自転車で大和川へ


コロナ過、いろいろな過ごし方が出てきていますが「チェアリング」も流行っているとか、ごろんと昼寝もいいかも。

堤防の上、川沿い、サイクリングや散策を楽しむ人がたくさんいます。

南海高野線、堤防下には紫と言うよりは、赤紫の花の名前は、ナヨクサフジです。

尚、ナヨクサフジの花言葉は「世渡り上手」だそうです。・・・

阪堺大橋から安彦大橋まで往復です。

堺の晩春を彩る“つつじロード”

樹齢80年を超えるつつじと、近年になって植えられた約2,500本、総延長約600メートルに渡るつつじのプロムナード。

“大阪みどりの百選”にも選出された旧浅香山浄水場や、浅香山緑道など一帯で、例年、4月下旬~5月上旬につつじが見ごろを迎える(新型コロナウイルス感染拡大防止のため、2021年度の「浅香山つつじまつり」の開催は中止となりました)。

浅香山緑道に、与謝野晶子の歌碑がありました。

 ● 大和川 砂に渡せる板橋を 遠くおもへと 月見草咲く

 ● 沙(すな)白き 新大和川 わが町に さかひ(堺)少女(おとめ)の 浄(きよ)かれと添ふ

 ● 橋一つ 越え大阪に 続くより 近きこころに 作れ都も

日本の各地やヨーロッパを旅していますが、砂も水も美しかったふるさとの大和川がなつかしいとうたっています。

前方に阪和線が見えてきました、今大和川左岸を走っています。

奈良県桜井市の北東部、貝ヶ平山(かいがひらやま、標高822m)近辺を源流としており、上流部では初瀬川と称される。

奈良盆地を西に向かって流れつつ、佐保川、曽我川、葛城川、高田川、竜田川、富雄川など盆地内の大半の河川を生駒山系の手前までに合わせる。

生駒山系と葛城山系の間を抜けて、大阪平野に出ると柏原市で南河内を流れてきた石川と合流してまっすぐ西へと流れ、大阪市と堺市の間で大阪湾に流れ込む。

管理境界地点の看板には下流は「大和川」、上流は「初瀬川」と記されており、この地点より上流が初瀬川と通称される。

ただしあくまでも河川法上は源流まで大和川である。
上流の橋の欄干や地図上では大和川と記されている。

奈良県から大阪府へ抜ける峡谷は、「亀の瀬」と呼ばれる地滑り多発地帯。

同区間を走る関西本線(大和路線)や国道25号も過去に度々被害を受け、関西本線は路線を付け替えている。

安彦大橋で折り返しです。

右岸の阪和線下菜の花の群生がきれいです。

流域の奈良県などで下水道普及が遅れているなどの原因で水質の悪い一級河川の一つであり、2009年の調査では関東の綾瀬川に次いでワースト2位であった。

水質改善の取組により平成22年、23年には、国が管理する一級河川の中で、「過去10年間で水質が大幅に改善されている河川」で全国第1位になるなど水質の改善が進んでいます。

南海高野線まで戻ってきました。

大阪市と堺市の境界である大和川に架かる阪堺線の「大和川橋梁」、この橋は阪堺電気軌道の創業時の1911年製で、全長198mのプレートガーター橋です。

さらに橋を支える橋脚は珍しい鉄管柱で、近代土木遺産に選定されています。

川を渡る神輿~住吉大社神輿渡御
五月殿の前には夏越女らが乗る車が待機しています。 人力による神輿渡御は、実に45 … 続きを読む →

大和川夕景
今日もきれいな夕日、ススキが陽に映えてきれい、土手の上下に散策の人。 夕日を背に … 続きを読む →

チン電と夕日
チン電と夕日を狙うには絶好の日和だ。 大和川、遠里小野大橋の下で日差しを避けて時 … 続きを読む →

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雨の日 住之江公園界隈


犬の散歩も雨の日は大変です、ビショビショになって濡れるので、散歩後のケアが大変です。

ぬれそぼった猫、拡大して見ると毛もぴしょぴしょになっています。

飼い猫の寿命が10年以上、ときには20年近く生きる個体もあるのに対し、野良猫の寿命は3年から5年程度だといわれています。

こちらはちょうど餌やりに来た人がいるようです。

配達を商売にしている人も雨で大変です。

向こうからこちらへ向かっている人は交通整理のガードマンです、どちらも大変な職業です。

雨の日の花嫁も大変そうだけど拡大して見ると二人とも幸せそうな表情をしています。

雨のお出かけ、肩のあたりはぐっしょり濡れています、傘の猫がらがかわいいね。

少しの散歩だけど町は様々に変化しています。

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白洲正子に「できることならここに隠居したい」と言わせた「天野の里」を散策


