4年振りです緑地公園


今日は倶楽部の撮影会、4年振りに緑地公園へ。

【 金井良輔「カリアティード1983 3本のねじれた柱」】
ギリシャのラコニアのカリアの町が征服され女たちが苦役に従事した故事から「重荷を支える女」として、女性像による柱をカリアティードと呼ぶ。
そのイメージから、力強く成長しようとする人間の姿を抽象的に表現。

目の前のマンションの入り口、色彩と形がきれいだった。

緑道

緑地公園駅を降りてすぐ、緑のトンネルが出迎えてくれます。
そのまま進むと噴水のある東中央広場に出ます。

ソール・ライタ風に足を少しだけ・・・・

フラメンコ教室がありました、赤が強烈!!
そういえばソール・ライタは赤とか黄の色が好きでした。

道端の石、人面石です、顔がいくつも見えます。

大きな噴水といくつかの彫像で構成された【 福岡道雄「白昼夢」】

通る人々を迎え入れる門。

パンパスグラスが見ごろを迎え、一足早く秋の訪れを告げています。

公園の中央にある時計塔です、鏡面仕上げの美しい塔。

【 松下隆治「仔牛と女」】

この女性いったい何頭身なんだろう。

雀が頭の上に・・・

お待ちかね、「日本民家集落博物館」が木立越しに見えてきました。

噴水のある不思議な建物、コショウ中かな・・・

「日本民家集落博物館」の目の前に・・

水の流れた跡、模様がきれい。

自然は芸術家だ!!

ノウゼンカズラ

中国原産の落葉ツル植物。
幹から気根を出して樹木等に這い登り、夏から秋にかけて橙色を次々と咲かせます。

このノウゼンカズラはさやまで付けています。

河内布施の長屋門(大阪府)国登録有形文化財が博物館の正門として使われています。

旧塩川正十郎氏宅、そうあの塩爺の家の門だったのだ。
塩爺と言っても今の若い人たちにはわかるかな。

古民家を訪ねて・・・・・・4年前に訪れた際の記録です。
今回訪れて色々と変化を感じました。
次回から日本の代表的な民家11棟を巡ります、皆さんもどう変わったか感じ取っていただければ。

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レトロな今井町町並み散歩 パート2


倶楽部の定例会用に作品用にレタッチをしたものを掲載します。














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レトロな今井町町並み散歩


飛鳥川の流れにかかった蘇武橋を渡ると、現在も江戸時代そのままの情緒と風情を残す町、今井町があります。

飛鳥川のことをかつては蘇武川と言い、その付近には蘇武井、蘇武橋、蘇武田などの地名が残っています。

今井町の東の入り口にある大きな木。

この「蘇武橋のエノキ」は、実は奈良県内で最初に指定された「景観重要樹木」でもあります。
樹齢はなんと400年を超えます。

今井蘇武橋公園として整備された飛鳥川沿いの縦長エリアに蘇武之井が二つ存在しています。

かつて、蘇武井からは良質の水がこんこんと湧き出てき、今井の里の千軒の家々がこの水を毎日汲んでも、またいかなる日照りが続いても、涸れることはなかったという。

今井町にはたくさんの鬼瓦が残されています、鬼瓦の散策も面白いかも。

今井町に現存する最古の鬼瓦(1644年・寛永21年製)です。

歴史を感じるくぐり戸、主たる門扉に付属していて高さが低く頭を下げて通る門戸。

城門や寺や民家の門、防火扉の小さい扉、茶室の躙り口など。

こちらは今井町仕様の蓋。
町並みが描かれている。

河瀬権八郎兵部尉宗綱が石山本願寺の顕如上人から寺号を得て、今井郷に念仏道場を建てたことに始まる。

永禄年間(1558年~1570年)、川井長左衞門正冬と共に周辺に堀と土塁を形成し寺内町の体裁を整え、御坊(今井山)を開いた。

1877年(明治10年)、明治天皇行幸の行在所となった折りに西郷隆盛挙兵(西南戦争)の一報が入ったという逸話があるが、暴発の恐れがあるとの一報が入ったというのが真相のようである。

床屋らしくない佇まいの理髪店がありました。

【床屋】の起源は江戸時代にまでさかのぼります。
この当時、理髪業に従事する今で言う理容師さんのことを【髪結い】と呼んでいました。

床という言葉が性的な意味合いも持つ為か、【床屋】という言葉は差別表現にあたるとしてか、放送禁止用語の一つとなっています。

テレビやラジオなどのマスコミは 【理髪店】【理容院】などと呼んでいるようですが、歴史を辿れば【床屋】という言葉の意味や由来に性的な意味合いは関係ないことがわかります。

なぜ放送禁止・自粛用語になるのか、ちょっと不思議ですよね。 

豊田家は、福井藩の蔵元も務めた木材豪商が1662年(寛文2年)に建築。

建物正面2階の壁の両端に、「丸に木」の字の家紋があることから「西の木屋」と呼ばれてきました。

「西の木屋」の象徴とも言える定紋。
漆喰を盛り上げて木の字を記している。

「駒つなぎ」と呼ぶそうで、低いのが馬、高いのが牛。

「駒つなぎ」は今井町のシンボルでもありマンホールのデザインにもなっている。

16世紀中頃には、四周に環濠・土居を廻し、武装宗教都市がつくられたとみられるが、逐次東方を取り込み、文禄4年(1595)の太閤検地の頃には、ほぼ現状の規模に拡大されていたとみられる。

