弥生農耕 大阪府立弥生文化博物館


弥生文化博物館は日本で唯一弥生時代をテーマにした歴史博物館だ。

弥生文化の基礎は農耕、特に水田でのコメ作りだと考えられています。

弥生研究の主テーマは各地での稲作の導入過程とその展開・結果の追求だったといってよいでしょう。

弥生土器、登呂式の新しい段階。
約AD1~AD180 静岡県登呂遺跡。

登呂遺跡で水田が最初にみつかってから現在まで、その具体像はおおよそ明らかになったといえますが、解決していない論点も残り、新たな分析手法の導入で逆に深まる謎もあります。

鋤、池島・福万寺遺跡 弥生時代前期 約BC700~BC400

排水管、志紀遺跡 弥生時代前期 約BC700~BC400

この時代にこんなものまで作られていたとは驚きです。

田下駄、曲金北遺跡 古墳時代中期 約AD400~AD500

本展では、水田というコメを栽培する場に焦点を当てるとともに、近年みえてきた畠作の問題を取り上げます。

農耕の意味を知るには、栽培はもちろん、収穫、保存、食べるまで含めて考える必要があります。

春の水田風景。

弥生時代は、日本列島における時代区分の一つであり、紀元前10世紀頃から、紀元後3世紀中頃までにあたる時代の名称。

採集経済の縄文時代の後、水稲農耕を主とした生産経済の時代である。

池上・曽根遺跡は、大阪府和泉市池上町と同泉大津市曽根町とにまたがる弥生時代中期の環濠集落遺跡。

南北1.5km、東西0.6kmの範囲に広がり、総面積60万m2に達する大集落遺跡である。
1976年に国の史跡に指定された。1995年から史跡整備が行われている。

高床式大型建物 建築様式:掘立柱建物建物は井戸の北側3.5mにあり、東西17m、南北7m、面積約135m2の最大級の独立棟持柱(むねもちはしら)の高床式建物跡で、神殿らしい。

建物を支えていた直径70cmヒノキ柱の基礎部分25本が腐らずに出土。

柱の間隔は1.8m、長辺の中央部2.3m前後。

土器編年では弥生時代中期後半であるが、柱の1本を年輪年代測定法で調査の結果、紀元前52年に伐採されたことが判明。

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1928年の調査で多量の弥生時代の石器や土器が出土し、これらの出土品から弥生文化が北部九州から畿内へ流入したと初めて指摘された点で学史上著名な遺跡である。

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初秋 京都植物園


ワイルドガーデンにある『麦わら帽子と少女』のモニュメント、花に囲まれてピンクに染まっています。

タイワンホトトギス、この時期公園のあちこちで見かける。

アップして見ます、花期は9-10月。

茎先に腺毛のある散房花序をつけ、数個の花を上向きにつける。

小花柄は1-6cmになり、軟毛が生えるか無毛。

花被片は6個で、長さ2-4cm、幅4-11mmあり、ラッパ状に開き、白色から淡紫色で内面に紅紫色の斑点がある。

コスモスはこの時期あちこちで人気のようです。

ミツバハマゴウ

藤色の花が咲きますが、それほど密には咲きません。

大小四つの池に囲まれた、なからぎの森は古くから、流れ木の森ともいわれ、ここ下鴨の地に残された山城盆地の原植生をうかがい知ることのできる園内唯一の貴重な自然林です。

カモがくつろいでいます。

森の広さは約5,500平方メートルで、中ほどには、上賀茂神社の境外末社である半木神社があります。

また、池の周りにはカエデ類が多く、特に秋の紅葉は園内有数の美しさです。

半木神社の創建についての詳しい年代はわかっていないそうなんですけれどもともとは西賀茂浮田の森(うきたのもり)にあった3座の神様のうちの1座でそれが賀茂川の洪水によって流されこの地に漂着し留まった事か その流木で社殿を設けてお祀りしたんだそうです。

間もなく紅葉が始まりますが、すごい数のカメラマンが押しかけます。

この時期は鳥の撮影の人も多くいますがゆっくり落ち着いて過ごせます。

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タイワンモクゲンジその後


難波の宮跡のタイワンモクゲンジ、今までオオモクゲンジとしてきましたがどうやらタイワンモクゲンジが正解のようです。
訂正します。

赤い実がついているようです。

これが袋状の実になるのでしょうか?
もう少し観察を続けよう。

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深まる秋 長居植物園


定点観測としている場所、ハナミズキの赤とカツラの黄が目立ちます。

ハナミズキとカツラです、きれいです。

ハナミズキの実が真っ赤に実っています。

サルビアマドレンシス

メキシコ原産。日本ではイエローマジェスティと呼ばれる。
花が黄色、秋咲きの大型のサルビア。

黄色のサルビアは珍しい。

ビデンスは、200種以上が世界に広く分布しているキク科の植物で、特にメキシコに多くの種が自生しています。

日本の道端に雑草として生え、タネが衣服につくアメリカセンダングサもビデンスの一種の帰化植物です。

パンパスグラスが元気です。

サキシマフヨウ

もうジュウガツザクラが咲いています。

エンジュの実 ( 槐 )

