京都迎賓館 正面玄関


京都迎賓館は、1994年(平成6年)10月に「国立京都迎賓館」として、その建設が閣議決定され、2005年(平成17年)4月17日に開館した。

内閣府のサイトの公式説明によると、京都迎賓館というのは、日本の歴史や文化を象徴する都市である京都において、海外からの賓客を心をこめてお迎えし、日本への理解と友好を深めていただくことを目的に建設された、という。

場所としては、江戸時代に園家・柳原家・櫛笥家など、複数の公家の邸宅が建っていた京都御苑の敷地の北東部に建設された。

正面玄関の扉には、樹齢700年の福井県産の欅(けやき)の一枚板を使用しています。

引手は銅製で、京都の組紐をモチーフにして絆の意を込めたシンプルなデザインの「有線七宝(ゆうせんしっぽう)」が施されています。

福井産の木は、直径二メートルを超える巨木だったという。

伐採後、三十年ほど眠っていた。

ゆっくりじっくり乾燥した木。
京都迎賓館の設計を担当した日建設計理事佐藤義信さん(五七)は「二つとある木ではない。出会いがすべて」と振り返る。

木目を生かすため、板には何も細工をしていない。
取り付けた最初は、全体が黄色っぽく、むらもあった。

「バタバタした木」と表現する人もいたが「木を知っている者は何も心配しなかった」と佐藤さん。
 
一年半過ぎて、扉は変わった。
色が落ち着き、木目は際立ってきた。
これからまだ変わる、という。時の流れが楽しみになってくる。

天井には吉野杉が用いられ、舟底形の天井になっています。

前方に見えるのが正門。

見学者は西門からはいります。

床板には欅(けやき)材を使用し、特殊な加工を床板に施すことによって、傷がつきにくくなっています。

カーテンは一切使用せず、窓などの内側は障子としています。

池が見えています。

正面玄関で靴からスリッパに履き替えましたが、国公賓客はそのまま靴で歩けるようにと、廊下の板には特殊加工がされているそうです。

賓客はそのまま靴で歩きますが、見学者には厳しいのです、柱に少し触れたら注意されますし、撮影時に膝をついたらだめといわれた。

「折り紙」をイメージした行灯

行灯は本美濃紙を使用し、鉄や釘を一切使わない伝統的技法である京指物で組まれています。

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奈良県立民俗博物館


博物館の周囲に広がる大和民俗公園は、26.6万平方メートルの広大な敷地を有する都市公園で、自然との共生の場、里山も保持している。

梅林や菖蒲園で四季折々の草花を眺めたり、森林浴ウォーキングなども楽しめる。

奈良県内各所で江戸時代に建てられ実際に使われていた茅葺き屋根などの様々な建築様式の家屋(民家・土蔵)11件(15棟)を公園内に移築・展示している。

うち、2件(3棟)が日本国の重要文化財、7件(10棟)が奈良県指定有形文化財となっている。

こちらは唐箕(とうみ)。

風のチカラで穀物の実と、秕(しいな)・籾殻(もみがら)を吹き分ける農具です。

秕(しいな)とは、空ばかりで中身の無い籾(もみ)のことを言います。

必要なものと不要なものを選別する道具というわけですが、お米の国に生まれていながら唐箕のことを知らない人も多いのではないでしょうか。

水車を踏む風景。

奈良盆地のあちこちで、このような風景が見られた。

足踏脱穀機

足踏式脱穀機は、人が踏板を踏むとこぎ胴が自動的に連続回転するように工夫されていた。

その後、こぎ胴を発動機(ガソリンエンジン)や電動機(モーター)で回転させる脱穀機が登場し、脱穀作業の能率は飛躍的に高まった。

千歯扱き、千把扱き(せんばこき、せんばごき、せんばこぎ、せんばすごき)

