港へつながる道を支配した葛城氏

早春の一日葛城古道を散策した。

じつは、南北に延びる葛木古道一帯は、1600年以上も昔に、大和朝廷を支え興隆した古代豪族の「葛城氏」や、もっと昔には、「鴨氏」の本拠地だったところだ。

菜の花が咲き遠く飛鳥の地をのぞむ古道の道は快適なハイキング道。

さらには、九州の宮崎の高千穂と本家争いをしている神話の「天孫降臨」の地であり、天照大神が治めたと言われる「高天原」はこの「葛城山地」にもある。

金剛、葛城の山すそ、煙りたなびくのどかな田園風景。

そろそろ早咲きの桜も見えて気持ちのいい一日。

一言主神社を過ぎ九品寺(くほんじ)への道は葛城古道の中でも一番風情のある場所。

5世紀末ごろに、この地方で勢力を振るっていた豪族の葛城氏の本拠地があったところで、日本を代表する古道の一つ[。

起伏が多い道筋に沿って史跡や古寺社が点在し、高鴨神社、鴨都波神社、鴨山口神社など「鴨」の名を持つ神社と、葛城坐一言主神社、葛城水分神社、葛木坐火雷神社など「葛城」の名のつく神社が多い。

全長およそ13km。「西の山辺の道」ともいわれており、現在の国道24号ができる前までは、この地域の幹線道路として重要な道路であった。

ここは第2代目天皇になった綏靖天皇の高丘宮跡の伝承地で、古代天皇家とも深い縁戚関係で結ばれていた葛城王朝の葛城高宮もこのあたりだったと伝わっているところだ。

また、この辺りは第十六代仁徳天皇の皇后・盤之媛の故郷と言われ、皇后が熊野に行っている問に天皇が八田若郎女を宮中に入れ遊び戯れているのを知り、大いに怒り(この場所を自分の家と呼ぶ)歌を詠んだとされる。

ここで昼食を兼ねた休息をとることに、目の前の眼下には奈良盆地が見渡せ、盆地中央には万葉集で有名な「大和三山」が見渡せる絶好のビューポイント。

司馬遼大郎は『街道をく1』の[葛城みち]の章て、蘇我氏の特徴に「開明王義」「大陸との交通や貿易の独占」「帰化人の技術者を集め産業勢力を形成」したことを挙げた。

実はこれらは葛城氏にこそ当てはまる特徴て、蘇我氏か葛城氏から分かれた一族という説を思い赳こすと、共通点があるのもうなすける。

大和から陸路で真土峠に向かうと、そこからは紀ノ川を下って紀水門に出ることができる。

当時、朝鮮牛島から来る船が着く港は難波津と紀水門にあった。
難波津は天皇の直接支配のもと、海の玄関口として発展する。

もうひとつの港てある紀水門ては、風の森峠に至る高野街道沿いに5世紀前半から6世紀頃の古墳が点在しており、朝鮮半島由来の副葬品か多数発見されている。

万葉集 古代の謎 真土山 飛び越え石
平城京から真土山までは2日、飛鳥・藤原京からは1日の行程で、ここまで来た旅人は、 … 続きを読む →


風の森峠の道路遺構は葛城氏か造ったものて、紀水門と葛城をつなく道てある可能性か高い。

葛城氏が築いた葛上斜向道路は一族の衰退とともに6世紀には廃絶され、替わって巨勢道が紀水門へのメインストリートとなる。

「あなたの知らない古代史」参照

関連記事


≪バスツアー/テーマのある旅特集≫クラブツーリズムお勧めツアーこちら!

日吉大社と神猿(まさる)伝説


全国に約2,000社ある日吉・日枝・山王神社の総本社。
通称として山王権現とも呼ばれる。猿を神の使いとする。

山王鳥居の特徴は明神鳥居の上部に三角形の破風(屋根)が乗った形をしていて、仏教の胎臓界・金剛界と神道の合一を表しているとされる。

山王信仰の象徴であるため、山王鳥居と呼ばれている。

西本宮の楼門の軒下四隅には、それぞれ違ったポーズの神猿さんがお参りに訪れる方々を見守っています。

神猿さんは魔除けの象徴

そもそも猿は全国に生息しておりますが、何故か古来より日吉といえば猿といわれ、いつの頃からか魔除けの象徴として大切に扱われるようになりました。

「まさる」は「魔が去る」「勝る」に通じ、大変縁起のよいお猿さんです。

猿は古く境内で飼われており、既に室町時代の記録にも登場する。

江戸時代の絵図等には「猿飼所」「猿厩」が記されている。

『日吉山王権現知新記』の記録では、神猿さんの食費として「一石(いっこく)」(大人一人が一年に食べる米の量)の予算(俸禄??)が当てられています。
小さい体でも、一人前のお給料を貰っていたのですね。

