犬鳴山


犬鳴山(いぬなきさん)は、大阪府泉佐野市大木犬鳴の犬鳴川渓谷を中心として、そこへ流れ込む燈明ヶ岳(標高558m、西ノ燈明ヶ岳ともいう)等の山域全体の総称。

「犬鳴山」という名称の山があるわけではない。

七宝瀧寺参道としての犬鳴川を持ち、決して高い山域ではないにも関わらず、渓流沿いの山岳景観は「大阪府 緑の百選」にも選ばれ、地元民に深く愛されている。

関西国際空港が開港してからは、空港からもっとも近い温泉「犬鳴山温泉」がある場所として名前が広がった。

画像は2の橋。

山中には、七飛瀑(両界の滝、塔の滝、弁天の滝、布引の滝、古津喜の滝、千寿の滝、行者の滝)をはじめ大小48の滝がある。

このうち行者の滝は滝に打たれる修験場として知られている。
一般の一日体験も可能であり、女性でも参加できる。(有料、要予約)

画像は大黒天。

大阪府で最も高いノッポ杉、樹高38m。

なお「犬鳴山」の読み方についてであるが、地元では通常(いぬなきさん)と呼ぶ。

これは次節で述べているように、「犬鳴」が寺院の山号に由来しているためである。

そのため地元で「いぬなきさんに行く」と言えば、犬鳴川渓流沿いの参道を遡って七宝瀧寺へ行くことを指すのであって、決して山歩きに行こうと言っているわけではない。

これに対し、参道渓流入り口の温泉郷では(いぬなきやま)と読ませて「犬鳴山温泉」と称している。

犬鳴山という名前は、七宝瀧寺の山号である「いぬなきさん」に由来したものである。

両界の滝。

犬鳴大明神の由緒

古記にに依れば白鳳齊明天皇の御字、役小角が当山奥の滝(行者の滝)にて本尊倶利迦羅大龍無動明王をご感得になられたその少し前、同じく口の瀧(両界の滝)にてご修行の折、火の神が御誕生されました。

滝よりお生まれになったので瀧宮大明神と号し麓の大木の里に鎮祭しました。

平安初期、延直式で式内郷社に列され、火走神社として爾来高く尊崇されています。

今、そのご分霊を神意により犬鳴大明神と号し此処生誕地に改め勧請し奉る。

近世初頭の「口上覚」によると、毎年5月に高野山から葛城巡行する先達たちは、犬鳴山に7日間留まり柴焼護摩を修したといい、「葛城山中で七日間も逗留するのはここだけだ」と述べられており、いかにこの山の地位が高かったかをうかがわせるものとなっている。

南北朝期に六坊が創建され、室町期には二十坊の坊舎を有し、本堂の修復も行われて隆盛を迎えた。

しかし豊臣秀吉の根来攻めによって本堂以外の堂舎を焼き払われ、田畑山林も没収され、一時は廃絶同然となった。

のち岸和田城主より寺領五石の寄進を受け、ほぼ今日見られるまでに復興したものである。

修験道は、山へ籠もって厳しい修行を行うことで悟りを得ることを目的とする日本古来の山岳信仰。

仏教に取り入れられた日本独特の宗教でもある。
修験宗ともいう。

修験道の実践者を修験者または山伏という。

修験道は、森羅万象に命や神霊が宿るとして神奈備(かむなび)や磐座(いわくら)を信仰の対象とした古神道に、それらを包括する山岳信仰と仏教が習合し、密教などの要素も加味されて確立した。

日本各地の霊山を修行の場とし、深山幽谷に分け入り厳しい修行を行うことによって功徳のしるしである「験力」を得て、衆生の救済を目指す実践的な宗教でもある。

この山岳修行者のことを「修行して迷妄を払い験徳を得る 修行して その徳を驗(あら)わす」ことから修験者、または山に伏して修行する姿から山伏と呼ぶ。

修験とは「修行得験」または「実修実験」の略語とされる。

画像は瑞龍門(行者迎えの門)

修験道は神仏習合の信仰であり、日本の神と仏教の仏(如来・菩薩・明王)がともに祀られる。

表現形態として、権現(神仏が仮の姿で現れた神)などの神格や王子(参詣途上で儀礼を行う場所)がある。

修験道は、飛鳥時代に役小角(役行者)が創始したとされるが、役小角は伝説的な人物なので開祖に関する史実は不詳である。

役小角は終生を在家のまま通したとの伝承から、開祖の遺風に拠って在家主義を貫いている。

修験道は、平安時代のころから盛んに信仰されるようになった。

その信仰の源は、すでに8世紀からみられた仏教伝来以前からの日本土着の神々への信仰(古神道)と、仏教の信仰とを融合させる「神仏習合」の動きの中に求められる。

神仏習合は徐々に広まり、神社の境内に神宮寺が、寺院の境内に「鎮守」としての守護神の社がそれぞれ建てられ、神職、あるいは僧職が神前で読経を行うなどした。

そして、それらの神仏習合の動きと、仏教の一派である密教(天台宗・真言宗)で行われていた山中での修行と、さらに日本古来の山岳信仰とが結びついて、修験道という独自の信仰が成立していった。

