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遠の朝廷と防人を訪ねて⑤

大都市の目の前にありながら僅か10分の船旅で都会の喧噪を忘れられるとあって、福岡市民の身近な行楽地として親しまれる。
福岡でも屈指の菜の花・桜・コスモス・水仙の名所で、満開のころは一年で最も混雑する。

能古島が初めて登場する文献は『平安遺文』。
731年(天平3年)頃の住吉神社の社領を記述した文中に「能護嶋」の名で登場する。

『能古島の歴史 防人(さきもり)の島』 現地案内板より

「天智天皇の2年(663年)、唐・新羅の連合軍に攻略された百済の救援に向かった日本軍は、白村江の戦いで大敗した。

それ以降、北九州や壱岐・対馬などは、国を守る第一線となり、律令政府は、城を築いたり海岸に兵士を置いて守りを固めさせた。

九州や壱岐・対馬を守るこれらの兵士を「崎守」「岬守」といい、中国唐の制にならって「防人」の字をあてた。

諸国の防人は難波(大阪)の港まで歩いてきて、そこから船に乗り、九州に向かった。

防人は3年交替で食料などは自分持ちだったため、ひとりの防人が出れば、その家は滅びるとまでいわれた。

8世紀を通じて防人のほとんどは東国の兵士であったが、天平宝字1年(757年)には、東国防人が廃止され、西海道7国の兵士2000人がこれに従った。

なお、万葉集に「也良乃崎守」とある也良は、能古島最北端の松尾の荒崎をさし、対馬・壱岐以外での防人の配置を示す好例である。

“沖つ鳥 鴨とふ船の 帰り来ば 也良の防人 早く告げこそ
山上億良 巻16-3866

沖に棲む鳥の鴨という名の船が帰って来たら、也良の崎守りよ、早く知らせておくれ。

永福寺の入り口のだるまさん。

永福寺、能古島にあるお寺。

創建の由来は不明なのだそうですが、祇園山笠発祥の地として知られる承天寺の末寺という。

福岡の地行にある金龍寺ともかかわりが深いお寺ということで、曹洞宗に属する。
とてもきれいに整備されて、境内には登り窯跡、孔子廟などもあります。

能古博物館の入口近くには「まぼろしの能古焼」と言われている能古焼の古窯跡がある。

能古焼は江戸時代中後期に 陶磁器を作っていた窯で有田焼系の磁器であったようです。
今は能古島に焼き物の窯はなく滅びています。

能古博物館(島の歴史をはじめ和船、古高取の銘品床置、筑前亀井学の関連資料など展示)、冬季は閉館だが我々のため本日特別にあけていただけた。

博物館からは対岸が一望、見えているのは船出した姪浜かな。

白髭(しらひげ)神社は、能古島の生土神(うぶすながみ=氏神、鎮守の神)で祭神は住吉大神(すみよしのおおかみ)、神功皇后、志賀明神(しがみょうじん) など。

能古島という地名は「神功皇后が住吉の神霊を残した島なので残島(のこのしま)になった」といういわれがあり、この神霊を留めたのが 白髭神社だといわれています。

島で見かけたマンホールの蓋。

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能古島へのアクセス、行き方歩き方

能古島へはフェリー「レインボーのこ」「フラワーのこ」が合わせて1日23便(日・祝21便)運航しています。便数も多く朝早くから夜遅くまで船があるので日帰り観光もできます。

遠の朝廷と防人を訪ねて④

太宰府天満宮・北野天満宮・防府天満宮を合わせて「三天神」と呼ぶ。
三天神には諸説あり、太宰府と北野天満宮までは共通するものの、あとの一つを大阪天満宮等とする説も存在する。

延喜3年(903)2月25日、菅公は謫居(たっきょ)の地、南館(榎寺)において清らかな御生涯を終えられました。

その後、御遺骸を牛車に乗せて進んだところ、間もなくその牛が伏して動かなくなりました。
これは、菅公の御心によるものであろうとその聖地に御遺骸を葬りました。

飛梅が一輪寒風にさらされています。

大宰府へ赴くため都を発つ道真が庭先に立っている梅に対して「東風ふかば にほひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ」と歌った。