かつらぎ町南部、標高約450mの高野山麓に位置する天野の里。

四季折々の田園風景が広がる高原の盆地は、「にほんの里100選」にも選ばれています。

笠田と書いてと書いて「かせだ」と読む。

ここからコミュニティバスで天野の里へ向かう。

まず山裾にひっそりと佇む貧女の一燈お照の墓を目指す。

高野山奥の院に、千年もの間消えることもなく、光り輝いている「貧女の一燈」といわれるものがあります。

その燈を納めた娘「お照」の墓と伝えられる塚が天野にあります。
 
お照は、槇尾山(まきおさん)のふもと坪井村に捨てられた捨子でした。

16歳の時に養父母と死別し、その菩提を弔うために、自分の髪を売って「貧女の一燈」を献じたもので、長和5年(1016年)の頃でした。

後日、天和2年(1682年)に妙春尼(みょうしゅんに)によりお照の実父母の供養塔が建てられ、貞享5年(1688年)には天野に住む僧浄意(じょうい)によって、女人の苦しみを救うための代受苦(だいじゅく)の行を終えた旨の碑が建てられています。

お照の墓のそばに供養を兼ねて建てられたものと考えられます。

この碑の上10mの所には、お照の実父母の墓と伝えられるものが残されています。

この辺りはまるで山菜の宝庫だ。

春になると桜はもちろん花桃などで天野はピンク色に染まります。

西行が出家し、高野山に暮らして後、康治元年(1142年)、その妻も尼僧となり、この天野の里に庵を建てて移り住んでいます。

西行妻娘宝篋印塔(さいぎょうさいしほうきょういんとう)が残されています。

現存する西行堂は昭和61年の再建です。

解説板より
二基の宝篋印塔は、西行の妻と娘を供養した碑で、和歌山県の文化財に指定されています。

向かって右より二基は、応安5年(1372)建立され、左二基は文安6年(1449)に建立されました。

後方の数多くの五輪は、曽我兄弟の郎党、鬼王・団三郎を供養した碑です。

二人の郎党は、主人の遺骨を高野山に納めた後、天野のこの地で生涯を終えたと伝えられています。

史跡の多い天野の里で時間を多く割くことになる。

コースを外れ、周遊してみるのも良いと思います。

天野は紀ノ川流域から一山隔てた高度450mの高所にありますので、平地より涼しく感じられます。

文学の里歌碑園。

白洲正子は「あんなに美しい田園風景を見たことがない」とか「天の一廓に開けた夢の園」とか「天野に隠居したい」とかそれはもうベタぼめです。

彼女が初めて天野に来たのは昭和40年前後かと思いますが、風景はその当時と大きく変わってはいないかも。
『かくれ里』白洲正子 新潮社

高野山ゆかりの伝説と史跡が残り、古の文化が薫る歴史の里。

随筆家の白洲正子は、著書『かくれ里』の中でこの里についてこう綴っています。

「こんな山の天辺に、田圃があろうとは想像もしなかったが、それはまことに「天野」の名にふさわしい天の一角に開けた広大な野原であった。もしかすると高天原(たかまがはら)も、こういう地形のところをいったのかも知れない」。

また、「ずいぶん方々旅をしたが、こんなに閑でうっとりするような山村を私は知らない」「できることならここに隠居したい。桃源郷とは正にこういう所をいうのだろう」とも。1971年の上梓からは時代が進みましたが、彼女が見て歩いて感じた里は変わりなく残っています。

