緑滴る参道が美しい!夏の「二尊院」


二尊院は、京都市右京区嵯峨にある天台宗の寺院。

山号は小倉山。寺号は華台寺。詳しくは小倉山二尊教院華台寺(おぐらやま にそんきょういん けだいじ)と称する。

二尊院の名は、本尊の「発遣の釈迦」と「来迎の阿弥陀」の二如来像に由来する。

総門

慶長十八年(一六一三)に伏見城にあった薬医門を角倉了以によって移築・寄進されたもの。

室町時代の建築として京都市指定文化財となっています。

総門には文様(装飾のための図柄)があり、唐草模様、数珠入り三つ巴紋、桃の巴蓋瓦など多彩。

西行法師庵跡

歌人西行(1118~90)は俗名を佐藤義清といい鳥羽上皇(1103~56)や徳大寺家などに仕えていたが、保延6(1140)年出家した。

以後、仏道修行と和歌三昧の生活を送り、全国各地に足跡が残されている。
その一つがこの地であり、二尊院門前近くに庵を結んだとされる。

この石標はその庵跡を示すもの。

我かものと
   秋の梢を思うかな
  小倉の里に
    家居せしよ里
 
          西行法師

総門を入った「紅葉の馬場」と呼ばれる参道は、紅葉の名所として知られる。

秋には真っ赤に紅葉し多くの参拝者が訪れる。

振り返って参道を見る。

境内入り口に美しいアジサイの水鉢があった。

角倉了以の像がここにはあり、法衣姿で石割斧を持っている姿が特徴的。

角倉了以翁墓道とある石段を上る。

二尊院は嵯峨天皇の勅願により慈覚大師 円仁によって建立され、鎌倉時代初期に法然上人の高弟だった湛空上人により再興されました。

本堂のそばにある石段を上っていくと湛空上人廟があり、その周囲には二条家、鷹司家、四条家の墓のほか、角倉了以、伊藤仁斎の墓、さらには小倉百人一首を編纂した藤原定家が営んだと伝えられる時雨亭跡などがあります。

高所にある二尊院の墓所からは緑の木々のあいまから京都市内の眺めも見ることができます。

角倉了以・角倉素庵父子の墓

角倉家の墓と書かれた一画の一番端に、了以・素庵の墓がある。
親子で祀られている。

上中央、4つの墓石が並んでいるが、左2つが了以とその夫人。
右2つが素庵とその夫人である。

角倉了以別邸跡 高瀬川源流庭苑

現在のみそそぎ川は京都府立医大病院の北側で鴨川から取水し、そのまま暗渠で荒神橋を … 続きを読む →

高瀬川開発には7万5千両を費やしたとされているが、角倉家に納められる通行料は年間1万両を超えるものだったと考えられる。
開発に費やした工事費をわずか8年で回収したことから、かなり高額な通行料にも思えるが、これでも人馬で運ぶ手間よりは安かったので、鉄道輸送が本格化するまでは利用されてきた。

化野念仏寺
化野念仏寺(あだしのねんぶつじ)は、京都市右京区の嵯峨野にある浄土宗の寺。 山号 … 続きを読む →

竹藪の小柴垣の中央に立て札が立っています 角倉了以の長男 【住倉素庵】の墓があります。
風神雷神図で有名な俵谷宗達と親交あり素庵56歳でハンセン病で61歳で亡くなるまで 此処に隔離 宗達は面倒を看ました。

本堂

六間取り方丈形式の間口の広い建物は京都市指定文化財。

室町時代の応仁の乱(一四六七〜七七)の兵火で諸堂が全焼しますが、永正十八年(一五二一)に三条西実隆が諸国に寄付を求めて再建。

本堂脇にもアジサイの水鉢。

庭には、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天の六道で苦しむ衆生を救済してくれる六地蔵菩薩が祀られています。

本堂横の手水舎では半夏生を見ることができます。

半夏生は暦の用語の1つにもありますが、植物の半夏生は美しく化粧を施した女性を連想させるところから、半化粧の字が用いられることも。

例年6月下旬頃から7月初旬にかけては葉が白く変化しますが、その前の新緑の時期も大変美しい植物です。

そして不思議なことに、白く変化した部分は盛夏の頃には再び緑色へと変色してゆきます。

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祇王寺に残る悲恋と無常の物語


祇王寺の手前に怪しげな寺がある、その名も壇林寺。

現在の壇林寺は真っ赤な嘘で、実は古道具屋であると白洲正子が書いている。

檀林寺とは、嵯峨天皇の皇后・橘嘉智子(檀林皇后)が815年(弘仁6)に建立、京都で最初の禅寺で12の塔頭を持つ壮大な寺院でしたが、平安初期の仏教文化の一中心地でしたが平安中期に廃絶。