太宰府天満宮拝殿・右手前にその飛梅が立っている。

東風吹かば匂いおこせよ梅の花主なしとて春な忘れそ

この短歌は、菅原道真(すがわらみちざね・菅公)がうたった有名なもの。

彼は、もともと低い身分でしたが、学問に優れていたため、右大臣にまで出世した。
当時の左大臣の藤原時平からねたまれ、あらぬ罪で、大宰府に左遷させられた。

その時に、梅が大好きだった菅公が京都の紅梅殿の梅に向けて詠んだ歌。

現在も大宰府の天満宮には、梅があり、飛梅伝説として残っている。

大宰府天満宮には、梅の木の下で「ひょうたん酒」を飲めば、難を免れるという言い伝えがある。

天満宮で、厄除け祈願を受けると特別なお札・お守り、お神酒と厄晴れひょうたんを授かる。

この授かった厄晴れひょうたんの中に、願い事を書いた用紙を入れ自宅の神棚などにお祀りし、災難が降りかからないように祈願する。
そして、厄が晴れると、お礼参りをして、ひょうたんを本殿裏のひょうたん掛所へ納めれば良い。

大楠、樹齢 1000~1500年、樹高 :39m、幹回り 12m、根回り 20mと成っていて、国指定天然記念物。

妹(いも)が見し楝(あふち)の花は散りぬべしわが泣く涙(なみだ)いまだ干(ひ)なくに   巻五(七九八)

妻が見たセンダンの花はもうすぐ散ろうとしているよ。私の泣く涙はいまだ乾かないというのに

この歌も大伴旅人(おほとものたびと)の妻の死(巻五:七九三も参照)に対して山上憶良が贈った追悼歌で、巻五(七九四)の長歌に付けられた反歌のうちのひとつ。
「楝(あふち)」は植物のセンダンのこと。

そんな「妻が生前に見たセンダンの花はもうすぐ散ろうとしているよ。
私の泣く涙はいまだ乾かないというのに」と、月日は経っても妻を失った涙の乾かない哀しさを詠った挽歌となっています。

亡き妻が好んで見た花が散ってしまうことで妻との思い出のよすががひとつ消えてしまうような、そんな寂しさも感じさせる一首です。

よろづよに としはきふとも うめのはな たゆることなく さきわたるべし

いつの世までも梅(うめ)の花は絶えることなく咲き続けるでしょう。

天平2年1月13日、大伴旅人(おおとものたびと)の邸宅で催された宴会のときに詠まれた歌の一つ。

わが苑に 梅の花散る 久方の
     天より雪の 流れくるかも
 (大伴旅人 万葉集巻5-822)

わが家の庭に梅の花が散る。はるか遠い天より雪が流れて来るよ。

参道の商店で見かけた焼き物、梅色が見事だった。

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大宰府天満宮へのアクセス、行き方歩き方

大宰府天満宮公式サイト

福岡県太宰府市宰府4丁目7番1号

西鉄太宰府線太宰府駅から徒歩5分

遠の朝廷と防人を訪ねて③


『源氏物語』にも登場する観世音寺は、天智天皇が、母君斉明天皇の冥福を祈るために発願されたもので、80年後の聖武天皇の天平18年(746年)に完成した。

古くは九州の寺院の中心的存在で、たくさんのお堂が立ちならんでいたが、現在は江戸時代初めに再建された講堂と金堂(県指定文化財)の二堂があるのみ。

境内はクスの大樹に包まれ、紅葉、菩提樹、藤、アジサイ、南京ハゼと季節が静かに移る。

昭和34年(1959年)多くの仏像を災害から守り完全な形で保管するため、国・県・財界の有志によって、堅固で正倉院風な周囲の景色に馴染みやすい収蔵庫が建設された。

この中には平安時代から鎌倉時代にかけての仏像16体をはじめ、全て重要文化財の品々が収容されており、居並ぶ古い仏たちに盛時がしのばれる。

西日本最高の仏教美術の殿堂のようで、特に5m前後の観音像がずらりと並んでいる様には圧倒される。

また仏像の多くが樟材で造られたのも九州の特色といえる。

僧房跡、修行する僧たちの学問所兼寄宿舎址。

観世音寺の創建当時、講堂の北側には僧房の建物群があった。
修行する僧たちの学問所兼寄宿舎の性格を持っていた。

そのうち最も大きな建物を「大房」といい、長さ104m、幅10mの細長い建物で、数人ずつが起居するように仕切られていた。

現在の礎石は近年復元したもの。

この神社は観世音寺の鎮守であり、地元では「ヒヨシ神社」と呼ばれる。
比叡山の日吉(ひえ)大社を分霊したもので平安時代末には置かれていたらしい。

江戸時代の地誌によると、豊臣秀吉が九州下向の折、この日吉社に陣を張ったが、時の観世音寺別当は世情に疎く、秀吉の威光を憚ることなく車に乗ったまま面前に出て秀吉の怒りをかい、寺領を没収されたと伝える。(太宰府市案内板より)

