夕日の街 住之江公園界隈


夕焼けが迫っている、空が焼けてきました。

ねむの花を見つけました。

林に夕日が射し込みます。

陽は落ちだしたら早いのです、先を急ぐ。

間に合いました、住之江公園交差点の陸橋の上。

住之江公園通りを赤く染めて落ちる夕日。

オスカードリームも赤く染まる。

自宅に帰り西の空を見上げる、空が赤く焼け、グラデーションがきれい。

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朝の輝きの中で


今日も住之江公園、住吉川を朝の散策です、今日は「朝の輝き」をテーマに楽しみます。

クリックして拡大して見ていただけるとありがたい。

梅雨の中休み常態がずっと続いているがそろそろ終わりのようだ

おかげで明るい日差しの中で朝の散策を楽しんでいる。

アオサギの雛も日に日に大きくなっています。アオサギの記事はこちらからご覧ください

サイド光を楽しみながら毎朝散策しています。

陽を受けて輝くひまわりとハス、後方には競艇場のライトとオスカードリーム。

この時間帯の光は特に強烈だ。

おかげで撮影を楽しんでいます。

いつも撮りたい画像の一つです、陽を受けて輝く姿が魅力的です。

ビルの陰からの太陽光も魅力的です。

対岸の景色が明るく輝いている様子をとらえたのですが、小さい画像ではわかりにくいです。
クリックして拡大して見ていただれたらありがたい。

今日も例のご老人に出会いました、まいにち立派です以前の記事

住吉川沿いの散策路、腰の曲がったご老人、相当な年代とお見受けするが、毎日歩いておられる、それも往復。

若いもんが?負けてはいられない。

姫松橋の上まで来ました、今日はここでUターンです。

住之江公園まで帰ってきました、今日のテーマ「朝の輝き」の最後の画像です。

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新開池伝説の西堤から高井田村へ、古の長栄寺へ


長瀬川は旧大和川分流のなかでも本流となる大きな川。

流域の小高い土地に開けた高井田の集落。
いまは大和川付け替え後、長瀬川は灌漑水路となって高井田村を潤しました。

また、暗越奈良街道が横切り、古代から東西往来の要所でもありました。

昭和43年(1968年)、第二寝屋川ができるまでは、この周辺には楠根川が流れていた。

新開池伝説

西堤神社

西堤の地名は楠根川の西の堤ではなくて、現在の大東市に内介淵(ないすけがふち)という池があり、その西堤に住んでいた人たちがこの地に移転したことで命名された。


境内社に、水神社がある。
「鱗殿(うろこ殿)」とも呼ばれ、内介淵で大蛇を退治した時にはがされた大蛇の鱗が祀られているという。

日照りの時、この鱗殿をお参りすると、雨が降ったと伝えられている。
鳥居をくぐってすぐ右側(北側)にあり、祠の周囲の堀には昔は亀が住んでいたという。

江戸時代前期の貞享2年(1685年) に刊行された井原西鶴『西鶴諸国はなし』にも、内介に関する逸話が記載されている。

他に、天満宮(菅原道真公)がある。
脇には素朴な牛の彫像が安置されている。
その後ろに、御神木のクスノキがある。

幹周5.5メートル、樹高は約25メートル、樹齢は推定400年。
市の保存樹木で、「施無畏(せむい) 八大龍王」を祀る。

「楠さん」として親しまれる御神木で、「おかかえ石」やお百度石も安置されている。



古代から大和川の本流としてその水運は利用されてきた。
当時は長瀬川という名称ではなく、大和川であった。

中世以降は大和川の支流である平野川とともに大阪と奈良を最短距離で結ぶ水路としての利用も活発で、流域には八尾・久宝寺(ともに八尾市内)といった集落が発達した。

このため、中世には大和川は一部地域では久宝寺川とも呼ばれていた。

しかし大和川は非常な暴れ川でもあった。

大和川は流域面積のうち保水能力に富んだ山地の占める割合が大きく、降った雨が蓄積されるのだが、梅雨や台風の際には保水能力を超えることもあり、また、奈良盆地から大阪平野(河内平野)に注ぎだす柏原口が狭く漏斗の役割を果たし、紀州山地や奈良盆地で蓄えられた多量の水を吐き出すために、急流となり、大和川の通常の流れである蛇行しながら北上する河道を通る際に溢れ出し水害となるのである。

