生駒聖天宝山寺


「宝山寺」はお寺ですが、神社の象徴である鳥居を設けている、古代のヒンドゥー教とも言えるバラモン教の神(天部)を祀っているからです。

途中でかわいい花を見つけました。

ここの賽銭箱は少し変わっています、御本尊の聖天さん=大歓喜天が持っている「砂金袋」そして胴の部分には歓喜天の大好物で、食べると体内が浄化されると言われる大根を組み合わせてデザインされています。

また、よく見ていると不思議な光景を目にします、お財布を賽銭箱にこすりつけています。
そうなんです。

こうすることで聖天さんのご利益を、ダイレクトにお財布に頂こうというものなんです。
信じるかどうかは人それぞれ。

ここの魅力は杉林から差し込むサイド光。
四季折々、時間により光線の角度が変わります。

奥之院への参道両側には約三百体の石仏が並んでいます。

麓から続く参道の階段は奥の院までを含めると1000段余りあり西日本有数の規模を誇ります。

この道を行く人は、袋いっぱいの一円玉を手に、一つ一つお顔が違うお地蔵様にお賽銭をささげ、丁寧にお参りしながら進んでいかれます。

宝山寺(ほうざんじ)は、奈良県生駒市門前町にある真言律宗大本山の寺院。

生駒聖天(いこましょうてん)とも呼ばれ、本尊は不動明王。
鎮守神として歓喜天(聖天)を聖天堂(天堂)に祀っている。

生駒山は伝承によれば斉明天皇元年(655年)に役行者が開いたとされる修験道場で、空海(弘法大師)も修行したと伝わる。

江戸時代の延宝6年(1678年)に湛海律師が再興し、歓喜天を祀った。この時が事実上の開山と思われる。

江戸時代には、宝山寺は商売の神として大阪商人の信仰を集めた。京都の皇室や江戸の徳川将軍家、郡山藩主柳沢家からの祈願もあり、聖天信仰の霊場として名高い。

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「大阪くらしの今昔館」で江戸時代にタイムスリップ!


10階 展望フロア 桂米朝の歓迎の挨拶が流れ、9階の江戸時代の大坂の町並みが一望できる。

「 なにわ町家の歳時記 」 商家の賑わい。

9階は江戸時代の天保期(1830年代)の大坂の町家と町並みを専門家による学術的考証のもとに、伝統的工法を用いて実物大で復元し、家具・調度を置いて当時の暮らしを再現している。