ゆっくりと彼女の足跡をたどれば、きっと同じ思いを感じるでしょう。

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紀伊国一宮 丹生都比売神社


式内社(名神大社)、紀伊国一宮。
旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。

別称として「天野大社」「天野四所明神」とも。
全国に約180社ある丹生都比売神を祀る神社の総本社である。

「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成資産の一つとして世界文化遺産に登録されている。

外鳥居

両部鳥居の様式。

両部とは密教の金剛界・胎蔵界のことで神仏習合が盛んだった神社によく見られ、高野山と縁の深い丹生都比売神社の鳥居にもみられます。

輪橋 – 太鼓橋。

鏡池に掛かっている。慶長年間(1596年 – 1615年)に淀殿の寄進で建立。
いろいろな種類の桜が植わっているため、一斉には咲き揃いません。

楼門前の桜が見頃となっており、順次満開を迎えます。

鏡池

水面に輪橋の姿を映す美しい池です。

鏡池には、「不老不死になった八百比丘尼と言う尼僧が池にその姿を映し、年老わない自分を嘆き鏡を投げ入れたと伝わる」と案内板にはあります。

鏡池の〝放生の鯉〟が、訪れる参拝者の心を和ませている。

鏡池は同神社の前にあり、楼門や本殿に向う朱塗りの太鼓橋が架かかっている。

池には赤い鯉、白い鯉、赤と黒、赤と白の斑(まだら)の鯉が放生されている。

鯉の群れは、四季を通して、鏡池を回遊。

年の瀬には、薄氷や雪の下で生息しているが、参拝者が堤に立つと、鯉は頭で薄氷を割り、雪をかき分けて、目鼻口を水面に出す。


禊橋・中鳥居

手前が禊橋で、その奥に中鳥居があります。
外鳥居と同様に両部鳥居になっています。


明日は花盛祭、春の大祭で、ご祭神に花を供え春の訪れを寿ぐ祭りで、当日は季節の花を竹筒に入れ参道に飾ります。

午前の祭典では、本殿の御扉を開け、祝詞を奏上し、子供たちが神前神楽「浦安の舞」を舞います。

午後には、「渡御の儀」を行います。

この「渡御の儀」は、古く鎌倉・室町時代に行われ、神輿行列が和歌山市内の和歌浦にある玉津島神社までご巡幸した「浜降り神事」が起源となっています。

本殿 4棟 – 本殿は第一殿から第四殿の4棟からなる。

楼門奥の最上段に向かって右手から第一殿・第二殿の順で一列に並び、第四殿のさらに左手には若宮が鎮座する。

これら各棟には祭神が1柱ずつ祀られている。

通常だと極彩色の本殿が拝観できるのだが、明日の花盛祭のためにテントが張られており拝観できず。

空海が金剛峯寺を建立するにあたって丹生都比売神社が神領を寄進したと伝えられ、古くより高野山と深い関係にある神社である。

神社背後の尾根上には高野山への表参道である高野山町石道(国の史跡、世界遺産)が通り、丹生都比売神社は高野山への入り口にあたることから、高野山参拝前にはまず丹生都比売神社に参拝する習わしであったという。

神社では国宝の銀銅蛭巻太刀拵を始めとする文化財のほか、本殿および楼門などの社殿が国の重要文化財に指定されている。

また境内は国の史跡に指定されている。

これらのうち本殿、楼門および境内は、ユネスコの世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部として登録されている。

創建の年代は不詳。

『播磨国風土記』逸文には「爾保都比売命(にほつひめのみこと)」が見え、丹生都比売神と同一視される。

同文によれば、神功皇后の三韓征伐の際、爾保都比売命が国造の石坂比売命に憑いて神託し、赤土を授けて勝利が得られたため、「管川の藤代の峯」にこの神を祀ったという。

その場所は現在の高野町上筒香の東の峰(位置)に比定され、丹生川の水源地にあたる。

また同地は丹生都比売神社の旧鎮座地と見られているが、そこから天野への移転の経緯は明らかではなく、高野山への土地譲りに際して遷ったとする説がある。

丹生都比売神社に関しては、弘法大師空海が高野山金剛峯寺を開いた際に地主神たる丹生都比売神社から神領を譲られた、とする伝説が知られる。

高野山と丹生都比売神社の関係を語る最古の縁起として、11世紀から12世紀の『金剛峯寺建立修行縁起』がある。

これによると、弘仁7年(817年)に空海は「南山の犬飼」という2匹の犬を連れた猟者に大和国宇智郡から紀伊国境まで案内され、のち山民に山へ導かれたという。

元寇の際には、丹生都比売神社は神威を表したとして一躍有名となり、公家・武家から多くの寄進を受けた。

この頃から、紀伊国一宮を称するようになったと見られている。

紀伊国では古くより日前神宮・国懸神宮(和歌山市)が一宮の位置づけにあったが「一宮」の呼称自体はなく、丹生都比売神社が弘安8年(1285年)を初見として「一宮」を称し、以後一宮が並立した。