木製の台に付属した足置きを踏んで体重で固定し、櫛状の歯の部分に刈り取った後に乾燥した稲や麦の束を振りかぶって叩きつけ、引いて梳き取る。

稲の場合にはこれで穂から籾が落ちるので、脱穀が完了する。

麦の場合には穂が首から折れて穂のまま落ちるので、これをさらに叩いて脱穀する。

山仕事、過酷で危険な重労働でした。

都市生活者はこのような光景を目にしたこともないのでは。

木馬(きんま)出し(ソリで運ぶ)。

割り木をならべた木馬道の上に、ソリをすべらせ、木を山からおろす。

木馬は枕木と摩擦して火を発することがあるので、木馬師は前に吊るした筒の中の油を枕木に塗りつつ、舵を取っていく。
なかなか重労働で、危険な作業。

こちらは筏流しの様子。

木で筏を組んで川に流します。
山があればそこには川があります。

川も重要な輸送経路であった。

機織りの様子。
日本昔ばなしでなじみがあるかも。

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黒衣の宰相と呼ばれた金地院崇伝ゆかりの 金地院


金地院(こんちいん)は京都府京都市左京区にある臨済宗南禅寺派の寺院。
小堀遠州作の庭が国の特別名勝に指定されている。

南禅寺の塔頭の1つで、江戸幕府の法律外交を担った僧・以心崇伝が住したことで知られる。

先ず明智門をくぐる。

「金地院」には6つの門がありますが、拝観窓口のすぐ左にある小さめの唐門が「明智門」。

その名の通り明智光秀ゆかりの門で、光秀が母の菩提を弔うために同じ京都にある名刹、「大徳寺」に建立したものですが、明治になってここ「金地院」に移築された。

水連に半夏生が見頃。

苔が見事。




楼門、外部の通路より。

楼門から東照宮への回遊路を望む。

東照宮への回遊路。

東照宮

日本全国には約130もの東照宮が残存するといわれていますが、その中でも徳川家康の遺言に残された3ヶ所の有名な東照宮があります。

本宮である日光東照宮、御遺体が祀られてある久能山東照宮、そして遺髪と持念仏が祀られている金地院東照宮です。

東照宮としての歴史も縁もとても深いのが金地院東照宮です。

軒下に懸け仏。神式建物に懸け仏、どういう意味が込められているのでしょう。


重要文化財。
小堀遠州の作。徳川家康の遺言で建てられ家康の遺髪と念持仏を祀っている。

幕府の公式記録である『徳川実紀』によれば、家康は元和2年(1616年)4月2日、側近の以心崇伝、南光坊天海、本多正純を召し、「(遺体は)久能山に納め奉り、御法会は江戸増上寺にて行はれ、霊牌は三州大樹寺に置れ、御周忌終て後下野の国日光山へ小堂を営造して祭奠すべし。

京都には南禅寺中金地院へ小堂をいとなみ、所司代はじめ武家の輩進拝せしむべし」と遺言したという。

江戸期には京都所司代の番所が置かれ、創建当初は日光東照宮と比されていた。

拝殿天井の鳴龍は狩野探幽の筆。

36歌仙の額は土佐光起の筆である。


崇伝像(開山堂)

開山堂内。正面に後水尾天皇の勅額、左右に十六羅漢像が安置され、奥中央に崇伝像が祀られています。

鶴亀の庭 (特別名勝金地院庭園)

崇伝が徳川家光のために作らせ、作庭には小堀遠州が当たった(遠州作と伝えられる庭は多いが、資料が残っている唯一の例)。
庭師は賢庭と伝わる。

本堂(大方丈)は重要文化財。
桁行11間、梁間7間の大規模な建物であるが、平面形式は禅院方丈に典型的な六間取りである。

すなわち前列中央が「室中」、その奥が本尊地蔵菩薩像を安置する「仏間」。

西側は奥が「富貴の間」(衣鉢の間)、その手前が「次の間」(檀那の間)、東側は手前が「鶴の間」(礼の間)、奥が「菊の間」(書院の間)となる。

亀島に視点を移す。

こちらも鶴島と同様に築山に石を組み亀島を表現。

特に築山に植えられたヒノキ科の真柏(しんぱく)が趣ある。
幹が朽ち果て白骨化した舎利(しゃり)となり、まるで盆栽のようだ。

作庭当初からこのような姿だったといわれている。

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南禅寺水路閣


南禅寺の建立以前、この地には、後嵯峨天皇が文永元年(1264年)に造営した離宮の禅林寺殿(ぜんりんじどの)があった。

「禅林寺殿」の名は、南禅寺の北に現存する浄土宗西山禅林寺派総本山の禅林寺(永観堂)に由来する。
この離宮は「上の御所」と「下の御所」に分かれ、うち「上の御所」に建設された持仏堂を「南禅院」と称した。