また河川の勾配が大阪平野に入ると緩いために流送土砂が堆積して天井川となり、洪水の被害をさらに甚大なものとしていた。

1703年10月に幕府は大和川水路修治の令を発して1704年2月に付替工事が始まった。

3年計画の工事は、作業に協力した近隣の庄屋の指揮のもと動員された多くの百姓らと、財政的に支援した大阪の多くの商人の働きによってわずか8ヶ月足らずで完成し、同年10月13日に付替地点の古い堤防を切り崩して水の流れる方向を変えた。

その結果、大和川は大阪平野を西流して大阪市と堺市の境で大阪湾に注ぐようになった。

次第に埋め立てられていった旧河道には新田が開発されたが、元々が川底であることから砂地であり稲作には不向きであった。

このため砂地での栽培に適した桃の栽培、木綿の栽培や綿業が盛んになり、河内木綿と呼ばれるまでになった。

また綿業の副産物として綿種油の生産も盛んになり、現在も長瀬川沿いには油脂関連の企業が立地している。

宝永元年(1704年)柏原市安堂付近から大阪湾に流れ込む新川が掘削されると、水量が激減した旧川筋では、川床を埋め立てた新田が多数開発されました。

新喜多新田もその一つで、開発を請け負ったのは、鴻池家の一統で有力な両替商であった鴻池新七とされていますが、また鴻池新十郎・鴻池喜七・今木屋多兵衛の三名がたずさわり、その名の一字づつをとって『新喜多』と名付けたとも言われています。

新田は、川を埋め立てた土地だけに区域は南北に細長く、現在のJR学研都市線放出駅の手前まで続いています。

暗越奈良街道(くらがりごえならかいどう)

大阪から奈良へ通じる旧街道として、4~500年前に開けた街道です。

暗峠越奈良街道は、大阪高麗橋を起点として西から東へと通じ、生駒山地を暗峠で越える最短ルートの街道です。

江戸時代には旅客・貨物の重要な交通路として利用され、特に伊勢参りの旅人により大いに賑わいました。

西岸地蔵

大坂と奈良とを結ぶ暗越奈良街道(くらごえならかいどう)筋の長瀬川西岸に位置することから、その名が付いたとみられます。

以前は新喜多地蔵と呼ばれていましたが、昭和五十五年地蔵堂改修の際、建築材に「西岸地蔵」の墨書が発見され、もとはこの名で呼ばれていたことがわかりました。

堂内には一辺 43cm ・高さ 27cm の花崗岩の台石をを置き、その上に直径 34cm ・高さ 20cm の蓮華座と高さ 94cm の地蔵菩薩立像とが安置されています。

蓮華座と地蔵菩薩立像は砂岩製で同じ石から掘り出されたもののようです。

このうち蓮華座の周囲の蓮弁表面にだけ風化の痕が残ることからかつては蓮華座だけが外気にさらされていたと考えられます。

また、台石の全面中央に太字で「法界(ほっかい又はほうかい)の二文字、その右側に寛延二年(1749)、左に十月吉と刻んでいます。

このことから、この地蔵菩薩立像は大和川付替えから四十五年後の寛延二年十月に建立されたことが知られます。

暗越奈良街道沿い、旧大和川(長瀬川)の堤防だったところと交わった場所にあります。

大和川付け替え後に設置されたもので、当時川幅が推測できます。

高井田地蔵尊(清水地蔵)