木戸門を入ると、大通りの両側には商家が並び、路地の奥には裏長屋がある。

屋根に猫、路地に犬・鶏、見上げると雀など、さりげなく置かれているのがいいですね。


風呂屋さん

風呂屋の中には、ガイダンスシアターがあります。
ナレーションは、桂米朝さん。

小間物屋さん

びん出し,びんつけ油、元結 なんでも見揃っています。

古本屋さん


へっついさんもあります。

裏長屋の暮らしが再現されています。

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加太の街


和歌山市駅から終点加太駅までは、南海線の”加太さかな線”に乗ります。
ここでおすすめなのが、ピンクの車体が可愛らしい「めでたいでんしゃ」。

石垣にも「めでたいでんしゃ」の文字が。

加太は、和歌山市の北西にある港町。水質のよい紀淡海峡の好漁場に恵まれ、鯛の一本吊りなど、魚釣りのメッカでもあります。

和歌山県と大阪府の県境にほど近い場所に位置する加太(かだ)は、古い建物や史跡が残る歴史ある港町です。

今回は、南海加太線の終着駅である「加太駅」から徒歩で海岸を目指し、お寺巡りやグルメを楽しむ小旅行へ。

和歌山を代表する緑色片岩(通称=青石)。

街中は古い建物のオンパレード。

古い趣のあるお店が沢山あります。

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淡嶋神社


淡嶋神社は、人形供養で有名な神社。
全国に1000社もある「淡嶋系統」の総本社となっています。

全国で行われているひな流しの原型は、加太の淡嶋神社だと言われています。

三月三日は、朝から神社のなかは人々の熱気でむせかえります。

それぞれの思いや願いと共に、関西はもとより日本全国から境内に女性たちが集まってきます。

そして、日が高くのぼった正午、ひな流しの神事がおごそかに始まります。
当日は境内はもちろん港までの狭い道も人で埋め尽くされます。

雛祭りの起源は、中国から伝わった厄払いの儀式とされていますが、淡島神社では全国から奉納された雛人形や形代を海に流し供養を行っています。

午後から神事が行われ、3艘の船に乗せられた人形達が海に流されます。
なお、流された人形はその後回収されお焚き上げがなされ供養されます。

針供養の神社としても有名で、同神社境内には針塚が建てられており毎年2月ごろに全国から集められた針を供養する。

近年では縫い物をする機会が少なくなっていることから、供養に奉納される針の数も減っているという。

淡嶋神社で針供養
流し雛で有名な加太の淡嶋神社で8日、針供養が行われた。 この日は朝から多くの女性 … 続きを読む →

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大阪城


今日は玉造口からの登城を目指します。

玉造口定番屋敷跡、江戸幕府にとって大阪は江戸に次ぐ最重要の城だった、大坂城には玉造口とほぼ反対側の京橋口の二か所に定番が設けられており役目は城の出入り口での守衛、城内警備が主な仕事だったようです。

南外堀、大阪城二の丸の南に位置する堀で、西が大手口、東が玉造口である。

石垣の総延長は約2キロメートル、堀の最大幅は約75メートルあり、寛永5年(1628)、徳川幕府による大坂城再築第3期工事により、豊臣時代大坂城の堀跡に改めて石垣が築造された。

幕府の命令によって動員された大名は肥前佐賀藩鍋島家・加賀金沢藩前田家・因幡鳥取藩池田家・筑前福岡藩黒田家など57家。

内側の石垣上には東から一番櫓から七番櫓まで七棟の隅櫓が建造された。
櫓は明治維新の大火により四番・五番・七番を失い、さらに第二次大戦の空襲により二番・三番を失って、現在は一番櫓と六番櫓だけが残る。

大阪城には四つの出入口があります。
その内の一つが青屋口です。
そこの桝形にある門が青屋門と呼ばれています。

2度焼失しており、明治時代に陸軍が、昭和になり大阪市が再建しています。

青屋門と言う名前は、戦国時代の石山本願寺の青屋町から来てますが、この「青屋」というのは、染物屋のことです。

またの名を「紺屋(こうや)」と呼ばれていました。
染物とは紺色に染めることから来ているのでしょう。

。青屋門から本丸に登城するには、本丸の北側にかかる極楽橋という橋を渡ります。

一説によるとこの橋は、大坂本願寺時代、豊臣期大坂城の時代にも存在しており、現在の大阪城でもその名称が引き継がれています。

秀頼、淀殿ら自刃の地

前年の大坂冬の陣の講和で堀が埋められてしまった大阪城は、野戦での奮戦も虚しく、慶長20年(1615年)5月8日に落城する。

前日の7日に大勢が決し、大阪城内は内応者による放火が始まり、火事場泥棒の如く裏切る浪人も多数現れた。
城主である豊臣秀頼をはじめ、生母の淀殿、恩顧の武将や女房など約30名は難を逃れ、徳川家康の孫である妻の千姫による助命嘆願が聞き届けられるのを待つことになる。