なお、他に一宮を称した神社として伊太祁曽神社(和歌山市)がある。

三社参り 日前神宮・國懸神宮
入口から向かって左に日前神宮、右に國懸神宮がある。和歌山市内にある当社と竈山神社 … 続きを読む →

三社参り 竈山神社
日前宮(にちぜんぐう)と竈山神社(かまやまじんじゃ)と伊太祁曽神社(いだきそじん … 続きを読む →

三社参り 伊太祁曽神社
旧称は山東宮。式内社(名神大社)、紀伊国一宮。 祭神 主祭神 – 五 … 続きを読む →

中世には多くの社領寄進を受けていたが、それらは天正検地において没収された。
近世になり、高野山学侶領から202石余が分与された。

明治維新後、1873年(明治6年)に近代社格制度において県社に列し、1924年(大正13年)に官幣大社に昇格した。

また、明治の神仏分離に伴い高野山から独立したが、今日に至るまで多くの僧侶が丹生都比売神社に参拝しており、神前での読経も行われている。

佐波神社(さわじんじゃ) – 明治時代に上天野地区の諸社を合祀したもの。

卒塔婆群(和歌山県指定文化財)

大峯修験者の碑

連なる石塔が大峯修験者の碑、梵字を刻んだ碑は光明真言板碑です。
山岳信仰と神仏習合時代の様子が垣間見える石碑群です

山の信仰を感じさせる中丿沢神社。
はるか昔にタイムスリップしたような気がしました。

畑の作業道から雑草がおおいかかる小道をかき分けるように5分ほど歩くと、杉木立のなかに小さな祠をみつけました。

祠自体はそれほど古くはないのかもしれませんが、苔むした石積みの基壇が歴史の厚みを感じさせてくれます。

周囲には誰もいなくて、なんだか中世の世界に迷い込んでしまったような、不思議な空気感のある場所でした。

案内板によると、祠の主は丹生明神と狩場明神です。

この二柱の明神さまは、丹生都比売と高野明神と同じで、天野には沢に沿ってこうした祠が3つ伝わっています。

こうした沢筋には鎌倉時代から郷供僧や宮仕と呼ばれる人たちが住み、こうした人たちによって丹生都比売神社が維持されていたとのことです。

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阿弥陀池から土佐藩邸周辺散策


鰹座橋交差点

鰹座橋は元和8年(1622)の長堀川開削から明暦元年(1655)までの間に架設されたと考えられる。

鰹節を売買する鰹座があったことが橋名の由来で、また土佐殿橋とも呼ばれた。

江戸時代は鰹座橋と玉造橋の間に土佐藩大坂蔵屋敷があり、土佐廻船によって鰹節を始めとする海産物、材木などが大量に陸揚げされ、盛況を極めた。

玉造橋交差点

かつてあった玉造橋が交差点名の由来。

玉造の名は17世紀半ば、大坂城・玉造口の与力・同心が増員のため、ここに移転させられたことによる。

伯楽橋

明治41年(1908)、市電東西線開通に合わせて架橋。

西詰めに開かれた松島遊郭の圧力で 、昭 和15 年(1940)まで、市電専用橋で歩行者は通れませんでした。

伯楽というのは『荘子』に登場する中国・周代にいた馬の良し悪しを見分ける名人のことで、そこから牛馬の売買・仲介者、病気などを治す医者のことなどを指す言葉になりました(伯楽の音変化で博労、馬喰ともいう)。

土佐稲荷神社(三菱発祥の地 岩崎家旧邸跡)

かつては土佐藩蔵屋敷があり、米穀、材木、鰹節、和紙、砂糖など土佐の特産物が扱われた。

明治2年(1869)、岩崎彌太郎が土佐藩のお手先商法である「開成館貨殖局大阪出張所」の幹事心得となり、大阪事務所を指揮して汽船・武器の輸入に活躍。

翌年、廃藩置県が行われるとの情報で後藤象二郎、板垣退助らと協議して長堀川北岸に事務所を置き、藩から独立した九十九商会を設立、土佐藩の負債を肩代わりする条件で船3隻を入手して海運業を始めた。

廃藩置県後、一旦、三川商会となり、明治6年(1873)3月、三菱商会と改称。

これが三井、住友と並ぶ日本三大財閥のひとつ、三菱財閥の起こりです。

土佐稲荷神社は三菱発祥の地で、彌太郎は、土佐藩主・山内家の三ツ柏紋と岩崎家の三階菱紋の家紋を合わせて社章(スリーダイヤ)を作りましたが、土佐稲荷神社の神紋の中にもスリーダイヤが入っています。