観世音寺の境内には、五重塔(ごじゅうのとう)の中心の柱である心柱(しんばしら)を据えていた礎石<=心礎>がある。

かつて、東面する金堂と向き合うように西面した五重塔が建っていた。
 
現在は心礎の巨石と地覆石(じふくいし=建物の出入り口や基壇の下部に据えられた石)が残るのみ。

この梵鐘は京都妙心寺の梵鐘と兄弟鐘といわれ、その古さに於いても優秀さに於いても正に日本一と称され、糟屋郡多々良で鋳造されたと伝えられている。

榎社にいた菅原道真公の詩に「都府楼は纔(わず)かに瓦色を看る 観音寺は唯(ただ)鐘声を聴く」とあるのはこの鐘。

現在この梵鐘は「日本の音風景100選」に選定されている。
古代の人々も聞いた鐘が現代のまちにも鳴り響いている。

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遠の朝廷と防人を訪ねて②


御笠団印出土地

701年の大宝令(たいほうりょう)に定められた軍団(軍隊)の印判が発掘された所。

軍団は全国に置かれ、普通一軍団は兵士千人で構成され、その兵士は成人男子から三人に一人の割で徴発された。

平安時代初め筑前国には4軍団があり、この印にある御笠軍団はそのうちの一つだったと思われる。
近くの水城小学校からは遠賀団印が出土している。

太宰師(そち)大伴卿(まへつきみ)の歌二首

わが岡にさ男鹿(をしか)来鳴く初萩(はつはぎ)の花嬬(はなづま)問ひに来鳴くさ男鹿     巻八(一五四一)

わが家近くの岡に男鹿が来て鳴いているよ。
初萩を花妻として言問いに来て鳴く男鹿よ。

この辺りは、大宰師(だざいのそち) 大伴旅人(おおとものたびと)の邸宅跡と伝えられています。

この歌は太宰師(だざいのそち)の大伴旅人(おほとものたびと)が詠んだ二首の歌のうちのひとつ。
題詞に「太宰師」とあるので大宰府に赴任中の歌でしょう。

「花妻(はなづま)」とは萩(はぎ)の花のことで、 鹿がいつも萩に寄り添うことから萩の花を鹿の妻だと見立ててこのように呼びます。

この歌でも「わが家近くの岡に男鹿が来て鳴いているよ。
初萩を花妻として言問いに来て鳴く男鹿よ」と、そんな花妻を求めて鳴く男鹿を詠った一首となっています。

大伴旅人は大宰府に赴任してきてすぐに妻を亡くしていますが、あるいは妻問いに鳴く男鹿に自身の姿を重ねて見たのかも知れません。

太宰府市の坂本八幡宮は、応神天皇を御祭神としています。

「圓満四王寺縁起のよると、嵯峨天皇弘仁2年(811年)辛卵二月勅宣にて四王院に釈迦の像を造立し、有智山寺の沙門鳳詮法及行願具足の僧十一輩を移し開眼供養を遂げられ水田五十町を寄付した給ふ鳳詮法師は坂本に住して善正寺と号す。

又坂本坊と呼り」とされている。

平安時代には、この坂本地区に四王寺の座主坊としての善生寺が成立していたとされています。

大宰師大伴卿(だざいのそちおおとものまへつきよみ)の凶問に報(こた)へる歌一首

世の中は空(むな)しきものと知る時しいよよますますかなしかりけり   巻五(七九三)

世の中がじつは空しいものだと思い知ったとき、いよいよますます悲しみが深まることだなあ。

この歌は万葉集巻五の冒頭に置かれた一首で、大伴旅人(おほとものたびと)の作。

大伴旅人は万葉集の編者といわれる大伴家持の父で代々の武門の名家出身者として九州で隼人の反乱を鎮圧するなどの活躍をした傍ら、赴任先の大宰府で山上憶良(やまのうへのおくら)らと親交を持ち、奈良の都のそれとは一風違った後世に筑紫(つくし)歌壇と呼ばれる多彩な歌を残しています。

旅人は太宰師として筑紫に着任した翌年、その地で妻の大伴郎女を亡くしました。

都から遠く離れた地で最愛の妻を亡くした喪失感は、旅人の心を想像以上に深く悲しませたようです。
そして今また、都から届けられた天武天皇の皇女、田形皇女の訃報。

「世の中は空しいものだと知識では知っていたけれど、こんなに不幸が続いて重なってくるとますます実感として思い知らされることだなあ。」との何のひねりもない歌の表現は、それゆえに旅人の実感がこもったもののように思われます。