現存する南禅寺の別院・南禅院はその後身である。

亀山上皇は正応2年(1289年)、40歳の時に落飾(出家)して法皇となった。

2年後の正応4年(1291年)、法皇は禅林寺殿を寺にあらため、当時80歳の無関普門を開山として、これを龍安山禅林禅寺と名づけた。

伝承によれば、この頃禅林寺殿に夜な夜な妖怪変化が出没して亀山法皇やお付きの官人たちを悩ませたが、無関普門が弟子を引き連れて禅林寺殿に入り、静かに座禅をしただけで妖怪変化は退散したので、亀山法皇は無関を開山に請じたという。

文明開化から間もない1888(明治21)年に作られた、全長93.2m、高さ9mのアーチ型橋脚の水道橋です

レンガ・花崗岩造のレトロな風貌が、禅寺の和の雰囲気と周囲の自然を引き立てます。一説には、ローマの水道橋をモデルに作られたとも。

疏水の目的は大阪湾と琵琶湖間の通船や水車動力による紡績業、潅漑用水、防火用水などであった。

ところが水力発電の有利性が注目されるようになり、1889年に蹴上に発電所が建設され、91年には送電を開始した。

また水力発電の増強と水道用水確保のため、1908年に第2疎水の工事が、始まり、1912年に完成している。

同時期に蹴上浄水場が建設され、現在は上水道の水源として利用されている。

当初計画では水路は山の中を通るはずであった。

トンネル工事も特段難工事でもなく、計画は順調に進んでいた。

ところが着工直前、計画部分に亀山天皇の分骨場がある事が判明し、宮内庁からストップがかかった。

そこで、急遽浮上したのが現在のコース。
当時建設場所は今より谷が深かったという。

その谷を少し埋め戻し、更にローマの水道よろしく橋をかけ水路としたわけだ。

関係者の話によると、三井寺、南禅寺と京都市(当初は京都府)との争いは裁判に持ち込まれ、三井寺とは8年前にやっと話し合いが成立したそうだ。

さらに、南禅寺側に立った福沢諭吉は「南禅寺は京都にとって重要な観光資源。
その境内に水道橋を通すとは正気の沙汰では無い。 

末代の恥。
さらに京都の伝統産業にとって疏水がどれほどの役に立つか」と反対したという。

撮影スポットとしては、この場所が人気です。

レンタル着物を着た女性たちがこの風景に入りこむと大正時代? のようなノスタルジックな風景に。

特に秋の紅葉の時期が人気で、秋には大混雑になります。

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日本初の路面電車は「京都」琵琶湖疎水記念館


京都の偉大な産業遺産である「琵琶湖疏水」は、大津市観音寺から京都市伏見区堀詰町までの全長約20kmの「第1疏水」、全線トンネルで第1疏水の北側を並行する全長約7.4kmの「第2疏水」、京都市左京区の蹴上付近から分岐し北白川に至る全長約3.3kmの「疏水分線」などから構成され、今も現役で活躍している施設です。