しかし、天正3年(1575)織田信長の軍門に降り、環濠、土居が埋めたとされているが、17世紀初期頃旧状に基づき復旧されたものが江戸時代を通じて維持された。

今西家住宅を映す今井町西側の環濠。

戦国時代の寺内町が原型となり、全建物数約1500棟弱のうち、約500棟の伝統的建造物があり、全国で最も多い地区となっており、国の重要伝統的建造物群保存地区として選定されている。

また、国の重要文化財が9件、県指定文化財が3件、市指定文化財が5件あり、2017年(平成29年)4月28日に日本遺産に認定された。

現在も町の大半が江戸時代の姿を残しており、大部分は実際に住居としても使用されているが、中には廃屋同然に放置された建物も存在する。

幕末になると、いろいろな名目で金銀の取立てや重税により町は衰退に向かい、明治維新によって富豪は消滅した。

今日のお昼はこちらの古伊でいただいた。

お昼をいただいてすぐに雨がポツリと、夕方からは降ると予報されていたのでそれなりの覚悟はありましたが少し早すぎます。

本格的な降りにはならずに済みました、一安心。

消火用ホースの収納箱のデザインがいろいろあって面白い・・・
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在原業平隠棲の十輪寺


善峯寺よりの帰りバスで一駅の小塩で降り、業平をしのんだ。
バスは満車であったが誰一人降りる人は無かった。

十輪寺は、大原野の一角に文徳天皇が女御である染殿皇后(藤原明子)に世継が誕生するよう祈願して、嘉祥3年(850年)に伝教大師作の延命地蔵を安置して祀ったのが始まりだとされる。

祈願後、無事に惟仁親王(清和天皇)が誕生したことから勅願所とされた。

その後、寺伝では平安時代初期の歌人で六歌仙のひとりである在原業平が、晩年この寺に隠棲したとされ、境内の裏山には業平が塩焼きの風情を楽しんだとされる塩竈(しおがま)の旧跡がある。

また、それが十輪寺周辺の地名が「小塩(おしお)」となった由来であるともいう。

樹齢800年の大樟樹と「なりひらもみじ」が素晴らしい。

大樟樹は、十輪寺のご神木で、地蔵菩薩の神力で一夜にして大樟樹にしたという伝説がある。

庭園「三方普感の庭(さんぽうふかんのにわ)」 – 寛永3年(1750年)に、右大臣花山院常雅が本堂再建時に作庭したもの。

作庭時期は江戸時代であり、当時は武士が権力を持ち公家は財力に乏しかったことから豪華な庭園を造ることは叶わなかった。

しかし花山院家の公家たちは、小さな空間でも見方を変えることで様々に楽しもうとこの庭を考案したといわれる。

高廊下、茶室、業平御殿の三か所で場所を変えて見ると、見る人に様々な思いを感じさせる癒しの庭である。

それぞれの場所から「立って見る」「座って見る」「寝て見る」と3通りの見方で趣の違いを楽しめることから、その名も三方普感の庭(さんぽうふかんのにわ)と呼ばれる。

「普感」とは仏の遍万している大宇宙を感じることを意味する。

中庭には樹齢約200年の枝垂れ桜、通称「なりひら桜」がらんまんとさきほこる。

画像はポスターを拝借。

鐘楼(京都府指定有形文化財) – 寛文6年(1666年)再建。

不迷梵鐘(まよわずのかね)と呼ばれ、自分で決心がつかず迷っている時にこの鐘を撞くと、決心がつく不思議な鐘とされている。

在原業平供養塔 – 宝篋印塔が境内裏山にあり、「在原業平卿の墓」の石碑が建つ。

恋と歌に生きた業平が50歳を過ぎてこの十輪寺に隠棲したといわれ、境内奥にある「宝篋印塔(ほうきょういんとう)」は業平のお墓と伝えられています。

本堂の屋根は鳳輦(ほうれん)型と言うおみこしの型をした珍しい建物。

墓から少し奥へ進むと業平が、塩焼きの風情を楽しんでいたという旧跡がある。

塩竃 – 在原業平が、難波(現・大阪湾)の海水を運んで塩焼きの風情を楽しんでいたという旧跡。

在原業平の思い人である二条后(藤原高子)が大原野神社に参詣した折に、塩竃で紫の煙を立ち上げ思いを託したと伝わる。

謡曲「かきつばた」には業平が歌舞の神とされていることから、中世以降に業平信仰が生じ、塩竃を清めて煙を上げ、その煙に当たり良縁成就、芸事上達、ぼけ封じ、中風除け等々を願うようになったという。

毎年11月23日に、「塩竃清めの祭」が行われている。

画像はポスターを拝借。

業平伝説とはどのようなものか。

時代は、藤原北家が、実質的権力を掌握しつつある時代である。
藤原高子(842~910)は、藤原北家の娘として、将来は天皇の后となり、次期天皇を生むことが期待されていた女子で、「花や蝶や」とそれはそれは大切に育てられた。