立派なお堂と解説板付きなのですが、それだけで街中地蔵よりも格上、史跡地蔵だとか思ってしまいます。

中のお地蔵さんは、光背に梵字9文字が刻まれているのが特徴です。

『渡シ地蔵と旧高井田村の石仏

堂前の線香立の石柱に「渡シ地蔵」と刻まれている地蔵石仏は、高さ 95cm・幅 30cm の舟形光背に高さ 70cm の地蔵菩薩立像をまつっています。

年号などは確認できませんが、江戸時代初期の作と推定されています。

この場所は旧大和川の本流である長瀬川の西堤にあたり、大和川付替え以前は川幅が 200m ちかくもあって、舟の渡し場になっていたようです。

付け替え後は川床が埋め立てられ、新喜多新田となりました。

渡シ地蔵の南 150m にある喜楽地蔵堂内には、高さ 68cm・幅 30cm の舟形光背に両手で宝珠もつ高さ 46cm の地蔵菩薩立像が半肉彫されています。

像の左に宝暦九年(1759)の銘が刻まれています。

長栄寺は、聖徳太子の開創と伝えられ、本尊の十一面観世音-重要文化財-も太子が自ら刻んだものといわれ、府の文化財に指定されています。

本堂は火災で焼失し、文政8年(1825年)に再建されました。

境内の奥には、慈雲尊者が修禅研学をしたという双龍庵禅那台が端正な姿で残っています。

後年荒れてしまった当寺を延享元年(一七四四)二十七歳の慈雲尊者が中興。

ここで弟子たちと修行し、正法律(真言律)の復興を唱え、その道場としました。

享保三年(一七一八)大坂中之島の高松藩蔵屋敷で生まれた慈雲は、大阪南田辺の名刹真言宗法楽寺で得度。
のち、二十七歳でこの長栄寺へ来たということです。

以後高貴寺とともに正法律の一派として幕府に認可され、広められることになります。

慈雲は宗派にとらわれず、それまで漢訳仏典でこと足れりとしてきた日本の仏教界を批判しました。

梵学(サンスクリット学)をもきわめた彼はその後有馬、長尾の滝、京都、河内高貴寺などに転住しますが、この寺へはよく立ち寄り、大阪における説法は常に長栄寺でおこなわれました。

高貴寺に石上露子を訪ねる
開山は役行者で、文武天皇の勅願によるといわれている。河内高貴寺縁起によると、役行 … 続きを読む →

慈雲尊者霊廟。京都阿弥陀寺で亡くなった尊者の遺体は、郡山城を経由して運ばれ、ここ高貴寺の奥の院に埋葬された




鴨高田神社

一説には、鴨高田の神は「迦毛大御神」すなわち鴨氏の祖神・阿遅鉏高日子根神であり、古くから高井田の里に鎮座していたとも。

中世には、石清水八幡領となったため「八幡宮」と呼ばれていたようだ。
おそらくはこの時に「神功皇后」「応神天皇」が勧請されたのだろう。

また、社頭の説明には、醍醐天皇・延喜18年(918)、大洪水に見舞われ五穀が稔らず困窮したとき、諸民が当社に祈願したところ霊験があり、百姓がおおいに喜んだ。

後桃園天皇の安永年間(1772?80)、悪疫が流行したとき、時の神職・久左衛門が1月9日から10日間、断食して悪疫祓除を祈願し、全村その厄をまぬがれた。

という逸話が掲載されている。

牛頭天王=速須佐之男命が祀られてたのは、悪疫祓除の祈願の頃だろうか。

社伝によると、白鳳2年(673年)に古代豪族の鴨氏がその開祖である大鴨積命を祀ったのが始まりだという。

ちなみに、京都の上賀茂神社の創建が白鳳6年であるから、それよりも4年早く創建されていることになる。

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大阪護国神社『日の丸マーケット』


現在5時30分、すでに太陽は高い位置にある。

斜光の美しさを眺めながらの散策。


餌を待つ猫。 

いつものおばさんはまだ来ない。

護国神社の塀、懐かしい名前が並ぶ。

北の富士、佐田の山、柏戸、大鵬・・・・・・・
北の富士はいまだに解説を務める。

大阪・住之江の護国神社、毎月月末日の前日に開催している骨董市。

お馴染みの骨董業者さんから掘り出し物が出てくる楽しさに加え、陶磁器、古着、日用雑貨などの新規出店者さんも少し加わり毎回ちょっと様変わりしつつ、ゆったりとお買い物やお喋りを楽しんで・・・