妻を亡くした悲しみに沈んでいるときに、さらに都から届いた訃報は、旅人のこころをさらに重いものにしたのでしょう。

正月立ち 春の来らば かくしこそ 梅を招きつつ 楽しき終へめ  [大貳紀卿] 

むつきたち はるのきたらば かくしこそ うめををきつつ たのしきをへめ

睦月となり春は来ました 
このようにして梅を招き迎えて楽しく一日を過ごしましょう。

[大貳紀卿](ただいにきのまえつきみ): これは名前ではなく、このとき太宰府の大弐(位のひとつ)だった紀氏の人。
紀朝臣男人 (きのあそみおひと) 682(天武11)~738(天平10)年10.30、卒す。この時正四位下大宰大弐。『懐風藻』によれば享年五十七。

<大宰府の長官大伴旅人は妻を亡くし悲嘆の日々を過ごしていたが、山上憶良や異腹の妹、坂上郎女が妻のかわりに世話をしに都からやってきたことなどから次第に元気をとり戻していた。

しかし長屋王の変を知らされた旅人は直ちに藤原4兄弟の一人藤原房前に日本琴を贈り、自分には政治的に争う意志のないことを表明し藤原氏からの圧力を避けたい気持ちを表した。>

太宰府跡(特別史跡)と背後の山は大野城が築かれた四王寺山、この山全域が大野城。

7世紀後半、大和朝廷は那の津の官家(みやけ)をここに移し、奈良・平安時代を通して、九州を治め、我が国の西の守り(防衛)、外国との交渉の窓口となる役所(大宰府)とした。

その規模は平城京、平安京に次ぐ大きなものであり、南北22条、東西24坊の都市計画があったという学説がある。

万葉集には”遠の朝廷(みかど)”と詠まれ、その規模をしのばせる立派な礎石が残 り、そこを中心に門や回廊、周辺の役所跡等が整備されて、現在は公園となっている。

大宰府展示館の中、天平2(730)年正月13日、大宰師大伴旅人の邸で梅花を題とする歌宴が開かれた。
その様子を博多人形で再現されている。

子らを思へる歌一首并せて序

瓜食(うりは)めば 子供思ほゆ 栗食(くりは)めば まして思(しの)はゆ 何処(いづく)より 来(きた)りしものぞ 眼交(まなかひ)に もとな懸(かか)りて 安眠(やすい)し寝(な)さぬ   巻五(八〇二)

「瓜を食べていても今わが子供はどうしているだろうかと思い出させる。
栗を食べればあの子にもこの栗をを食べさせてあげたいなあとまして思い出される。

どんなに遠くにいても目に浮かんできて思い出され、安眠さえできない。」との子供への深い愛情は、今の世の人々にもすんなりと受け入れられる解説の必要すらないものです。

万葉時代の人々も子供を思う気持ちはわれわれと何ら変わらないものだったのでしょう。

巻五(八〇三)の反歌

銀(しろかね)も金(くがね)も玉も何せむに勝(まさ)れる宝子に及(し)かめやも   巻五(八〇三)

銀も金も玉もどれほどのことがあろうか。どんな宝も子供には遠く及びはしない。

大宰府と言えば天満宮の梅。

マンホールにもやっぱり市の花・梅が描かれています。
中央に市章。

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遠の朝廷と防人を訪ねて①

古代史と万葉集の史跡を訪ねる旅、今回は九州遠征。
大宰府万葉歌碑めぐりにそって数回に分けてお届けします。

冬型の強い季節風の吹き荒れる日南港を船出、おまけに数日前から風邪をひいており絶不調。

664年、唐と新羅の攻撃に備えて全長1.2kmにわたり、築かれた大宰府の防衛施設。
博多側から南下してくると、太宰府市に入ってすぐに道路や線路を横切る木立におおわれた丘がある。

これが664年、唐と新羅の攻撃に備えて築かれた大宰府の防衛施設「水城」。

その規模は全長1.2kmにわたり、基底部で幅80m、高さ13mを越える人工の土塁(堤防)を築き、その博多湾側に幅60m、深さ4mの堀をつくり、水を貯えたという。近隣の春日市や大野城市にも、これに連鎖する小規模な水城が残存している。