岩崎彌太郎邸宅跡の碑があり、神社を囲む玉垣なども三菱系列の会社が寄進しています。

また第12代横綱・陣幕久五郎が寄進した狛狐が現存しています。

木村蒹葭堂邸跡碑

蒹葭とは葦のことであり、「蒹葭堂」とはもともとは彼の書斎のことである。

庭に井戸を掘ったときに葦が出て来たことを愛でてそのように名付けたもので、後にこの書斎の名をもって彼を呼ぶようになった。

蒹葭堂は生まれつき病弱で手がかかる子どもであったので父より草木を植えて心を癒すことを許され、やがて植物や物産への興味に繋がっていく。

近年「浪速の知の巨人」と称され評価が高いが、事実・本草学・文学・物産学に通じ、黄檗禅に精通し、出版に携わり、オランダ語を得意とし、ラテン語を解し、書画・煎茶・篆刻を嗜むなど極めて博学多才の人であった。

また書画・骨董・書籍・地図・鉱物標本・動植物標本・器物などの大コレクターとしても当時から有名であり、その知識や収蔵品を求めて諸国から様々な文化人が彼の元に訪れた。

寛政2年(1790年)55歳のとき、密告により酒造統制に違反(醸造石高の超過)とされてしまう。

酒造の実務を任されていた支配人 宮崎屋の過失もしくは冤罪であるか判然としないが、寛政の改革の中で大坂商人の勢力を抑えようとする幕府側の弾圧事件とみるべきだろう。

蒹葭堂は直接の罪は免れたが監督不行き届きであるとされ町年寄役を罷免されるという屈辱的な罰を受ける。

彼の死後、膨大な蔵書は幕命により大部分は昌平坂学問所に納められたが、帝室博物館書目に昌平坂学問所の蔵書印が押された蒹葭堂蔵書の一部が確認できるため、いくつかの過程を経て一部散逸してしまったことははっきりしている。

昌平坂学問所に納められた大部分は、現在内閣文庫に引き継がれている

奇抜なウォールアート発見。

大阪・北加賀屋がカベジョの聖地に
インスタ映えスポットが見つかるサーチアプリ『GENIC WALL(ジェニックウォ … 続きを読む →


和光寺(阿弥陀池)

阿弥陀池は古代からあって、霊水が湧く有難い池で、廃仏派の物部氏によって池に投げ捨てられた阿弥陀如来が、推古天皇10年(602)に信濃の住人・本田善光に拾われて善光寺まで運ばれたという言い伝えがあります。

善光寺に紅葉を訪ねる
善光寺の御本尊の一光三尊阿弥陀如来様は、仏教伝来の折りに百済から日本へ伝えられた … 続きを読む →

皇極天皇三年(644年)には勅願により伽藍が造営され、本田善光の名を取って「善光寺」と名付けられたという。


元禄11年(1698)、堀江川が開削され、堀江新地の区画整理が始まると、翌年、長野・善光寺から智善上人を迎えて、阿弥陀池のほとりに和光寺を建て、善光寺本堂に安置されていた阿弥陀仏を本尊としてお祀りした。

境内及び周辺には講釈の寄席、浄瑠璃の席、軽業の見世物などが並び、2月の涅槃会や、4月の仏生会の植木市は、こと賑やかあったといいます。

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たま電車に乗って三社参り


和歌山駅に着いたら、駅の外には出ず、9番線ホームに向う、目印は、階段や通路に点在する猫の足跡だ。

和歌山市と野上町を結ぶべく計画されたが、同時期に計画された野上軽便鉄道の計画に敗れ認可が下りず、計画を変更。

沿線にある日前宮、竈山神社、伊太祁曽神社などへの参詣(いわゆる三社参り)のための鉄道として、1916年(大正5年)2月15日 山東軽便鉄道により大橋駅 – 山東駅(現在の伊太祈曽駅)間が開業。

2009年3月22日にはいちご・おもちゃ両電車に続くリニューアル車第3弾「スーパー駅長たまちゃん電車」、略して「たま電車」がお披露目された。

この電車の車体には様々なポーズのたまのイラストが描かれるなどたまづくしの電車になっている。

2017年1月7日、三毛猫の「よんたま」がニタマの貴志駅駅長就任で空いていた伊太祈曽駅の「駅長見習い」に任命された。

よんたまは2015年4月20日、一週間前に飼い犬を亡くした和歌山市内の女性の家に、まだ目の見えない仔猫の状態で母猫に置いていかれた猫である。

困った女性が友人に相談したところ、その友人が仔猫の件を和歌山電鐵に繋いだことから、小嶋社長が仔猫を「面接」の上岡山に連れて帰り、岡山電気軌道内にある“訓練をしない猫駅長訓練所”で「人が好きなこと」「帽子をかぶるのを嫌がらないこと」「仕事を嫌がらないこと」という三要素の適正チェックを受け、駅長見習いに任命されることになった。