滋賀県等かなり遠方からの出品者もいるようです。

護国神社概略

1938年(昭和13年)に大阪府知事が奉賛会長として護国神社造営奉賛会を結成し、創建予定地である住之江公園の南西の低湿地を、府民のべ約36万人が勤労奉仕で約2年かけて埋めたてて、内務大臣指定護國神社として創建された。

1940年(昭和15年)5月4日に鎮座祭が行われたが、人材・資材不足のため正式な社殿の建築をすることができず、仮社殿での鎮座であった。

その後に正式な社殿の造営を行う予定であったが、大東亜戦争の激化や敗戦後の混乱により着工出来ないままであった。

戦後、GHQによる神道指令の影響下における存続対策として仁徳天皇を祀り、「浪速宮(なにわぐう)」と称していた。

また、神社本庁の別表神社に加列されている。

社名は、サンフランシスコ講和条約締結後の1952年(昭和27年)に大阪護國神社に復称している。

こうした経緯から奉安殿に仁徳天皇を、その相殿に東郷平八郎を遺髪と共に祀るようになった。

1960年(昭和35年)に造営奉賛会が結成され、1963年(昭和38年)春に社殿が竣工し、5月29日に遷座祭が行われた。

1970年(昭和45年)7月15日に昭和天皇と香淳皇后が親拝され、1978年(昭和53年)5月31日には皇太子・皇太子妃(現・明仁上皇・上皇后美智子)が参拝されている。

2009年(平成21年)10月24日に特攻勇士の像が建立された。

地下鉄住之江公園駅、南東角にエレベーターの新設工事が進む。

堺方面へのバス乗り場。

61系統・62系統 イオンモール堺鉄砲町経由堺東駅前行き
91号系統 匠町行き
71号系統 Jグリーン堺クラブハウス前行き(土日祝、学休期間中のみ運行)

オスカードリーム東側から堺浜シーサイドステージ方面への無料シャトルバスも発着している。

住之江通、長植物園方面を望む、生駒連山も見えています。

住之江公園ではラジオ体操が行われている、毎日多くの方が参加されています。

こういうのを見ていると家でゴロゴロしているわけにいかなくなる。

斜光のオンパレードです。


多くの散策者がおられますが、犬を連れた方も結構多い。

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その後のアオサギ


公園の中央あたりには、「住之江公園野球場」があります。

ナイター設備などもある本格的な野球場です。

夏の全国高等学校野球選手権大会の大阪大会にも利用されているので、ご存知の方も多いでしょう。

朝日の強烈な射し込み。

住吉川沿いの散策路、腰の曲がったご老人、相当な年代とお見受けするが、毎日歩いておられる、それも往復。

若いもんが?負けてはいられない。

清々しい散歩日和です。

ただ今、6時です。

住之江公園の大池、どうやら巣立ったばかりの子供の鳥のようです。

巣の上では最後の子育てが進行中。

アオサギの子育て
住之江公園をいつものように散歩していました。 サギが追っかけっこをしている、最初 … 続きを読む →

その後のアオサギの子育て
4月14日に巣を発見。 散歩の度に確認していたが5/12に記事に書いた。 アオサ … 続きを読む →


3月には産卵を始めて、5月ごろ雛が生まれて7月から8月ごろには巣立っていくというのでもう少し楽しめそうだ。

「花と緑のスクエア」の東側には大池が広がり、ユリカモメ・カルガモ・コサギ・カワセミなどの野鳥の姿が見られる。

都市部ではなかなか見られない風光明媚な景色だ。
また初夏になると、池のふちに蓮の花が咲き誇る。

今日も楽しい散策だった。

帰って食事としよう。

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夕日の街


住吉大社は海に向かって開いている、大鳥居の向こうを南海電車が走っており、その向こうは海だ。。

振り返ると大社の門は閉じている。

朝晩が早いのだ、4~9月 6:00~17:00 10~3月 6:30~17:00 です。

参道を夕日が照らす。

夕日に染まった反橋。

もう少しバック、南海電車や阪堺電鉄の駅から住吉大社に向かうと、まず目に入るのが、大きな西大鳥居、これを一の鳥居といい、神域の入り口、向こうに反橋が見える。。

そしてここが汐掛道、住吉大社の旧表参道の汐掛道は、海岸に上陸した海神が通った道で、出見の浜〜住吉高灯籠〜住吉公園〜住友燈籠〜表参道鳥居〜反り橋〜住吉大社本宮と一直線に連なっています。