京都御所の鬼門にあたる猿が辻にある、魔除けの神猿 延暦13年(794)、都が平安京に遷都された。

このとき、京都の東北の鬼門に比叡山があり、鬼門の山があるのは地相が悪いと反対の声が上がりました。
しかし、鬼門である比叡山にはすでに日吉大社と延暦寺があり、日吉大社の大神によって守られていることからこの問題は解決し、京都が都に選ばれた。

山王七猿の和歌 「七猿歌」は天禄4年(973)、第18代座主の慈恵大師良源が日吉山王権現に願文を捧げられたとき、権現の使いである猿に因んで「さる」を詠みこんで作られた7種の歌の処世訓。

天台教学の要諦である【諸法実相】、【三諦円融】内蔵した御歌といわれ、〈宇宙の道理の相〉を心を鎮めて観得することを念じて詠みこまれたものといえるでしょう。

一、つらつらと うき世の中を思うには
   まじらざるこそまさるなりけれ

二、見聞かでも いわでもかなわざるものを
   うき世の中にもまじるならいは

三、つれもなく いとわざるこそうかりけれ
   定めなき世を夢と見ながら

四、何事も 見ればこそげにむつかしや
   見ざるにまさることはあらじな

五、きけばこそ 望みもおこれはらもたて 聞かざるぞけにまさるなりけり

六、こころには なにわのことを思うとも 人のあしきにはいわざるぞよき

七、見ず聞かず いわざる三つのさるよりも 思わざるこそまさるなりけり

東本宮参道の脇に霊石がある。

正面から見た凹凸(おうとつ)が、しゃがみこむお猿さんの形にそっくりなので、「猿の霊石」と呼ばれている。

関連記事


≪バスツアー/テーマのある旅特集≫クラブツーリズムお勧めツアーこちら!

日吉大社へのアクセス、行き方歩き方

日吉大社公式サイト

滋賀県大津市坂本5丁目1-1

JR湖西線 比叡山坂本駅(徒歩20分)
京阪石山坂本線 坂本駅(徒歩10分)

明智一族の眠る西教寺

比叡山(848.3m)の南東山麓に大きな寺域を持つ。
全国に450以上の末寺を持つ天台真盛宗(てんだいしんせいしゅう)の総本山。

寺伝では、聖徳太子(574-622)が創建し、のちに天智天皇(626-671)から西教寺の勅願(ちょくがん)を賜わり、平安時代に延暦寺中興の祖良源(りょうげん)(913-985)が、続いて横川の源信(げんしん)(942-1017)が庵を結んで修行道場としたと伝えられる。

先ず念仏小僧と羅漢像がお出迎え。

坂本城主明智日向守光秀とその一族の墓。

忠義が重んじられた時代、逆賊である光秀を堂々と弔うことができず、一見、誰の墓かわからない形で伝えられてきたという。

元亀2年(157D織田信長の比叡山焼き計ちの際、西教寺も災禍をこおむった。

その直後に築かれた坂本城の城主となったのが光秀でした。
光秀は西教寺の檀徒となるに及び、復興に大きく力を注ぎました。

天正年間には大本坊が再建されました。

その時の「天正年中明智公所造古木」が今も残されています。

総門は城門を移築したもので、鐘楼堂の鐘は陣鐘です。

また、湖を渡った時の鞍、経筒及寄進状なども寺宝として残されています。
天正10年にこの世を去った光秀は6年前に亡くなった内室煕才や一族の基とともにまつられている。