名前の由来は、古名「エニス」の転訛して、槐子(エニス)の呉音読み(エス)が転じたとされている。

日本ではこの樹に「延樹」という漢字があてられ、病魔を払い、寿命を延ばす木として古くから親しまれている。

フェイジョア

ニュージーランドではメジャーなフルーツ、フェイジョア。

庭木として育てやすく、日本でも人気です。

見た目の美しさだけでなく、グリーンの卵のような実や、鮮やかな赤と白のコントラストがきれいな花も、そのままでおいしく食べられます!

チャノキも目立たないが花を咲かせています。

トキワガマズミティヌス(ビバーナムティヌス)の花が全開になるとかなり華やかで 目隠しとしての機能も期待できます。

秋頃に青い実がつきます。

ヤナギがきれいです、大花壇の黄色い花といいコントラストです。

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コスモスフェア 長居植物園

ライフガーデンではコスモスが咲き始めている。

色とりどりの10品種約10万本のコスモスが秋風に揺れ、咲き乱れる光景は、まさに絶景!

シーシェルは、花びらが丸い筒のようになっている珍しいコスモス。

色違い。

白色に鮮紅色の縦縞絞りもきれいだ。

コスモスは18世紀末に原産地のメキシコからスペインに渡り、日本には幕末に渡来しました。

もともとのコスモスは一重咲きで、花色は白、ピンク、紅の3色だったそうです。

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秋のローズウィーク 長居植物園

秋たけなわ、長居植物園では薔薇が咲き誇っている。

秋に咲くバラは、花輪は少し小ぶりながら、「深い香り」と「濃い色合い」が特徴。

インカ

黄金の国で有名なインカ帝国をイメージした明るいはっきりした黄色です。

フレグラントヒル

甘いフルーツ系の芳香。

マーシャスタンホープ

花弁がやわらかく透明感のある真っ白なバラ。
半剣弁高芯咲き。芳香種。

エンブレム

濃い黄色の整った剣弁盃状咲きのバラ。
葉は濃い緑色で光沢がある。直立性で背が高くなる。

パパ・メイアン

フランスの著名な育種家、アラン・メイアン氏が、祖父アントワーヌ・メイアン氏に捧げた、黒バラの代表的銘花です。

ディスタント・ドラムス

早咲きで、ミルラの香り、花弁は淡茶色、外側はピンクを帯びたラベンダー色で、クラシカルな雰囲気のあるバラです。

シルエット

マーガレットハント

マーガレットハントは、ジャックマニー系のクレマチス!
バラの開花の時期とだいたい同じ。

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秋の福知山城


秋の一日福知山城を訪れた。
ドラマ「麒麟が来る」の宣伝一色。

現在のような縄張りは明智光秀がおこなった。

畿内を押さえた織田信長は、豊臣秀吉と明智光秀に中国攻めを命じた。
豊臣秀吉は山陽道から進軍したのに対して、明智光秀は山陰道側より入った。

丹波国を平定した明智光秀が築城し、女婿の明智秀満を城主とした。

1973年(昭和48年)には東京工業大学の藤岡通夫によって基本設計図が描かれ1982年(昭和57年)には塩見精太郎市長が天守再建の意向を示し、1983年(昭和58年)には調査費が計上される。

2020年(令和2年)、福知山城天守の写真が発見された。

写真は不鮮明ながら全容を確認することができ、ほぼ正しい姿で再建されていることが裏付けられた。

本丸、天守の東側に「豊磐井」(とよいわのい)と呼ばれている大型の井戸が残っている。

この井戸は城主であった朽木稙昌の父朽木稙綱の神号「豊磐稙綱命」にちなんだもの。

井戸の深さは50mあり、海面下7mに達する。高所に関わらず水深37mもあり、現在も満々と水をたたえている。

伝承ではこの井戸に抜け穴があり、二ノ丸の北側の対面所裏にあった横穴に通じていると言い伝えがある。

福知山城の本丸には朝暉神社(あさひじんじゃ)がある。

1669年(寛文9年)6月に入部した、福知山初代藩主である朽木稙昌(くつきたねまさ)が父・稙綱(たねつな)を藩祖として城中に祀ったことにはじまり、11代藩主・綱條(つなえだ)のときに一社を建立して朝暉神社と号しました。