このように、修験道は、密教との関わりが深かったため、修験道法度弐を定めることで仏教の一派と見なして統制した。

修験道は、鎌倉時代後期から南北朝時代には独自の立場を確立した。

江戸幕府は、慶長18年(1613年)に修験道法度を定め、真言宗系の当山派と、天台宗系の本山派のどちらかに属さねばならないこととし、両派に分けて競合させた。

ただ本山派は天台宗寺門派の園城寺末の聖護院を本山とし、当山派は真言宗総本山醍醐寺塔頭の三宝院を本山とするように、いずれも仏教教団の傘下で活動した。

宇多天皇の御代、紀州の猟師がこの山域で狩りをしていた際、突然連れていた犬が激しく鳴きだし、結果猟師が射ようとしていた鹿が逃げてしまった。

怒った猟師は犬の首をはねたのだが、その首はそれでも飛び跳ね、今まさに猟師に襲いかかろうと狙っていた大蛇に噛み付いた。

犬は、主人が大蛇に狙われていることを知って鳴いていたのであった。

愛犬に救われたと気付いた猟師は、これを悔いて七宝滝寺の僧となって愛犬を供養した。

このことを聞いた天皇はいたく感動し、七宝滝寺に『以後「いぬなきさん」と改めよ』と勅号を賜ったと伝えられている。

明治元年(1868年)の神仏分離令に続き、明治5年、修験禁止令が出され、修験道は禁止された。

里山伏(末派修験)は強制的に還俗させられた。

また廃仏毀釈により、修験道の信仰に関するものも破壊された。修験系の講団体のなかには、明治以降、仏教色を薄めて教派神道となったものもある。

御嶽教、扶桑教、実行教、丸山教などが主で、教派神道にもかかわらず不動尊の真言や般若心経の読誦など神仏習合時代の名残も見られる。

犬鳴山七宝瀧寺は、院号を「白雲院」と呼ばれていますが、これには乙女の哀しい物語があります。

その昔、淡路の小聖という修験者がいて、しばしば御所へ出入りしているうちに、官女の志津女という美人に想われる身となりました。

小聖は修行の妨げになるからと志津女を振り切って、犬鳴山中に逃れてきました。

志津女は小聖をあきらめきれず、あとを追って諸国を探し求め、遂に泉州犬鳴山に小聖が修行しているのを風のたよりに聞き、かの僧に一目会うべく犬鳴山まで来ました。

しかし、険しい渓谷の山路と、飢えと寒さ、そして俄かにたちこめてきた白雲によって道を見失い、ついに路傍に悶死しました。

村人は志津女の亡骸をねんごろに葬りました。

こうしたことがあってから、犬鳴山に白雲が立ちこめる日は必ず雨が降るので、村人は「志津の涙雨」だと言い、また、倒れていた付近の山肌から流れしみ出した清水を「志津の涙水」と呼ぶようになりました。

志津女の墓は、本堂下手100mの付近、参道の傍らにあり、その側からは今も涙水のように、清水が流れ落ちています。

書院はこの時から、「白雲院」と呼ばれるようになったと伝えられています。

また、一心を込めた願い事がある場合、この水を持ち帰り毎日飲用すると必ずや願い事が成就するといわれています。

付近にはお志津地蔵尊の御堂が建立され、一願成就のお地蔵さまとして信仰を集めています。

行者の滝。

橋の上まで進んで滝のクローズアップを撮ろうとしたのですが、バッテリー切れでアウト。

Z6は電池の消耗が激しい、予備の電池の傾向が必要になる。

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破壊の跡も痛々しい 南関城

南関城の大きな見どころの一つは、「破壊」である。
破壊されたほかの城跡には見られない、特徴的な破壊の痕跡とは、石垣を壊してその石材を一つ一つ運んで、空堀の底一面に敷き詰めて、土で覆い隠していることである。

鷹ノ原城は南関町役場の北方にある標高104m、比高40m程の丘陵に築かれている。
地形を見ると東西400m程に渡ってほぼ同じ高さの地形が続いている。

鷹ノ原城の本丸跡には、明治10年(1877)の西南の役で、薩摩軍と戦って死亡した政府軍の将兵77名の墓地があり、登り始めるとすぐに、鷹ノ原城跡への案内柱とともに、官軍墓地への案内柱も立っています。

慶長5年(1600年)加藤正次によって築かれたと云われる。
加藤正次は加藤清正の家臣で大津山城代であったが、慶長5年(1600年)鷹ノ原城を築いて居城とした。

鷹ノ原城の築城にあたっては加藤清正が縄張りしたと伝えられる。
元和元年(1615年)一国一城令によって廃城となった。

南関城は端城。でも、ここは佐賀の名護屋城とほぼ大きさが同じ。
端城という規模じゃない。

完成したものの、江戸時代に入り、一国一城令が出され、築城からわずか15~16年で壊された。

壊したのは細川忠利の時代。
ただ単に壊すだけでなく、ここは石垣の下方まで徹底して壊し、石材は空堀の底一面にびっしり敷き詰め土で覆い隠すという徹底ぶり。

なぜ、ここまで徹底したかというと、先の天草・島原の乱で原城の壊しかたが適当だったため、一揆勢が立て籠ったので、細川忠利は徹底して破壊したと思われる。

三の丸跡は、ほとんど発掘調査がされていないようで、多くが畑地になっています。

町当局は平成5年に二度目の発掘調査を始め、その後「天下泰平国土安穏」の銘入り鬼瓦などの発見が相次ぎ同10年城址が県史跡に、鬼瓦などは県重要文化財指定となっています。