潜んだ場所は、天守閣の北にあたる山里曲輪にある隅矢倉であったと伝えられる。

しかし助命は叶わず、隅矢倉に立て籠もった者は火を放ってことごとく自害して果てたのであった。

ただ全てが灰燼に帰したため、遺体はあったものの誰であるかは分からない状態であったとされる。

秀頼については、吉光の短刀のそばに首のない遺体があり、短刀が秀吉から秀頼に与えられたものであったために、それが本人であると確認されたという。

山里丸石垣の機銃掃射痕

山里口出桝形

隠し曲輪の入り口。
何の表示も無いので、ほとんどの観光客はここを素通りしていきます。

この奥に広場があるとは、誰も気付きません。

姫門を出て西へ行くと南北に長い帯曲輪に出ます。

「隠し曲輪」と呼ばれ、城が攻められた時に兵士を隠しておく曲輪とされています。

隠し曲輪と言われるだけあってここに曲輪があることは分かりづらく、本丸に人があふれている時でも、落ち着いて大阪城を感じることができる場所ともいえます。

「隠し曲輪」の石垣構築工事を担当した伊予大洲藩、丹波園部藩の刻印石が多くみられます。

天守東側を堀に沿って歩く、ミライザ(前の大阪市立博物館。旧第四師団司令部庁舎)の裏手。

前面に何か祭祀の場所のようなものがある。

馬印櫓は3層の櫓であったが、明治維新の折に焼失した。

解説板によると此処にあった櫓には、家康が大坂の陣で用いたという馬印が納められていたということです。

大坂城代は、この馬印を拝するのを例とし幕末に大坂城を訪れた14代将軍家茂もこの櫓で馬印を拝覧したそうです。

右先方は梅園。

今日は違うアングルから天守を。

桜門桝形の巨石 蛸石と振袖石。

桜門

西側から見た空堀

南仕切り門跡・太鼓櫓跡、前方は石山本願寺推定地。

大手口桝形と巨石

独古組み(どっこぐみ)

こちらは大阪城の追手門に使われている継ぎ手を再現したもの。
当時は継いだ状態からは内部構造がどうなっているか不明で、X線による解析で内部構造が分かったそうです。
縦にも横にも動かない、とても難解な組木です。

大手門からの堀。

大手門

生玉神社御旅所跡

南外堀の石垣の高さは大阪城で2番目となっていて、堀の幅も広いので雄大な外堀の景色を楽しめます。

築城技術が全盛で、さらに南外堀は築城の最終段階でつくられたこともあるので 石垣の石組の完成度が非常に高くなっています 

二番櫓、三番櫓、四番櫓、五番櫓、七番櫓は第二次世界大戦の空襲と戊辰戦争の大火により焼失しています。現存しているのは一番櫓と六番櫓のみ。

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彦根城


彦根城築城は、将軍徳川家康公の命により佐和山城を一掃するため、慶長9年(1604)より着工された。

当初は湖畔の磯山を予定していたといわれていますが、直継の代になって現在の彦根山に決定し、20年の歳月をかけて築城された。

画像は中堀から二の丸佐和山口多門櫓、天守を望む。

二の丸佐和山口多聞櫓

いろは松から彦根城を訪れる時、最初に出逢う櫓。
左手に見える櫓は明和8年(1771年)に再建されたもの。
現在、重要文化財に指定されています。

佐和山口多聞櫓の上や下に多くのサギや鵜。

多聞櫓は長屋のような形が特徴的な櫓の一種で、「多聞」の名は戦国武将松永久秀の多聞城(奈良市)で初めて築かれたことに由来すると伝えています。

佐和口の多聞櫓は、佐和口の桝形を囲むように二度曲折する長屋となっています。

二季咲桜

内堀沿い、金亀児童公園内にあるこの桜は春(4月〜5月)と冬(11月〜1月)の2回開花する珍しい桜。
昭和47年4月に水戸市より寄贈された。

玄宮園から天守を望む。

琵琶湖や中国の瀟湘(しょうしょう)八景にちなんで選ばれた近江八景を模してつくられた。
4代藩主直興により延宝5年(1677年)に造営。

臨池閣の一部。

楽々園、槻(けやき)御殿は藩主の下屋敷で、玄宮楽々園の名で国の名勝に指定されている。

四代藩主直興が延宝5(1677)年に造営。
大書院、地震の間、雷の間、楽々の間など、工夫を凝らした部屋が残っています。

茶座敷(地震の間)
城主である井伊家は文化9(1812)年、11代藩主の直中(なおなか)が隠居するにあたり、下屋敷の大規模な増改築を行った。
その際、ここに「地震の間(ま)」が設けられた。

200年前前にいわば免震構造のような形になっているのです。

黒門跡。

黒門山道を西の丸目指して登ります。

見事な高石垣です。

今回も逆からの登城です。

彦根城は、明治に解体の危機にみまわれました。
しかし、今も往時の面影が今日によく残っているのは、明治天皇が明治11年10月、北陸巡幸を終え、彦根を通られたときに、保存するようにと大命を下されたからでした。

