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豪族額田部氏の氏寺 額安寺

額安寺(かくあんじ)は奈良県大和郡山市額田部寺町(ぬかたべてらまち)にある真言律宗の寺院。

山号は熊凝山(くまごりさん)。本尊は十一面観音。
寺名は「がくあんじ」ではなく「かくあんじ」と呼ばれている。

大和川と佐保川の合流地点付近に位置する。

飛鳥時代に聖徳太子の建立と伝えられ、大安寺の前身である熊凝精舎(くまごりしょうじゃ)跡ともいわれるが、実際にはこの地を本拠としていた豪族額田部(ぬかたべ)氏の氏寺として建立されたものと思われる。

天平19年(747年)の『大安寺伽藍縁起並流記資財帳』(だいあんじがらんえんぎならびにるきしざいちょう、国立歴史民俗博物館蔵)によれば、南都七大寺の1つである大安寺の前身は、聖徳太子が額田部の地に建立した熊凝精舎であって、これが後に移転と改称を繰り返した後、平城京の大安寺となったという。

しかし、熊凝精舎を大安寺の前身とする説は他に裏づけとなる史料がなく、疑問視されている。

大安寺の平城京移建に貢献した僧・道慈が額田部氏出身であることから、このような説が生じたのではないかとも言われる。

境内に足を踏み入れると宝篋印塔(大和郡山市指定文化財)が目を引く。

これは鎌倉時代の叡尊の弟子・慈真和尚が母のために作ったものと伝えられており、数年前まではお寺の南東にある池の島に立っていたそうだ。
記銘の残るものとしては日本で三番目に古い文応元年(1260年)のもの。

寺号の由来は、 推古天皇が額に瘍を病まれた際に、熊凝精舎の薬師如来に祈願されたところ、跡形もなく快く平癒されたことから「額安寺」の名を賜ったと伝えられている。

鎌倉時代、忍性上人により復興。

鎌倉時代に仏像修理などの復興活動を行ったのが忍性上人です。

額安寺周辺の出身である忍性上人は、文殊菩薩を本尊とした社会的弱者の救済活動を行った人物で、今日においての社会福祉事業に貢献した僧として有名です。

南都七大寺の一つ西大寺に住み、奈良市の奈良坂に日本最古の救癲施設(ハンセン病患者救済施設)「北山十八間戸」を建て、「文殊を供養する人の前に、文殊は貧しく身寄りのない人に化して出現する」という考えのもと、物乞いに出られない重症の癲者を背負って町に出て、物乞いの手伝いをしたと言われています。

「北山十八間戸」は奈良を気ままに散策の記事の中で紹介しています。

また、額田王が歌の勉強をしたのがこの寺ということで、NHKの歴史秘話ヒストリアの取材があったそうです。

「ここには、額田王のものなんて何も残っていませんよ。」と言っても、取材にやってきたそうです。

おかげで、当寺と額田王との関係を知ることが出来たと言っておられました。

「文化庁が、奈良・額安寺所蔵の重要文化財「乾漆 虚空蔵菩薩半跏像」一軀を買い上げ、奈良国立博物館寄託と聞きました。

価格は約5億4千万円なり。?

額安寺を代表する美しい仏さまだったけど、お寺の維持にお金がかかるのかなあ。」

額安寺の近くには近くに推古神社があり、推古天皇の生前の実名は額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)と呼ばれ、額田部の地名が推古天皇と重なります。

推古天皇は頭脳明晰な人物で、聖徳太子が49歳で薨去した後も、自身が75歳で小墾田宮において崩御するまで、豪族の反感を買わぬように、巧みに王権の存続を図ったと言われています。

鎌倉五輪塔【重要文化財】

額安寺の北西にある石造五輪塔群で、この辺りは通称『鎌倉墓』とも言われています。

五輸塔は西側に東面して5基、北側に南面して3基が鍵の手に並んでおり、東端および南から4番目のものに永仁5年(=1297年)の銘があることから、鎌倉時代後期に造立されたものと思われます。

昭和五十七年の調査修復工事によって、第一塔が忍性菩薩、第二塔が善願上人の供養塔であることが確認され、忍性菩薩の墓から発掘された骨蔵器等は、中世の高僧の墓制を知る上で貴重な発見となりました。

中世の五輪塔がこれほど完全な形で残されているのは珍しいと言われています。

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額安寺へのアクセス、行き方歩き方

額安寺公式サイト

奈良県大和郡山市額田部寺町36

近鉄橿原線平端駅より徒歩約20分

石位寺 最古の石彫り三尊仏


大宇陀に向かう166号線は、外鎌(とがま)山と鳥見山に挟まれた峡谷に入って行く。
峡谷の入口から外鎌山の西麓を粟原川に沿って続いている集落がある。

桜井市大字忍阪である。この集落の中に、我が国の最古の石仏を安置していることで知られる石位寺がある。

収蔵庫に安置されている本尊は、白鳳時代に製作された薬師三尊であると伝えられている。
我が国に現存する最も古い石彫りの三尊仏で、国の重要文化財に指定されている。

三尊を刻んだ石版の大きさは、高さ1.15m、幅1.5m、底辺1.21m、厚さ約0.2mで、丸みをおびた砂岩製である。

石仏の願主は万葉歌人・額田王(ぬかたのおおきみ)だったとの伝承がある。
額田王の念持仏として作られ、もとは栗原寺(おおばらでら)にあったが、栗原川の氾濫で流されてきたというのだ。