朽木に信長遁走の跡を訪ねる
投稿日時: 2017年12月1日
興聖寺はもともと現在の位置とは安曇川を挟んで反対側の上柏村指月谷にあったが、江 … 続きを読む →

興聖寺脇の渓流沿いの小径、朽木氏の闘争のための経路という。
信長もこの経路で脱出したようだ。

街中にこのようなイラストが氾濫するが、イメージと全く合わず違和感を感じる。

天守から北方向の眺望。

正面の一番奥が大江山。

秋の深まりを感じる城内、ハナミズキの赤がきれいだった。

福知山城下は由良川(ゆらがわ)と土師川(はぜがわ)が合流する地点で、たびたび氾濫を起こしていた。

天正八年(1580)明智光秀は城下町を築くため、現在の福知山駅付近まで蛇行していたと推定される由良川に堤防を築いて北向きに固定し、堤防の前面には衝撃を和らげるための藪を設けたと伝わっています。

かつて蛇ヶ端(じゃがはな)御藪と呼ばれたその藪は、今では「明智藪(光秀堤)」として親しまれています。

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明智光秀が再興に尽くした 西教寺
光秀は、本能寺の変で主君織田信長を討ち、非道な逆賊のイメージが強い。 だが、領地 … 続きを読む →

光秀は、本能寺の変で主君織田信長を討ち、非道な逆賊のイメージが強い。
だが、領地の近江坂本周辺では、善政を敷き、教養に秀でた名君として、今も住民らに慕われている。

祇園白川に 明智首塚
1582年(天正10年)、天正天王山の戦いで羽柴秀吉に敗れた明智光秀は、坂本城を … 続きを読む →

光秀の首塚は、もとはこの場所にあったのではありません。『京都坊目誌』によると、光秀の首は、粟田の刑場にさらされた後、そのすぐ近くの西小物座町の人家のうしろに、他の数千の首と一緒に埋められ塚が築かれました。

悲運の武将 明智光秀終焉の地
地下鉄東西線醍醐駅から、徒歩で15分程でしょうか。 枯れ寂びた藪の中、明智薮”が … 続きを読む →

この明智藪は、今日に至るまで、戦国武将明智光秀の終焉の地として傳えられており、現在は西側にある本経寺(日蓮本宗)の寺領となっている。

細川ガラシャ終焉の地
明治27年(1894)に「聖アグネス聖堂」として建てられたが、空襲で焼失。 昭和 … 続きを読む →

38歳で死を選択した彼女の辞世の句は胸に響きます。

散りぬべき時知りてこそ世の中の花も花なれ人も人なれ

天下分け目の天王山 山崎の戦い
山崎は京都への圧力と、防備、外圧を防ぐ両面を持った地で、古来より何度か戦場となっ … 続きを読む →

翌日羽柴軍が山崎城に陣取ったため優勢となり、光秀は逃亡、討死する結果となった。

歴史とドラマの城 勝竜寺城
勝竜寺城は京都盆地の西南部、小畑川と犬川の合流地点に位置し、西国街道と久我畷が交 … 続きを読む →

羽柴秀吉の中国大返しによって山崎の合戦に敗北した光秀は一旦この城に逃れるも、もち直す事は不可能であり本拠坂本城に向けて脱出した。

その際に光秀が逃亡した時に使用したという門址跡。

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秋の円教寺


書写山の山上にあり、康保3年(966年)、性空の創建と伝えられる。

もとは素盞嗚命が山頂に降り立ち、一宿したという故事により、「素盞ノ杣」といわれ、性空入山以前よりその地に祠が祀られていたといわれる。

山号の由来はこの「素盞(すさ)」からのものといわれ、姫路市と合併する以前は、飾磨郡曽左村と呼ばれていたが、この「曽左(そさ)」も素盞に由来する。

湯屋橋: 湯屋橋摩耶殿の前面にある石橋で橋脚や、床版、欄干などが石造、宝珠が銅製となっている。

元和6年(1620)、姫路藩主となった本多忠政は円教寺に帰依し、大破していた湯屋橋を修築しています。

湯屋橋には「奉寄進 播州飾西郡書寫山圓教寺御石橋 願主 本多美濃守忠政」の銘が刻まれています。

護法石(弁慶のお手玉石) – 摩尼殿の手前にある直径約1 mの2つの石で、不動明王の化身である乙天(おつてん)と毘沙門天の化身である若天(わかてん)の2童子が降り立ったと伝えられる。