そして平成20年3月国史跡となりました。

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南関城へのアクセス、行き方歩き方

熊本県玉名郡南関町関町

産交バス/南関バスセンターより徒歩5分
西鉄バス/南関より徒歩10分

九州の要 築後国一の宮 高良大社

高良山(こうらさん)は福岡県久留米市の山。
高牟礼山(たかむれやま)、不濡山(ぬれせぬやま)、青山山、梶山(かじやま)、琴弾山(ことひきやま)などとも呼ばれる。

古来から宗教的な山として崇められ高良大社が築かれ、また軍事的な要衝でもあったため神籠石式山城や住厭城(すみあきじょう)などの遺跡が見られる。

今回の旅、天気予報は芳しいものではありません、時折小雨の降る寒い空です。

山頂に高良山奥院、中腹に高良大社があり、南北の谷を囲むように高良山神籠石が残る。

山中および山麓には祇園山古墳、礫山古墳、高隆寺跡、御井寺跡、座主の墓地、伊勢天照御祖神社、高牟礼権現、宮地嶽神社、桃青霊神社、愛宕社、琴平神社、厳島神社などが点在する。

一説には、白村江の戦いより約百三四十年遡った527年、九州に巻き起こった磐井の反乱の際の築城であるともいう。
磐井の乱は、時の朝鮮出兵をめぐって筑紫の国造である磐井が大和の支持に従わなかったという事件で、これを討伐するに1年以上かかっている。

九州の過半を巻き込んだ内乱であり大和王権の重大な危機であった。

ちなみに筑紫君磐井の墓と考えられている岩戸山古墳は高良山の南にある。

現在の社殿は久留米藩第3代藩主有馬頼利の寄進によるもので、万治3年(1660年)に本殿が、寛文元年(1661年)に幣殿・拝殿が完成した。

高良大社から眺める筑後川流域。

かつてはここに卑弥呼の国、邪馬台国があったはずだ。

邪馬台国の女王・卑弥呼が魏に遣使して、金印を受けた、そして、神功皇后が卑弥呼を滅ぼす。

豊とは、神功皇后のことであり、武内宿禰の妻だった訳だが、 古事記の記述によれば武内宿禰は蘇我氏の先祖でもある。

神功皇后は、新羅が好きだったが、それは武内宿禰が新羅の出身者だったからだ。

古代の大和朝廷(天皇家)は、新羅系の蘇我氏の支援を得て誕生した訳だが、 大化の改新で百済系の中大兄皇子(天智天皇)と藤原鎌足によって、政権を奪われてしまった。

天武天皇(大海人皇子)になって、この新羅系の勢力(蘇我氏)は復活したが、 天武天皇の妻であった持統天皇(天智天皇の娘)により、 再び百済系(藤原氏)に戻ってしまい現在に至っている。

これは八葉石碑残欠といい高良山における神籠石の由来が書かれている石碑の一部。
薄くなって読みづらいが、神籠石発掘の記念碑として江戸時代初期に作られたもの。

傍には説明の看板がある。

神籠石が学会に発表されたのは、1898年(明治31年)に小林庄次郎が筑後・高良山神籠石を「霊地として神聖に保たれた地を区別したもの」として紹介したのが最初である。

1900年(明治33年)に九州所在の神籠石を踏査した八木奬三郎が「城郭を除いては、他にこの類の大工事なかるべし」として城郭であることを主張したのに対し、喜田貞吉が神社を取り囲む聖域であると反論したことで、神籠石の性格について霊域説と城郭説との論争が展開された。

1963年(昭和38年)の佐賀県武雄市おつぼ山神籠石の発掘調査で、列石の背後にある版築によって築かれた土塁と、列石の前面に3m間隔で並ぶ堀立柱の痕跡が発見され、山城であることが確定的となった。

鎌倉時代初期に起源をもつと伝わる「子(ね)の日の松神事」は、毎年正月初子の日(月の最初の子の日)に行われていた。

この神事は、かつて高良の神様が高良山にご鎮座される際に近くの上津地区に住まわれ、松を山内へお植えになられてからお移りになり、お鎮まりになられたとの故事に由来する。

一部の神籠石遺跡から城郭の基礎となる土塁が発掘され、築造が白村江の戦いの後にあたるため、国土防衛の必然があったことが考えられる。

登山道は御手洗池から社殿に通じる表参道、宗崎より稲荷社を経て途中でこれに合流するもの、山川町追分を起点とする裏参道、そして御手洗池から北谷に沿うものがある。

また、1933年に自動車登山道が開かれ、1969年には耳納スカイラインが全面開通した。

山頂には現在琴平神社が祀られているが南東端と北西端に土塁が残っている。
主郭の東下は大堀切で断ち切っている。

主郭の西下にあるのが二の丸、その先端の高台が三の丸と伝えられる。

築城年代は定かではないが天文2年(1533年)八尋式部によって築かれたと云われる。

これは「築後将士軍談」によるもので、「北肥戦誌」には永禄12年(1569年)大友宗麟が築いたとしている。

吉見岳城に通じる道、ここから600m下ったところにある。
天正15年(1587年)豊臣秀吉による九州征伐で秀吉が吉見岳城に本陣を構えている。

吉見岳城は高良山から北西の尾根続きにある標高160m程の吉見岳山頂に築かれている。

バスで下山途中、二の鳥居上部で神籠石を見る。

バスの車窓より二の鳥居。

バスの車窓より一の鳥居。

高良大社の御祭神は、八幡大神(はちまんおおかみ)高良玉垂命(こうらたまたれのみこと)住吉大神(すみよしおおかみ)
八幡大神は応神天皇、高良玉垂命は神功皇后、住吉大神は竹内宿祢と考える。