明智光秀公辞世句

順逆無二門
大道徹心源
五十五年夢
覚来帰一元

明智軍記】に見える。

熙子の墓。

光秀が諸国を放浪していて貧乏だった頃。

戦国武士たちは持ち回りで仲間を家に招き接待する習わしがあった。

光秀の番が回ってきた時、お金がなくて困っていましたが、当日熙子は見事な酒肴を用意して客をもてなし、光秀の面目をほどこした。

客たちが帰った後、いったいどうやって工面したのか尋ねたところ、熙子はかぶりものを髪からとってみせました。

すると美しかった熙子の髪は短く切られた断髪姿となっていた。

熙子は自分の髪を売ってお金を工面したのでした。
…という話が「名将言行録」などに載っているのですが、これも真実だったのかどうか確かめるすべはない。

この黒髪の話に感銘を受けた松尾芭蕉が「月さびよ 明智が妻の咄(はなし)せむ」という句を詠み、貧しく出世できないでいた弟子に贈り励ましたという。

石段を登り切ったところに真盛上人の墓所がある。

本尊阿弥陀如来坐像。

寄木造りの定印を結び結跏趺坐する丈六の阿弥陀如来。
肩幅が広く、目鼻立ちや体躯の肉取りには穏やかな中にも硬さが見られ、衣文は装飾性が強くなっている。

定朝様に近いが形式化が見られ、平安時代後期の作と考えられる。

「手白のましら(猿)伝説」

明応2年(1493)坂本にて、馬借[ばしゃく]などが主体となって起こった土一揆は、徳政令[とくせいれい]の発布を要求して日吉社に籠り、山門側がそれを武力でもって弾圧に乗り出したことにより、日吉社の建物はことごとく焼かれ、消滅。

西教寺の僧侶はこれを哀れみ、敵味方関係なく一カ所にあつめて念仏回向[ねんぶつえこう](供養)をして葬りました。

ところが、このことが山門の怒りに触れ、さらに一揆の首謀者を真盛上人と誤解したため、山門の僧兵が西教寺に攻め入ったといいます。

しかしそのとき境内には人影がなく、ただ不断念仏の鉦の音だけが響くばかり。

どっと中に踏み込んだ僧兵たちが見たのは、上人の身代わりに猿が念仏の鉦をついている光景でした。

日吉山王の使者である猿までもが上人の不断念仏の教化を受け、念仏を唱えている、そう受け取った僧兵はその場を立ち去ったといわれます。

このときの猿の手が白かったことから「手白のましら(猿)伝説」といい、上人の御徳は鳥獣にも及ぶほどであった証として語り継がれている。

こうして寺を護る猿として「護猿[ござる]」となり、縁がござる、福がござるといって親しまれ、ごえんと呼んで「五猿」と書き、五匹の猿がお念仏を唱えている姿にして、西教寺では商売繁盛のお守りとしている。

西教寺には、合計4つの庭園がある。
庫裏南側・客殿西側・書院南側・書院北側の庭です。

それぞれに趣が異なる庭園で見ごたえがあります。

本堂の前に苔むした梅の老木が一本、見事な花を咲かせています。

宗祖大師殿からの眺めは格別。

春霞で霞んでいるが正面に近江富士が見える。
紅葉期には絶景となる。

関連記事


≪バスツアー/テーマのある旅特集≫クラブツーリズムお勧めツアーこちら!

西教寺へのアクセス、行き方歩き方

西教寺公式サイト

滋賀県大津市坂本5丁目13番1号
TEL:077-578-0013

JR湖西線『比叡山坂本』駅 下車、江若バス約7分(西教寺下車)、又は徒歩30分 ◎京阪電車『坂本』駅下車、江和バス約4分(西教寺下車)、又は徒歩25分

京の冬の旅非公開文化財特別公開 知恩院

今回特別公開されるのは大方丈、小法上、方丈庭園。

大方丈(重文)は、武者隠しのある「上段の間」や54畳の「鶴の間」、「抜け雀」の襖絵で知られる「菊の間」など、各室が金碧障壁画で飾られた豪壮華麗な佇まい。

小方丈(重文)は対照的に水墨画が描かれている。

三門は本堂へ向かう急勾配の石段の途中に西面して建つ。

高さ24メートルの堂々たる門で、東大寺南大門より大きく、現存する日本の寺院の三門(山門)のなかで最大の二階二重門。

組物(軒の出を支える構造材)を密に並べるなど、細部の様式は禅宗様であり、禅寺の三門に似た形式とする。

門の上層内部は釈迦如来像と十六羅漢像を安置し、天井には龍図を描くなど、やはり禅寺風になっている。
日本三大門のひとつに数える説がある。徳川二代将軍徳川秀忠が寄進した。