実際、藤原高子では、8歳年下の清和天皇(第56代、850~881、在位858~876)の女御のひとりとなる。
そして、藤原高子と清和天皇の子が、陽成天皇(第57代、869~949、在位876~884)である。

そんな予備知識を踏まえて、藤原高子の色恋スキャンダルの一生を。

859年、清和天皇即位後の最初の大嘗祭において、藤原高子は五節の舞姫をつとめた。

五節の舞は、大嘗祭や新嘗祭に行われ、4~5人の舞姫が踊る。
当時の最大級のエンターテインメントで、見物人がドッと押し寄せる。

このとき、高子は18歳、清和天皇は10歳である。高子は、まだ入内していない、未婚の18歳である。
高子の美貌は抜群であった。

藤原北家のトップは藤原良房(804~872)で、清和天皇の成長を待って、高子を入内(→出産)させようと計画していた。

10歳の少年でも、少しは色気もあるだろう、8歳年上であっても絶世の美女の舞を見せつければ、少年でも関心を持つだろう。
少年が男に成長したら、すぐさま入内、すぐさま出産……そんな絵を描いていた。

しかしながら、藤原高子の五節の舞を見ていたのは、清和天皇だけではない。
大勢の見物客のなかに、在原業平(825~880)がいた。

言うまでもなく、日本史上最高のプレイボーイである。
このとき、業平は35歳である。

そして、在原業平と藤原高子の恋愛ドラマがスタートする。

男は女を、あの手この手で口説き落とす。
藤原北家にしてみれば、「清和天皇の女御予定者」を傷者にされては困る。

女は18歳にして初めて恋の甘美な蜜を知ってしまった。
許されぬ恋ゆえの駆け落ち。

しかし、駆け落ちは一夜だけで追手に追いつかれ、引き裂かれてしまう。

藤原北家は、女を蔵に押し込め、男から防衛する。

男は、蔵に向かって、笛を吹く。
結局、男は京都から追放される。

秋の紅葉めぐり 小塩山十輪寺 なりひら寺
十輪寺は、嘉祥3年(850)に創建され、平安時代の歌人で、「伊勢物語」の主人公在 … 続きを読む →

在原業平ゆかりの古刹 不退寺
投稿日時: 2017年3月2仁明天皇の勅願を受け、平城天皇萱御所跡に在原業平が開基したと伝わる。 その由緒か … 続きを読む →

在原業平の子孫が築いたと言われる箕輪城
日本100名城の一つ。 箕輪城は榛名山からのびる低い尾根の末端部を巧みに利用して … 続きを読む →

アクセス
JR東海道本線で、京都駅より約7分、「向日町駅」で降り、阪急バス66系統で約30分、「小塩」バス停下車すぐ。
バスの本数が少なく注意が必要。

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西行ゆかりの寺 花の寺勝持寺


大原野神社から2~3分山道を進むと勝持寺への参道に合流します。
合流する手前に橋が架かり鳥居が建っています。

『勝持寺は、小塩山の東麓、標高130~170mに位置し、寺伝では役小角の開創といわれる山林寺院です。

京都第2外環状道路の新設工事に先立って、平成22年(2010)から平成24年(2012)にかけて、勝持寺の旧境内にあった子院跡と推定される場所で発掘調査が実施されました。

調査では、建物・井戸・石垣や石塁などが見つかり、当該地において鎌倉時代から室町時代の複数の子院跡の存在が確認されました。
この奥に石塁の一部を移築して保存しております。

勝持寺は京都の西南郊外の大原野に位置する。

勝持寺は古くから桜の名所として知られるが、創建についてはあまり明らかでない。

寺伝では天武天皇8年(679年)に天武天皇の勅によって役小角が創建したと伝えられる。

その後延暦3年(784年)に大原野神社が創建されると、勝持寺は大原野神社の別当寺とされ、延暦10年(791年)に桓武天皇の勅により最澄が再興して小塩山大原寺と称したという。

保延6年(1140年)10月、佐藤義清が当寺で出家し、西行となっている。
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勝持寺は古くから桜の名所として知られ、西行ゆかりの寺として知られるが、創建についてはあまり明らかでない。