そもそも「琵琶湖疏水」とは、琵琶湖の水を京都に引き込む人工の水路のこと。

明治18(1885)年に着工し、明治23(1890)年に完成を迎えた。

明治維新で首都を東京に遷されたことにより、衰退の一途をたどっていた京都。

活気を呼び戻すためには、近代化が不可欠だった。

そこで持ち上がったのが、琵琶湖疏水の建設計画。

滋賀・京都・大阪を水路でつなぐことによって流通を活発化し、水力で発電して工場や家庭に電気を供給することが主たる目的だった。

疏水の全長は約8.4km。第一トンネルは約2.4kmで、当時としては日本一の長さだった。

この大規模な工事を、ほとんど機械を使わずに人力で行ったのだという。

当時はすべて手作業、苦難の工事の様子が壁画に残されている。

大正時代を再現したジオラマ、疏水の用途がわかる。

インクライン下端の船溜(ふなだまり)。
琵琶湖疏水記念館、旧インクライン機械室、噴水、白川合流点など、疏水関連の見所がいっぱい。

中央にある噴水は、琵琶湖疏水の高低差による水圧だけで噴き上がるナチュラル噴水。

電気などの動力を必要とせず、昼夜を問わず動き続けています。

船を運ぶ鉄道「蹴上インクライン」を操作していたドラム工場。

琵琶湖疏水記念館の隣にあり、同館の改装オープンに合わせて公開が始まった。

ペルトン式水車、スタンレー式発電機。

蹴上インクラインは蹴上船溜りと現在の琵琶湖疏水記念館前の南禅寺船溜りを結ぶ延長640メートル、敷地幅22メートル、勾配15分の1の路線で、運転用の巻き上げ機は蹴上発電所の電力で運転した。

通過時間は10分から15分だった。

インクラインの春は桜が見事。
桜満開 蹴上の春
地下鉄東西線蹴上駅から地上に出ると、まず目に入ってくるのがインクライン跡の緩やか … 続きを読む →


現場には復元された台車が2台(坂の途中と、蹴上船溜り)残されている。
1996年(平成8年)には国の史跡に指定された。

巨大な送水管。

田辺朔郎は、田辺孫次郎の長男として生まれました。

工部大学校を卒業、その後土木工学者となります。

琵琶湖疏水工事を担当。
日本で最初の水力発電事業を起こしました。

その後、。北海道官設鉄道敷設部長として北海道の幹線鉄道開発に着手します。

日本の近代土木工学の礎を築いた人物です。

ねじりまんぽ

このトンネルの壁は螺旋状にねじれている。
まるで奥へ渦を巻いているかのように。

中へ入った瞬間、引き込まれるような感覚になるのはこのねじれのせいだったのか。

このねじれは、斜めに積み上げられたレンガによるもの。
耐久性を上げるために斜めに積み上げられている。

トンネルの入口上部には、第3代京都府知事だった北垣国道が書いた扁額があります。

三条通り側には「見事な眺めと優れた考え」という意味の【雄観奇想(ゆうかんきそう)】の言葉が。

南禅寺側には「精神を集中して物事を行えば、どんな困難にも打ち勝てる」という意味の【陽気発処(ようきはっするところ)】という言葉があります。

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古民家を訪ねて 十津川村の民家 旧木村家住宅(県指定文化財)


吉野郡十津川村大字旭字迫に所在していた山間の家で、農林業を営み、幕末頃には村役を務めたと伝えられている。

屋敷は狭い谷間の山腹を削って作られ、主屋をはじめ表門、納屋、物置の付属屋から構成されています。

主屋は棟札から文政4(1821)年に建てられたことがわかっています。

桁行12.5メートル、梁間7.3メートルの切妻平入の構造で、屋根は杉皮葺です。内部は「だいどころ」、「でい」、「なんど」、「ひろえん」などに分かれています。

この家が所在した当地は「迫と背中は見ずに死ぬ」言いならわされたほど山深い峡谷の地である。

また、全国でも最多降雨の一地帯であり、さらに季節によって、風が谷間から猛烈に吹上げる土地柄でもある。

その様な厳しい自然環境のため、県北部の民家とは姿や間取りが大きく異なっている。

主屋の建築当初の規模(間口4間、面積16.5坪)から増築をへて、さらに納屋・表門が建てられ、屋敷構えが拡充してきた過程も併せ示す好資料である。

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古民家を訪ねて 吉野の民家 旧前坊家住宅(県指定文化財)