日本書紀によれば、神功皇后は夫の第十四代仲哀天皇とともに九州に赴いたという。

それは、南部九州の熊襲が反旗を翻したからだというのだが、途中神託が下りて、熊襲を討つのではなく、新羅を討てと命じられる。
天皇はこの神託を無視し、熊襲を討ってしまったために、変死する。

日本書紀は、これは天皇が神の言葉を聞かなかったからだという。

奇怪極まりないのは、仲哀天皇が亡くなった晩、神功皇后と住吉大神は、夫婦の秘め事を行っていたという。

神と神功皇后が、なぜここで男女の仲にならなければならなかったのか。
さらに問題なのは、住吉大神が、武内宿禰と接点を持っていることだ。

武内宿禰といえば、神功皇后の忠臣でつねにそば近くに侍っていたし、古事記に従えば、仲哀天皇が亡くなられた晩、登場人物は天皇と皇后、そして武内宿禰だけだから、意味深長だ。

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高良大社へのアクセス、行き方歩き方

福岡県久留米市御井町一番地
TEL0942-43-4893

JR九州久大本線 久留米大学前駅 (徒歩約35分)

加藤家、細川家の名城 八代城

秀吉が滞在した八代城は、古麓から麦島、そして松江へと、時代の趨勢とともに移り変わり、今なお、各地に歴史の光陰を残しています。

本丸北辺の廊下橋、右の石垣は大天守台。

古麓城(ふるふもとじょう)は、八代市古麓町の東側の山岳にあった南北朝時代から戦国時代にかけて築かれた城塞群で、南朝方の重要拠点であった。

八代には一時、征西府、高田御所(こうだごしょ)[6]が置かれ、その名残りとして懐良親御陵がある。

中世で八代城といえばこの古麓城をさした。

城塞は7つの山城であり、名和氏が築いた五城と、相良氏が築いた二城に分かれる

戦国大名相良義滋の居城であった鷹峯城も後者の一つ。
貿易港徳淵津 (徳渕津)の発展もこの頃のことである。

相良氏はその後島津氏に屈し、さらに島津氏は豊臣秀吉の九州征伐を受けた。

その後に肥後国を領した佐々成政は、肥後国人一揆を引き起こした責により翌年改易・賜死となるが、球磨郡を除く肥後国は加藤清正と小西行長が半国ずつを領することになり、この時に古麓城は廃城となった。

八代宮,、八代城趾の中央、大書院跡に19世紀に造られた。

大天守台の東側にある唐人櫓跡。

唐人櫓跡をアップで。

小天守跡。

大天守台跡。

大天守台跡。

大天守台から見た廊下橋。

大天守台の穴蔵。
大天守へは、小天守を経由して穴蔵から大天守に上がって行く構造となっている。

高麗門は「欄干橋門」とも呼ばれ、八代城本丸の正門に当たる表桝形門の一の門になり、高麗門を通り抜け、鍵の手に曲がった所に二の門である頬当門がある。

これは外部からの敵が直進して城内に入るのを防ぐために造られた。

欄干橋は木造の太鼓橋であったが、現在はコンクリート製の橋が架けられている。

本丸南辺の様子。
手前石垣上は月見櫓跡。

橋は明治時代に本丸に八代宮の社殿が建立された時に造られた神橋。

宝形櫓跡。
宝形櫓は方形櫓とも表わし、二階建ての櫓であった。

磨櫓跡。
高麗門の南側にあった平櫓。

麦島城。

宇土城主となって古麓城を廃した小西行長は、家臣の小西行重に命じて球磨川の三角州に総石垣造りの麦島城を築城させた。

麦島の地は北西側が大きな入江となっており、後に開削された前川によって中洲となった。

平城の中でも水城(みずじろ)と呼ばれる水運・水利を最大限に活用した特異な城で、船で直接海からも出入りできたと考えられている。

豊臣秀吉の直轄地とされ貿易港徳渕津が近くにあって、海上交通の要所であった。

天正20年(1592年)6月、文禄の役の間隙を縫って梅北一揆が麦島城に攻め寄せたが撃退している。

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いに敗れた行長が斬首され、小西家は改易となった。

球磨郡・天草郡を除く肥後52万石を与えられた熊本城主加藤清正は、重臣加藤正方(片岡正方)を城代として麦島城に入れた。

元和の一国一城令によって熊本藩内の南関城・内牧城・佐敷城などが取り壊されても、麦島城は例外的に存続が認められていたが、元和5年(1619年)の大地震のために倒壊し廃城となった。

欄干橋跡と高麗門跡。

本丸正門の欄干橋と高麗門跡(本丸東辺)

松江城。

豊前小倉藩37万石の藩主だった細川忠利が肥後熊本藩54万石(鶴崎2万石を含む)へ移封され、12月に熊本城に入城した。

忠利の父細川忠興(三斎)は幕府の内命を受けて八代城に入り、北の丸を隠居所として、四男の立孝を本丸に住まわせた。

いずれ自分の隠居料9万5千石を継がせて立藩させることを望んでいたようだが、寛永18年(1641年)に忠利が亡くなり、正保2年(1645年)閏5月に相次いで立孝も若くして没し、二人の子に先立たれた忠興も同年12月に没した。