平安時代の仁寿年間(851~854)に仏陀上人が伽藍を復興したと伝えられています。

堂中には薬師如来像・金剛力士像・日光菩薩像・月光菩薩像・十二神将像・西行法師像といった重文がずらり。

室町時代には、足利尊氏の帰依などにより寺運は隆盛し、現在の勝持寺の周辺には多くの子院(本寺に付属する小寺院)が存在したといわれています。

不動堂へ上がる石段の下、小さな池の奥に鏡石が在ります。

鏡石は、西行が勝持寺で出家し、この石を鏡の代わりに使って頭を剃ったと伝わります。

瀬和井の泉 – 西行が髪を剃った後にこの泉で自らの出家した姿を見たという。

不動堂前の石段を下って、右側に進むと小さな池の中に石の観音像が祀られています。

この観音像は魚籃観音(ぎょらんかんのん)で、魚籃とは魚を入れる籠のことで、組み合わせた手に籠を持っています。

三十三観音の一尊である馬郎婦観音(めろうふかんのん)と同体とされています。

中国・唐の時代、魚を扱う美女が、観音経・金剛経・法華経を暗誦する者を探しだし、結婚しましたが、まもなく亡くなりました。

この女性は、法華経を広めるために現れた観音とされ、馬郎婦観音(魚籃観音)として信仰されるようになりました。

鳥羽上皇に仕えていた北面の武士佐藤兵衛義清が、保元6年(1140)当寺に於いて出家し、西行と名を改めして庵を結び、一株の桜を植えて吟愛していた。

世人はその桜を「西行桜」と称し、寺を「花の寺」と呼ぶようになった。

鐘楼堂
西行桜 – この桜の横に西行の庵があったという。
現在の桜は3代目である。

西行と桜の老精とのやり取りを描いた、室町時代の世阿弥作・謡曲「西行桜」の舞台となったところだと云われています。

「花見んと むれつつ人の くるのみぞ あたらさくらの とがにはありける」西行法師

鐘楼堂の脇の石段を下りると、小川(三春川)があり石橋が架かっています。

「仁王門」は、応仁の兵火を免れた仁寿の旧構を残す勝持寺最古の建造物になっている。

戦国の争乱をも睨み続けてきた仁王さん。
痛々しく傷ついても、なお迫力満点の風貌。

祇園女御供養塔~芭蕉堂~西行庵~石塀小路
清盛ゆかりの地を訪ねようと八坂神社、六波羅蜜寺、六道珍皇寺、円山公園一帯を散策し … 続きを読む →

江口の君堂 西行と江口の君を偲ぶ
往来する貴族たち相手の遊女の里としても知られ、『遊女記』に「天下第一之楽地也」と … 続きを読む →


法金剛院のハス
この寺の起こりは平安時代の初めに右大臣清原夏野(なつの)が山荘を寺に改めたこと。 … 続きを読む →

吉野奥千本は雨でした
南東北の名城を掲載中ですが、吉野の記事を挟みます。 かつては高城山から金峯神社に … 続きを読む →

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鉄砲伝来と根来寺


根来寺は1130年に開祖の覚鑁(かくばん)が高野山に造営した小伝法院という一堂がはじまりとされ、1140年に現在の地へ移り、戦国時代には寺領72万石の大寺院となっています。

根来衆は豊臣秀吉と激しく敵対したことは有名だが、大塔と大師堂は秀吉による焼き討ちを免れたことが知られている。

大塔(大毘廬遮那法界体性塔、国宝) – 本尊・胎蔵大日如来。
高さ40メートル、幅15メートルの木造では日本最大の多宝塔。

基部には羽柴秀吉に攻められた際の火縄銃の弾痕が残されている。

1976年(昭和51年)から寺域周辺の発掘調査が行われて、往時の根来寺の規模が400万平方メートル余りと壮大であったことが学術的にも裏付けられた。

また、発掘によって陶磁器、漆器、仏具、武器などのおびただしい遺品が出土した。

それら遺品は敷地内に建てられた「岩出市立民俗資料館」で保管・展示されている。

新義真言宗の総本山。
長承元年(1132)、宗祖覚鑁上人(興教大師)が高野山に大伝法院を創建したことに始まる。

鎌倉時代に現在の場所へ移転したといわれる。

南北朝から室町時代にかけて大きく発展し境内に多くの院家を擁する一大教団となった。

現存する本尊(重要文化財)や大塔(国宝)もこの頃に再建されたもの。

天正13年(1585)、天下統一をめざす秀吉の紀州攻めにより堂塔・院家の多くを焼失したが、江戸時代には紀州徳川家の支援などを得て復興した。現在、境内地の大部分は国の史跡に指定されている。桜や紅葉の名所としても有名。

「根来衆」と「雑賀衆」の兵力規模

鉄砲で武装した根来寺の僧兵集団は「根来衆」と呼ばれ、兵力は1万人にも達していたといいます。

さらに当時の和歌山には、「雑賀衆(さいかしゅう)」という鉄砲を主力とする一団もいました。
もともとは雑賀庄内(さいかしょうない)(現・和歌山市)の土着集団で、鉄砲を8000丁も保有する傭兵団でもあったといいます。

また、熊野水軍の流れもくんでいたため、海運と交易が盛んだったばかりか、有事には水軍としても活動しました。

この根来寺と雑賀衆の関係は良好で、雑賀側の住民が根来寺に塔頭を建てることもありました。
また使用した鉄砲も、根来衆が伝えたとする説があります。

根来寺のおみくじは小さなダルマに入っていて境内のあちこちにダルマが並んでいます。

聖天堂(重要文化財)

聖天池に浮かぶ堂で聖天尊を安置しています。
この堂正面の朱塗の壇が有名な「根来塗」で室町時代から伝わっているものです。
令和元年に重要文化財に指定されました。

鐘楼門

根来寺の僧兵、津田監物(つだけんもつ)が種子島から鉄砲と火薬の技術を持ち帰り、門前町の鍛冶屋につくらせました。
このとき製造されたのが、国産最初の1丁であるといいます。