境内はかなりの高所にある。

徳川家が知恩院の造営に力を入れたのは、徳川家が浄土宗徒であることや知恩院25世超誉存牛(ちょうよぞんぎゅう)が松平氏第5代長親の弟であること、二条城とともに京都における徳川家の拠点とすること、徳川家の威勢を誇示し、京都御所を見下ろし朝廷を牽制することといった、政治的な背景もあったと言われている。

多宝塔

鴬張りの廊下、御影堂から集会堂、大方丈、小方丈に至る廊下は、全長550メートルもの長さがある。

歩くと鶯の鳴き声に似た音が出て、静かに歩こうとするほど、音が出るので「忍び返し」ともいわれ、曲者の侵入を知るための警報装置の役割を担っているとされている。

また鶯の鳴き声が「法(ホー)聞けよ(ケキョ)」とも聞こえることから、不思議な仏様の法を聞く思いがするともいわれています。

仏足石

唐門 (重要文化財)、大方丈玄関に通ずる門で、寛永18年(1641)造営。江戸初期の建築ですが、桃山時代の彫刻を生かしており、牡丹唐草、鯉魚に乗る老人、巻物を持ち鶴に乗る老人および松を配した細かな彫刻がなされている。

これは桃山時代に流行した故事伝説に基づくものであるといわれている。

浄土宗の宗祖・法然が後半生を過ごし、没したゆかりの地に建てられた寺院で、現在のような大規模な伽藍が建立されたのは、江戸時代以降。

方丈庭園 二十五菩薩の庭

江戸時代の代々の門主は皇族から任命されたが、さらにその皇子は徳川将軍家の猶子となった。

北門より外に出る。

黒門坂、この辺りの佇まいはまさに城、徳川家の威勢を誇示し、京都御所を見下ろし朝廷を牽制することといった、政治的な背景がくみ取れる。

関連記事


≪バスツアー/テーマのある旅特集≫クラブツーリズムお勧めツアーこちら!

京の冬の旅非公開文化財特別公開 高台寺

今回は、秀吉と北政所を祀る霊屋(おたまや)(重文I)の、厨子扉や須弥壇に施された美しい装飾「高台寺絵巻」を特別に近くで見ることかでさます。

ほかに開山堂(重文)と霊屋をつなぐゆるやかな「臥龍廊(がりょうろう)」を通る特別ルートでの拝観や、境内の最も高い部分に位置する展望台も公開される。

山号は鷲峰山(じゅぶさん)、寺号は詳しくは高台寿聖禅寺と称する。

豊臣秀吉の正室である北政所(高台院)が秀吉の冥福を祈るため建立した寺院であり、寺号は北政所の落飾(仏門に入る)後の院号である高台院にちなむ。

境内からは大雲院 祇園閣が間近に見渡せる。

遺芳庵 – 方丈・書院の背後にある田舎屋風の茶室で、近世初期の商人で趣味人であった灰屋紹益が夫人の吉野太夫を偲んで建てたものという。

吉野窓と称する、壁一杯に開けられた丸窓が特色である。
京都市上京区にあった紹益の旧邸跡から明治41年(1908年)に移築したもの。

建築様式の点から、紹益と吉野太夫が生きた近世初期まではさかのぼらず、後世の人が2人を偲んで建てたものと推定されている。

勅使門 – 方丈の南正面に位置する。
大正元年(1912年)に方丈とともに再建された。

庭園は小堀遠州の作によるもので、その石組みの見事さは、桃山時代を代表する庭園として知られる。

今回特別公開された、開山堂(重文)と霊屋をつなぐゆるやかな「臥龍廊(がりょうろう)」を通る特別ルートでの拝観。

時雨亭(重要文化財) – 傘亭の南隣にあり、傘亭との間は屋根付きの土間廊下でつながれている。

珍しい2階建ての茶室で、2階南側の上段の間は柱間に壁や建具を設けない吹き放しとする。
傘亭同様伏見城からの移築とされ、これも千利休好みと伝える。伏見城「御学問所」に擬する説もある。