なお、駅長見習いの候補には岡山にいる「SUNたまたま」もいたが、親代わりの両備グループの広報担当者がSUNたまたまを可愛がって「この子は手放しません。

岡山に置きます」と手放さなかったために、よんたまが駅長見習いに就任することになった。

2018年1月5日、三毛猫の「よんたま」が伊太祈曽駅の「駅長」に昇格。

併せて、「たまⅡ世駅長」が駅長を務める貴志駅の「駅長代行」に就任。

2019年1月5日、「スーパー駅長」に昇進。

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三社参り 日前神宮・國懸神宮

入口から向かって左に日前神宮、右に國懸神宮がある。和歌山市内にある当社と竈山神社、伊太祁曽神社に参詣することを「三社参り」と言う。

1つの境内に日前神宮・國懸神宮の2つの神社があり、総称して日前宮(にちぜんぐう)あるいは名草宮とも呼ばれる。

両社とも式内社(名神大)、紀伊国一宮で、旧社格は官幣大社。
現在は神社本庁に属さない単立神社。

神体の鏡について

神体の鏡はいずれも伊勢神宮内宮の神宝である八咫鏡と同等のものとされる。

八咫鏡は伊勢神宮で天照大神の神体とされていることから、日前宮・國懸宮の神はそれだけ重要な神とされ準皇祖神の扱いをうけていた。

日神(天照大神)に対する日前神という名称からも、特別な神であると考えられている。

また、伊勢国が大和国への東の出口に対して、当社は西の出口にあるため、伊勢神宮とほぼ同等の力を持っていたといわれている。

日前神宮

主祭神
日前大神 (ひのくまのおおかみ)
日像鏡(ひがたのかがみ)を神体とする。

相殿神
思兼命(おもいかねのみこと)
石凝姥命(いしこりどめのみこと)

神階について

日前神宮の祭神である日前大神は天照大神の別名でもあり、朝廷は神階を贈らない別格の社として尊崇した。

神位を授けられることがなかったのは伊勢神宮をおいては日前・國懸両神宮しかなかった。

なお、日前大神が天照大神の別名とされることについては諸説がある。

日本で最も歴史のある神社の一つで、神話と関わりが深い。

『日本書紀』に、天照大神が岩戸隠れした際、石凝姥命が八咫鏡に先立って鋳造した鏡が日前宮に祀られているとの記述がある。

社伝によれば、神武東征の後の神武天皇2年、紀国造家(紀氏)の祖神である天道根命(あめのみちねのみこと)が、八咫鏡に先立って鋳造された鏡である日像鏡・日矛鏡を賜り、日像鏡を日前宮の、日矛鏡を國懸宮の神体としたとしている。

当初は名草郡毛見郷浜宮に祀られ、垂仁天皇16年に現在地に遷座したと伝えられている。

なお、伊太祁??曽神社の社伝では、元々この地に伊太祁??曽神社があったが、紀伊国における国譲りの結果、日前神・国懸神が土地を手に入れ、伊太祁曽神社は現在地に遷座したとしている。

また、日前・國懸両神宮の遷宮前の旧社地には浜宮神社が鎮座している。

國懸神宮

主祭神
國懸大神 (くにかかすのおおかみ)
日矛鏡(ひぼこのかがみ)を神体とする。

相殿神
玉祖命(たまのやのみこと)
明立天御影命(あけたつあめのみかげのみこと)
鈿女命(うづめのみこと)

天正13年(1585年)に豊臣秀吉に攻め込まれ、社領が没収された。

その際社殿が取り壊され境内が荒廃したが、江戸時代に紀州藩初代藩主徳川頼宣により社殿が再興された。

しかし現在は最盛期の5分の1の広さになっており、社殿や施設などは往時を忍ぶに及ばない。

さらに1919年(大正8年)には国費による改善工事によって境内の建物はすべて一新されており、旧観は大きく変化している。

1926年(大正15年)3月の工事完成をもって現在の左右対称の姿となった。

1871年(明治4年)、近代社格制度において両宮ともに官幣大社に列せられた。

現在は神社本庁などの包括宗教法人に属さない単立神社となっている。

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三社参り 竈山神社

日前宮(にちぜんぐう)と竈山神社(かまやまじんじゃ)と伊太祁曽神社(いだきそじんじゃ)を詣でることを「三社参り」と言い、貴志川線はこの三社の参拝者を運ぶことが目的の一つであった。