栗原寺は、和銅8年(715)に比売朝臣額田(ひめあそんぬかた)によって川上の粟原集落に建立された寺だが、比売朝臣額田が額田王であるとする言い伝えが古くからある。

造型は、長谷寺の銅盤法華説相図中の三尊物とよく似ているという。

三尊とも薄い法衣を通して内部の肉体の起伏がよく現れており、布の質感も巧みに描かれています。
彩色されていたらしく、その痕跡が像の唇と着衣にわずかに残る美しい石仏です。

川端康成が 晩年 この石仏を一見しほのぼのとした暖かいものがある 美少女といった感じでもあろうかと言ったという。

≪南東部石碑群≫
4基の石碑は、右から3基は「西国三十三所巡礼供養碑」
 
西国三十三所観音霊場を供養した記念碑的要素が強いもの。

右より戦国末~江戸前期のもので法名を刻み、二つ目は江戸時代初期・正保4年(1647)で物故者供養、三つ目は寛文4年(1664)で俗名で構成されたもの。

これらの石碑は、もともと境内の北西隅にあったもので、昭和53年の建て直し時に移設されたもの。
 
左端の石碑は、庚申講衆碑で、大型ですが浅い梵字の形状、半肉彫りですが形骸化した蓮弁などから16世紀後半頃の戦国末から江戸前期のももと推定できます
 
これは昭和28年の国道165号線開通による現・庚申堂の移転に伴い、移設されたもの。

人家の屋根越しに舒明天皇押坂内陵(おさかのうちのみささぎ)が見える。

粟原川(忍坂川)の谷には非蘇我系皇族の忍坂王家の人々の墳墓と思われる古墳が数多く存在する。

被葬者別に 並べると、大伴皇女墓、段の塚古墳(舒明天皇陵)。鏡王女墓の三陵墓(但し鏡王女墓は現在は指定外)があり段の塚古墳は舒明天皇と、母の田村皇女の合葬の為4人の皇族が葬られています。

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石位寺へのアクセス、行き方歩き方

桜井市忍阪870
予約必要(予約先 桜井市役所観光まちづくり課 電話0744-42-9111)

JR・近鉄桜井駅南口から菟田町行きバス、「忍阪」バス停下車、徒歩2分

つるべすし弥助 『義経千本桜・鮨屋の段』

今日のお昼は 『義経千本桜・鮨屋の段』でお馴染みの「つるべすし弥助」、前回訪問時も訪れたが今回は少し詳しく報告します。

つるべすし弥助は、歌舞伎「義経千本桜鮨屋の段」の舞台となった料理店。
現存する鮨店では、最古のお店です。

なんと、文治年間(1185年〜1189年)に創業され、ゆうに800数十年の歴史。
京都の老舗でも中々無いほどの歴史を持つお店です。

風格ある佇まいのお店は昭和14年(1939年)に建造。
昭和初期に界隈で大火があり建て直したそうですが、それでも十分存在感があります。

創業800有余年、歌舞伎「義経千本桜」三段目「すし屋」の舞台となったつるべすし弥助は吉川英治や谷崎潤一郎などの文人のほか、美空ひばりや藤島桓夫やディック・ミネなどの歌手も訪れた老舗。

つるべすしとは酢でしめた鮎のお腹にすし飯を詰めたもので、それを入れていた桶の形が井戸水をくみ上げるつるべに似ていることがその名の由来。

戦前から続く風情ある佇まいの木造三階建、ベンガラの赤壁にせまる崖に見立てた山庭を三階の大広間から一望でき、贅沢なひと時が味わえます。

鮎料理を中心とした懐石料理や寿司定食、土産物に最適な鮎ずしも用意されています。

こちらのお店の伝統ある鮨とは、すなわち「釣瓶鮨」。
特徴的な姿の桶(釣瓶)に鮎と飯を入れて、棒に吊るして鮨にしたといいます。

詳細は、天然鮎を開き飯を抱かせ、釣瓶に竹の皮を敷いた後、二匹向い合せに丸い形状となるよう押し込み、三段重ねで蓋をして、籐でしっかり締めた上で、4~5日醗酵て作る生馴れ鮓とのことです。

弥助は、慶長年間に仙洞御所(上皇)に鮎鮨を調進した鮨屋でもある。
こちらのものは、釣瓶形曲桶に塩漬けした鮎と飯を漬け発酵させたナレズシで、「釣瓶ずし」と呼ばれた。

本来のナレズシは数年間発酵させるので、飯はどろどろに溶けて食べられなくなるが、弥助のナレズシは発酵に1ヶ月程度で、飯も食べられるナマナレ(生成)である。

しかし、こうした製法も採算が合わず、数十年前にやめてしまったという。
全国の寿司屋の看板に、「弥助」や「よしの」の名が多いのも、起源はこのお店に由来したものだとか。