汐掛道 | きままな旅人
付近一帯は住吉公園、元は住吉大社の境内で、大社の馬場があった。

公園の中央を東西に走る「潮掛け道」は、住吉大社の表参道だった。

付近一帯は住吉公園、住吉公園は、現在は市民公園で、花壇や池、遊戯施設、コートなどが並ぶ。

住吉公園 気ままな旅人

国道26号に面した所に立つ高灯篭は、住吉大社の灯篭で、鎌倉時代創建の日本最古の灯台とされる。現在の高灯篭は1974年に場所を移して復元されたものであり、元は200メートルほど西方にあった。2005年(平成17年)に内部を改装し、史料館となっている。一般開放は毎月第1・第3日曜の10時~16時。

今は完全に内陸の市街地だが、かつては、住吉公園の少し西側を走る阪神高速15号堺線あたりまで海が迫っていた。

この海に面した住吉大社の社前の風景が、日本の美しい風景の典型とされる白砂青松の原景である「住吉模様」の地。

また鎌倉時代の元寇の時は、蒙古撃退のための住吉大社による住吉大神への「浜祈祷」は、住吉公園の前に広がっていた住吉の浜で行われた。

汐掛道顕彰碑、夕日に染まります。

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朝の街 住之江公園


ただ今4時45分、東の空が焼けている、日の出にはあと少し。


護国神社の森の上からの日の出です。

朝日に輝く街。

住之江競艇場のバックスタンドも輝いている。

空には上弦の月、小さすぎて見えないかな。
クリックすると拡大できます。

護国神社境内。


住之江公園、森を照らす斜光がきれいです。

まだ人の動きはわずかです、わずかですが散策する人はいます。

シロタエギクが陽に照らされてきれいです。

住吉川、対岸の様子。

護岸の石垣と水面の陰影。

ネコが気持ちよさそうに陽を浴びています、近づくと首をもたげてこちらを見ています、クリックして拡大して見てください。
かわいい!!

姫松橋。

近くの銭湯、昔、笑福亭松鶴師匠が近くにお住いのことがあったが夕方早い時間に行くとよく一緒になったものです。

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朝の街 長居公園


ただ今5時半過ぎ、朝の冷気が気持ちいい。

総面積65.7haの長居公園は、毎冬の大阪国際女子マラソンの舞台としてお馴染みの長居陸上競技場をはじめとして、スポーツや自然に親しめる様々な施設を備える。

郷土の森

全国から集団就職で大阪にやってきた青少年らによって植樹されできたのが「郷土の森」です。

ここに繁る約8600本の樹木は、彼らが1本1本植樹した苗木が育ったもので、大阪市内にありながら、さまざまな地域の郷土の香りに包まれた森林浴を楽しむことができます。

なかにはパリのマロニエやドイツの菩提樹などの姿も!