時雨亭内部。

傘亭(安閑窟)(重要文化財) – 境内東奥の小高い場所に位置する。

伏見城から移築したものとされ、千利休好み(=「利休作」の意)の茶室と伝える(ただし伏見城建設は利休の自刃後)。

宝形造茅葺きの素朴な建物で、内部の天井が竹で組まれ、その形が唐傘に似ているところから傘亭の名がある。

なお廊下は移転時に付加されたもので、両茶室はもともと別々に建っていたと考えられる。

今回特別公開された、境内の最も高い部分に位置する展望台からの眺望。。

ここから大坂の陣で燃え落ちる大阪城の様子が空を真っ赤に染めて眺められたという。

ねねはここからそれを眺めて涙したと伝わる。

関連記事


≪バスツアー/テーマのある旅特集≫クラブツーリズムお勧めツアーこちら!

早春の長居植物園パート2

丁度1週間前に「早春の長居植物園」をお届けしたばかりだが、再度訪問。
早春の長居植物園
春の訪れを知らせるように、ひとあし早く咲きだした色とりどりの草花を探しに・・・・ … 続きを読む →”


春らしい陽気に誘われて多くの人達が植物園を訪れている。

チューリップも一回り大きくった。

ムスカリの花。

ハナネコノメソウ。
1cmにも満たない小さな花の雄しべが散った後。花といっても白い花びらに見えるのは萼(がく)なので、だんだん緑色に変わっていく。

ハルリンドウ。
日なたのやや湿った草地に生え、春咲き種の中では草丈、花ともに一番大きい。根元の葉がロゼット状につく。

ユキヤナギも咲きだした。

春がそこまで来ているが公園の木々はまだ冬ごしらえのまま。

梅園ではオオカンザクラも咲いている。

フリソデヤナギもすっかり花を開いた。

ハナモクレンも間もなく咲きます。

ミツマタの花が満開。

先週訪れた時は数輪しか咲いていなくてとても撮りにくかったロードレイア・ヘンリー、今日はバッチリです。

竹の小径と寒咲き花菜。

先週愕の実だったマンサク、今日は花を見せてくれました。

ボケも咲きました。

水菜の花、普段あまり見ることもないと思います。

こちらも普段見ません、ダイコンの゜花。

こちらもそう、ブロッコリーの花。

大池の周りで楽しむ人、スケッチをする人。

自然史博物館前のクジラのはく製。

関連記事


≪バスツアー/テーマのある旅特集≫クラブツーリズムお勧めツアーこちら!

平等寺

平等寺は、奈良県桜井市三輪にある曹洞宗の寺院。三輪別所ともいう。
本尊は十一面観音である。かつては三輪明神(現・大神神社)の神宮寺であった。

「山の辺の道」らしい雰囲気が出てきたなと思ったら、すぐにコンクリート舗装の道に変わり、50mほど先にに急な石段が見えてくる。
平等寺の本堂の前にある赤門だ。

鎌倉末期から明治の廃仏毀釈までは、三輪明神の別当寺の地位にたっていた。

一方で、「大乗院寺社雑事記」には、興福寺が平等寺に御用銭を課していることが見られ、大和国の他の寺院同様、興福寺の末寺でもあった。

また、同時に修験道を伝えていたことから、醍醐寺との関係も保持していた。
そのため、内部に「学衆(興福寺大乗院)」と「禅衆(醍醐寺三宝院)」という、二つの僧侶集団が作られ、両者が共存する関係にあった。

室町中期には、禅衆と学衆が激しく争ったことも、「大乗院寺社雑事記」には描かれている。
明治の廃仏毀釈令により一時崩壊したが、昭和52年3月に復興した。

十六羅漢像。

大神神社所有の室町時代の絵図に描かれた二重塔を再現したも。

関連記事


≪バスツアー/テーマのある旅特集≫クラブツーリズムお勧めツアーこちら!