正保3年(1646年)、2代藩主光尚は、島原の乱においても活躍し、将軍徳川家光直臣の身分も持つ筆頭家老松井興長を八代3万石に移封して八代城城主とし、立孝の子・宮松(細川行孝)には宇土郡・益城郡内に3万石を与えて宇土支藩とした。

以後明治3年(1870年)の廃城まで松江城(八代城)は代々松井氏が居城とする。

慶安2年(1650年)12月、光尚は亡くなるが、興長は明暦元年(1655年)に予てより進めていた松江村の西の干拓で土地を広げ、新地に松球磨村(後の坂本村)からの移住民からなる松崎村(現松崎町)を造った。

干拓事業は以後も歴代城主によって続けられ、現在の八代市を形作る上で大きな影響を与えることになる。

八代城本丸西辺の石垣と内堀
左端の出隅は大天守台、その右、突きだし石垣が小天守台、右端角は月見櫓跡。

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八代城へのアクセス、行き方歩き方

熊本県八代市松江城町7-34
0965-33-4533 (八代市文化まちづくり課)

JR八代駅→九州産交バス八代産交行きで10分、バス停:八代宮前下車、徒歩すぐ

清正による国境警備の城 佐敷城

佐敷城(さしきじょう)は、肥後国の南部、現在の熊本県葦北郡芦北町にあった日本の城。加藤清正によって築城された近世の佐敷城は佐敷花岡城とも呼ばれる。

佐敷城の城下は薩摩街道と人吉街道(相良往還)が通る交通の要地であり、戦国時代中期までは相良氏、戦国時代末期には島津氏の勢力拡大をめぐって佐敷城の攻防が繰り返された。

宮崎自動車道を八代に向かっている、車窓から虹が。

えびのPAより人吉ループ橋。

えびの高原の辺りを走行中。

えびのPAでトイレ休憩、『田の神(かん)さぁ』の石像は薩摩藩独特の習わしのようでこのえびの地区にも広く作られ稲の豊作と火山が穏やかであるように祈願されてきたようです。

トンネルが開通し、ループ橋を通らなくて済むようになった。

加久藤トンネルが完成し、人吉ICとえびのICの間が開通したことにより、青森から鹿児島まで日本列島を縦貫する高速道路が完成した。

九州自動車道人吉ICとえびのICの間にある、日本の高速道路トンネルとして第6位の長さを誇るトンネル。

トンネルの長さが5km以上あるため、危険物積載車両の通行はできない。
該当する車両は国道221号、国道219号などを経由しなければならない。

球磨川(くまがわ)は、熊本県南部の人吉盆地を貫流し川辺川をはじめとする支流を併せながら八代平野に至り八代海(不知火海)に注ぐ一級河川で、球磨川水系の本流である。

熊本県内最大の川であり、最上川・富士川と並ぶ日本三大急流の一つでもある。

肥薩線の開業、道路の整備、森林業の衰退、ダム建設等のため、球磨川の水運は縮小し、現在は観光用の川下り船の運航程度である。

芦北自動車道の芦北IC辺りから遠望した佐敷城。
山上に石垣がはっきりと見えている。

城山から八代海を望む。

二ノ丸搦め手門付近の石垣。
上の方が欠けているのは破城によるもの。

佐敷城で最も古い自然石を使用した石垣。

1581年(天正9年)、島津義久は相良義陽と水俣で戦ってこれを降し、葦北郡を割譲させて家臣の宮原景種を佐敷城代とする。

次いで八代郡も併合した島津氏は肥後へ進出する道が開け、以後盛んに九州各地を経略したが、1587年(天正15年)に豊臣秀吉の九州征伐を受けたことにより、肥後の諸城を放棄して撤退を余儀なくされた。

豊臣政権の下で肥後の領主に任じられた佐々成政の統治は国人一揆によって短期に終わり、1588年(天正16年)葦北郡は肥後北部の半国を拝領した加藤清正の飛び領地となる。

加藤清正は花岡山に石垣を巡らした近世の佐敷城を築き上げ、加藤重次を城代として置いた。

1592年(文禄元年)6月、城代の加藤重次が文禄の役に従軍して不在であることに乗じて島津歳久の家臣である梅北国兼が佐敷城を占拠したが、井上吉弘など留守役の働きで梅北国兼は討ち取られ、佐敷城は奪還された(梅北一揆)。

朝鮮の役から帰国した加藤氏は島津氏への押さえとして佐敷城のさらなる普請を行うが、はたして1600年(慶長5年)に関ヶ原の戦いが起こると、西軍方の小西氏と島津氏に挟まれた葦北郡は孤立し、佐敷城は島津忠長の軍によって包囲される。

加藤重次は、関ヶ原における西軍敗北の報が伝わり島津軍が兵を引くまでの約一ヵ月間佐敷城を守りきった。

その後も佐敷城の増改築は続けられたが、1615年(元和元年)に一国一城令が布告され、佐敷城は石垣を崩されて廃城となった。

二ノ丸から本丸への虎口を見たところ。

本丸から西方を見たところ。眺望がよく、遠くの海まで見える、さすが国境警備の城だ。

本丸から二の丸虎口を見る。

追手門跡。

天下泰平瓦出土地点。

発掘調査で現れた慶長の頃の石積みと保存整備による石積み。

桐門の鬼瓦出土地点。

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佐敷城へのアクセス、行き方歩き方

熊本県芦北町大字佐敷49-1
0966-87-1171 芦北町教育委員会生涯学習課

肥薩おれんじ鉄道「佐敷駅」~徒歩20分または車約5分

大規模な土塁や堀切が圧巻 都於郡城

都於郡城(とのこおりじょう)、築城は1337年(建武4年)伊東祐持による。
別名・浮船城

1335年(建武二年)、足利尊氏より都於郡三百町を賜って日向に下向した伊東本宗家の祐持による築城といわれ、一国人領主にすぎなかったころよりの本拠でもある。

伊東氏は後に日向国の大半を領して、伊東四十八城と呼ばれる48の城を持ったが、都於郡城は佐土原城とともにその本城として栄える。

1577年に伊東氏が島津氏により一時没落すると島津氏の支配下に入った。
1615年(元和元年)江戸幕府の一国一城令により、都於郡城は廃城となった。

本丸跡に高屋山上陵?