そもそも隣接されているヤンマースタジアム長居(長居陸上競技場)といえば、セレッソ大阪の本拠地であり、2002年日韓W杯では3試合が開催され日本戦も行われました。

サッカーだけでなく、ラグビー、アメフトもここで盛んに行われています。

そして陸上競技でも2007年に世界選手権が開催されるなど、スポーツの街長居を象徴する場所です。

雨ニモマケズ、風ニモマケズ、連日ラジオ体操に勤しむ一人の子ども・・・。

じつはこれ、ラジオ体操制定50周年を記念して建立されました。

毎朝大勢の方がラジオ体操をされています。

みなさん、ラジオ体操を終えた後は、どうされているだろうか。

ここでは、みんなで叫ぶのが普通だ。

早朝、体操を終えた人たちは思い思いに声を張り上げ、まだ明けきらぬ光の中、公園には「おおおおおおおーっ」と、異様な雄たけびが響く。

なぜ叫ぶのか、いつから叫んでいるのか、最初に誰が叫んだのか、誰も知らない。

地元の人にとってはありふれた日常で、誰も驚く人はいないが、とても不思議な習慣だ。

9.15周で42.195kmのフルマラソン!
大阪市内で人気のランニングコースといえば長居公園。

15周でフルマラソン(42.195km)とほぼ同じ距離を走ったことになります。

距離表示の石があるので走った距離がわかりやすい。

練習会も多数開催されており、外灯が明るいので、夜も多くのランナーが走っている。

公園はJR阪和線や地下鉄御堂筋線の長居駅からすぐ。

近くに2カ所あるシャワー施設でラン後に汗を流せるので、何周走れるか挑戦してみては。

「関西では陸上長距離の聖地とも呼ばれている長居公園が僕のローカルトレイル。

長居公園は1周2.8kmのフラットなアスファルトの舗装路がランニングコースとして有名ですが、実はその舗装路の左右に沿ってトレイルが通っています。

大阪府への「緊急事態宣言」の発令に伴う大阪市からの指示を受け、長居植物園(花と緑と自然の情報センターを含む)は、令和3年4月25日(日曜日)から当面の間、休園・休館。

ネコちゃんが気持ちよさそうに朝日を浴びています。


隙間から植物園をのぞいてみる。

早く平常に戻るよう願っている。

長居植物園はわが庭のようによく通うのだが・・・・・

アジサイは今が見頃、園内では今年の咲き具合はどうなっているのだろう。

公園東で今日の散策は切り上げです。

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朝の街 四天王寺


ただ今7時過ぎ、夕陽丘で地下鉄を降り四天王寺に向かう、以前友達から聞いていた蕎麦屋さん、気になりながらまだいけていない。
今回も時間の都合でアウト。

四天王寺 地蔵堂 北向地蔵
当堂は明治時代に近郷及び境内諸方より集めた有縁無縁の地蔵尊を、中之門を入った南側の小丘に合祀したのが始まりでだとか。

四天王寺でも何かここだけ雰囲気が違う。

四天王寺は、大阪市天王寺区四天王寺にある和宗の総本山の寺院。

聖徳太子建立七大寺の一つとされている。
山号は荒陵山(あらはかさん)、本尊は救世観音である。
四天王寺関連の記事です。

日本仏教の祖とされる「聖徳太子建立の寺」であり、既存の仏教の諸宗派にはこだわらない全仏教的な立場から、1946年(昭和21年)に「和宗」の総本山として独立している。

五重塔 – 現在の塔は1959年(昭和34年)再建の8代目。「六道利救の塔」ともいう。

壁面には山下摩起筆の仏画がある。舎利塔が奉安されている5重目まで階段で上がれるようになっている。

四天王寺に有難い夕陽を拝む
もうすぐお彼岸です、ここ四天王寺ではお彼岸に西の海に沈む夕陽を拝して、西方極楽浄 … 続きを読む →


義経鎧掛け松

兄頼朝と不仲となり、都を落ちて大物浦(だいもつのうら・摂津国)から西国へ向かったが、難破して行方をくらませた。

伝説によると、和泉国に流れ着いた義経は、吉野山に逃れる途中で四天王寺に立ち寄り、松の木に鎧を掛けたのだという。

その後、義経は、長い逃亡生活を送り、奥州平泉の藤原秀衡の許に落ち延びたが、秀衡死後の1189年(文治5年)閏4月30日、秀衡の跡を継いだ泰衡に衣川館を襲撃されて最期を遂げている。
義経関連の記事をまとめました。