薩摩藩の南浦文之(なんぼぶんし)和尚が慶長11年(1606年)に書いた『鐡炮記(てっぽうき)』には、種子島に鉄砲が伝来した際に種子島時尭(ときたか)が二丁を購入したのち、この鉄砲を購入する目的でいち早く種子島を訪れたのが根来寺の「杉ノ坊某」であったことが記されている。

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長浜 大通寺


大手門通り 西門

長浜は商業の取引に課税しない「楽市・楽座」制度を採用していたため、多くの商人が行き来した街でした。
江戸時代が終わり明治になってもその賑わいは続き、経済的にも発展したため、多くの銀行が立ち並んでいたそうです。

その一つが「第百三十国立銀行長浜支店」。
明治33(1900)年に建てられた木造洋館は、黒漆喰の外観から「黒壁銀行」と呼ばれ親しまれていました。

明治時代には「明治銀行」と名前を変え、昭和の頃にはカトリック教会としても使われていました

昭和の中頃になると、大型店が郊外に続々とオープンし、長浜の街に活気がなくなっていきます。

同じ頃、皆に愛されてきたこの黒壁銀行が取り壊しの危機にあい、地元有志による保存運動を経て、「株式会社黒壁」を設立。
新たな街づくりに取り組むことになりました。

こうして、黒壁銀行は平成元(1989)年に「黒壁ガラス館」として新たにオープン。

竪型万華鏡

奥へと進んでいくと、突き当たりに塔のような高い建物が現れます。
これこそ、今回ご紹介する竪型万華鏡。

高さは約8メートル。
確かにここまで大きな万華鏡を見たことのある方は少ないのではないでしょうか。

青空に向かって屹立する実物を見ると、圧倒されること、間違いありません。

頂上部に色とりどりの羽根がついているのがおわかりいただけるでしょう。

こちらの羽根は「オブジェクト」と呼ばれているもので、光がオブジェクトに反射し、さまざまな色や模様を現出させるのです。

長浜は豊臣秀吉が城を構えたところ。
すぐ傍にこんなパロディ的なものがあります。

曳山博物館 通りにある広場
きいなパーク と名付けられていますが「きいな」という滋賀、長浜の方言を使っていると思われます。

「きいな」とは「おいでよ」の意味です。
「うちに遊びにきいな!!」といった感じで使います。

お花ぎつねのオブジェ

明治のはじめ頃、大通寺に単身赴任してきたお坊さんがいた。

洗濯をしたある日、下帯だけ後で洗おうと思い縁の下に置いたままにしていたのだが、あくる朝、この下帯が本堂前に持ち出されていて、参詣に来た人々の目に入り大笑いされてしまった。

周囲の人に、赴任してきた時にお土産を「お花はん」に持ってこなかったからだと聞かされたお坊さんは、油揚げを買って大広間の天井へお供えした。

すると、それからピタリといたずらが止んだそうである。
大通寺では、今でも大広間に梯子がかけられていて、油揚げをお供えする人が後を絶えないという。

急ぎ去れ  彼も親あり  花狐

「近江むかし話」によると、昔、大通寺(長浜御坊さん)に「お花はん」というきつねが住んでいたとか。

大通寺は、江戸時代には 琵琵湖岸の長浜城跡の中にあり 賑やかな街の中に移そうという賛成派と、反対派に意見がわかれ、本山(東本願寺)で決めてもらうことになったそうです。

お花はんは どうやら賑やかな街中に行きたかったらしく、お茶屋の娘に化けて 反対派の人たちの足止めをしたとか・・・で、今は この街中にあります。

道の両側に きつね っぽいアレコレがあることに気づきました。

橋の欄干も狐
尻尾もあるよ?

滋賀県の古刹、大通寺は江戸時代初期に建立され、真宗大谷派(東本願寺)の別院として知られています。

幅広い層から信仰をあつめ、地元の人々から「御坊さん」と親しみを込めて呼ばれています。

2023年1月27日 長浜別院大通寺で撮影された映画「レジェンド&バタフライ」が公開されました!!!