吉野山の門前町筋にあって金峯山寺仁王門と発心門(銅鳥居)のほぼ中程、大道を北面して屋敷を構え、代々吉野水分神社の神官を勤めたと伝える家である。

建物の建築年代は、主屋(切妻造、一部二階建)、渡廊下及び離座敷の建築年代を示す資料は明かではないが、解体中の各種の部材調査から総合的に判断すれば、主屋の居室、表側四室の柱が経年的にみて18世紀中頃であり、また転入材もあるところから弘化年間(1844~7年)頃に主屋大修理・改造を行ない順次、渡廊下及び離座敷を建てたものと思われる。

屋敷構えは、主屋を道路に面して建て、後方に離れ座敷を配し、この間を渡廊下で接続しています。

主屋は桁行13.9メートル、梁間9.3メートル、切妻造、一部二階建、杉皮葺の構造です。

参道が尾根筋に当たるため、敷地後方に行くにつれて建物の床高が高くなる「吉野建」(懸造)の形態をとります。建物は19世紀中頃に建てられたと考えられる。

屋根の老朽化で見学は中断されており残念。

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「恋の寺」六角堂と京のヘソ石


頂法寺は、京都市中京区堂之前町にある天台宗系単立の仏教寺院。
山号は紫雲山。

本尊は如意輪観音(秘仏)。
西国三十三所第十八番札所。

敏達天皇の時代、淡路国岩屋浦に閻浮檀金(えんぶだんごん、黄金の意)の如意輪観音像が漂着した。

この像は、聖徳太子が前世に唐土にあって仏道修行していた時に信仰していた像であり、太子はこの観音像を念持仏とした。

これが後の頂法寺本尊。

太子は16歳のとき、排仏派の物部守屋討伐にあたって、護持仏に「無事討伐できたならば、仏の功徳に感謝して四天王寺を建立いたします」と戦勝祈願したところ勝利した。

そして、寺建立のための用材を求め、小野妹子とともにこの地を訪れた。

その際、太子は池で水浴をするため、傍らの木の枝の間に持仏の如意輪観音像を置いておいたところ、像は重くなり動かなくなってしまった。

観音像は光明を発し、自分は七生にわたって太子を守護してきたが、今後はこの地にとどまり衆生を済度したいと告げた。

そこで太子は、四神相応のこの地に伽藍を建てることとした。

六角堂の創建は縁起類では飛鳥時代とされているが、1974年から翌年にかけて実施された発掘調査の結果、飛鳥時代の遺構は検出されず、実際の創建は10世紀後半頃と推定されている。

六角堂が史料に現れるのは11世紀初め。

藤原道長の日記『御堂関白記』寛仁元年(1017年)3月21日条に、「六角小路」という地名が見えるのが早い例である。

他にも『小右記』(藤原実資の日記)などに六角堂の名が見える。

『梁塵秘抄』所収の今様には「観音験(しるし)を見する寺」として、清水、石山、長谷(清水寺、石山寺、長谷寺)などとともに「間近く見ゆるは六角堂」とうたわれている。

こうしたことから、六角堂は平安時代後期には観音霊場として著名であったことがわかる。

鎌倉時代初期の建仁元年(1201年)、叡山の堂僧であった29歳の範宴(のちの親鸞)が、この六角堂に百日間参籠し、95日目の暁の夢中に聖徳太子の四句の偈文を得て、浄土宗の宗祖とされる法然の専修念仏に帰依したとされる。

正式の寺号は頂法寺(山号を冠して紫雲山頂法寺)であるが、本堂が平面六角形であることから、一般には「六角堂」の通称で知られる。華道、池坊の発祥の地としても知られる。

ヘソ石

『元亨釈書』によれば、平安京造営の際、六角堂が建設予定の街路の中央にあたり邪魔なため取り壊されそうになったが、その時黒雲が現れ、堂は自ら北方へ約5丈(約15メートル)動いたという。