聖徳太子を祀る聖霊院(太子殿)には猫の門と虎の門の2つの門があり、それぞれの門にはネコとトラの彫刻があります。

「虎の門」のトラは悪いものが入ってこないように番をしており、「猫の門」のネコは聖霊院にある経堂のお経がネズミにかじられないように見張り番をしているのだとか。

熊野権現礼拝石

四天王寺縁起』に四天王寺の西門は、極楽浄土の東門(とうもん)に通じていると書かれていたことから、ここから西方を望むと極楽浄土に導かれるという信仰が生まれ、藤原道長・頼通をはじめ鳥羽上皇・後白河上皇・公卿らの参詣が相次ぎ、源頼朝も東大寺再建供養のため上洛の折、大勢のお供を連れて参拝しています。

丹後局が所有する船を借り、鳥羽津(草津湊)より船出して渡辺津で上陸し、そこから車に乗り、陸路をたどって四天王寺へ参詣。

隋兵以下、供奉の人々は騎馬であったという。
(『吾妻鏡』建久6年(1195)5月20日条)

実在した人物が霊験者として魔除けとなった「角大師(つのだいし)」が注目されている。

この人物は「正月三日」が命日。それゆえに「元三大師(がんざんだいし)」と呼ばれる。
いったい何者なのか……。

京都の町家や滋賀県大津・坂本の民家の軒先で、やせ細った夜叉(やしゃ)の姿が描かれた護符をよく見かける。

目はくりっとして愛らしい。
これが角大師(つのだいし)。

平安時代に活躍した僧、良源(912~985)のことだ。

魔を滅する魔滅(まめ)大師=豆大師とも呼ばれ、様々な伝説があるという。

良源は912年(延喜12年)近江国浅井郡虎姫(現・滋賀県長浜市)に生まれ、宇多天皇の御落胤(私生児)とも、菅原道真ゆかりの子であるとも伝わる。

良源は、12歳で比叡山に登り修行、17歳で受戒、55歳の時に第18代天台座主となった。
天皇家や摂関家の帰依を受け、985(寛和2)年1月3日、74歳で没した

安政地震津波の碑

安政の大地震とは、ちょうどペリー来航の頃の江戸時代後期の安政年間、安政元年(1854)11月4日・5日の両日に相次いで発生した「安政東海地震」と「安政南海地震」のことを指すのだそうで、その時に津波が発生し、大勢の命が奪われたといいます。

安治川、木津川の河口から侵入した津波は道頓堀や長堀、土佐堀などに入り込み、安治川橋、亀井橋、高橋、水分橋、黒金橋、日吉橋、汐見橋、幸橋、住吉橋、金屋橋などの橋は全て崩れ落ちてしまったのだとか…。

堀越神社、聖徳太子が四天王寺を創建した際、崇峻天皇を祭神として風光明媚な茶臼山の地に社殿を造営したのが最初と伝わり、四天王寺七宮の一つに数えられる。

かつて創建当初から明治時代中ごろまで境内の南沿いに堀があり、この堀を渡って参詣したことが社名の由来だとされている。

古くから「一生に一度の願いを聞いてくださる」と、尊崇を集めている。

境内にある熊野第一王子之宮は、もとは熊野九十九王子の第一王子・窪津王子である。

窪津王子(くぼつおうじ)は、熊野九十九王子の1番目。
八軒家船着場のすぐ近く、大阪府大阪市中央区天満橋付近にあった。

現在その跡には坐摩神社行宮が建っている。
また大阪市天王寺区堀越町の堀越神社の摂社・「熊野第一王子社」に合祀されている。

熊野御幸記を歩くに藤白神社までの道中をまとめています。

ソロソロお腹が空いた、南へ向かう。

「あべちか」自粛要請が出ていることであり、地下街もひっそりとしている。

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四天王寺 本坊庭園にある八角亭

四天王寺本坊庭園、別名:極楽浄土の庭には明治3 6 年(1 9 0 3 )大阪で開催された博覧会、第5回内国勧業博覧会の小奏楽堂として建築されたライトブルーの小さな洋風東屋が建っています。