大通寺では信長、家康、光秀の3人が一堂に会す重要なシーンの撮影が行われました。

山号は「無礙智山」(むげちざん)。

別名は「長浜御坊」(ながはまごぼう)で、地元では「御坊さん」(ごぼうさん、またはごぼさん)と呼ばれる。

「長浜別院」、「大通寺」と略称される。

本坊

山門扉

山門 – 1840年(天保11年)ごろに完成したもので、完成まで33年経過したといわれる。
入母屋造で三間三戸で作られている。

表参道から山門までの雰囲気が、「男はつらいよ」に出てくる柴又の帝釈天に似ていると感じる。

そうなんです!
この大通寺の山門の下でも「男はつらいよ」のロケ行われました。

蓮池の枯れ葉がきれいです。

梅も咲いています。

歩いたのはここまでの1キロ弱とほんの短い道でしたが、「十里街道」はこの先も湖北へと続いているようです。

「長浜御坊」に通じるもうひとつの道・・・「十里街道」、初めて知った思わぬ”まちかど散策”でした。

通りから見える伊吹山、ちらりと見えるところがいいね。

公園の向こうに頭が見えてています。

珈琲屋さんの看板、レトロ感がいいね。

滋賀県長浜市に2021年12月にオープンした商業文化施設「湖(うみ)のスコーレ」がフーディーの間で話題になっている。

“スコーレ”とはギリシャ語で「学校」を意味する言葉で、「発酵文化」などこの土地に根付く暮らしの知恵を学ぶ場所として造られた。

滋賀県では琵琶湖を、親しみと敬意を込めて“うみ”と呼んでいるのだとか。

今日のお昼はスコーレでいただいた。

「近江牛の伊吹山発酵カレー」サラダにコーヒー付きで中々美味でした。

妙法寺、羽柴 秀勝の墓所。

羽柴 秀勝(はしば ひでかつ、生年不詳 – 天正4年10月14日(1576年11月4日))は、安土桃山時代の人物。
羽柴秀吉が近江長浜城主時代にもうけた長男で、幼名は石松丸(いしまつまる)または石松。

他の秀勝(於次丸秀勝・小吉秀勝)と区別するため、史家は便宜上これを石松丸秀勝(または石松秀勝)と呼ぶことがある。

秀吉が長浜城主時代にもうけた初めての男児であったという伝承がある。
生母には諸説あるが、いずれの場合も側室で、秀勝は庶長子である。

「秀勝」の初名は、羽柴氏の由来と同じく、織田家の宿老の丹羽長秀の秀と柴田勝家の勝の両名の偏諱を受けたものであると考えられているが、同様に史料的裏付けはない。

秀吉は後になって、養子とした織田信長の四男や三好吉房の次男にも同じ名を付けた。

天正4年(1576年)10月14日、秀勝は死去した。

長浜に今も伝わる曳山祭は、天正2年(1574年)に秀吉に男児が誕生したのを祝って始められたとの伝承がある。

長浜市石田町生まれの三成が、観音寺で修行をしていたある日のこと。

当時長浜城主だった秀吉が鷹狩りの途中に立寄ったところ、最初は大きい茶碗にぬるいお茶をなみなみと、次は前より少し熱くして半分ほどのお茶を、最後には小さな茶碗に熱くした少しのお茶を差しだしました。

この三成の心配りに感心した秀吉は、やがて三成を召抱えることとなりました。

これが有名な「三献の茶」の逸話です。
この像は、二人の出逢いをモチーフに昭和56年9月に駅前に建立されたものです。

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長浜 米川に沿って


今日は倶楽部の撮影会で長浜に行く。

近江と美濃の国境に聳える伊吹山、彦根城からは遙か彼方という距離感でしたが、長浜辺りからは間近に望むことができます。

北國に来たという実感。

琵琶湖の北東岸を北上し、余呉湖の北の柳ヶ瀬、県境の栃ノ木峠をへて越前・加賀に通じる北国街道は多くの商人、旅人、武将らが頻繁に利用、長浜はその宿駅として、また湖上交通の要として栄えた町です。

港町の風情を残す舟板塀や紅殻格子(べんがらごうし)、虫籠(むしこ)窓の家々や白い土蔵を持つ老舗の商家、道中安全を願った常夜燈などが建ち並び、昔の面影を色濃くとどめています。

作品作りを頭に描きながら散策。

街を歩いていて気になる存在が長浜まちなか地域を流れる米川(地元では「よねがわ」と呼ぶ)は、姉川水系とともに1級河川であり滋賀県の管理対象です。

米川も高度成長期にはご多分にもれず汚染を受けたが、地元NPOの尽力により清澄な流れを取り戻している。

長浜地区地域づくり連合会は、米川の”川そうじ”を流域自治会が総出して、毎年そうじを行う地域に密着している川で、滋賀県立大学環境科学部の学生が全国的に見ても、住居地域を流れる川として大変きれいな川で、地元の方がもっと自慢されてよい川であると評価。

川相は上流部は農地を流れる用水路状、中流は市街地を流れる都市河川、下流においては舟運にも利用された掘割と、変化を見せる。

川辺の石積みを見ると、あちこちに “かわど” と呼ばれる石段がある。

家庭では野菜や漬け物の洗い場として、商家では運搬や往来の手段として、ずっと昔から、この米川は長浜の町衆の暮らしと深く結びついてきた。

湧水を水源とする大変きれいな川で、夏はアユが遡上し、冬はカモなど渡り鳥が憩う川です。

流域の元浜町には往時を偲ばせる風景がよく残され、近年では観光スポットとなっている。

一級河川の起点は長浜市川崎町の羽織町。

源頭は長浜市北東部の東上坂町(ひがしこうざかちょう)の姉川扇状地。

南西流し、長浜市中心部を流れ、長浜城の南・港町と朝日町の境で琵琶湖北岸に注ぐ。

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慶沢園~住友家本邸庭園跡


福岡藩(黒田家)蔵屋敷の表門

当時 大阪には124の大名蔵屋敷があったが 現存するのは この門だけ。
黒田家の蔵屋敷は現在の中之島三井ビル付近にあった。

昭和8年同ビル建設に際し 三井から大阪市に寄贈された。
現在は天王寺公園内 大阪市立美術館南側に保存されている。

長屋門には別称で「後藤又兵衛あかずの門」や「後藤又兵衛不閉門」という呼び名もあるそうですが、由来について記された資料ははっきりとしていません。

ただ、大坂の陣で豊臣方についていた、真田幸村らと共に戦って討死した、黒田藩の武将が又兵衛が帰ってくるのを門を閉めずに待っていたという話が伝わっていると言います。
そんな「旧黒田藩蔵屋敷長屋門」を潜り抜けた後、右手側に進路を取ると慶沢園があります。