本丸跡。

「伊東満所(マンショ)」は、都於郡城主 伊東義祐の外孫として、1570年(元亀元年)ごろ、城内で生まれました。 

1577年(天正5年)12月の豊後落ちの時には、苦難の末、日向山地(西都市 東米良の尾八重など)を踏破したと思われます。
 
満所(マンショ)は、豊後臼杵の大友宗麟のもとに、滞在の後、有馬の神学校に入学しましたが、13歳の折、九州のキリシタン3大名の使節をローマ法王庁へ派遣することになり、その遣欧少年使節4名の正使として1582年(天正10年2月)、長崎港を出帆(しゅっぱん)しました。

一行は、ポルトガル、スペインを経て、ローマでは教皇グレゴリオ13世に謁見(えっけん)しました。 

そして、8年5ヶ月ぶりの1590年(天正18年)7月、長崎に帰ってきましたが、ヨーロッパでは各地で大歓迎をうけました。

ここに、日本人として最初に渡欧した伊東満所(マンショ)を末永く顕彰するため、浄財をもって銅像を建立(こんりゅう)しました。

伊東マンショの像の説明板から

堀が深いといえばいいのか、郭の切岸が高いといえばいいのか。
どちらにせよ、郭と堀底との高低差はかなりあり、大迫力。

ただ、こういう造りために、郭間の行き来はかなり不自由。

この郭がそれぞれ独立しているというのも、群郭式の特徴。

高屋山上陵といえば神代三代の二代目彦火火出見尊の御陵ですが、ここもその伝承地。

本丸には拝所っぽい場所と石塔群があります。

ここは宮内庁治定外の陵墓参考地ですが、思わぬ収穫です。(ちなみに宮内庁治定御陵は鹿児島の高屋山上陵。)

城は高さ100mの丘陵に築かれた本城、周囲に支城(日隠城、東城、泉城、高城、向城)を配し、その間を堀や池を巡らすという中世式城郭の典型的な様式である。

本丸跡。

本丸からは八代海、天草が望まれる。

西ノ城跡(三の丸と同様に斥候(ものみ)の役割を果たす)
落日遠く霧島を望む

二の丸跡
本丸と同等に巨大な郭。
東側には2mを超える土塁も残っています。

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都於郡城へのアクセス、行き方歩き方

宮崎県西都市都於郡町

•JR日豊本線・佐土原駅からバスで27分、「宮崎交通西都営業所(西都バスセンター)」下車、バス乗り換え「都於郡」下車、徒歩10分

日本最南端の天守台を持つ 佐土原城

佐土原城(さどわらじょう)は、14世紀半ばごろに伊東氏の一族田島休助によって田島城(たじまじょう)として建てられた。

江戸時代は佐土原藩島津氏の居城となった。

現在は埋められてしまっているが、鶴松館の前面部には水堀が掘られていた。

この堀によって南側の城山と、北側の弁天山との間の谷戸部を締め切り、これによって区画された谷戸内部を居館区として使用していたようである。

近世段階では、山上の城はほとんど使用されていなかったようだ。

鶴松館の裏側から佐土原城への登城道を進んで行く。
傾斜は緩やかだが、切り通しの道が長く続いている。

南の城へ入る虎口。

南の城跡。

江戸時代に書かれたと思われる佐土原城を描いた屏風には二の丸とおぼしき場所に立派な鯱を持つ三重の櫓が見られる。

「南九州には天守のある城は無い」「天守は本丸にある」というのが常識と思われていたため、この屏風の信憑性が疑われていたが、1995年(平成9年)の発掘で天守台跡と金箔瓦の破片が見つかり、佐土原城には天守に当たる建物があったことが確実となった。

1427年頃、田島氏は日向国に勢力を伸ばしてきた伊東氏から城を追われ、伊東祐賀が入城。佐土原氏を名乗る(このころから通称として佐土原城とよばれだした)。

さらに1480年に伊東本家筋から伊東祐国が佐土原氏の養子に入り、正式に伊東氏が田島城(佐土原城)を支配。
伊東四十八城の一つに位置づけられた。

1536年に焼失。(1542年から1543年)に、田島城(佐土原城)の跡地に新しく鶴松城(かくしょうじょう)として建てられた(通称は佐土原城)。

その後、伊東氏は島津義久に敗れ豊後に逃れ、義久の実弟島津家久が城主として入った(高城の合戦)。

1587年に豊臣秀吉が九州に侵攻、島津義久は秀吉の傘下に入る。その直後に家久は急死(死因については暗殺などの諸説ある)、息子豊久が城主となる。

1600年の関ヶ原の戦いで島津家は西軍に参加。豊久は戦死し、徳川家康の家臣、庄田三太夫が一時的に預かるという形になったが、その後1603年に島津以久が3万石を領して入封、以後明治まで領した。