一説には、随行した参議大隈重信がその消失を惜しみ、天皇に奉上したとする説。

また一説には、天皇が近江町長沢の福田寺で小休止されたとき、住持攝専(せっせん)夫人で、天皇の従妹(いとこ)にあたるかね子が奉上したとも言われています。

今朝降った雪が残っています。

近世の城で天守が残っているのは、弘前、松本、犬山、丸岡、彦根、姫路、備中松山、松江、丸亀、松山、宇和島、高知の12城。

このうち、松本、犬山、彦根、姫路、松江の5城の天守は国宝です。

現存天守の記事を見る

佐和山城跡を望む。

徳川四天王の一人・井伊直政は、1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いの後、その軍功により18万石にて近江国北東部に封ぜられ、西軍指揮官・石田三成の居城であった佐和山城に入城した。

佐和山城は「三成に過ぎたるものが二つあり、島の左近に佐和山の城」と言われるほどの名城であったが、直政は、中世的な古い縄張りや三成の居城であったことを嫌ったという。

彦根城の建築物には、近江の名族京極高次が城主を務めた大津城からの天守を始め、佐和山城から佐和口多門櫓(非現存)と太鼓櫓門、小谷城から西ノ丸三重櫓、観音寺城からや、どこのものかは不明とされているが太鼓門、などの移築伝承が多くある。

多景島

竹生島

国宝彦根城天守は北西に附櫓(つけやぐら)が、さらに長い多聞櫓が連なります。

また、破風は変化の妙に富んでいます。

天守一層目の軒に並ぶ八つの「へ」の字形の切妻破風は、それぞれの大きさと奥行きに変化をもたせ、二層目は、南北を切妻破風、東西を入母屋破風とし、南北にが唐破風が設けられています。

太鼓門櫓の内部。

太鼓門櫓から西の丸三重櫓を望む。

本丸の西側一帯を西の丸と呼び、その西の丸の一番はずれにあるのが三重櫓です。
10m以上にも及ぶ高い石垣の上に築かれています。

三重櫓の東側一帯は桜が植えられ、春にはお花見のスポットとして賑わいます。

本丸への最後の関門である太鼓門櫓は、東側の壁が無く、柱の間に高欄をつけ廊下にしています。

登城合図用の太鼓の音を響かせるために考えられたのではないかといわれています。

太鼓門櫓を過ぎると、正面に天守が現れます。

時報鐘の前に立ち、右に太鼓門を見ながら仰ぐ天守雄姿は格別です。

佐和山城を嫌った直政は琵琶湖岸に近い磯山(現在の米原市磯)に居城を移すことを計画していたが、関ヶ原の戦傷が癒えず、1602年(慶長7年)に死去した。

家督を継いだ井伊直継が幼少であったため、直政の遺臣である家老の木俣守勝が徳川家康と相談して直政の遺志を継ぎ、1603年(慶長8年)琵琶湖に面した彦根山(別名、金亀山)に彦根城の築城を開始した。

時報鐘、城全体に響くようにと『鐘の丸』より移されたもので、今も定時に鐘がつかれ「日本の音風景百選」に選ばれています。

幕末期12代藩主直亮の時に、より美しい音色にしようと鋳造のさい大量の小判が投入されました。



天秤櫓の上から表門山道を下る人々。

天秤櫓、表門から坂を上がって行くと廊下橋(非常時には落とし橋となる)が見えます。

この橋を中央として左右対称に建てられているのが天秤櫓です。
まるで天秤のような形をしているところから天秤櫓と呼ばれています。

1854年(安政元年)に天秤櫓の大修理が行われ、その際、石垣の半分が積み直された。

現存例の少ない築城の技法である「登り石垣」が良好な形で保存されている。
向かって右手が築城当初からの「牛蒡積み」、左手が新たに積み直された「落し積み」の石垣である。