慶沢園 南門(出入口)

大阪市美術館の南側にひっそりと佇んでいます。

美しい庭園の出入口にしては小さく簡易的な門で、慶沢園を知らない人が見たら大きな庭園の正門だとは想像できないかもしれません。
慶沢園の額が掲げられていて、銅板葺の切妻屋根の中央部分のみに瓦が乗った、ユニークな屋根が特徴です。

入園する前に頂いたパンフレットを見ながら、庭園の見どころとなる部分を順に歩き進めて行くのですが、ひとつ目は池の前に曲線を描いて州が出入りしている「州浜(すはま)」があり「船着石(ふなつきいし)」が見どころとなります。

「州浜」より左回りで「石切橋」歩き進めて行くのですが、日本一の高層複合ビル「あべのハルカス」を正面に見ることができます。

池の対岸に雪見灯篭が微かに見え、さりげなく奥行きのある世界を示しています。

つくばい 

手前に石があって、一段下がったところに石臼が置かれています。
正客は石のところまで来ます。
それでは水に手が届きません。
そこで付き人が石臼まで降りてきてひしゃくで水を汲み、正客はそれで手を清めていた様子が見えてきます。

「慶沢園」は、茶人の木津聿斎の設計をはじめ、近代日本庭園の先駆者とされる作庭家「小川治兵衛(おがわじへえ)」通称「植治」により、明治41年に造園が開始されて以来、完成が大正7年という、実に10年を費やして造られた住友財閥の茶臼山本邸の庭園となります。

四阿(あづまや)

園内の南にあり、椅子に座って美しい庭園を眺めながら休憩することができます。

窓枠が額縁の役割をすることで明るい庭園の美しさが引き立てられ、写真スポットとして人気があります。

窓ガラスには現代ではあまり見る機会が無くなってしまった波打ちガラスが使われています。

床には那智黒石(なちぐろいし)が敷かれています。

趣のある「四阿」の天井は矢羽根の網代で、廻縁は小丸太、庭園の観賞がしやすいように、左右および前面には窓ガラスがはめ込まれています。

「慶沢園」の名前の由来は「伏見宮貞愛親王」から賜ったもので、はじめは「恵沢」の名を用い「照代之恩恵、先祖の余沢」の意より出たもので「恵沢園」としていましたが、大正7年の5月に、今の「慶沢園」の字に改められています。

美術館の建て替えをはじめ、戦後の昭和33年~昭和35年頃に行われた本格的な整備により、敷地の東端部が大きく削られる改造を受けましたが、池をはじめとした中心部に関しては竣工時の状態を保っていると言います。


沢渡

大きな石を目指して人は渡り、そこで歩を休めます。
そこから見る景色がよい。
ここにもデザインとして石臼が使われています。

2本の短い石橋が互い違いになるように掛けられており、小川治兵衛の遊び心が感じられます。


程なくすると、先程よりも少し大きな「州浜」があり、前方には、住友家の旧本邸敷地に建てられている大阪市立美術館が見えているのですが、それを背景に庭園を観賞できます。

「慶沢園」は、大名庭園を基礎に造営していて、大小3つの中島を浮かべた大池を中心に、その三方に全国から名木や名石を集めて築山を築いた造りになっています。

龍頭石(りゅうずいし)と龍尾石(りゅうびいし)

天然石でできており、サツキの刈り込みを胴体に見立てて、手前の龍頭石から左奥の龍尾石にかけて龍が横たわっているように見せています。

絶景広がる「州浜」の横に「龍頭石と龍尾石」があるのですが、配置されている位置的にも遊歩道からではその全貌を見ることができません!

「州浜」には入ることが出来れば見えるのですが、立ち入る事ができず、生い茂る木々が邪魔していて見えません!

角度的には「四阿」辺りから見るのが良いかと思い、一旦戻って望遠レンズで写真を撮って見ました。


舟形石

後述の舟着石と対になる自然石です。

大海をイメージした大池に舟が漕ぎ出す前の様子が見事に表現されています。

最初にあった「船着石」と「船形石」の二対の石によって、大海となる大池を巡る船の旅を想像できるように設計されています。

そんな「船形石」ですが、これまた生い茂る木々で少し見えにくい場所に配置されていますので、お気を付け下さい!