今回いただいたのは...。
  ○前菜
  ○小鉢物
  ○鮎の唐揚げ野菜あんかけ
  ○焼鮎ちりめん山椒鮨、柿の寿司、赤だし
  ○フルーツ、鮎菓子

この日、出された鮎寿司は「焼鮎ちりめん山椒鮨」で、鮎を蒲焼風に焼いて押した箱鮨。
オーダーによっては、塩付けした生鮎を酢洗いし押した「鮎の姿鮨」というのもいただけるようだ。

揚げ物として出てきたのが、鮎の唐揚げ野菜あんかけ。

三度揚げしたという鮎の唐揚げに中華風の餡をかけたものだが、頭から尾まで骨ごといただける。

あぶり鮎をそうめんの出汁として使うと、鮎独特の旨みを味わうことができるが、三度揚げすることによって、そうした旨み成分が凝縮し閉じ込められ、思わず笑みがこぼれる。

49代当主宅田弥助氏による歌舞伎や料理にまつわる話を拝聴。

歌舞伎や文楽でも演目として名高い。その物語はこう始まる。

「さて、時は源氏の天下。源平合戦に敗れた平家一門の残党狩りが始まっている。舞台は吉野のつるべ鮨屋。この家に、平惟盛が弥助と名をかえて下男としてかくまわれている。鮨屋の主人弥左ェ門の娘お里は、今宵、弥助と祝言だと大はしゃぎ。そこへ、この屋の長男で今は勘当の身となっているいがみの権太が金をせびりにやってきた。…」

この演目の舞台「吉野のつるべ鮨屋」こそ、このお店「弥助」そのものなのだ。
創業800有余年とうたっているのはそうした由縁だろうが、あくまでも『吉野千本桜』の脚本上の話らしい。

しかし、先の弥助庭園内には、維盛塚・お里黒髪塚・お里姿見の池等の遺跡があり、近隣には権太の墓・小金太の墓まである。
歌舞伎ファンからしてみれば、ここで鮎料理に舌鼓をうち、所縁の場所をまわるという趣向はこたえられないだろう。

吉川英治氏も昭和30年に来訪し、「浴衣着て ごん太に似たる 男かな」という句を残している。

さてクライマックスは後半部分・・・・・

鮨屋の娘お里は、この家にいる弥助と祝言を挙げることになっている。
兄のいがみの権太が入ってきて、母から三貫目の金をだまし取って帰ろうとすると、親父の弥左衛門が戻ってきたので、あわてて金を鮨桶に隠して、奧に引っ込む。 

帰宅した弥左衛門は、ある生首を鮨桶に隠し、弥助をうやうやしく上座に据えて、維盛(これもり)の首を出せとの詮議が厳しいので隠居所の上市村へ隠れてくれ、という。

そこへ、一夜の宿を求める旅人が来る。
維盛の妻と子であった。維盛は再会を喜ぶが、事情を知ったお里は嘆くばかりである。以上の事情を知った権太は、したり顔で鮨桶を持って去って行った。

詮議の梶原景時(かじわらかげとき)らがやって来た。
弥左衛門が、維盛に替えての首を鮨桶から出そうとすると、桶の中にあるのは三貫目の金。

その時、「首は取った」と権太が鮨桶を抱え、縄をかけた女子供を連れてくる。
梶原は「よく討った」と権太を褒めて帰るが、実は維盛の妻子と見えたのは権太の妻と子。
そして、首は親父の用意した首であった。

[見どころ]
お里が弥助に、早く寝ようと言っても、弥助がもじもじしている。
お里は戸口に立って、「お月さんも寝やしゃんした」という。
お里は可愛くて、茶目っ気があって、はきはきした娘。弥助を維盛と知らないうちは、弥助に対していつも能動的なのが、お里である。
 
終局で、権太が親父に斬られてからの申し開きがあって、いがみといわれた男が、善に立ち戻る。
もどり、といわれる歌舞伎の作劇法の一つである。

もどりになるまでは、いがみの人格で終始しなくてはいけない。こういう演目の、これは約束である。

玄関先に維盛の旧跡の碑が建つ。

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つるべすし弥助へのアクセス、行き方歩き方

奈良県吉野郡下市町下市533 
TEL.0747-52-0008

定休日/月曜日 ■営業時間/11:30~22:00(要予約)

近鉄下市口駅から奈良交通バス 下市本町下車、徒歩約1分

象(きさ)の小川と桜木神社


宮滝遺跡から吉野川を渡り、御船山(みふねやま)と象山(きさやま)の間の山道を小川 に添って歩く、涼しげな小川のせせらぎを耳にしながら、木製の木末橋(こぬれはし)を渡ると、拝殿と杉の大木が目に入ってくる。

天武天皇がまだ大海人皇子といわれていたころ、天智天皇の近江の都を去って吉野に身を隠しましたが、あるとき天皇の子、大友皇子の兵に攻められ、かたわらの大きな桜の木に身をひそめて、危うく難を逃れたいう伝説があります。

