春 到来 長居植物園


落葉樹の姿は冬のままですが日射しは春めいてきています。

暖かい日差しでネコはのんびり日向ぼっこ。

シジュウガラがやってきました。

どうやら水たまりが目的のようです。

ごく普通に見られ市街地の公園や庭などを含む平地から標高の低い山地の林、湿原などに生息します。

通常は渡りを行わないが、寒冷地に分布する個体や食物が少ない時には渡りを行うこともある。

和名は地鳴きの「ジジジッ」が「シジュウ」に聞こえることに由来する。

ハイポーズ!
カンザキハナナの中でほほえましい風景が見られます。
コロナ過の中、少人数で蜜を避けながら春を楽しんでいます。

白木蓮はモクレンの仲間で、真っ白な花が春の訪れを感じさせてくれる落葉高木の1つです。

花が開くと風が上品な香りを運び、心を和ませてくれます。

こちらは蕾です。

アセビは、ツツジ科アセビ属の常緑低木。
日本に自生し、観賞用に植栽もされる。
別名あしび、あせぼ。

馬酔木の名は、「馬」が葉を食べれば毒に当たり、「酔」うが如くにふらつくようになる「木」という所から付いた名前であるとされる。

ミニ水仙(すいせん)・ティタティタは花径は3?4cm、草丈は10?20cmくらいの可愛らしいミニスイセンです。

エピデンドラムは、中南米に広く分布するラン。

ゴールデンクラッカーが属するユリオプス属の植物は、南アフリカを中心に約95種が分布しており、花の美しい幾つかの種が観賞用として栽培されています。

ネモフィラ

北アメリカ原産の一年草で、和名を瑠璃唐草(るりからくさ)といいます。

ウンナンオウバイは、中国南西部に分布するモクセイ科ソケイ属の常緑性低木。

分布域は中国南西部の雲南省、貴州省、四川省にあり、標高500~2600mの渓谷、森林などに自生しています。

クリスマスローズは、クレマチス、ラナンキュラス、アネモネなどと同じキンポウゲ科の植物です。
クリスマスローズは、冬の花が少ない時期に花を咲かせる常緑の植物。

ゲンカイツツジ

カラムラサキツツジの変種で、岡山県以西の本州、九州北部、四国北部などの岩場に自生が見られる。

対馬諸島や朝鮮半島などにもあり、玄界灘を囲むように分布することからゲンカイツツジと命名された。

ミツマタ

3月から4月頃ごろにかけて、三つ叉(また)に分かれた枝の先に黄色い花を咲かせる。

そのため、「ミツマタの花」は日本においては仲春(啓蟄〔3月6日頃〕から清明の前日〔4月4日頃〕まで)の季語とされている。

皮は和紙や紙幣の原料として用いられる。

マンサクの語源は明らかでないが、早春に咲くことから「まず咲く」「真っ先」が変化した説、多数の花が豊作に通じることから「万年豊作」に由来するなどの説がある。

ボケ

原産地は中国大陸で、日本へは古く平安時代に渡来し、観賞用に栽培された帰化植物。

果実が瓜に似ており、木になる瓜で「木瓜(もけ)」とよばれたものが「ぼけ」に転訛(てんか)したとも、「木瓜(ぼっくわ)」から「ぼけ」に転訛したとも言われる。

シナレンギョウ

日本の公園や庭木などで「レンギョウ」として一般的に植栽されているのは、レンギョウ、シナレンギョウ、チョウセンレンギョウです。

サンシュユ

中国原産で、春先に葉が出る前に黄色い花を咲かせ、秋にグミに似た赤い実をつける。
別名でハルコガネバナ、アキサンゴ、ヤマグミとも呼ばれる。

クローズアップ

和名アンズは、杏子の唐音とされている。

古名は、カラモモ。
中国植物名は杏(きょう)。

中国大陸から日本への渡来は古く、日本最古の本草書『本草和名』(918年)には、漢字を「杏子」、和名「カラモモ」とある。

オガタマノキ

和名は神道思想の「招霊」(おぎたま)から転化したもの。
和歌、俳句の季語にも用いられる。
黄心樹の字は本来誤用である。

日本神話においては天照大神の天岩戸隠れにおいて天岩戸の前で舞った天鈿女命が手にしていたとする説がある。
榊の自生しない地域を中心に神前に供える玉串として古くから代用されたり、神木とされて神社の神域などに植栽されている例がみられる。

常陸宮正仁親王のお印であり、宮崎県高千穂町や三重県伊勢市などが町のシンボルとしている。

ギンヨウアカシア(Acacia baileyana)は、春早くに株を覆うほどの黄色い花を咲かせ、よく目立ちます。

名前のとおり葉色が銀灰色で観賞価値が高く、庭園樹として人気があります。

キクカチャ

白菊によく似た小ぶりの、とっても可憐な花です。

キンカチャ

中国の広西省地方原産。
椿としては珍しい黄色花。
温室内でときどき見かける。

残念ながらまだつぼみです。

カンザキハナナ

春の畑は菜の花がいっぱいであるが、カンザキハナナは真冬から咲き始めるので「寒咲き花菜」である。

花の部分は真冬から早春に掛けて「菜の花」として花材として、あるいは食卓に彩りをそえている。

1万本の春 第一なぎさ公園、早咲き菜の花
残雪の比良と菜の花のコラボレーションを見ようと滋賀を訪れた。 12月下旬~3月上 … 続きを読む →

春を先取り 第1なぎさ公園の菜の花畑
今年は暖冬のため、定番の雪の残る比良山とのコントラストは望めないなあと考えつつ公 … 続きを読む →

もうずいぶんと前から春先の菜の花の鑑賞地、撮影地として知られた所だが、極寒のこの時期からほぼ満開を迎えていた。ちょうど琵琶湖越しに雪化粧した比良山との取り合わせがきれいで、毎年多くの人が訪れる。