また、弁慶がお手玉にしたともいわれる。

武蔵坊弁慶は、一時期、書写山で修行したとされており、机などゆかりの品も伝えられ公開されている。
ただし史実である確証はない。

小さなお地蔵が沢山並んでいてかわいい。

突然視界に現れ、圧倒される摩尼殿。

円教寺は、本尊は如意輪観世音菩薩(如意輪観音)。
西国三十三所第27番。

現住職は第140世。
宗教法人としての名称は常用漢字体の「円教寺」である。

西国三十三所のうち最大規模の寺院で、「西の比叡山」と呼ばれるほど寺格は高く、中世には、比叡山、大山とともに天台宗の三大道場と称された巨刹である。

京都から遠い土地にありながら、皇族や貴族の信仰も篤く、訪れる天皇・法皇も多かった。

秋空に映える摩尼殿。

摩尼殿から見下ろす、葉月茶屋は山内唯一の食堂。

樹間のうっそうとした道を三つの堂へ向かう。

左より常行堂・食堂・大講堂。

この大講堂・食堂・常行堂がコの字型に並び、三つのお堂を総称して「三之堂(みつのどう)」。

見事に掃き清められた、コの字の真中に当たる空間部分は大きな伽藍3つに囲まれ、何か世界が違うような…不思議な静寂を生み出しています。

そしてそのシーンのロケ地がこの圓教寺の常行堂。最初、圓教寺はロケ地の予定になかったそうですが、姫路城を視察に来たスタッフが時間が余ったためこの圓教寺を訪れ、エドワード・ズウィック監督が一目ぼれしてここでの撮影を決めたそうです。

護法堂

開山堂(重要文化財) – 宝形造(方形造)、本瓦葺、桁行5間、梁間6間。

開山の性空を祀る。寺記によれば、性空が没した寛弘4年(1007年)、性空の高弟・延照が創建したとするが、現在の堂は江戸時代初期、寛文11年(1671年)に再建されたものである。

軒下の四隅に左甚五郎作と伝えられる力士の彫刻のうち西北隅の一つは、重さに耐えかねて逃げ出したと言う伝説は有名。

奥の院から摩尼殿へ向かう、樹齢700年の大杉などもあり、深い樹林を進む。

ロープウエイ三条駅へ向かう。

山上駅から仁王門へ至る参道は「西国巡礼の道」と称され、左右に、西国三十三所の各札所本尊を表した銅像が設置されている(1989年完成)。仁王門を通り、寿量院、圓教寺会館、十妙院を過ぎると、参道は「権現坂」と称する下りの階段になり、下りきったところが摩尼殿の縁下である。

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「真田丸」が置かれた三光神社


反正天皇の時代の創建と伝えられる。

創建以来、武内宿禰の末裔の武川氏が神職として奉職し、現在は86代目と伝える。

社伝によれば、寛文元年(1661年)に一旦現在地の西にある円珠庵(鎌八幡)の隣に遷座し、宝永3年(1706年)に再び現在地に戻ったという。

かつては「姫山神社」と称し、一帯は「姫の松原」と呼ばれていた。

拝殿

鎮座地の丘は宰相山とも真田山ともいう。

かつては大坂城の出丸である「真田丸」が置かれ、大坂の陣のときには真田信繁が大坂城から当地までの抜け穴を掘ったといわれ、社殿の下に残っている。

境内には大坂夏の陣図屏風(黒田屏風)に描かれた真田信繁を元にした像がある。

千田嘉博によると、現在残っている抜け穴は真田信繁が造ったものではなく、真田丸を攻めた前田利常軍の塹壕の痕跡の可能性が高いとしている。

大坂の陣のときには真田信繁が大坂城から当地までの抜け穴を掘ったといわれる。

真田幸村雌伏の地九度山
真田幸村雌伏の地九度山を訪ねた。 講談本の人気とこの時期のドラマの影響で盛り上が … 続きを読む →

真田幸村雌伏の地九度山を訪ねた。
講談本の人気とこの時期のドラマの影響で盛り上がっているが、実態としては生活感の一部も感じられるものはない。

大阪は「陸軍発祥の地」と呼ばれるが、1869年(明治2年)明治新政府の兵部大輔となった大村益次郎が、陸軍の中央機関を大阪に置く方針を示し、大坂城と周辺に諸機関を創設したためである。