のち大海人皇子は勝利を得て(壬申の乱・六七二)明日香の浄見原に都を定めて、天武天皇となられたのです。
 
このあと吉野の宮(宮滝)に行幸されると、篤くこの宮を敬われ、天皇なきあとは、ゆかり深い桜木神社へお祀りしたと伝えられています。

大海人皇子は天皇の前で吉野に行って仏道の修行をしたいと願い出た。
天皇はこれを許したので、すぐに都を出てこの日のうちに吉野に向かうこととなった。

蘇我赤兄臣、中臣金連、蘇我果安臣たちが菟道(うじ)まで見送った。
別れ際、舎人たちは大海人皇子の吉野行きを「翼をつけた虎を野に放したようなものだ」と言った。

拝殿脇に立つ「御神木大杉」。樹齢約700~800年、高さ35~40mと、堂々とした巨木。

御神木大杉を見上げたところ。高さ40m近いというのですから、見事なもの。

み吉野の象山(きさやま)の際(ま)の木末(こぬれ)にはここだもさわく鳥の声かも

巻六(九二四)
———————————————–
み吉野の象山のあたりの小梢には多くのさえずり合う鳥の声が聞こえるよ
———————————————–

この歌は山部宿禰赤人(やまのべのすくねあかひと)が天皇の吉野行幸時に詠んだ歌で、先の巻六(九二三)の長歌に付けられた反歌のうちのひとつ。
「象山(きさやま)」は吉野川対岸の山。
そんな「み吉野の象山のあたりの小梢には多くのさえずり合う鳥の声が聞こえるよ」と、鳥の声も豊かな吉野の風光明媚な美しさを讃えています。

大君(おほきみ)は、神にしませば、天雲の、雷(いかづち)の上に、廬(いほ)りせるかも

大君(おほきみ)は神でいらっしるので、雷(いかづち)の上に仮宮をお作りになっていらっしゃる。

柿本人麻呂

この時期から天武天皇は神と呼ばれるようになった。

よき人のよしとよく見てよしと言ひし吉野よく見よよき人よく見つ

巻一(二十七)
———————————————–
昔のりっぱな人が、よき所としてよく見て「よし(の)」と名付けたこの吉野。りっぱな人である君たちもこの吉野をよく見るがいい。昔のりっぱな人もよく見たことだよ。
———————————————–

この歌は天武天皇の作だといわれています。
歌が詠まれた場所は現在の奈良県吉野町宮滝のあたりにあった吉野宮でしょうか。
このとき天武天皇は自分の子や縁者である6人の皇子たちを集め、みなが結束する事を盟約させたといわれています。

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桜木神社へのアクセス、行き方歩き方

奈良県吉野郡吉野町喜佐谷字トチサ423

近鉄吉野線「大和上市」駅より 湯盛温泉行きバスで「宮滝」下車 徒歩15分

壬申の乱と女性たち 宮滝


青根ヶ峰の信仰

天鈴55年、紀元前663年(即位前3年)、神武天皇一行は、八咫烏命に導かれ井光を通って吉野の宮瀧へ到着し、仮宮を造営する。
この位置から青根ヶ峰がのぞめる。

み吉野(よしの)の、青根(あお)が岳(たけ)の、蘿(こけ)むしろ、誰(た)れか織(お)りけむ、経緯(たてぬき)なしに

作者不詳

神聖視された神奈備・青根ヶ峰に端を発する清流は、やはり特別なものだったに違いない。
神聖な川水は吉野川へとそそぎ込み、都人が憧憬を寄せた「たぎつ河内」を育んだ。

斉明天皇の吉野宮は、青根ヶ峰を真南に見るように建てられていたという。

柴橋から上流を見る、こちらは川幅いっぱいに川が流れていて、「滝つ河内」と呼ばれている。

この滝というのは高低さがある滝ではなく、「激(たぎ)つ」という意味で、水流が激しい場所をいうのである。
ところがこの水量であるので、いまではとてもタギツとはいえない。

吉野山から流れる像の小川がこの吉野川に合流する地点を「夢のわだ」といいます。

柴橋に出ると、谷底が見えた。高さは10mほどであろうか。川岸は岩壁である。激しい水流が時間をかけて穿った岩壁である。

中岩の松、対岸を見る、吉野山に南朝の皇居があった時、まだ幼かった寛成親王(後の長慶天皇)が狩りに来られ、吉野川の水面に映える松の美しさを愛でられ「この松を後村上天皇に奉ろう、岩ごと皇居へ持ち帰れ」と供の者にむずかれたと言う逸話が残っています。

奈良時代の「吉野離宮」の復元イメージ図(吉野町教委作成)
宮滝遺跡は、日本書紀や続日本紀などに記されている飛鳥時代の「吉野宮」、奈良時代の「吉野離宮」の施設跡とされている。

記述によると、吉野宮は斉明2(656)年に造営され、大海人皇子(のちの天武天皇)が壬申の乱の際に吉野宮に籠って挙兵。

天武即位後も行幸し、その皇后だった持統天皇は在位時と退位後合わせて34回も行幸した。
その後も文武、元正、聖武天皇が「吉野離宮」「芳野(吉野)宮」に行幸している。

吉野宮、吉野離宮があった場所については吉野町宮滝以外にも説があるが、昭和5年~13年の宮滝遺跡第1次調査で奈良時代の瓦や石敷き遺構などを発見。

50年の第2次以来の調査でさらに、飛鳥時代は大きな人工池と関連施設があり、「全体が巨大な『庭園』として機能していた」と推定されるようになった。

奈良時代には一辺120~150メートルの方形の区画内に掘っ立て柱建物などが設けられていたことも判明。
宮滝遺跡が吉野宮、吉野離宮の跡と考えられるようになった。

679年(白鳳8年)(=天武8年)5月5日に吉野へ行幸。
6人の皇子は草壁皇子、大津皇子、高市皇子、忍壁皇子、川島皇子、志貴皇子で、草壁皇子を次期天皇とし、お互い助けて相争わないことを誓わせた。