その跡地に天龍寺が建てられた。

祇王寺は、奥嵯峨にある真言宗大覚寺派の仏教寺院。

寺自体は尼寺。
山号は高松山。院号は往生院。
本尊は大日如来。

法然の弟子・念仏房良鎮が創建したと伝えられる往生院の旧跡]。

この時期青もみじがとてもきれいです。

寺号は、平清盛の寵愛を受け、のちに捨てられて出家した白拍子の祇王に由来する。

せめてもの忘れ形見にと

萌えいづるも 枯るるもおなじ 野辺の草 いづれか秋に
あはではつべき

と障子に書き残して去っていく。

『平家物語』『源平盛衰記』によれば、若い仏御前にその座を奪われ、清盛の邸を追われた祇王(21歳)が、妹の祇女(19歳)、母の刀自(45歳)と共に尼となったのが嵯峨の奥、往生院の庵。

草庵の吉野窓。
窓の外には季節の草花が植えられ、見る時季によって表情を変えます。

時間帯によって影が虹のように見えるため、「虹の窓」とも呼ばれている。

印象深いかやぶき屋根のこの草庵は、元京都府知事・北垣国道(きたがき くにみち)の別荘を移したもの。

北垣国道といえば、琵琶湖疏水の建設を進め、京都の近代化に尽力した知事です。

のちに“いつか我が身も同じ運命”と悟った仏御前(17歳)が旧怨を捨てた祇王母子に加わり、四人で念仏三昧の余生を送ったという。

本堂内には本尊の大日如来のほか平清盛と四尼僧の木像が安置され、境内には清盛の供養塔と祇王姉妹らを合葬した宝篋印塔が建立されている。

苔の庭で知られ、秋の散り紅葉が見事。

平清盛を取り巻く女性たち
激動の人生を送った平清盛だが、彼をとりまく女性たちもそれぞれ波乱に満ちた人生を送 … 続きを読む →


雨に濡れたタケがきれいです。

清盛の供養塔と祇王姉妹らを合葬した宝篋印塔。

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清涼寺


嵯峨釈迦堂の通称で知られる浄土宗知恩院派の古刹。光源氏のモデルといわれる嵯峨天皇の皇子、源融(みなもとのとおる)の山荘「棲霞観」に阿弥陀堂を建立、棲霞寺としたのが始まり。

その後、永延元年(989)奈良東大寺の凋然(ちょうねん)が宋から持ち帰った釈迦如来を山内の釈迦堂に安置、清涼寺として創建された。

1980年(昭和55年)に行われた大坂城三の丸跡の学術調査で、発掘現場から豊臣秀吉の三男の豊臣秀頼公のものと思われる頭蓋骨が出土しました。

その後の調査でこの骨が人為的に丁寧に埋葬されていることや、介錯の跡、周囲からの出土品などから考察して秀頼公のものと断定されました。

秀頼が没してから368年振りの昭和58年(1983)に、秀頼公が再興につくした由縁を持つ清凉寺に首塚が造られ、ここに首が納められました。

およそ1メートル半の高さを持つ首塚は小豆島から運ばれた石で造られているそうです。
首塚の脇には大坂の陣諸霊供養塔も並べて造られています。

大阪城の時代
外出が緩和され少しづつ動いている。 久しぶりに大阪城を訪れた。 人出は少なくショ … 続きを読む →

そんなわけで、大坂の陣を書くのだから「女の城」といったふうな題まで考えていたのですけれども、ところが調べてみると、淀殿のつまらなさがどうしようもなくて、さらに秀頼という人物もどうにもならない。

本堂の西に薬師寺がある。

小野篁ゆかりの寺である。

「生の六道 小野篁公遺跡」の石碑がある。

日月門をくぐると境内には三地蔵尊がある。本堂の中にはご本尊の薬師如来像や阿弥陀三尊像があるが、残念ながら8月24日の地蔵盆の時にしか一般公開されない。


清凉寺の西、通りの北に「夕ぎり大夫遺跡」の小さな石標が立つ。
 
この地は、江戸時代の名妓と謳われた島原の初代・夕霧太夫の墓を示すという。

夕霧太夫を偲んで清凉寺で夕霧祭
夕霧太夫は生年不詳 – 延宝6年1月7日(1678年2月27日)。
本名は照。
出身地は一説によると、現在の京都市右京区嵯峨の近くであるといわれる … 続きを読む →

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嵯峨野散策


桂川(大堰川)に架かる全長155mの橋。

9世紀前半にはすでに存在していたといわれている。

亀山上皇が橋の上を移動する月を眺め「くまなき月の渡るに似る」と述べたことから渡月橋と名付けられたという。

嵯峨野(さがの)は、京都市右京区の地名。
太秦・宇多野の西、桂川の北、小倉山の東、愛宕山麓の南に囲まれた付近に広がる広い地域の名称で、単に「嵯峨(さが)」と呼称される事もある。

ただし、観光地としての「嵯峨(野)」は嵐山から小倉山に沿った社寺の立ち並ぶ地域(概ね車折神社より西側)を指す。
平安京の西方の郊外になることから別名、西郊と公家達はよんだ。

