北鎌倉駅から徒歩10分

鎌倉五山第三位 美しい参道の寿福寺

寿福寺(じゅふくじ)は、神奈川県鎌倉市扇ヶ谷にある臨済宗建長寺派の寺院。
鎌倉五山第3位の寺院である。

山号を亀谷山(きこくさん)と称し、寺号は詳しくは寿福金剛禅寺という。
源頼朝が没した翌年の1200年(正治2年)、妻の北条政子が葉上房栄西(明庵栄西)を開山に招いて創建した。

境内は「寿福寺境内」として1966年(昭和41年)3月22日、国の史跡に指定された。

寿福寺惣門の前に「壽福金剛禅寺」の寺号標石が立つ。

もともと現在の寿福寺のある付近は、奥州に向かう源頼義が勝利を祈願したといわれる源氏山を背にした、亀ヶ谷と呼ばれる源氏家父祖伝来の地であり、頼朝の父・源義朝の旧邸もこの地にあった。

1180年(治承4年)初めて鎌倉入りした頼朝は、ここに館(幕府)を構えようとしたが、すでに岡崎義実が堂宇を建て義朝の菩提を弔っていたことや、土地が狭かったため、当初の計画を変更したといういきさつがある。

惣門の右には「源 實朝をしのぶ」石碑。
源 実朝(1192~1219)生誕八百年を記念し平山郁夫の筆による題字及び波千鳥図が
刻まれています。

征夷大将軍としてはじめて右大臣(父もなれなかった)になった実朝は、12歳で将軍になり、14歳の時、12首の歌を作ってから和歌の世界(藤原定家と交流)へ傾斜していきます。

その後、25歳の時、中国の宋へ渡る計画(陳和卿設計)を立て、船ができたのに浮かばなかったという。

右大臣になって鶴岡八幡宮に参詣した際、兄(頼家)の子供(公暁)に刺されて亡くなります。
享年28歳でしたから若すぎました。

寿福寺は特別公開の時期を除いて中門までしか公開されていませんが、鎌倉五山第3位の名にふさわしい風格を漂わせています。

鎌倉で最も美しいと言われる石畳を惣門から覗き見る。

惣門を入って、参道を歩いてゆきます。
鎌倉で最も美しい参道とも言われています。
向こうに見えるのが中門です。

中門から眺めるだけですが、向こうに非公開の仏殿が見えます。
江戸時代中期から後期にかけてつくられたものです。
なかには釈迦三尊像が安置されています。

さらにその奥のやぐら(鎌倉地方特有の横穴式墓所)には、北条政子と第三代将軍源実朝の墓と伝わる五輪塔がある。

クラブツーリズムのお勧めツアーはこちら!

寿福寺へのアクセス、行き方歩き方

住所:鎌倉市扇ガ谷
電話:0467-22-6607

鎌倉駅徒歩10分