私は大手山道を下ります。

梅林、かつて、彦根城の公儀御用米の米蔵があった場所。

例年は、3月中旬から下旬にかけて、紅梅・白梅など約450本が春の訪れを告げます。

大手門橋跡る。

振り返って大手門跡を見る。

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車窓


寒波到来、雪景色の彦根城でもと思いたち電車に飛び乗った。
京都を過ぎるあたりの車窓からのうす雪の様子、いいですね。

車窓の雪景色を楽しみながら思いをはせる。

瀬田川を渡ります。

草津のあたりではなかなかの雪景色。

ちらほらと雪も降ってきました。

雪の近江路、然し段々と雪も少なくなり空も晴れてきたではありませんか。
結局目的地彦根では雪なし。

ま、車窓で楽しめただけでも良しとしよう。
車窓からの撮影で映り込みがありますがご勘弁を。

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マクロの世界


住まいのミュージアム「大阪くらしの今昔館」は2001年4月に開館。

ここは「住まいの歴史と文化」をテーマにした、日本で初めての專門ミュージアムです。

住まい情報センターのビルの9階「なにわ町家の歳時記」は、江戸時代のフロア。
天保初年(1830年代前半)の大坂の町並みを実物大で復元しています。

8階「モダン大阪パノラマ遊覧」は、明治・大正・昭和のフロアで近代大阪の住まいと暮らしを模型や資料で展示。

「モダン大阪パノラマ遊覧」は住まいの近代化と市民生活の諸相を精巧な模型で紹介。

ここがまさにマクロの練習にぴったりの場所だ。

どの位置から、どの人形を主役にするのか。

絞り開放での被写界深度の浅さをどう活かすのか。

ポジションの微妙な変化で写真は大きく変わってしまう。

今日はここでトレーニングした後、大阪城梅園に向かった。

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大阪城梅園


大阪城梅園、ただいま六分から7分咲かといったところ。

梅園といえば普通山間部を連想しますが、ここでは京橋の高層ビル群をバックに梅を見るのも何ともいえない風景。

普通には梅の萼は赤い色。
緑萼梅は萼が緑色、梅としては珍種の部類です。

当梅林は、大阪府立北野高校の卒業生(六稜同窓会)が開校100周年事業として、22品種、880本を大阪市に寄付した事で、昭和49年3月に開園となりました。

現在では97品種1240本を数える規模になっており、品種の豊富さでは関西随一の梅園となっている。

緋の司 (ひのつかさ)、普通咲きの中では比較的早く咲き始めます。

八重咲きの枝垂れ梅『呉服枝垂』、この花は枝垂れ梅の中でも主要品種のひとつとして数えられる、クレハシダレ(ゴフクシダレ)です。

実梅の代表種の一つ。
大阪城 梅林内にも約180本の白加賀が植えられています。

その名前から加賀の国(石川県)の原産みたいに見えますが、神奈川県旧加賀村で発見された品種です。

また、大阪管区気象台が定める大阪府の梅の標本木として、大阪城 梅林内の白加賀が採用されています。

梅の原産地は中国であり、奈良時代以前に、遣隋使や遣唐使によって日本にもたらされたと言われています。

梅園が一番きれいなのは、2月中旬から3月上旬、これからが本番。

天守閣をバックに、一番のポジションかな。

蝋梅(ろうばい)もちらほらと一緒に咲いています。

天守台からの眺望、こちらもなかなかのポジションです。

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節分祭 あびこ観音


通称あびこ観音。
山門付近の石柱は吾彦観音寺の表記となっている。
あびこの名は、この地の豪族、依網吾彦(よさみのあびこ)に由来するといわれる。

百済と交易をしていた依網吾彦の一族が百済の聖明王から一寸八分の観音像を贈られ、欽明天皇7年(546年)にこの地の人々がその像を祀る堂を立てた。

そして、推古天皇14年(607年)に聖徳太子がその観音像を祀る観音寺を建立したとされる。

1615年(元和元年)大阪夏の陣の折、真田幸村に追われた徳川家康はこの寺に逃げ込み、本堂の須弥壇に隠れ、難を逃れたとのことで、その後家康の寄進により、再建した。江戸時代には、徳川家の帰依もあり、境内に36の支院があったといわれ隆盛をきわめた。

巨樹の楠、幹周/4. 8m、樹高/19. 5m、樹齢/約700年。

池には見事なコイが泳ぐ。

本堂の周りには、本堂を囲むように33体の観音像が並んでいます。

節分のときには線香の量が多すぎて炎があがっている。

線香と護摩祈祷の煙が境内に立ち込める。

1月・2月に行われる護摩祈祷がよく知られている。
修験道形式の天蓋護摩(てんがいごま)で、奉書などで作られた紙製の天蓋を護摩炉の上に吊す。

天蓋は護摩炉の炎が近くに至っても燃えないという。

1月・2月に護摩堂で行われる護摩祈祷は、申し込み者の御祈祷への立ち会いは可能。

御祈祷の後、御祈祷を受けた御札を手渡される。

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