地名の由来については坂あるいは険し(さがし)などの地形に由来するという説と中国西安(長安)郊外の「巀辥山(さつがつさん)」を「嵯峨山」とも書いたからだという説があります。

ここには去来の遺髪が埋葬されていて、実際の墓は左京区吉田山の真如堂にあります。

周囲には奉納されたたくさんの句碑が建っています。
ここを訪れた高浜虚子は「凡そ天下に去来程の小さき墓に詣りけり」と詠みました。

嵯峨野の喧噪がうそのように人がいない。

明治41年(1908年)8月23日、高浜虚子は「去来の墓」に参拝している。

高浜虚子

百合生けて人ゆきゝせぬ虚室哉

与謝野晶子

皐月よし野山のわか葉光満ち

吉井勇

新緑のまつりの歌をよむことも

嵯峨風流のひとつなるべし

末も終りもなき世の如く

説明板によると、「風雲急を告げる幕末の京洛に於いて元治元年(1864)坂本龍馬は中岡慎太郎と長州本陣天龍寺に長州藩士の来島又兵衛、久坂玄瑞を訪ねるために立ち寄ったという口碑を伝えている。」とあります。

もともとこの像は四条河原町の高瀬川沿いの旧土佐藩邸役宅址にあったそうで、現地の再開発に伴って撤去され、行き場を失ってここに移されたそうです。

像は左から吉村寅太郎、武市瑞山(半平太)、坂本龍馬、中岡慎太郎の順に並ぶ。

元治元年(1864年)に坂本龍馬と中岡慎太郎が天龍寺の久坂玄瑞と来島又兵衛を訪れたことが、嵯峨野に同像が設置された縁になっているらしい。

すこしづつ観光客が戻っている感じ、人力車の往来も忙しそうであった。

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大阪城の時代


外出が緩和され少しづつ動いている。
久しぶりに大阪城を訪れた。

人出は少なくショップは手持無沙汰のようです。
天守にも登ったのですがエレベーターは身障者専用で、すべての人は徒歩で8階まで登ります。
老体にはこたえた。

司馬遼太郎が考えたこと 5に大阪城の時代という随筆が掲載されています。
非常にわかりやすく纏められているのでその要約を利用させてもらいます。

もっとも、百姓をただで使っていたのではなくて、日当としてお米を支給していたんですね・・・・こういう明快さが秀吉流儀でしょう。

当時、人夫はもういらないというくらいに志願者が多くて、結局あらかたな工事は3年くらいでできている。

そのときすでに現在の大阪城の数倍あって、その後だんだん大きくしていったものですから、完成時にはどのくらいの大きさだったでしょう。

よく知られているように、秀吉という人は浮浪児の出身な分けてセスが、このように社会の最下層から出てきて、関白になり、そして大阪城を作った。なぜそれを世間が認めたかということを考えねばならないでしょう。

それは応仁の乱(1467)から戦国という、日本中を火炎に包んだ百年の内乱からこの城はできたように思えます。

この城の権力的な魔術性は秀吉一代で尽きてしまったのですけれど、妙なことに秀頼と淀殿が濃厚に魔術にかかり続けていた。

そのあたりを調べていくと、淀殿という人物はこの城の暗示にかかりっぱなしのつまらない女だったということになる。

じつは、城塞を書く前は、淀殿には何かあるだろうと思っていたのです。

そんなわけで、大坂の陣を書くのだから「女の城」といったふうな題まで考えていたのですけれども、ところが調べてみると、淀殿のつまらなさがどうしようもなくて、さらに秀頼という人物もどうにもならない。

およそ凡庸な、世間に対して嬰児のように無知な二人が、あれだけ世間を動かすことができたのですから、見方を変えれば彼や彼女が主人公ではなかったということになる。

大阪城という建造物が主人公で歴史を動かしたとみるべきでしょう。

そういう意味で大坂の陣の主人公はあくまでも大阪城であって淀殿や秀頼ではない。

それで題を城塞にしたのです。

家康についたも触れておかねば片手落ちだと思います。

家康は成功者の代表みたいな人ですけれども、大坂の陣については歴史的な失敗者ではないでしょうか。

現実政治家としての家康は、豊臣恩顧の諸大名に対する配慮もあって、秀頼をどのようにそつなく引っ込めようかと実に腐心したらしい。

相手があまりに巨大な城を持っているために、彼は手も足も出なくなってしまい、一方、70を超えた自分の寿命についてのあせりから、この城と、この城の魔術にかかった人間どもを生かしておいては、徳川家のためにならないと考えたんでしょうね。

ですからもうこうなった以上、北は南部から、南は九州の大名に至るまで総動員することによって、大坂の陣を徳川家に対する大名の服従心のテストにし、さらには全ての大名を共犯者にしようとした。