大鳥居

祭神の彦五瀬命は神武天皇(初代)の長兄にあたる。

『古事記』『日本書紀』によれば、神武天皇の東征の際に行軍した彦五瀬命は、孔舎衛坂(くさえざか)で長髄彦の軍との戦いで流矢にあたって負傷、その後雄水門(おのみなと、男之水門)で崩御、のち竈山に葬られたという。

この彦五瀬命の墓は、現在は宮内庁によって竈山神社後背にある古墳「竈山墓(かまやまのはか)」に治定されている。

天正の兵乱で文書が散逸したため竈山神社・墓の由緒は明らかでないが、『紀伊続風土記』では当地が「竈山墓」にあたるとし、墓の造営後直ちに神霊を奉斎したがために墓と祠が一所にあるとしている。

1873年(明治6年)に近代社格制度において村社に列した。

その後、1885年(明治18年)4月22日に官幣中社、1915年(大正4年)11月10日に官幣大社に昇格した。

村社から官幣大社まで昇格したのは、竈山神社が唯一の例である。

1938年(昭和13年)頃、現在の規模の社殿が整えられた。
戦後は神社本庁の別表神社に列している。

主祭神
彦五瀬命(ひこいつせのみこと)
「五瀬命」とも。ウガヤフキアエズとタマヨリビメの間に生まれた長男(第1子)で、神武天皇の長兄。

配祀神
左脇殿:彦五瀬命の兄弟神
稲飯命(いないのみこと) – 『日本書紀』本文では第2子(一書で第3子)。
御毛入沼命(みけいりぬのみこと) – 『日本書紀』本文では第3子(一書で第2子)。
神日本磐余彦命(かむやまといわれひこのみこと、初代神武天皇) – 末弟(第4子)。