平等寺へのアクセス、行き方歩き方

平等寺公式サイト

奈良県桜井市三輪38
0744-42-6033

JR桜井線「三輪」駅下車 徒歩10分
  (大神神社から南へ5分)

第10代崇神天皇の磯城瑞籬宮伝承地


本殿

磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや)は日本書紀に記載されている崇神天皇王朝の都。
現在、磯城瑞籬宮は奈良県桜井市金屋にあったとものと推定されている。

記紀によりますと、崇神天皇の時、民が死に絶えてしまうような疫病が発生しました。

これは、三輪山の神、大物主大神(オオモノヌシノオオカミ)のしたこととお告げを受けた天皇は、神の意に従い、神の子孫となる大田田根子(オオタタネコ)を探し出しました。

そして、彼に託して三輪山に大物主大神をお祀りしたところ、祟りが鎮まり疫病がおさまったとされています。

また、東海や北陸、西国、丹波へと四方に将軍を派遣し国内の安泰につとめ、民をよく治めたことから、初めて国を治めた天皇としてたたえられたと記されています。

本宮の北側には三輪山(大神神社)が鎮座する。
周辺には纏向遺跡をはじめとする古墳時代前後の遺跡が存在し、箸墓古墳やホケノ山古墳、崇神天皇陵、景行天皇陵、垂仁天皇陵などの巨大前方後円墳群が点在する。

磐座

三輪山西麓一帯の初瀬川と巻向川に挟まれた三角形をなす地域は、古くから「水垣郷」と呼ばれ、神聖な場所とされてきました。

磐座は神々の依り代とされ、神聖な場所として祀られてきました。 
境内右側に鳥居で囲まれた磐座があり、複数の磐座が置かれています。

拝殿

拝殿の前の庭の西側に、ここが第10代崇神天皇の磯城瑞籬宮の跡地であることを示す石標が建っている。

実際の宮跡はこの神社の境内ではなく、境内の西側にある天理教会の建物とその北隣りの三輪小学校のあたりにあったと推定されている。

関連記事


≪バスツアー/テーマのある旅特集≫クラブツーリズムお勧めツアーこちら!

山の辺の道 海柘榴市界隈

かってこの付近に我が国最古の交易市場として知られる「海柘榴市(つばいち)」があった。
海柘榴とは椿のこと。以前は、海柘榴市と書いて”つばきち”と読んでいた。

大神神社大鳥居

昭和59年の昭和天皇の御親拝を記念して昭和61年に建てらてた大鳥居。

高さ32、2メートル、柱間23メートルの偉容を誇り、車道をまたぐ鳥居としては日本一。
材質は耐候性剛板で、耐久年数1300年と言われる。

大神神社 一の鳥居。

海柘榴市の 野路に飛び交ふ 虫や何  佐藤春夫

海石榴市の説明がある交差点から、細い道を入っっていくと『海石榴市観音堂』がある。

金屋の集落の裏手で、人の家の裏庭を歩いているような細い道を通りますが、ちゃんと駐車場らしきスペースもあり、観音堂も最近建て直されたばかりの真新しいものでした。

地域の方に大切に祀られていることが伝わってきます。

こちらにいらっしゃるのは、像高「二尺三寸」という二体の石仏。
ガラス越しに拝見するので、個々のお顔は良く見えませんが、向かって右手が十一面観音さま、左手が聖観音さま。

「元亀2年(1571年)」の銘があり、右手に錫杖を、左手に水瓶を持つ姿は、ここから初瀬川の上流にあたる長谷寺のご本尊と同じ形なのだとか。

以前は長谷寺の近くに祀られていたものが、川の氾濫で流れ着いたと伝わっているそうです。

長谷寺へと向かう初瀬街道。

橋の上に立って川上を見ると、初瀬川が三輪山の南麓に沿って流れてくるのがわかる。

初瀬川はこの後三輪山の北側を流れる纒向川と合流して大和川となる。
この二本の川と三輪山に囲まれた地域が、昔から水垣郷と呼ばれてきた”聖なるトライアングル”である。

第十代崇神天皇は、瑞磯城瑞籬宮(しきみづがきのみや)を宮処としたが、その名の由来は水垣郷の域内に位置していたことによる。

水垣郷には、金屋、三輪、茅原、芝、箸中の五つの地区があり、金屋は初瀬川と三輪山とに挟まれた細長い帯状の集落で、もっとも南に位置する。
古代、この金屋の辺りは大阪から大和川を遡ってくる川船の終着地点であった。