その計算も計画も見事でしかも成功しています。

ところが後世への計算と演技をあやまり、後世の民衆の心象から言えば、史上最大の悪人になってしまった。

徳川家は残せても後世に対して大きなミスをしてしまったことを思うと、秀頼や淀殿、およびこの城で討ち死にした数万の人々は、家康のそういう評価と心中できたということで、わずかに以って瞑するところがあるといえるかもしれません。

「国盗り物語」で斎藤道三のことを書き、秀吉については「新史太閤記」で述べ、さらにその後のことは「関ケ原」で触れたわけですが、それだけではなお思いが残っておりまして、その後の豊臣家はどうなったのか、また元亀・天正(1570~92)から続いた日本人のバイタリティはどこで終わるのか・・・・というようなことになると大阪城を書かなければいけないような気がして、書いてみたわけですけれども。

ですから「国盗り物語」て゜道三が美濃国をかすめとるところから始まって、「城塞」で後藤、真田が大きな時代の幕を引くようにして戦死するまでのことを考え続けてきますと、私なりに日本人のもつ最もアクティブであったじだいとかというものが、なにやら自分なりにわかったような気がするのですが、どうでしよう。

秀吉の大坂城 – 大坂城豊臣石垣公開プロジェクトが進行しています。

令和3(2021)年春のオープンを目指すという。

公開されるのは、本丸内の天守閣南東約50メートルに位置し、大型複合商業施設「ミライザ大阪城」(元市立博物館)から北約30メートルの地点に埋もれている石垣遺構。

大阪城に残る戦災の傷跡
あまりにも平和ボケしてしまった現代人は、つい半世紀ほど前の戦災のことなど忘れてし … 続きを読む →

昭和20年(1945年)8月14日、米軍は大阪市を空襲し、「大阪陸軍造兵廠」(現在の大阪城公園周辺)に多数の1トン爆弾を投下した。
この時、1トン爆弾の命中によって、天守閣石垣の北東が歪んだ。

高まる期待 大阪城 秀吉時代の石垣公開へ
今回の調査は、昭和59年度に見つかった豊臣期詰ノ丸の石垣を再発掘して公開するとい … 続きを読む →

今回の調査は、昭和59年度に見つかった豊臣期詰ノ丸の石垣を再発掘して公開するという豊臣石垣公開プロジェクトに先立ち、周辺の遺構の状況を把握するために実施。
豊臣期の石垣は上端部を再発掘した。

秋晴れの大阪城を散策
何度も通いなれた大阪城だが、意外と知らない場所がある。 いかに表面的にしか見てい … 続きを読む →

平成元(1989)年のドーンセンター建設の折、敷地内から発見されたこの石垣は豊臣秀吉の最晩年に当たる慶長三(1598)年に1万7千もの民家を城外へ強制移転させて大坂城の防御力強化のために築かれた三の丸のものである。

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絶景を望む天空の寺院「大悲閣千光寺」へ


カツラ川の右岸をさかのぼります。

渡月橋あたりは人混みなのに、川をさかのぼる道を歩く人はまばら。

維持費を得なくてはならない事情があるのだろう、なんとか人を招くように、「京都一絶景」とか「TheBest in Kyoto 」とか、英文やら略地図までくわえて、元気のいい看板を作って立ててあった。

対岸は亀山公園。

戸無瀬瀧は蛇谷からさらに50メートルほど上流に歩いた山肌にある三段に落ちる滝のことを云う。

天龍寺の正西背後にあたり、造営された亀山殿からもこの滝が眺められている。

突然サルが!!

嵐山モンキーパークいわたやまでは、現在約120頭のニホンザルが野生の状態で暮らしています。

新緑が鮮やかです。

通例として、京都市右京区京北地区の流域にかけては「上桂川(かみかつらがわ)」、南丹市園部地区に入ると「桂川」、南丹市八木地区から亀岡市にかけては「大堰川(おおいがわ)」、亀岡市保津町請田から京都市嵐山までは「保津川(ほづがわ)」[1]などと名を変え、嵐山から合流地点は再び「桂川」と称される。

新緑が川面に反射してきれいです。

松尾芭蕉に、夏目漱石や谷崎潤一郎も訪れ、近年では司馬遼太郎が「街道をゆく」の中でも紹介している嵐山の隠れた名所。

嵯峨野の旅は、古くは、「絶壑ノ間ニ孤立ス」と表現された山峡の水尾から始まった。

司馬遼太郎は、はるか昔この地に辿り着いた清和天皇に触れ、天皇を祀るお社を護持し続ける里人の心遣いに注目する。

嵐山の渡月橋では、古代、山城国(京都)に定住し、土木技術によって田野を切り開いたといわれる渡来系氏族の秦氏について考える。

見まわせば、渡月橋下の中洲も松尾大社も、現代に残る秦氏の足跡なのだった。
天竜寺塔頭の妙智院で嵯峨名物の湯豆腐を食べながら、司馬さんの思いは遠く豆腐の起源にまで遡る。
街道をゆく〈26〉嵯峨散歩、仙台・石巻-朝日文庫-司馬-遼太郎