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佐土原城へのアクセス、行き方歩き方

宮崎県宮崎市佐土原町上田島8202-1
0985-74-1518

JR佐土原駅から車で約15分
宮交シティから西都行きバス、佐土原小前下車、徒歩5分

三階櫓がそびえた名城 延岡城

延岡城は江戸時代に高橋元種によって築かれた平山城。
築城当初は縣城と呼ばれたが、後に延岡城へ改称されている。

もともと、縣は古代以降土持氏の支配する所であり、この城も高橋元種の築城以前に存在した土持氏の城館を改修増築した可能性も考えられている。

今回九州20名城シリーズの最終回、八代城、佐敷城、佐土原城、延岡城、都於郡城を巡る。

最終就航まで残り4日というフェリー北九州に乗船、本来はすでに新造船北九州Ⅱが就航しているはずだが工期の遅れで一番のおんぼろ船に乗る羽目に・・・・・

明石海峡大橋の通過は船内のレストランより。

千人殺し全面下の枡形虎口に復元された北大手門より入城。
現在はこのすぐ脇に旧藩主内藤家の墓所がある。

ある石をはずすと一気に全壊し、一度に千人の敵兵を殺すことができるという石垣がそびえる、「千人殺し」と呼ばれている。

千人殺しの石垣の先端部。
なぜか一番下がコンクリートに替えられている。

ってことは、下の石垣を取り換えたことがあったということか。
その時によく上の石垣が崩落しなかったものだ。

千人殺しの石垣を下から見上げてみた。
中央部が膨らんで張り出している。

これは千人殺しの仕掛けゆえの構造なのか。
それとも崩れかけているのか。

気をつけないと、下の石をはずさなくても、崩落してしまいそうに見えてしまう。

二階櫓跡に進む。

本丸、天守台。

天守台跡地にある鐘付堂
鐘は、明治11年に今山八幡宮の鐘を、城山に移し鐘楼を建てた。
現在の鐘は二代目となる。

現在も1日に6回、市民に時刻を告げている。

ちょうど鐘を鳴らす時間に通りかかった、市の職員がラジオの時報を合図に金を鳴らすと思わず拍手が。

天守台から南方の愛宕山公園の方向を見たところ。
すぐ前は海。

中央に見えるのが大瀬川。

城は、本城と西の丸の2郭から構成され、五ヶ瀬川と大瀬川を天然の外堀とし、城山の周辺に内堀と石垣を築く。

本城は、本丸、二の丸、三の丸の3区に構成されている。

天守台下の縁部に三階櫓跡の石垣が残っている。

その奥に空の先駆者後藤 勇吉の碑。

後藤 勇吉(ごとう ゆうきち、1896年(明治29年)11月12日 – 1928年(昭和3年)2月29日)は、日本の航空黎明期の民間パイロット。

一等操縦士・一等飛行士免許取得、航空機による旅客輸送、日本一周飛行などにおいて日本初を成し遂げた。

太平洋横断無着陸飛行計画の訓練中に墜落死した。

「なつかしき城山の鐘鳴りいでぬ をさなかりし日聞きしごとくに」と若山牧水が詠んだ歌碑。

若山牧水は、明治18年8月24日、宮崎県 東郷町 坪谷に生まれた。 

村の尋常小学校を終えると、10里ほど離れた延岡市の高等小学校に入り、新設された県立 延岡中学校を卒業して、早稲田大学 英文科に進む。

延岡での8年間の青春は、山紫水明の自然と良き師友に恵まれ、将来天下に名を成す歌人としての素養を培(つちか)われた。
 
この歌は、昭和2年7月24日、台雲寺で詠(よ)んだもので、昭和10年春、全国3番目の牧水歌碑として建てらした。
 
毎年、春の日に歌碑まつりが行われる。

延岡市のマンホール、市章の両脇に宮崎県伝統工芸品である江戸時代から続く郷土玩具の「のぼり猿」が描かれている。

【延岡郷土玩具 のぼり猿由来について】

昔の延岡は内藤藩の城下町で、豊かな自然の恵みを受けて暮らしていた。
文豪夏目漱石の「坊ちゃん」に「延岡は猿と人間が半々に住んでいるところ」というくだりがあるが、山野は野猿の天国であったかもしれない

田畑の作物を喰い荒すに困り果てた人々は猿を退治した。
そのためか豊作となったが、一方では子供の疫病がはやった。

猿のたたりではないかというので「のぼり猿」を作り庭先に立てて供養したところ疫病はおさまった。

人々は喜び農作と健康を祝った。
その姿は縁起をかつぎ、めでたいように三番雙に仕立てた。

烏帽子を被り鼓を背に負い御幣をさし、赤のまわしをしめ菖蒲の織にささげられている。
風を受けると竿をつたって登るので子供の立身出世・無病息災・五穀豊穣とお家安泰を願って節句に飾るようになった。

それ以来武士の妻達がつくり続けたといわれる伝統を持つ玩具である。

五月の風に吹かれ庭先で躍りながら張り子の猿が上下する格好は愛嬌があり郷土玩具の一品として高く評価されている
(もらったパンフレットより)