その一環で明治4年(1881年)1月に太政官弁官から兵部省に「大阪府下真田山ノ内ヲ兵隊の埋葬地トナス」(太政類典)と初の国立墓地の設置も認められた。

真田山陸軍墓地は、大阪府大阪市天王寺区玉造本町にある大日本帝国陸軍の墓地。

日本で最初[1]かつ最大の陸軍墓地で、太平洋戦争終戦当時の規模を保つ点でも歴史的な価値がある(大阪市史編纂所)。

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大坂城の三の丸に位置する玉造稲荷神社


社伝によれば垂仁天皇18年(紀元前12年)に天皇によって創建され、当時は比売社と称していた。

蘇我氏と物部氏の戦いの際、蘇我氏方の聖徳太子がこの地、玉作岡に布陣して戦勝を祈願し、戦勝後当地に観音堂を建てたという伝承がある。

古代、付近一帯は「玉作岡」と呼ばれ、勾玉などをつくる玉作部が居住しており、それが現在の玉造の名の起こりとなった。

社地は元々は急崖に面していたため、少しでも平坦化するために、寛政元年(1789年)、東横堀川の浚渫で出た土砂を町人らが運び込む「砂持」が行われた。

豊臣・徳川時代を通して大坂城の鎮守とされ、豊津稲荷社と称した。
江戸時代には伊勢参りの出発点とされた。

豊臣大坂城の三の丸に位置し、その鎮守社として豊臣家から篤い崇敬を受けた。

戦国時代の天正4年(1576年)の戦火で荒廃してしまっていたが、慶長8年(1603年)に豊臣秀頼により社殿や高殿(舞台)が再建された。

しかし、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で社殿は再び焼失した。

画像は秀頼像。

大阪城内にある玉造稲荷神社は、「大坂の陣」の最終決戦(夏の陣)で戦場となり、焼き払われたため、当時の建物は残っていません。

唯一、秀頼が奉納した鳥居(1603年に制作)があるのですが、阪神・淡路大震災で倒壊。
神社の敷地の隅に、鳥居の上部が移設されています。

胞衣塚大明神 – 祭神:豊臣秀頼の胞衣。

当初は大坂城三の丸に当たる現在地に胞衣が埋められ、その後は豊臣家を慕う当地の人々により密かに祀られていた。

1945年(昭和20年)、戦災により焼失し、寺山町(現 上町一丁目)、東阪町(現 玉造一丁目)に遷座していた。

1983年(昭和58年)、大坂築城400年を記念して元の鎮座地に遷座された。
子供の夜泣きに霊験ありとされる。

千利休(せんのりきゅう)も愛用した名水
 
豊臣時代の茶人・千利休は玉造・祢宜町(ねぎまち)に屋敷を構えた。

神社の南西である。この一帯は玉造清水と呼ばれる良質の水が得られ、利休が茶の湯に愛用した。
清水谷の地名は今も天王寺区に残っている。

当神社でも利休が生駒山を眺め茶会を催したと伝わり、利休ゆかりの地・玉造として、昭和52年(一九七七)に大阪青年会議所の音頭で「千利休居士顕彰碑」が建立された。

玉造に屋敷を構えた武家・町人

前田利家・前田幸長・宇喜多秀家・島津家久・鍋島勝茂・明石守重・・・(岡山町)
細川忠興・・・(越中町)、浅野長政・小出吉英・古田重然(織部)・千利休・・・(玉造町)
増田長盛・・・(仁右衛門町)、浅野幸長・浅野長晟・・・(紀伊国町)
前波半入(または青木半入)・・・(半入町)、小出吉親・・・(元伊勢町)
曽呂利新左衛門・・・(八尾町)

「近松門左衛門」の文学碑

仰向く顔に当る日を
神かざしの玉造
稲荷の宮居ここもまた
伊勢の内外の内平野町
「ひじりめん卯月の紅葉」より

あつき日に貫く汗の玉造
稲荷の宮に迷ふとの
闇は理(ことわり)御仏も
衆生のための親なれば
「曽根崎心中」より

小野小町歌碑

古代、上町台地の東側は海水の浸入する江湾地帯であった。
生駒金剛連山を見渡す景勝の地であり、平安時代に至っては大和川が流れ、その玉造江を小町が通った際詠んだ歌である。

湊入りの玉つくり江に こぐ舟の音こそたてね 君を恋ふれど  「新勅撰集」より

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「史跡淀古城跡 戊辰の役砲弾貫通跡」の石標、「此所は戦国時代の始細川管領家が築城し薬師堂 淀古城址 与一岩成左通淀君の居城となった淀古城の址である 

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