店の名は、むかしから二軒茶屋というのだそうで、いつのほどか一軒だけになった。

とあるが、今はその一軒もなくなって、かつてそういう茶屋があったと記した札が道端の木にかかっていた。

司馬遼太郎一行は川沿いの道を歩いたとき、オデンの屋台に寄り道している。

屋台は路傍にあり、客席はそれより降りて瀬ぎわの平床几(ひらしょうぎ)だった。そばに、水でまるくなった岩場がうねっていて、その上に五、六点の濡れた下着が置かれていた。

「身投げでもあったんですか」
と、須田画伯はゆるゆると老婦人にきいた。身投げがあれば、いくらこの老婦人ものんきにオデンを煮ていられまい。

「あれは私の干しものどす」
「そう」
 
画伯はオデンを食べはじめた。
ここのところは読むたびに、つい笑ってしまう。

千鳥ヶ淵は戸難瀬瀧より430メートル先の断崖に望んで深い淵となっているところを云う。

往生院に滝口入道を訪ねた横笛は、再会適わなかったのを嘆きこの淵に身を投げたと伝える。

山深い隠れ里のような風情 滝口寺
元々は法然の弟子・良鎮が創建した往生院の子院三宝寺跡を引き継いで今日に至る。 明 … 続きを読む →

『平家物語』の斎藤時頼(滝口入道)と建礼門院の侍女横笛の悲恋の寺として知られている。

二つの悲恋を語り継ぐ寺 滝口寺
滝口寺は、滝口入道と横笛そして新田義貞と勾当内侍の二つの悲恋を語り継ぐ寺である。 … 続きを読む →


星のや京都(もと嵐峡館)
京都市西京区嵐山元録山町11-2

右岸をさかのぼる道がつきあたるところに宿がある。

路傍より下の崖に、料理旅館があり、嵐峡館とあった。二十年ほど前、この旅館にきたことをおもいだした。

そのとき、右岸を歩かず、渡月橋からいきなり舟でここへきた。

今は嵐峡館の名はなく、全国で老舗旅館の再生を手がけている星野リゾートにより、2009年から「星のや京都」になっている。渡月橋のたもとから送迎の舟が往復しているのは今も同じ。
街道をゆく〈26〉嵯峨散歩、仙台・石巻-朝日文庫-司馬-遼太郎

門前、上り口の左手には「花の山 二町のぼれば 大悲閣」という松尾芭蕉の歌碑が置かれています。

途中には何度か「大悲閣 千光寺」の案内看板が出てきますので道が間違っていないことを確認できてちょっと安心。

そして「京都一の絶景・GREAT VIEW」などと書かれた案内板に心が躍ることでしょう。

ここからは約10分の登りです。

大須賀乙字の句碑「嵐気動く奥は蝉声晴れてあり」

千光寺(せんこうじ)は、京都府京都市西京区嵐山中尾下町にある黄檗宗系の単立寺院。

山号は嵐山、寺号は詳しくは大悲閣千光寺と称する。本尊は恵心僧都作といわれる千手観音菩薩。江戸時代の豪商角倉了以の木像があることで知られる。

境内にある、切り立った岩肌に建つ舞台造りの観音堂(客殿とも)は大悲閣と呼ばれるため、寺そのものの別称も「大悲閣」と呼ばれる。

参道途中の洗心亭をさらに上る。


松尾芭蕉の句碑「六月や峰に雲おくあらし山 はせを翁」

この寺の創建年代等については不詳であるが、当初は現在の嵯峨清涼寺の近くにあり、後嵯峨天皇の祈願所であったが長らく衰退していた。

江戸時代初期の慶長19年(1614年)、豪商角倉了以が、大堰川を開削する工事で亡くなった人々を弔うために、嵯峨の中院にあった千光寺を現在地に移転させた。もとは天台宗であったが、文化5年(1808年)に黄檗宗に改宗した。