この六角堂に恋の伝説があった。

平安時代初期のこと。
妃を探していた嵯峨天皇はある夜、不思議な夢を見た。
如意輪観音が現れ、「六角堂の柳の下を見てみなさい」と告げた。

さっそく帝が六角堂に人を遣わすと、境内の柳の下にこの世の人とは思えないほど美しく、良い匂いのする女性が立っていた。
この時代は良い香りがする女性が、美人の条件の一つだった。

天皇はその女性を妃に迎え、寵愛したという。

その伝説から、「六角堂の柳に願をかけると良縁に恵まれる」とか「恋が成就する」といった噂が広まり、縁結びや恋が叶う場所として信仰されるようになった。

本堂前の柳の枝におみくじが結んであるのをよく見かける。

2本の柳の枝をひとつにし、おみくじを結んでおくと縁結びの御利益があるようだ。

早咲き六角堂の御幸桜
頂法寺は、天台宗系単立の仏教寺院。 山号は紫雲山。本尊は如意輪観音(秘仏)。 西 … 続きを読む →

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京都芸術センター


京都芸術センターは、京都市の中心部にある芸術振興の拠点施設。

明治に京都の町衆たちの力でできた明倫小学校が廃校になったあと、その跡地と校舎を利用して、アートスペースをつくったもの。

京都市における芸術の総合的な振興を目指し、平成12 年に開館いたした。

ギャラリー、公演会場、制作室などを併設する複合文化施設。

展覧会や公演以外にも、図書室、情報コーナー、談話室、カフェなどご利用できる施設がある。

戦前の番組小学校の特徴をそのまま残しており、自由な芸術活動を行えるよう配慮しつつ、外観や大広間、講堂や教室、廊下など、既存の施設をできる限り生かした改修がされている。

平成20年には登録有形文化財として登録。
特に、学校の中に和室がある点は非常にユニーク。

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瓢箪山稲荷神社


創建は天正11年(1584年)。
豊臣秀吉が大坂城築城にあたり、巽の方(大坂城の南東)三里の地に鎮護神として伏見桃山城から「ふくべ稲荷」を勧請したことが由緒とされる。

現在の本殿は、慶応2年(1866年)に建てられたものである。

瓢箪山稲荷神社という社名の由来は、稲荷神の祀られている古墳が瓢箪の形をしているからです。

円墳を横に二つ連ねた「双円墳」と呼ばれるタイプの古墳だそうです。

たしかに、瓢箪のようなかたちです。

全長は五〇メートル、高さ四メートルで、六世紀の前半の造営。横穴式の石室があり、かつては狐が住んでいたとも伝えられています。

本殿、拝殿は瓢箪形の古墳のすぐそばにあり、拝殿に立つと、古墳そのものを拝むことになります。

まるで、古墳がご神体のようです。

日本三稲荷(諸説あり)の一つであり、辻占総本社である。
祭神は若宇迦乃賣命(保食神)ほか。

江戸時代から近くの東高野街道において辻占いの風習があったが、明治時代初めごろに宮司が「辻占」を創始し、「淡路島かよふ千鳥の河内ひょうたん山恋の辻占」として日本全国に知られるようになった。

同神社の由緒などをまとめた「瓢たん山栞」には、豊臣秀吉との関わりをこう記しています。

「その昔、天正十一年二月、秀吉公が大坂築城に当たり、『巽の方三里の外に稲荷大神を勧請し家宝を納めて鎮護神とする』といふ古式に則り、侍臣片桐且元をして鬼塚、大塚の古墳に金瓢を埋めて瓢型の聖地を整へ、伏見稲荷よりふくべ稲荷を勧請し、(中略)瓢箪山稲荷と号して尊崇殊に厚かりし(後略)」

この地域は山畑古墳群と呼ばれる古墳の一大集積地。

大坂城築城のとき、秀吉がこのあたりの古墳から、石垣用の石を運び出させたことを示す古文書がのこっています。





眷属は白狐で、ここにも飛狐が祀られていた。

白狐に乗った荼枳尼天(ダーキニー)。

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ヒンドゥー教、チベット仏教などが稲荷と習合し現在の形となった。

荼枳尼天が乗る 狐は「野干」と呼ばれ元はジャッカルのことのようだ。