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延岡城へのアクセス、行き方歩き方

JR日豊本線「延岡」駅から徒歩20分。
又は、バス10分。市役所前下車。

海に囲まれた天然の要害 臼杵城

丹生島は北、南、東を海に囲まれ、西は干潮時に現れる干潟の陸地でつながるのみという天然の要害をなしていた。

ちなみに丹生島の「丹生」とは「金属鉱石の産出する島」という意味である。
義鎮(宗麟)は、この島一つを城郭化して干潟を干拓して城下を形成した。

垂直に切り立った崖の上に聳える畳櫓(現存櫓)。

古橋口(大手門側)から見た臼杵城跡左より大門櫓(中央・復元櫓)、畳櫓(右端・現存櫓)。

拡大して見ていただくとわかるが、崖穴に石垣。
崖のあちこちに穴があり石垣が埋め込まれています。

この穴が築城以前からあったものか、石垣はいつ埋め込まれたのか、不思議な穴です。

防空壕の後とも言うし、城の入り口である大手門に集中していることから、宗麟が鉄砲隊を潜ませるために掘ったものだとも言われ真相は定かでない。

鐙坂(あぶみざか)、古橋口から二之丸へと続く折れ曲がった登城道を大門櫓へ向かう。

切り通しを本丸から眺める、見事な曲線だ。

平成13年に復元された大門(だいもん)櫓。

本丸。

天守台。

宗麟候レリーフ。

宗麟は海外貿易による経済力と優れた武将陣、巧みな外交により版図を拡げ、大内氏や毛利氏をはじめとする土豪・守護大名などの勢力が錯綜する戦国の北九州東部を平定した。

当初は禅宗に帰依していたが後にキリスト教への関心を強め、ついに自ら洗礼を受けた。

最盛期には九州六ヶ国に版図を拡げた。
しかし「キリシタン王国」建設間近で島津義久に敗れ、晩年には豊臣秀吉傘下の一大名に甘んじて豊後一国までに衰退した。

天正4年(1576年)ポルトガル人より宗麟候に佛狼機(フランキ)砲が贈られたが、これが日本初の大砲と云われている。

宗麟候は、これを「国崩」と命名し、臼杵城の備砲として備えつけた。

1586年(天正14年)の島津軍の侵攻(丹生島城の戦い)に対して「国崩し」と呼ばれたポルトガルから入手の大砲、「フランキ砲」を動員するなどして島津軍を退けたが、城も城下も大きく損失した。

その翌年、大友義鎮(宗麟)は死去した。

本丸空堀、実に見事。

本丸搦手口、正面の谷間になっているあたりに本丸搦手の卯寅口門があった。
海に通じる門です。

畳櫓(現存櫓)。

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じゃらん 臼杵周辺の宿

臼杵城へのアクセス、行き方歩き方

臼杵市臼杵丹生島91
0972-63-1111 臼杵市文化財課  

JR日豊本線 臼杵駅から徒歩10分

豊後佐伯城

関ヶ原の戦いにおいて、徳川方(東軍)に与したことにより毛利高政は佐伯2万石を与えられた。

しかし佐伯氏の旧居城・栂牟礼城(とがむれじょう)は険阻な山城で、平時の統治には不便であったため、高政は栂牟礼城を廃して番匠川河口近くの八幡山に新たに山城を築いた。

三の丸櫓門(大分県有形文化財)

縄張は織田信長の元家臣で安土築城にあたった市田祐定、石垣は天正期姫路城の石垣施工を指揮した石垣師の羽山勘左衛門が担当した。

城山頂上までの道のりには、独歩碑の道、登城の道、翠明の道、若宮の道と、4つの登山道があり、それぞれ四季折々の風景が楽しめる。

山頂からは、遠く四国の山々まで眺望でき、登る人が後をたたない。

三之丸上にある登城道。
ここから比高130mを登った先に本丸がある。

二之丸との間にある石垣堀切に架かる橋。

西出丸跡からの眺望。

登城の道を上ったところが江戸時代初期の佐伯城で、城山の山頂部分に長さ約160m、幅25~50m程の細長い城郭でした。

角隅部が円いので、明治以降に石垣が改変されたのかと思いきや、江戸中期の補修時にこのような形になったとのことです。

本丸下の曲輪から見た佐伯市街。
遠くの海もよく見えて、なかなかいい眺望である。

本丸の入口、立派な階段が続いていますが、当時の佐伯城を描いた絵図ではこの階段は描かれていないので、後世に造られたものでしょうか。

本丸跡、天守は、3重で本丸の北よりに建てられていた、壇上に天守台の祠と鳥居が見える。

本丸から、北之丸の櫓門跡を見たところ、わりと小さな門であったようだ。

近世城郭としては虎口が小さく、人一人が通るのがやっとという虎口が多い。

総石垣である、本丸を中心に、南北に長く連郭式に配し、本丸南に二の丸、西出丸、本丸北に北出丸、捨曲輪を配置している。

これに3代高尚の時に麓の三の丸を加えた。

3重の天守があった本丸と本丸外曲輪を中心に二重櫓5基、平櫓1基、城門7棟などが建てならべられた。
本丸と二の丸は堀切で遮断され、当時は廊下橋が渡されていた。

西の丸~二の丸間の城門跡の石垣。

どの曲輪からも見晴らしが良いお城でした。

尚、佐伯毛利氏は初め「森」姓を名乗っていて、萩毛利氏とは血縁関係にはない。

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豊後佐伯城へのアクセス、行き方歩き方

佐伯市大手町1-1-1(三の丸櫓門)

JR・佐伯駅から徒歩20分
佐伯駅前の観光案内所に無料レンタサイクルあり