その内志貴皇子は天武天皇の兄・天智天皇の第7皇子であったが、この盟約が記録上初の登場であった。

681年(白鳳10年)(=天武10)年には草壁皇子は皇太子となるが、器量優れたライバルの大津皇子も政治に参加することとなり結局天武天皇の後継は曖昧なものとなってしまった。

そして、そうした内に天皇は崩御し、大津皇子は謀反の疑いをかけられて非業の最期を遂げたが、草壁皇子もまもなく夭折。

大津皇子(おほつのみこ)薨(かむあが)りましし後に、大伯皇女(おほくのひめみこ)の伊勢(いせ)の斎宮(いつきのみや)より京(みやこ)に上(のぼ)りし時に作りませる御歌二首

神風(かむかぜ)の伊勢の国にもあらましをなにしか来(き)けむ君もあらなくに

巻二(一六三)
———————————————–
神風の吹く伊勢の国にいればよかったのになぜ都に帰ってきたのだろう。愛しい君ももういないのに。
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この歌は持統天皇が即位したことで伊勢神宮の斎宮の職を解かれた大伯皇女が都に戻ったときに詠んだ二首のうちの一首です。
この歌の君とはもちろん弟の大津皇子。
あのまま伊勢の国にいればよかったものをなぜ都に帰ってきたのだろう。愛しい君ももういないというのに…と、弟のいない都に帰って来た寂しさを歌に込めています。

大伯皇女がこの世に最後に残した絶唱 「大津皇子の屍(かばね)を葛城の二上山に移し葬(はぷ)る時、大来皇女の哀しび傷む御作歌二首」。

うつそみの 人にあるわれや 明日よらは 二上山を 弟世(いろせ)とわが見む

大伯皇女は、ここで持統天皇をあわてさせている。
大伯皇女はヤマトに戻ってきて大津皇子をヤマトを代表する霊山でよく目立つ二上山に移葬したのだ。
謀判人の遺骸を、勝手に移葬してしまったとなれば、当然処罰を受けねばなるまい。

しかし、持統天皇は手を下せなかったのだ。

これは持統天皇の敗北だ。

ここで持統天皇にまつわる二つの謎が浮上。

まず第一に、即位の謎だ。
親蘇我派の皇族や蘇我系豪族を敵に回してしまった時点で、草壁皇子の即位の芽は絶たれたはずだ。

そうなると、なぜ草壁皇子亡きあと、持統天皇自身が皇位を継承できたのだろう。
何故周囲がこれを認めたのか。

第二に、持統天皇は何を望んでいたのか、なぜ皇位に執着したのか。

謎はまだまだある。
696年、高市皇子が亡くなった時懐風藻は、皇太后は皇位継承問題を議論させたと記述。

天皇でなく皇太后と呼んでいる、日本書紀では690年に持統天皇即位となっている???。
天武天皇が亡くなったのが686年、その間誰が天皇だったのか。

まだある、やすみしし わが大王の 天の下 申し給へば 万世(よろずよ)に 然しもあらむと ・・・・・柿本人麻呂の高市皇子への挽歌。

なんと、高市皇子を大王とうたっているのだ。

持統天皇は食わせ物だった。
良妻賢母のふりをして、夫・天武天皇の政権を「反蘇我派の藤原不比等」に売り渡していたのだ。

史実を改竄・偽作した日本書紀の編纂途中で、持統天皇は、日本書紀に都合よく整合させるため、古代から由緒ある神社の古文書や豪族の系図を没収し、抹殺してしまった。

この辺りの事情は前回訪問時の記事に書いた。
古代史ミステリー 壬申の乱と女性たち-1

「宮滝は滝にあらず」。貝原益軒が『和州巡覧記』に書いたように、名称から誤解されることが多い宮滝。
古語の「タギツ」は川水がたぎり流れるところ。激流する「たぎつ瀬」である。

「私の旅は長くはないだろう。吉野川の夢のわだよ、浅瀬にはならず淵のままであっておくれ」。
歌に込めた願いどおり、大伴旅人は大宰府赴任から二年で帰郷している。

しかし、望郷の象徴であった吉野の「夢のわだ」を見ることなく、翌年に亡くなったという。

やすみしし わご大君 神ながら 神さびせすと 吉野川 激(たぎ)つ河内に 高殿を 高知りまして 登り立ち 国見をせせば 畳(たたな)はる 青垣山(あおがきやま) 山神(やまつみ)の 奉(まつ)る御調(みつき)と 春べは 花かざし持ち 秋立てば 黄葉(もみじ)かざせり 逝(ゆ)き副(そ)ふ 川の神も 大御食(おほみけ)に 仕(つか)へ奉(まつ)ると 上(かみ)つ瀬に 鵜川(うかわ)を立ち 下(しも)つ瀬に 小網(さで)さし渡す 山川も 依(よ)りて仕ふる 神の御代かも

柿本朝臣人麿 巻一(三十八)