博覧会の建物はこの「八角亭」を除いて一切残っていません。

長らく特定日のみの公開であったが、平成15年(2003年)8月より通年の公開が行われるようになった。

庭園入口にあるのが国重要文化財「五智光院」、文治3年(1187)後白河法皇により建立されたもので、現在のお堂は元和9年(1623)徳川秀忠により再建されたものです。

再建当時は西大門の南側にあったものが、明治34年現在地に移されました。

創建当初より後白河法皇の灌頂堂(頭頂に濯ぎ、仏の知恵をいただき仏と血縁するための儀式)として建てられましたので、現在でも信徒・四天王寺学園学生達の灌頂を行う道場になっているようです。

ここから先が「極楽浄土の庭」。

湯屋方丈・・・重要文化財

五智光院と同じく元和9年(1613)徳川秀忠により再建されました。

徳川家康の参謀として暗躍した、天海大僧正(慈眼大師)が四天王寺執務の際、在住したのがこの方丈で、湯屋とはお風呂のことです。

再建当初は六時堂の裏にありましたが、明治33年改修の際現在の場所に移されました。

入口を入ると、衆生の貪り(むさぼり)や執着を表す「水の河」と、瞋り(いかり)や憎しみを表す「火の河」があり、その間に衆生の善心と信仰心を表す「白道」が続き、蓮池「極楽の池」に行き着きます。

「極楽浄土の庭」には自然の湧き水を利用した2つの小川と2つの池、それに2つの滝があります。

写真は釈迦の滝。

極楽浄土の庭は「二河白道(にがびゃくどう)」の説話の世界観をあらわしており、2つの水路、火の河(怒り)と水の河(貪り)の間には極楽(極楽の池)へと続く細い白道が。

この極楽浄土の庭の着工は江戸時代初頭とされ、現在の庭は明治時代初期に火災による焼失から昭和初期に復興されたもの。

その際二河白道の説話に基づいた作庭がされました。

参詣者は説話の通り、二河に落ちないように参道の白道を進み、極楽の池を目指すと、池に鎮座する阿弥陀三尊石の出迎えを受けることになります。

荒陵稲荷大明神

かつては同様の社が数か所にお祀りされていましたが、廃仏毀釈や空襲により焼失し、唯一残存する社だそうです。

四天王寺の北東、鬼門を鎮守されています。

極楽の池内には灯籠や阿弥陀三尊石も。

経営の神様とも呼ばれた松下幸之助によって寄進された「和松庵」が見えます。
和松庵では極楽の池などを眺めながら、お抹茶(お菓子付き400円)をいただくことができます。

遠景にはハルカスも見えます。

今から100年前の明治36(1903)年に、通天閣付近で第5回内国勧業博覧会が開催された。

その時に出品されたのが、このルネッサンス風の八角洋風木造建築である。

後に四天王寺・本坊庭園に移設されたこの建物の特徴は、軒のバージ・ボードと呼ばれる装飾と、窓の色ガラスにある。

3色の色ガラスをはめた窓が魅力的です。

ドアは施錠してあり中には入れません、レンズをガラスに押し当てて撮影。

屋根の和瓦とモールディングの廻り縁のアンサンブルが不思議とマッチしていて独特の雰囲気を醸し出しています。

ところで、第五回内国勧業博覧会は大阪の天王寺会場をメインに開催されましたが、日本国内だけでなく、海外諸国の出展品も並んだ、日本で初めての万国博覧会だったわけで、この会場跡地再開発でできたのが新世界なんですね…。
 
八角亭は小奏楽堂だったらしいのですが、どんなふうに演奏が行われたのかはちょっとわかりません・・・

内国勧業博覧会、第一回は上野だったようですね。

第五回は、天王寺と堺会場もあり、盛大に開催されましたが、これが最後となりました。

天王寺会場は、「天王寺公園」となり、その後「新世界」が誕生し、通天閣、ルナパークができました。

堺会場は大浜公園となっています。

この庭園は明治初期のもので二河白道のたとえ話を基に造園されました。

庭を歩くだけで仏教の教えと極楽浄土に至る道を体験できるようになっているので、四天王寺訪問の際には是非とも訪れてください。

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