山門に到着。

渡月橋から写真を撮りながらゆっくり歩いて30分ほどで着きました。

つづら折れの石段を登れば、やがて見えてくるのがまるで清水の舞台のような建物。

これが「大悲閣 千光寺」の客殿です。

ここからの眺めが絶景といわれるポイント!客殿と本堂が見えてきたらそこが境内の中心地の展望台エリアです。

三回まで無料でつけます。

客殿からの絶景。

一段と高い山が比叡山です。

目を少し右に転ずると千光寺の大悲閣が山の中腹に小さく展望できる。

大悲閣千光寺:江戸時代、角倉了以が大堰川の開削工事で亡くなった人たちを弔うためによって建立した。

春に大河内山荘より
大河内山荘は区嵯峨にある日本庭園。 時代劇などで知られる俳優大河内傳次郎が別荘と … 続きを読む →


温かみのある客殿内には、住職さんがコピーした様々な資料が所狭しと並んでいて、まるで寺子屋の様相。

現在の大悲閣は、保津川の開削を計画した角倉了以や、その一族(外祖父)で塵劫記の著者の吉田光由に因み、そろばんや数学・理学向上の寺ともされている。

椅子の置かれた縁側からの京都市街の眺望が良い。無料で使える双眼鏡が備えられている。

秋にはこの山が紅く染まります。

住職と向こうは途中から同行してくれた老人、ことし91歳という、とても元気です。

ここで御朱印をもらいます。

明治維新で一旦衰退した後、大悲閣以外や境内を失った後、徐々に本堂などを再建したが、1959年の伊勢湾台風により大きな被害を受けた。

本堂も大悲閣も屋根の多くが飛び、仮補修でしのいできたが、1978年に本堂は解体された。

仮本堂 かつての本堂に祀られていた仏像や角倉了以の像がぎっしりと安置されている。

角倉了以の像がここにはあり、法衣姿で石割斧を持っている姿が特徴的。
今もこの大悲閣から川の安全を見守っているかのようです。

角倉了以別邸跡 高瀬川源流庭苑
現在のみそそぎ川は京都府立医大病院の北側で鴨川から取水し、そのまま暗渠で荒神橋を … 続きを読む →

高瀬川開発には7万5千両を費やしたとされているが、角倉家に納められる通行料は年間1万両を超えるものだったと考えられる。
開発に費やした工事費をわずか8年で回収したことから、かなり高額な通行料にも思えるが、これでも人馬で運ぶ手間よりは安かったので、鉄道輸送が本格化するまでは利用されてきた。

化野念仏寺
化野念仏寺(あだしのねんぶつじ)は、京都市右京区の嵯峨野にある浄土宗の寺。 山号 … 続きを読む →

竹藪の小柴垣の中央に立て札が立っています 角倉了以の長男 【住倉素庵】の墓があります。
風神雷神図で有名な俵谷宗達と親交あり素庵56歳でハンセン病で61歳で亡くなるまで 此処に隔離 宗達は面倒を看ました。

山を下ります。
同行してくれた老人は最後まで付き合ってくれました。

知る人ぞ知る、穴場のエリア
参拝客の7割が外国人!?

そろそろお昼です、舟が増えてきました。

右側の舟は物を売りに来た舟です。

トロッコ列車と保津川下り

この風流な保津川下りは夏目漱石の『虞美人草』を始め、水上勉、薄田泣菫、大町桂月、三島由紀夫など幾つもの文学作品に登場した。

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トロッコ列車と保津川下り

2012年9月の記事ですが誤って消去してしまったものを今回再掲載したものです。
記事の内容は当時のままです違いがあればご容赦願います。

トロッコ列車の旅はここトロッコ嵯峨駅から始まる。
1時間に一本の運行だ。

峨駅から亀岡駅まで全長7.3kmを25分で走行、変化にとんだ沿線の風景を堪能!
5号車が、ザ・リッチ号となってます、買った切符を見たら5号車でした。
他とどこが違うのかというと・・・・全オープンなんです。

途中の陸橋上で一時停車サービスがある。
眼下を流れる保津川、これからここを船で下るのだ。

最初の駅保津峡駅に到着。
タヌキが出迎えてくれます。

「タヌキ」は古来より「他を抜く」という縁起があるとのことで、沿線の各駅にご覧のような愛らしいタヌキの置物が飾ってあります。

ちょうど眼下を船が下ってきた。
皆さん、盛んに手を振っています。

いよいよ川下りの開始です。
左手に愛宕山が見えています。

丹波高地を発した桂川は、亀岡盆地から京都盆地に出るまでの11.5kmにわたって愛宕山(924m)南麓の狭隘な山間部を蛇行して流れている。

この山間部の渓谷が保津峡だ。

左手に見えるのは「烏帽子岩」乗船場から約3km地点。

渓谷は巨岩、巨石に富んだ急流と瀞が続き、大高瀬、二股の瀬、殿の漁場、女渕、烏帽子岩、鎧岩、かえる岩、書物岩、ライオン岩などの見どころが連なっている。

左岸にハイキングコースはあるものの、嵐山からJR保津峡駅の間は清滝を経由していて渓谷沿いではない。

乗客約20名の平底船に船頭3名(本日1度目の下り)
1日に2~3度下るそうで、3度目ともなるとクタクタだという。

先頭一人、竿捌き、船尾に一人、一番重要な役目は、後ろのかじ取り、一番疲れるのは、先頭の竿捌き、次いで、船尾のかじ取り、待遇は同じため、途中で数度交代しながら平等な働きにしている由。

水難の守り不動尊
川の安全を守ってくれている神様だそうです。

難所の激流、絶妙な竿捌き。

ラフティングを楽しむ人たちに会った。

主に若年層の間で人気を集めているのがラフティング(コマーシャルラフティング)による保津川下りである。

保津川下りとほぼ同じコースをゴム製のラフト(ゴムボート)で下るラフティングは、一般的には観光川下りよりもスリルが味わえ、かつ「自分で操作する」という満足感を味わえるために人気が高まり、複数の業者が開催している。