反歌
山川も依(よ)りて仕ふる神ながらたぎつ河内に船出せすかも
巻一(三十九)
———————————————–
わが天皇が、神そのものとして、神々しくおられるとして、吉野川の流れ激しい河内に、見事な宮殿を高くお作りになり、そこに登り立って国土をご覧になると、何層にも重なる青い垣根のごとき山では、山の神が天皇に奉る貢ぎ物として、大宮人らは春には花を挿頭(かざし)に持ち、秋になると紅葉を頭に挿しているよ。
宮殿をめぐって流れる川の神も、天皇の食膳に奉仕するというので、大宮人らは上流には鵜飼いを催し、下流には網を渡して魚を捕っているよ。
ほんとうに、山も川もこぞってお仕えする神たる天皇の御代だなあ。
———————————————–

この歌も持統天皇が吉野の宮に行幸したとき、同行した柿本朝臣人麿(かきのもとのあそみひとまろ)が詠んだものだといわれています。

宮滝醤油の駐車場の辺りが吉野宮の跡と言われる。

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宮滝宮跡へのアクセス、行き方歩き方

奈良県吉野郡吉野町宮滝

近鉄大和上市駅からバスで15分(湯盛温泉杉の湯行バス宮滝下車)
宮滝から徒歩で5分

大海人皇子出家時の世尊寺


大海人皇子は吉野の宮に入る前に天智天皇に申し出た言葉通り寺に入って修行したという説がある。

当時、聖徳太子が建立したとされる比曽寺(ひそじ,現 世尊寺)が飛鳥からの道を吉野に入ったところにある。

乱勃発後大海人皇子が吉野から東国へ逃れる際には、役小角らがこれを導いたという伝説が残る。

ここで役行者と接して情報を得ていたとも考えられています。

大海人皇子が即位を辞退し、出家して吉野に入るという話には先例がありました。

大化元年(645)、皇極天皇が退位して孝徳天皇が即位します。

この時に古人大兄皇子も即位を打診されますが、古人大兄皇子は固辞し、「私は出家して吉野に入ります」と言って、吉野の現光寺(比曽寺)に入ります。

しかしその九月、古人は謀反の疑いをかけられ、中大兄皇子に討たれてしまいます。
このようなリスクがあるにもかかわらず、大海人皇子は大津から飛鳥を経由して吉野に入ります。

奈良県大淀町の世尊寺は、587年用明天皇の勅願によって聖徳太子が開創した比蘇寺(比曽寺)が始まりと伝えられている。

奈良時代には、吉野寺比曽山寺と呼ばれ、現光寺の由来となった仏像が安置された。

平安時代には宇多上皇や藤原道長などが吉野への参詣の途中に訪れ、大いに栄えたが、その後は衰退した。

さらに1337年(南朝:延元2年、北朝:建武4年)には文観が先達となって後醍醐天皇が行幸し「栗天奉寺」と命名され、勅願寺となっている。

その後、再び衰退し荒廃するが、江戸時代に入って、伽藍を整備縮小し禅宗寺院として、霊鷲山・世尊寺と改め復興し、現在に至る。
山門脇には「史跡比曽寺跡」の碑が建つ。

東塔跡。
比蘇寺には東塔と西塔があったが、そのうち東塔の三重の塔は、1594年(文禄3年)豊臣秀吉によって伏見城に移され、さらに1601年(慶長6年)に徳川家康によって近江の園城寺(三井寺)に移建され、現在も残っている。

現、三井寺の三重の塔は三井寺 桜逍遥でご覧になれます。

西塔跡。
東塔は用明天皇のために聖徳太子が、西塔は敏達天皇のために推古天皇が建てたと言われています
なお、西塔は戦乱により焼失している。

太子堂
奈良県指定有形文化財(建造物)border=”0″ width=”380″ height=”570″ align=”center” />
聖徳太子をご本尊として建立された堂で、右手に柄香炉を持った「太子十六歳の孝養像」が安置されている。

近くには、立派な十三重石塔もあります。

本堂の裏手にある、聖徳太子お手植えと伝わる「壇上桜」。

寺伝によると、150年ほど前に台風で倒れたものの、やがて根元付近から幹が伸びて見事に蘇生。

このため「不老長寿の桜」と呼ばれている。

『世にさかる 花にも念佛 まうしけり』  芭蕉 

松尾芭蕉は貞享5年(1688)、春の4月、弟子の杜国を伴ってここ世尊寺に参詣し、咲き匂う太子お手植えの壇上桜を眺めて詠んだ句。

独り言・・・・・
どうも蝦夷と入鹿親子が悪人というのは国の長ならんとする天皇家(中大兄)から見ただけのもので、民からみたら悪人と考えるのは非常に怪しいのです。
いやむしろ中大兄の方を悪人と考えていたふしがあります。
これは森鴎外が天皇の漢風謚号を考証した『帝謚考』という著書の中で、天智が殷の紂王のような悪逆の天皇であると論じています。

漢風諡号は、奈良時代に、淡海の三船(養老6(722)年~延暦4(785)年)が、神武天皇から元正天皇までの全天皇(弘文と文武を除く)を一括撰進したとされている。

天皇諡号について、漢文に対する深い学識を基に論究したのが、明治の文豪・森鴎外であった。

その論考『帝謚考』は大正8(1919)年に脱稿、大正10(1921)年に図書寮から限定100部が関係官庁等に配布された。
現在は、岩波書店『森鴎外全集』に収録されている。