663年、白村江の戦いで唐や新羅の連合軍に負けたことをきっかけに、敵の侵攻に備えるため、水城や大野城、基肄城を築いた。

敵に攻められやすい博多湾の沿岸にあった那津官家も、現在の太宰府市の地に移され、「大宰府」が誕生したと考えられている。
このように「水城」は大宰府を守るのに最も重要な所であった。

当時は通用門が東門と西門の2ヶ所しかない大変厳重な施設であったが、現在は鉄道や高速道路などによって分断されている。

大和朝廷が七世紀に造った国防城塞 大野城
斉明天皇6年(西暦660)、朝鮮半島では日本の友好国百済(くだら)が唐(とう)・ … 続きを読む →


現在大規模な改良工事が進んでいる。

衣掛天神、菅原道真がここで旅の衣を脱いで傍らの石に掛け新しい衣に着替えたとされている。

姿見井、菅原道真が衣服を着替えた時に、姿を映した井戸がここにあったという。

奈良時代に聖武天皇の詔により日本各地に建立された国分寺のうち、筑前国国分寺の後継寺院にあたる。

画像は講堂跡。

塔復元模型、塔は七重で、その10分の1の復元模型が太宰府市文化ふれあい館の屋外に展示されている。

復原した高さは5.4m、実際はその10倍ということになり、遠くからでも見ることができたでしょう。

棟の右側に米粒大に見えるのが人物。

国分寺とは無関係だが箱式石棺、箱式石棺は弥生時代から古墳時代に用いられたお墓のひとつで、石を並べて小さな部屋を作り、その中に遺体を埋葬し、何枚かの石で蓋をしたもの。

大野山霧立ち渡るわが嘆く息嘯(おきそ)の風に霧立ちわたる  巻五(七九九)

大野山に霧が立ち渡るよ、わたしの嘆く息の風によって霧が立ち渡るよ

大伴旅人が大宰府の帥(そち)として着任したがすぐに妻の大伴朗女(いらつめ)は病死した。
    
この時、山上憶良が大伴旅人の気持ちになりきって詠んだ歌。
大野山に棚引く霧を、深い嘆きの息が霧になったと詠んでいます。

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姫路市書写の里・美術工芸館


1994年に開館。本館は書写山圓教寺をイメージさせる大屋根、瓦葺の外観。

展示室は6室あり、「展示室A」では郷土出身の元東大寺管長・清水公照の作品や愛蔵品を常設展示する。

はりこの絵付けなど体験コーナーもある。

左の階段スペースには 約300体の泥仏。 

これは 清水公照が 瀬戸、九谷、信楽、清水、備前、萩、唐津、有田など 全国の著名な窯元で 制作した泥仏。

備前焼などの大型焼き物も展示。

土鈴の展示コーナーにユニークな作品が。

太宰府天満宮 うそ鈴/太宰府市
 
鷽(うそ)鳥は頭と翼・尾が黒く腰のあたりが白、腹部や背は灰色ですが、オスの胸は美しい赤いバラ色をしてきれいな声で鳴くので有名。

「木うそ」はこの鳥が木にとまっている形を表したもので、天満宮の1月7日「うそかえ」神事に用いられ、幸運の守り神としての信仰がある。

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姫路市書写の里・美術工芸館へのアクセス、行き方歩き方゜

兵庫県姫路市書写1223
079-267-0301

姫路駅からバスで25分(神姫バス)
書写駅から徒歩で3分

書写山円教寺雨中散策

円教寺は1千余年前に性空上人(しょうくうしょうにん)によって開かれた天台宗のお寺で西の比叡山とも呼ばれている。

今日はあいにくの雨、冷たい雨の中の散策となった。
まず、磨尼殿を訪れる。

西の比叡山と称される天台宗の古寺。
西国27番札所でもあり、ロープウェイを降りれば、そこは深山幽谷の世界。

京都の清水寺に似た摩尼殿、重要文化財の大講堂、食堂などは一見の価値がある。

摩尼殿の舞台から望む「はづき茶屋」は、 塔頭での精進料理(要予約)以外に食事の出来る唯一のお店。

磨尼殿のお参りをすました後は、もう一踏ん張り、水子地蔵の丘があり後方にずらっと並ぶ。圧巻。

瑞光院、一般公開はしていないようで、切妻、本瓦葺の表門は閉められています。

円教寺の参道からは長い古びれた土塀が印象的で古寺の雰囲気がありる。

案内板によると「創建、縁起は不詳。圓教寺の各塔頭は、往時は多数あった講(信者のグループ)の宿院も兼ねていた。

瑞光院も現網干観音講の宿院となっている。

書写山の紅葉は各所にあるが、門前の紅葉は11月ともなれば、古びた土塀ともよくあって抜群の美しさである。
本尊:六臂如意輪観世音菩薩」とあります。

大講堂の東南の隅に土塀で囲まれた姫路城城主本多家の墓所があり廟屋五棟と本多忠刻らの墓碑が並んでいる。

五棟の廟屋は、江戸初期から中期にわたる廟屋の建築として県下でも例のない珍しいもの。(兵庫県指定文化財)