さらに、山の辺の道や上ツ道、山田道、初瀬街道が交差する陸上交通の要衝でもあった。
そのためさまざまな物産が集まり、我が国最古の交易市場がこの地に成立した。

市はいつしか海柘榴市と呼ばれるようになった。
椿は三輪山の代表的な喬木であり、その木を市場に植えたためにこの名が付けられたという。

古代の海柘榴市は、大和川の左岸の、現在の地図で言えば桜井市粟殿(おおどの)あたりが中心だった。

平安時代には、長谷詣での宿泊地として栄え、清少納言は「市は たつの市 さとの市 つば市。大和にはあまたある中に、長谷に詣づる人のかならずそこにとまるは、観音の縁のあるにや、と心ことなり」と枕草子に書き付けている。

長谷寺に参拝するものは必ず宿泊し、供物などを整えた所であった。
しかし、この市を一挙に地図上から消し去る大惨事が発生した。

延長4年(926)7月19日、長谷山が崩壊して大土石流が発生し、下流にあった海柘榴市の人家はことごとく流されてしまった。
その後は大和川の右岸に市や長谷寺詣での宿が復旧した。だが、往年の殷賑さを取り戻すことはついになかったという。

海柘榴市跡の歴史公園としてすっかり整備された川岸に、「仏教伝来の地」と大書した石碑が建っている。

朝鮮半島の百済国王だった聖明王(しょうみょうおう)が我が国に仏教を伝えたのを記念して建立されたもの。
だがこの仏教公伝の時期については複数の異なった説がある。

『日本書紀』は「欽明天皇13年(552)冬10月、百済の聖明王、またの名は聖王、西部姫氏達率・怒悧斯致契(ぬりしちけい)らを遣わして、釈迦仏の金銅像一躯・幡蓋(はたきぬがさ)若干・経論若干巻を献る」と伝えている。

だが、帝説や元興寺縁起では、仏教公伝を欽明天皇7年(538)のこととしている。

『金屋の石仏』は、こんな立派な収蔵庫の中に安置されていました。

説明文には「この中におさめられた二体の石仏は、右が釈迦、左が弥勒と推定されています。高さ2.2m、幅約80cmの二枚の粘板岩に浮彫りされたこの仏像は、古くは貞観時代、新らしくても鎌倉時代のものとされ、重要文化財の指定をうけています。右側の赤茶色の石は、石棺の蓋であろうと思われます。」とあります。

お釈迦さま。印を結ぶ手、幾重にも重なる衣紋のひだ、浮き出るように見える光背など、素晴らしい。
ただし、現地ではそれほど細かいところまでは見えません。

収蔵庫の床下には、無造作に石棺のふたが置かれていました。まさに「無造作」としか言いようがありません。

歌垣、文字のない時代には、男女が互いに歌に託してかけあいました。

古代、日本だけなく東南アジアなどでも見られる風習で、若い男女が春秋の特定の日に山や川辺に集まって、五穀豊穣を予祝したり、歌で求婚して結婚相手を探しました。

男女が集まり、即興でつくった歌を送りながら相手に求愛する風習。

「市」も男女の出会いの場だった。
市では物の流通ばかりでなく、人々の交流も盛んに行われた。
多くの人々が集まるため、男女の出会いの格好の場所となった。

万葉人のくらし
万葉人はどのように暮らし、どんな恋をし、どんなふうに四季の移ろいを眺めたのでしょ … 続きを読む →

奈良県立万葉文化館の展示からそのあたりを探ってみた。

『日本書紀』は海柘榴市を舞台にして行われた悲喜こもごもの事件を今に伝えている。その中から、影媛の悲恋物語を紹介しよう。

第25代武烈天皇といえば、日本の桀(けつ)王あるいは紂(ちゅう)王といわれるほど悪評高い大王であるが、太子の時代に恋の三角関係のもつれから、平群氏一族を滅亡させる出来事が生じた。

太子は物部麁鹿火(もののべのあらかい)の娘・影媛を娶ろうとして、仲人を影媛の家に赴かせた。

しかし、それ以前に、影媛はときの最高権力者・平群大臣真鳥の息子である鮪(しび)といい仲になっていた。
だが太子の期待に背くことを恐れて、影媛は海柘榴市の歌垣でお待ちしますと返事を伝えた。