なお、淡海の三船は大友皇子の曽孫。

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世尊寺へのアクセス、行き方歩き方

住所;吉野郡大淀町上比曾762
℡:0746-32-5976
近鉄吉野線六田駅より奈良交通バス「比曽口」下車、徒歩15分。
大淀町ふれあいバス、中増・上市コース「世尊寺前」下車すぐ。
増口・上市コース「北野台5丁目」下車、徒歩5分。

崇峻天皇弑逆事件の謎

倉橋に来たついでに崇峻天皇弑逆事件の謎について考えてみよう。
諸説入り混じりますが、大方の一致するところは藤原氏による歴史改竄説。
そう、日本書紀は真実を隠しているというものです。

忍阪から倉橋の池へ向かう途中に多武峰から北西に延びる尾根の先端に築かれた大方墳、赤坂天王山古墳がある。

『日本書紀』に崇峻天皇は暗殺された後に倉橋の地に葬られたと記されており、この地域で造られた古墳で該当するものは赤坂天王山古墳以外には見あたらないため、明治時代に南西に1.7Kmほど離れたところにある現在の倉梯岡上陵に治定されるまでは、本古墳が崇峻天皇陵に擬せられていた。

歴史学者・考古学者の間ではいまなお本古墳が崇峻天皇陵として有力視されている。

粟原川(おおばらがわ)をはさんで対岸の北方1km、忍阪(おっさか)地内の外鎌山には舒明天皇・押坂内陵治定の押坂段ノ塚古墳・鏡女王墓・大伴皇女墓が、東方の粟原川上流部の粟原地内にはムネサカ古墳・越塚古墳がある。

倉橋池は昭和21年に粟原川の支流をせきとめて作られました。

付近には蘇我馬子によって明日香から離れた倉橋の柴垣宮に追いやられた大王であった崇峻天皇の御陵や、柴垣宮跡が残っています。
トンボの飛んでいる姿、のどかでいいね。

第32代崇峻天皇の倉梯岡上陵に治定される約15mの小円墳。

崇峻天皇の位牌を祀っていた柴山山「金福寺」の地を倉梯柴垣宮跡とし小字名が「天皇屋敷」だったことから、安政2年(1855)に、祟峻陵に比定。
文久2年(1862)に修陵。
明治22年(1889)に宮内省が陵地に比定。

延喜諸陵式には「陵地ならびに陵戸無し」と記載されている。 
ただし根拠に乏しく、近年では、桜井市倉橋にある巨大方墳、赤坂天王山古墳を崇峻陵とする森浩一の見解が有力視されるようになっている。

同古墳は6世紀末から7世紀初頭に築造された方墳で、東西45.5m、南北42.2m、高さ約9.1m、全長17mの横穴式石室を持つ。

また、斑鳩町法隆寺にある藤ノ木古墳の被葬者を崇峻天皇とする説も出されている。

暗殺の経緯

592年10月4日に、猪を献上する者があった。
天皇は笄刀(こうがい)を抜いてその猪の目を刺し、「いつかこの猪の首を斬るように、自分が憎いと思っている者を斬りたいものだ」と発言。

そのことを聞きつけた馬子が「天皇は自分を嫌っている」と警戒し、部下に暗殺命令を下した。
そして東国の調を進めると偽って天皇を儀式に臨席させ、その席で東漢駒に暗殺をさせた。

臣下により天皇が殺害されたのは、確定している例では唯一である。
死亡した当日に葬ったことと、陵地・陵戸がないことは、他に例が無い。

近年、佐藤長門は「王殺し」という異常事態下であるにも関わらず、天皇暗殺後に内外に格段の動揺が発生していないことを重視して、馬子個人の策動ではなく多数の王族・群臣の同意を得た上での「宮廷クーデター」であった可能性を指摘している。

独り言・・・・

『日本書紀』は公式文書です。
その文書に「国家元首が、配下の者に暗殺された」なんて事を書くのは前代未聞じゃありませんか?
こんなにはっきり実行犯の名前まで記録している事は他にありません。

しかも、事件後に黒幕である馬子が処分を受けた様子もないし、数多の豪族も誰一人として問題にした豪族もいない。
逆に、崇峻天皇は天皇であるにもかかわらず、その日のうちに埋葬されています。

当時は、位の高い人が亡くなった時は殯(もがり)と言って、2~3年間は鎮魂の儀式をするのが慣わしでしたが、そんなものは一切無く、一般人扱いで葬られてしまっています。
こんな不思議なことはあり得ないことなのです。
時の権力者による歴史の改竄を感じます。
この事件には多くの疑問を呈した解説がありますがそのうちの一つ関裕二の「教科書に載らない古代史」の一節を紹介する。

ヤマト建国を左右したのは、日本海(出雲・蘇我氏)、瀬戸内海(吉備きび・物部氏)、東海・東国(尾張氏)であった。
勝者は瀬戸内海であり、日本海と東海は、敗者の側にまわった。
ところが六世紀、彼等は復活したのだ。