『古事記』『日本書紀』では、彦五瀬命は「紀国之竈山」または「紀伊国竈山」に葬られたと記載されている。

『延喜式』諸陵寮では「竈山墓」と記載され、紀伊国名草郡にあり、兆域(墓域)は東西1町・南北2町で守戸3烟を付して遠墓としている。

『延喜式』において紀伊国唯一の陵墓である。

その後康和2年(1100年)の解状では、紀伊国等の陵墓は格式に規定されているにも関わらず、国司によって兆域侵犯や陵戸収公が行われていると記している。

竈山墓(かまやまのはか)は、竈山神社の本殿後背にある古墳(位置)。

実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により彦五瀬命の墓に治定されている。

宮内庁上の形式は円墳。

高さ約9メートルの独立丘上に位置し、墳丘は直径約6メートル、高さ約1メートルで、裾に護石を配する。

上記の記録があるものの、その後竈山墓の所在地は不明となった。

『紀伊続風土記』では寛文9年(1669年)に区域を定めて殺生を禁じたというが、これは神社の区域を定めたものであり、竈山墓の所在自体はなお不明であった。

寛政6年(1794年)に本居宣長とともに竈山神社を参拝した本居大平は、所在不明の旨を「なぐさの浜づと」に記している。

明治9年(1876年)に現在の古墳が「竈山墓」に治定され、明治14年(1881年)に修営された。

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三社参り 伊太祁曽神社


旧称は山東宮。式内社(名神大社)、紀伊国一宮。

祭神

主祭神 – 五十猛命 (いたけるのみこと)、別名:大屋毘古神。

左脇殿 – 大屋都比賣命 (おおやつひめのみこと。五十猛命の妹神)。

右脇殿 – 都麻津比賣命 (つまつひめのみこと。五十猛命の妹神)。

上の3柱はいずれもスサノオの子であり、木の神として信仰される神である。

二の鳥居もがっしりとした木造り。

日本書紀によると、高天原を追われた素戔嗚尊とその子五十猛神は、共に新羅に降り立つがその地を気に入ることはなく、船で出雲国に移動した。

そして素戔嗚尊は高天原から持ってきていた木の種を五十猛神に渡して日本中にその種を蒔くように命じた。

五十猛神は妹である大屋津姫命・都麻津姫命と共に九州から順番に日本中に種を蒔き始めて国中を青山にし、最後に木の国(紀伊国)に降り立った。

このことから五十猛神は有功神(いさおしのかみ=大変に功績のあった神様)とも呼ばれ、紀伊国に祀られることとなった。

伊太祁曽神社の拝殿は、割拝殿となっています。

割拝殿とは、建物の中央に土間があり、通り抜け可能な拝殿のことです。

威風堂々としたとても立派な割拝殿です。

御神木

昭和37年の落雷で燃え、枯れてしまいましたが、現在も3mほどの高さが残っています。

その後、古幹は割拝殿に保存され、大国主命(おおくにぬしのみこと)を助けた神話にちなみ、「木の俣くぐり」となっています

石垣には地元産の緑泥片岩(りょくでいへんがん:通称・青石)が使われています。

御鎮座の時期については明らかでないが、『続日本紀』の文武天皇大宝2年(702年)の記事が初見になる。

古くは現在の日前宮(日前神宮・國懸神宮)の地に祀られていたが、垂仁天皇16年に日前神・国懸神が同所で祀られることになったので、その地を明け渡したと社伝に伝える。

その際、現在地の近くの「亥の杜」に遷座し、和銅6年(713年)に現在地に遷座したと伝えられる。

本居宣長の歌碑。

氣生社

日前宮(にちぜんぐう)と竈山神社(かまやまじんじゃ)と当神社を詣でることを「三社参り」と言い、貴志川線はこの三社の参拝者を運ぶことが目的の一つであった。

貴志川線の開業当初の終点は伊太祁曽駅(当時は山東駅)であった。

御井社には水の神様、彌都波能売神(みずはのめのかみ)・御井神(みいのかみ)をお祀りしています。

ご神水をいただける井戸があり、病気の人には元気を取り戻す霊力があると伝えられています。

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桜咲く 長居植物園


長居植物園では、展望島や大池の周りを中心に、人気の高い「ソメイヨシノ」の他、3月中旬に鮮やかなピンク色の花を咲かせる「ヨウコウ」や、4月中旬に八重咲きの大輪の花を咲かせる「ショウゲツ」など、約400本の開花時期が異なる桜が次々と見頃を迎えます。

日本では、サクラは固有種を含んだ10もしくは11の基本の野生種を基に、これらの変種を合わせて100種以上の自生種がある。

さらに、これらから古来から改良開発されてきた栽培品種が200種以上あり、分類によっては600種とも言われる品種が確認されている。

これら多品種のサクラのうち、ソメイヨシノは江戸時代後期に開発され、昭和の高度経済成長期にかけて日本全国で圧倒的に多く植えられた。

このため今日では気象庁が沖縄県以東、札幌以西の各地のサクラの開花・満開を判断する「標本木」としているなど、現代の観賞用のサクラの代表種となっており、単に「サクラ」と言えばこの品種を指す事が多い。

命名の由来

江戸時代末期から明治初期に、染井村(現在の東京都豊島区駒込・巣鴨付近)に集落を作っていた造園師や植木職人達によって育成された。

初め、サクラの名所として古来名高く、西行法師の和歌にも度々詠まれた大和の吉野山(奈良県山岳部)にちなんで、「吉野」「吉野桜」として売られ、広まったが、藤野寄命による上野公園のサクラの調査によって、ヤマザクラとは異なる種のサクラであることが分かり(1900年)、この名称では吉野山に多いヤマザクラと混同される恐れがあった。

このため、『日本園芸雑誌』において染井村の名を取り「染井吉野」と命名したという。

ジャノメエリカ

和名の意味は蛇の目エリカで、花の真ん中に黒い葯がよく目立つことによる。

日本には大正末年に持ち込まれた。

ネモフィラ

花は4月-5月に開花し、花径2cmくらいで、白に空色または青紫色の深い覆輪で、中心部に黒い点が5つある。

白色花もある。属名は「林を愛する」の意味で、茂みの中の明るい日だまりに自生していることによる。

シャガは中国原産で、かなり古くに日本に入ってきた帰化植物である。

三倍体のため種子が発生しない。

このことから日本に存在する全てのシャガは同一の遺伝子を持ち、またその分布の広がりは人為的に行われたと考えることができる。

したがって、人為的影響の少ない自然林内にはあまり自生しない。

スギ植林の林下に見られる場所などは、かつては人間が住んでいた場所である可能性が高い。

この間まできれいな花を見せてくれていたがもう果実になっている。

ススキ

カラタネオガタマ

ツツジ リージェント

カラタチ

からたちのうまら刈りそけ倉立てむ屎とほくまれ櫛つくる刀自  忌部首

(私は)カラタチなどの 棘植物を刈り取って (そこへ)倉を建てるつもりだ (だからお前は)(これからは)(そこではなく)遠くでクソをしろ 櫛を作る女よ

何ともおおらかな歌であること。

ヤマブキの花期である4~5月は、晩春にあたる地域が多く、初夏の訪れを控えている時季でもあります。

そのため、「日本の春は梅に始まり、山吹で終わる」といわれることもあります。

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