約束の当日、歌垣の場所に出向くための官馬を平群真鳥に用意させようとしたが、真鳥はその要求を無視した。
太子は心中穏やかではなかったが、こらえて顔には出さず、約束通り海柘榴市に行き、歌垣の人の中で影媛を見つけそっと誘い出した。

そこへ、鮪がやってきて二人の逢瀬の邪魔を始めた。
三人で歌を掛け合っているうちに、鮪がすでに影媛と通じていることを、太子は知った。

激怒した太子はその夜のうちに大伴金村(おおともかなむら)に命じた。
金村は数千の兵を率いて鮪を襲い奈良山で殺してしまった。

このとき、影媛は「山の辺の道」を半狂乱になって走り奈良山へ駆けつけた。
山道で足を取られ何度も横転し、衣が裂け、両足からは皮膚が切れて血が滲んでいたであろう。

そして、恋人が殺されるまでを一部始終見ていたが、驚き恐れて気を失ってしまったという。
そのときの重い心を詠った歌が、『日本書紀』に記録されている。

それから間もなくして太子の父・仁賢天皇が崩御された。
平群真鳥は太子を殺して大王になる計画を密かに抱いていた。

このことを察知した金村は、太子に真鳥を撃つことを進言した。
歌垣の日に馬の調達を無視されて不愉快な思いをした太子は、真鳥討伐を許可した。

金村は早速手勢を集めて大臣の家を囲み、火をかけて真鳥を焼き殺してしまった。
科(とが)は一族に及んだ。

大伴金村は族を平定し終わると、太子を大王に即位させた。
大王に即位した太子は、金村の功績に報いるべく、金村を大連(おおむらじ)とした。

これを契機に大伴金村は政治の表舞台で活躍するようになる。

万葉集には海柘榴市の歌垣の歌として3首が載る。

海柘榴市の八十の衢に立ち平し結びし紐を解かまく惜しも(2963)

紫は灰さすものぞ海柘榴市の八十の衢に逢へる子や誰れ(3115)

たらちねの母が呼ぶ名を申さめど道行く人を誰れと知りてか(3116)

「八十の衢(ちまた)」とは、多数の道が合流した地点をさす。

八十の衢である海柘榴市は、物品を交換したり商う市が立ち、男女が出会う歌垣が開かれた他に、さらに刑場となったり、駅家などの役所が置かれ、外国の使節を歓迎する儀式も行われた。

関連記事


≪バスツアー/テーマのある旅特集≫クラブツーリズムお勧めツアーこちら!

当麻山口神社と傘堂


新在家の大池の東畔にある傘堂は、郡山藩主本多政勝候の菩提をとむらうため、その影堂として、恩顧の家臣やこの地域の農民たちによって延宝2年(1674)に建立されたもの。

一辺が約40cmの四角い一本柱を中心に立て、その上に本瓦葺の方形造の屋根がのる珍しい形の建物で、その全体的な形が唐傘に似ていることから傘堂(唐傘堂)と呼ばれている。

また、いつの頃からか、安楽往生を願う庶民信仰の対象にもなっている。

当麻山口神社は、「大和山口神社十四社」の1社。

この14社は、『日本文徳実録』『日本三代実録』などに、風雨の祈願がなされ、神階も同時に叙されている。

いずれも式内大社で、月次新嘗。
神名帳の他に、『延喜式』巻3「臨時祭」祈雨神祭条にいずれも記載され、祈雨神祭85座に含まれる。

山の神に対して、山や田畑の幸への祈願と感謝の他、天に近い山の神に対して風や水の順調さを祈願、特に干ばつの際の祈雨・雨乞いなどに霊験があったとされる。

祭神は
大山祇命(おおやまづみのみこと) 
天津日高日子番能邇邇芸命(あまつひこひこほのににぎのみこと) 
木花之佐久夜毘売(このはなのさくやびめ)

毎年4月23日に大和川が付け替えられた江戸時代・宝永年間から続けられてきた御田植祭がある。

関連記事


≪バスツアー/テーマのある旅特集≫クラブツーリズムお勧めツアーこちら!