七世紀、藤原氏の祖の中臣鎌足は、継体天皇を後押ししていた勢力をなぎ倒し、藤原氏繁栄の足がかりをつくった。

このため、八世紀の藤原氏の政権は、蘇我氏から権力を奪い取った正当性を証明するために、歴史を改竄する必要に迫られ、物部氏と蘇我氏の皇位継承を巡る争いを、都合の良いように脚色したのだろう。

もうひとつは、この「脚色」の延長線上にある。
すなわち、崇峻天皇弑逆事件をでっち上げるためではなかったか。

崇峻天皇弑逆事件と言えば、蘇我氏の悪行の最たるものとして知られる。
現役の天皇を殺めてしまったのだから、弁解のしようがないのである。

しかし、『日本書紀』の記事を読み進める内に、奇妙なことに気付かされる。
それは、穴穂部皇子の運命と崇峻天皇が、重なって見えることである。

崇峻天皇は蘇我氏全盛期に皇位に就いたのに、なぜか蘇我氏と反りが合わなかった。
驚くべきことに、崇峻天皇は穴穂部皇子の弟なのだ。

父は欽明天皇、母は蘇我系という「設定」になっている。
ただし、「穴穂部」の名は、物部氏と縁のあるものだった。
とすると、この兄弟、本当は物部腹だったのではあるまいか。

つまり、物部氏と蘇我氏の主導権争いで穴穂部皇子が犠牲になり、『日本書紀』は蘇我氏の悪行を鮮明に浮かびあがらせるために穴穂部皇子誅殺事件を二度くり返し、蘇我氏による弑逆事件にすり替えたのではあるまいか。

いずれにせよ、六世紀は、瀬戸内海と日本海、そして東海地方三つ巴の因縁の対立に終止符が打たれた時代であり、漁夫の利を得たのは、藤原氏だった。

彼等は八世紀にいたり、歴史改竄の正史『日本書紀』を編纂したのだろう。
「教科書に載らない古代史」関裕二

その他諸説あります。

崇峻天皇の次に天皇となる推古天皇自身がこの暗殺に関与していたからではないか?
蘇我馬子こそが王であった?
よって、謀反人を成敗したところで、馬子が罪を問われる事はありません。
等々挙げればきりがありません。

『日本書紀』を編纂した藤原氏にとって、天皇家は万世一系の一本線でつながっていていただかなければ・・・
その万系一世の天皇家を支え、サポートしたのが中臣鎌足に始まる藤原氏なのですから・・・。

蘇我氏が政権を握っていた間の重要な部分を推古天皇の在位として、歴史を書き換える事によって、天皇家は一本につながります。

推古天皇という初の女性天皇の誕生も、他の女性天皇が中継ぎの役割だったのに対し、推古天皇の在位期間が非常に長い事も、この時代の政権交代を暗示しているような気がします。

あくまで推理ですが・・・

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アートアクアリウム展


アートアクアリウム史上最大級の観覧規模となる堂島リバーフォーラムで開催中、涼を求めるつもりで覗いてみる。

夏休み中でもありえらい人だ。

当日券を買うのに約30分、その後入場まで1時間半待ち。
前売り券を買っておけばその待ち時間は短縮できる。

日時指定優先入場券もあるようだが、こちらは2倍の2000円、利用する人は見当たらない。

やっと入城したが人が多すぎて身動き取れない。
撮影するのに順番待ち。

凹レンズや凸レンズ、二重レンズなど、さまざまな見え方のレンズが水槽に取り付けられた作品。

17:00 から閉場までは、「ナイトアクアリウム」として、会場内で販売の日本酒やドリンクを飲みながら、ゆったりと作品を鑑賞することができるようだが・・・・・

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アートアクアリウム展へのアクセス、行き方歩き方

大阪府大阪府大阪府大阪市福島区福島1-1-17 ほたるまち 堂島リバーフォーラム

JR東西線「新福島駅」、阪神本線「福島駅」、京阪中之島線「中之島駅」から徒歩 約5分
JR大阪環状線「福島駅」、市営地下鉄四つ橋線「肥後橋駅」から徒歩 約8分
JR各線「大阪駅」徒歩 約15分

万灯供養会の夜


今日は雨の予報が外れ曇りがちの天気です。
2月堂の舞台から夕陽の観賞。

トワイライトブルーを試す。゜

トワイライトレッドを試す。

雲が多くあまり赤くなってくれません。

きれいな光芒が現れる。

上方への光芒。

バリアブルNDで太陽を捉える。

帰りはお気に入りのみちです、中性院門前、二月堂への道。

鹿もねぐらを目指す。

今日は万灯供養会、東大寺大仏殿では、盂蘭盆(うらぼん)の最終日、8月15日の夜、大仏さまにたくさんの灯籠をお供えして、万灯供養会を厳修する。
大仏殿の万灯供養会は、お盆に帰省できない方々にもせめて御先祖の供養をしていただけるようにという趣旨で、昭和60年から始められた。

大勢の参拝者が行列します。

夕闇の迫る参道、早くねぐらへお帰り。

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東大寺へのアクセス、行き方歩き方

東大寺公式サイト

住所:奈良県奈良市雑司町406−1
電話:0742-22-5511

JR大和路線・近鉄奈良線「奈良駅」から市内循環バス「大仏殿春日大社前」下車徒歩5分、または
近鉄奈良駅から徒歩約20分