最後の見どころは、庭園の北東の築山の麓に配置されている「滝」ですが、飛石の右手側の奥にあります。

水が落ちる滝壺に滝を登ろうとする鯉に見立てた水受石があり、このような滝の様式では、滝を登りきった鯉が龍になると言い「龍門瀑(りゅうもんばく)」と呼ばれています。

まずまずの水量がある滝ですが、そんな滝より流れ落ちる水が、大海に流れ出す様子を現しています。


庭園内には随所に飛石があり、こちらにも小川治兵衛の遊び心が感じられます。

足元に流れる水は、後述の滝から落ちた水が大池に流れ出す様子を表しています。

この日も若い人がパラパラと散策に見えています。

なお、飛石を渡らずに、滝の後ろ側を通る園路もあります。

ほぼ一周しました、振り返ると、ハルカス、四阿が見えています。

そんな見ごたえのある滝を横目に見ながら飛石を渡ると「四阿」の対岸の位置にあたる「休憩所」があります。

長生庵(ちょうせいあん)は、明治・大正時代の茶道武者小路千家(むしゃこうじせんけ)の宗匠(そうしょう)である三代木津宗詮(きづそうせん)が設計しました。

三代木津宗詮は多くの茶室の設計に携わっており、例えば四天王寺本坊庭園とその茶室や、大宮御所の茶室である秋泉亭(しゅうせんてい)などを手掛けた人物です。

八畳の広間と二畳台目(にじょうだいめ:丸畳二畳と台目畳一畳の茶室)の小間で構成されている茶室で、予約をすれば誰でも借りることができるので、茶会や句会のほか、結婚式の記念撮影などで使う方もいるそうです。

やかん、かま、風炉(ふろ)などの備品も無料で借りることができます。

1958年(昭和33年)に、住友家の分家である都島の旧藤田家から移築されたもので、こちらは出口専用となっています。

立派な瓦葺の切妻屋根を持ち、入り口である南門よりも存在感漂う門です。

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秋の四天王寺


レタッチで赤外線を選ぶと、赤外線写真用の白黒ネガフィルムのようなトーンに仕上げることができます。

赤外線写真では、空や水面は黒く写ります。

通常、空が青く見えるのは、太陽光が大気で散乱を繰り返しそれがあらゆる方向から地上に届くためです。

赤外線写真では青い光が遮断されるために「黒く(暗く)」写ります。

水面が暗く写るのは、赤外線が水に吸収されるためです。

通常のモノクロ写真では植物の葉は黒く写りますが、赤外線写真では植物は白く写ります。

これを「スノー効果」と言います。

この現象は植物の葉が赤外線を強く反射するために起こります。

赤外線写真の一番の特徴と言えます。

四天王寺は、天王寺区四天王寺にある和宗の総本山の寺院。

山号は荒陵山(あらはかさん)。
本尊は救世観音(ぐぜかんのん)。

聖徳太子建立七大寺の一つとされている。
新西国三十三箇所第1番札所のほか多数の霊場の札所となっている。

『日本書紀』によれば推古天皇元年(593年)に造立が開始されたという。

当寺周辺の区名、駅名などに使われている「天王寺」は四天王寺の略称である。

また、荒陵寺(あらはかでら)・難波大寺(なにわだいじ)・御津寺(みとでら)・堀江寺(ほりえでら)などの別称が伝えられている。

宗派は天台宗に属していた時期もあったが、元来は特定宗派に偏しない八宗兼学の寺であった。

日本仏教の祖とされる「聖徳太子建立の寺」であり、既存の仏教の諸宗派にはこだわらない全仏教的な立場から、1946年(昭和21年)に「和宗」の総本山として独立している。

四天王寺は蘇我馬子の法興寺(飛鳥寺)と並び、日本における本格的な仏教寺院としては最古のものである。

四天王寺の草創については『日本書紀』に次のように記されている。

用明天皇2年(587年)、かねてより対立していた崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏の間に武力闘争が発生した。

蘇我軍は物部氏の本拠地であった河内国渋河(現:大阪府東大阪市布施)へ攻め込んだが、敵の物部守屋は稲城(いなき、稲を積んだ砦)を築き、自らは朴(えのき)の上から矢を放って防戦するので、蘇我軍は三たび退却した。

聖徳太子こと厩戸皇子(当時14歳)は蘇我氏の軍の後方にいたが、この戦況を見て、白膠木(ぬるで)という木を伐って、四天王の像を作り、「もしこの戦に勝利したなら、必ずや四天王を安置する寺塔(てら)を建てる」という誓願をした。

その甲斐あって、味方の矢が敵の物部守屋に命中し、彼は「えのき」の木から落ち、戦いは崇仏派の蘇我氏の勝利に終わった。

その6年後、推古天皇元年(593年)、聖徳太子は摂津難波の荒陵(あらはか)で四天王寺の建立に取りかかった。

寺の基盤を支えるためには、物部氏から没収した奴婢と土地が用いられたという(なお、蘇我馬子の法興寺は上記の戦いの翌年から造営が始まっており、四天王寺の造営開始はそれから数年後であった)。

明治33年(1900年)に大阪・四天王寺にて創業した総本家釣鐘屋。

「世界一」とうたわれた四天王寺の大梵鐘をモチーフに生まれた釣鐘まんじゅうは、当店発祥の大阪名物。

創業時からの変わらぬ味を今に伝えています。
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