本多家の墓所の前、そこには三つの堂と呼ばれる大講堂、食堂(じきどう)、常行堂の三つの建物がある。

食堂から大講堂、、常行堂、本多家の墓所をのぞむ。

円教寺の鬼瓦は面白いものが多い。

三つのお堂(重要文化財)の食堂には写経をするところもあるが、鬼瓦や仏像の貴重なものも展示されている。

食堂本尊僧形文殊菩薩坐像、間近で見ることが出来る。

常行堂(じょうぎょうどう)では、ひたすら阿弥陀仏の名を唱えながら本尊を回る修行を行う。

本尊は、阿弥陀如来坐像。通常非公開。
本日は、。常行堂(じょうぎょうどう)では、ひたすら阿弥陀仏の名を唱えながら本尊を回る修行を行うのです。

常行堂
本尊は、阿弥陀如来坐像。通常非公開。
本日は、扉が開いており、隙間から坐像を撮影。。

元は往生院の本尊で、1005年安鎮の作。 明治期に大講堂に安置された。
本尊は宝冠の弥陀と呼ばれ、法・利・因・語を含めた五尊で祀られていた。

安鎮は、性空上人の弟子で感阿(かんな)上人とともに彫刻に優れた技能を持っていた。

元は往生院の本尊で、1005年安鎮の作。 明治期に大講堂に安置された。

本尊は宝冠の弥陀と呼ばれ、法・利・因・語を含めた五尊で祀られていた。

安鎮は、性空上人の弟子で感阿(かんな)上人とともに彫刻に優れた技能を持っていた。

トムクルーズと渡辺謙が挨拶を交わすシーン撮影はこの常行堂で行われた。

またNHK大河ドラマ・武蔵(2003年)や軍師官兵衛(2014年)のロケ地にもなった。

圓教寺開山の性空上人をまつる堂。

書寫山一千年の歴史のシンボルとして灯明が燃え続け朝夕欠かさず勤行がおこなわれている圓教寺奥之院の中核。

現在の建物は、江戸初期の開山堂建築の代表作。

軒下の四隅に左甚五郎作と伝えられる力士の彫刻のうち西北隅の一つは、重さに耐えかねて逃げ出したと言う伝説は有名。

回廊から護法洞、不動堂をのぞむ。

書写山円教寺には、和泉式部の歌塚がある。

伝説では、一条天皇の中宮彰子に仕えていた和泉式部が、彰子やほかの女房たちとともに性空上人を訪ねたが、上人は会ってくれない。
そこで式部は寺の柱に、一首の和歌を書いて立ち去ろうとした。

くらきより くらき道にぞ 入りぬべき はるかに照らせ 山の端の月

この歌に感心した上人は、一行を呼び戻して丁重に教えを垂れたと伝えられている。

性空上人は、式部が彰子に仕えるより早く亡くなっているから、この話は事実ではないだろうけれど、詠まれた歌は確かに存在する。

昼寝の時に顔にいたずら書きをされ、顔を映したという池。
この後怒った弁慶が諸堂を焼き払ったという伝説がある。京都で義経と出会う前のお話。

大仏さんも雨に濡れて質感がしっとり。

十妙院、江戸時代の建物、平成4~7年大修理が完成。

建物は仏間を中心とした方丈と台所を設けた庫裡とを会わせた構造、壽量院と共に圓教寺型ともいえる独特の構造を持った塔頭。

この辺りからは姫路城も視界にとらえられるはずだが、ご覧の霧では・・・・・

悪路に難儀しながら進む。

参道に沿って33体の観音様がお迎えしてくれます。

ロープウェイ山上駅からの眺望、ほぼ視界ゼロ。

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書写山円教寺へのアクセス、行き方歩き方

書写山円教寺公式サイト

兵庫県姫路市書写
姫路駅からバスで30分「書写ロープウェイ行き」終点下車。ロープウェイで山上駅まで4分