時間帯によっては観光川下りの舟よりもラフトの方が多いこともある。

対岸をトロッコ列車が行く。

前方にJR山陰線の鉄橋が見える。
保津川の蛇行により、山陰線と5度クロスする。

京都の代表的な観光地である嵐山・嵯峨野に近いことから、1885年(明治28年)に観光客を対象とした遊覧船による川下りが行われるようになった。

この風流な保津川下りは夏目漱石の『虞美人草』を始め、水上勉、薄田泣菫、大町桂月、三島由紀夫など幾つもの文学作品に登場した。

向こう岸に小路が見える。

保津川の岸には舟曳路が造られ、人夫が川に浮かべた船を曳きながらここを川上へ歩いていた。
川を下った高瀬舟は、人に曳かれて約4時間かけて保津川を遡った。

昭和23年までは下った船を人力で引っ張り上げていた、というのだから驚きます。
現在では、遊覧船3艘を積んで亀岡へ戻るトラックを国道9号で見かけることができる。

岩には船頭のさす竿の跡やもどり舟を人力で引きあげた綱の跡が、ところどころについており舟下りの歴史を物語っている。

はじまりは江戸時代初期、木材、薪炭など丹波地方の産物を京の都へ送るために産業水路として、角倉了以が開いたもので、約400年もの歴史があります。

大正時代から昭和時代初期にかけて人力車で老の坂を越えてきて、保津川下りを楽しむ外国人観光客が多く、乗船場に通じる道に「異人街道」という異名がつけられたといわれる。

1920年(皇紀2580)大正9年
 ルーマニア皇太子
1922年(皇紀2582)大正11年
 英国皇太子
1926年(皇紀2586)大正15年
 昭和天皇、秩父宮妃殿下
1929年(皇紀2589)昭和4年
 英国グロスタニ公ご一行
アレキサンドラ内親王殿下
 ランドルマーガレット内親王殿下
1983年(皇紀2643)昭和58年
 常陸宮妃殿下と皇族の方々

孫六岩(一番大きい岩)
乗船場より約8㎞のところにあります。

保津峡駅まで下ってきました。
川岸には記念写真を撮るひとが待ち構えています。
船の中で申し込むと後で振込用紙と共に送ってくれます。

落合、乗船場より約13㎞の地点です。

保津川と清滝川との合流するところで、この落合は、険しい岩山に松の木々が生い茂り、保津峡の中でも、まさに風光明媚といえる場所なのですが、ここでの楽しみは、美しい景色だけでなく、あっ!と驚く時があります。

ここでは、ひんぱんに、殺人事件がおきます!!
そうです!!

それは、火曜日とか土曜日に事件は起き、そして、だいたい事件は、2時間で解決するやつです。
詳しくは、サスペンス・ドラマをどうぞ。

橋げたの赤い線は今までの一番高かった水位だとか・・・室戸台風って聞いたかな?

「ライオン岩」確かにそう見えます。

嵐山へ到着寸前に物売りの舟が来ます。
すぐに下りるので何も買うこともないだろう。

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嵐山羅漢


京都・嵯峨野の宝厳院の前に嵐山羅漢という珍名所があります。

宝厳院の呼び掛けで、日本各地の個人や企業がそれぞれ思いを石仏に託し奉納されたものが、「嵐山羅漢」で阪神・淡路大震災以降に建てられ始めました。

羅漢とはお釈迦様の弟子で、修行を完成して尊敬するに値する人、悟りを得た人を指し、元々は「阿羅漢(あらはん)」と言って羅漢(らかん)は略された呼び方。

原始仏教・部派仏教において阿羅漢は、修行者の到達し得る最高位である。

学道を完成してこれ以上に学ぶ要がないので阿羅漢果を無学位(むがくい)という。

それ未満の、不還果(ふげんか)・一来果(いちらいか)・預流果(よるか)を「有学位」(うがくい)という。

仏教では、阿羅漢でない者が、自分が阿羅漢でないことを知っていながら、故意に阿羅漢を名乗ることを「大妄語」とし、最も重い波羅夷罪を科して僧団追放の対象とした。

中国・日本では仏法を護持することを誓った16人の弟子を十六羅漢、第1回の仏典編集(結集:けちじゅう)に集まった500人の弟子を五百羅漢と称して尊崇することも盛んになった。

十八羅漢とは十六羅漢に加えて慶友・賓頭廬(びんずる)の2人か、または、大迦葉・軍徒鉢歎(ぐんとはつたん)の2人を加えた18人の羅漢を指します。

経典によって追加される羅漢に差異があるようです。

興味のある人は書物で見比べてみるのもいいでしょう。

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嵐山公園界隈


嵐山の景観に、ひときわ趣を添える渡月橋。

大堰川にかかる全長155メートルのこの橋は承和年間(834~847)、弘法大師の弟子で、法輪寺を興した道昌によってかけられました。

当時はもう少し上流にあり、法輪寺橋と呼ばれたそうです。

渡月橋という名が登場するのは、それから約440年後。

亀山上皇が、その橋の姿を「くまなき月の渡るに似たり」とたとえたことから、渡月橋とあらためられた。

京都市の西北に連なる愛宕山脈。

その間を縫うように流れる桂川は丹波山地に源を発し、亀岡の保津橋付近からは保津川、嵐山付近からは大堰川の愛称で親しまれています。

嵐山公園は保津川渓谷が平野に達したあたりに位置し、亀山、中之島、臨川寺の三地区からなっています。

今日のお昼は、お食事処 亀山家。

嵐山・桂川沿い北西側にポツリとたたずむお食事処 亀山家。

川沿いにぼんやり並ぶ提灯に、なんともいえない風情を感じます。

店先の座敷で熱々のおでんを食べながら、目の前を行く船を眺めるのもまたおすすめです。

ラジコンのボート、いつもこの場所で見かける。
結構精巧に議来ていて、船頭は櫓をこぎ客は船内から手を振る。


京都といえば紅葉の名所が多いことはよく知られているが、そんな京都では新緑の頃のもみじを「青もみじ」と呼び、あえて色づく前のもみじを楽しみます。

その名所の中でもおすすめしたい寺院が嵐山にある宝厳院(ほうごんいん)!
通常非公開の宝厳院は「青もみじ」の時期にその庭園が公開されています。

パンとエスプレッソ

『旧小林家住宅』の主屋だった建物をリノベーションしたもの。

元は園部町(現・南丹市)の農村にあったものを嵐山の現在地に移築したもので、小林家は元々当地の庄屋を務めていたそう。

公園を北へ進むと竹林の小径になり、大河内山荘から常寂光寺に至る一本道です。

嵐山は京都のみならず日本を代表する景勝地です。

川と山が織りなす四季の彩に加え、静寂な竹林の風情など実に変化に富んでいます。

京都のはしっこには素晴らしい空間が幾多もありますが、風情の豊かさではやはり嵐山です。

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野宮神社


野宮とは、かつて宮中から斎宮として選ばれた皇女が伊勢神宮へ向かうまでの間みそぎを行ったところ。

野宮神社 斎宮行列
この歴史は飛鳥時代の天武天皇の頃にはすでに確立されており、南北朝時代の後醍醐天皇の頃まで およそ660年間、64人の姫君が遣わされていたと言い伝えられています


宮中の初斎院以外の清らかな場所を選んで造られ、当時の様子は、源氏物語「賢木巻」や謡曲「野宮」でうかがうことができる。

年代によって嵯峨野の各所に設けられたため、この野宮神社がいつの時代のものかは不明。

源氏物語の宮 野宮神社 良縁、子宝の神様
ここに自分のためにしめじめと物思いを尽くす人が隠れ住むのかと思うと、御息所のことが痛ましく悲しい・・・・・・・
源氏物語「賢木」の巻


黒木鳥居はクヌギの木の皮を剥かないまま使用する、日本最古の鳥居の様式です。

小柴垣はクロモジの木を用います。

天皇陛下の御即位式で建てられる「大嘗祭」も黒木鳥居と小柴垣で囲まれます。

源氏物語の舞台ともなったこの野宮神社。この縁結びの由来の歴史は、女の嫉妬の力が転化したとも言われています。

抑えがたく燃え上がる嫉妬の
「源氏物語」の中で六条御息所はその高貴な身分に加え、才気、美貌ともにすぐれた女性 … 続きを読む →

御息所はといえば、愛欲迷妄の闇から抜け出るには伊勢に行くしかないと思い定めて、野々宮に籠る。

嵐山の竹林の小径は長さ400メートルに及び、またその美しさで有名です。

なお、嵯峨野では街のあちこちで人力車の営業をしており、人力車でこの竹林の小径を通ることが出来ます。

毎年12月には、京都・嵐山花灯路が開催され、ライトアップされた幻想的な竹林の道を歩くことができます。

嵐山花灯路2016
「長神の杜」として、憩いの公園になっている。 「長神」(ちょうじん)は、このあた … 続きを読む →

紅葉2015 嵐山花灯路
久方ぶりに嵐山花灯路を訪れた。 皆さんのコースとは逆に北から回ることに、清凉寺の … 続きを読む →

冬、輝く嵐山花灯
京都・嵐山花灯路は、京都の嵯峨、嵐山周辺地区に約2500基の行灯を点し、夜の散策 … 続きを読む →


コロナ過で観光客の少なくなった今は気持ちよく写真が撮れます。

しかし、手持無沙汰気味の人力車の車夫を見るのはすこし心が痛みます。

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