ユキヤナギは春、枝垂れた枝先の長い穂に、たくさんの花を咲かせてひときわ目を引き、花壇や公園によく植えられている植物。

近年は、‘フジノ・ピンク’などの花弁の外側がピンクの品種が植えられることも多く、白一色だったユキヤナギにも色幅がふえました。

ユキヤナギの和名は、葉がヤナギに似て、白い多数の花が、雪をかぶったように見えることからつけられました。

シバザクラ

4・5月頃にサクラに似た形の淡桃、赤、薄紫、あるいは白色の花を咲かせる。
葉形やその匍匐性などから芝桜と名付けられた。

サクランボは有史以前から食べられていた。

原産地の推定は、1世紀の古代ローマの博物学者プリニウスが著書博物誌に書いた説明に基づく。

これによると、古代ローマの執政官ルクッルスが第三次ミトリダテス戦争で黒海南岸のケラソス(Kerasos、現在のトルコギレスン (Giresun) )近くに駐屯した際、サクランボの木を見つけ、ローマに持ち帰ったという。

残念ながら見頃を過ぎています。

ジンチョウゲ

原産地は中国南部で、日本では室町時代頃にはすでに栽培されていたとされる。
雌雄異株だが、日本にある木は雄株が多く、雌株はほとんど見られない。

沈丁花という名前は、香木の沈香のような良い匂いがあり、丁子(ちょうじ、クローブ)のような花をつける木、という意味でつけられた。

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桜が咲き始めました 長居植物園

長居公園には、郷土の森やおもいでの森をはじめ、園内全体に約500本の桜が植栽されています。

春休み期間中の3/30(月)と4/6(月)は臨時開園されます!!

ツツジ山のカワズザクラ。

伊豆の早春の風物詩・河津桜は、濃いピンク色の大きな花びらが美しく、2月から3月までの約1カ月と長い期間楽しめるのも魅力。

アップして見ます、濃いピンク色の大きな花びらが美しい。

原木のある静岡県賀茂郡河津町では、河津川の堤防に立ち並ぶカワズザクラが春の早い時期に満開になります。

淀川水路に河津桜を訪ねる

淀川水路に河津桜があるというので出かける。 この辺りは平安時代には「与度津」と呼 … 続きを読む →

春呼ぶ 伊良湖菜の花ガーデン
1月中旬から3月下旬にかけて、渥美半島のいたるところで1千万本を超える菜の花が咲 … 続きを読む →

メイン会場の中でも、一番オススメの場所が菜の花畑の真ん中にある“河津桜”。

オオカンザクラ、大池の北、梅園の隣にあります。

カンザクラの園芸品種でカンヒザクラとオオシマザクラ(あるいはヤマザクラ)の交雑種と考えられる。

埼玉県川口市安行にあった原木から各地に広まった。

花弁は淡紅色,萼片(がくへん)は紅紫色.開花が先行し次いで葉が展開します。

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頑張ってます じゃんじゃん横丁


てんしばから地下鉄動物園前まで・・・

テンシバでは家族連れがグランドシートを敷いてくつろいでいました。
まるでコロナを忘れたように。

10年位前にはまだ危険な雰囲気を漂わせていた高架下などは、ここ数年で驚くほどクリーンな雰囲気へと変わった。

かつては「ここにいる立ちんぼは相手にしないでください」との物々しい貼り紙も見られ、動物園前駅・新今宮駅が大阪市天王寺動物園の最寄り駅であるにも関わらず、ジャンジャン横丁を通ることに抵抗を感じる家族連れなどは、天王寺駅から動物園へ向かっていた。

現在は家族連れでも来られる雰囲気になっている。

ジャンジャン横丁
天王寺動物園の最寄り駅動物園前駅からジャンジャン横丁を抜ける道、以前はジャンジャ … 続きを読む →

大きなふぐの看板と、”新世界のづぼらやで〜 づぼら連中集まって〜”のテーマソングで、関西人にはお馴染みのづぼらや。

やはりあの大きなふぐの看板がないとなぜかさみしい。

インバウンドの姿が消えて久しい。

しかし結構町は賑わっている。

林芙美子の小説「めし」には戦後間もないころのジャンジャン横丁の様子が細やかに描かれている。

「ジャンジャン横丁」の表記はこの作品で初めて使われた。

それまでは「ジャンジャン町」が主流で、以後、ガイドブックなどに「横丁」表記が増え始めた。

戦後、店々から呼び込みのための三味線や太鼓の音がジャンジャンと響いていたことからその名がついたといわれるこのアーケードの左右には、「ソース二度漬けお断り」の串カツ屋をはじめ、焼き肉、食堂、寿司、うどん、立ち呑み居酒屋など庶民派の店がずらり。

名棋士・坂田三吉を生んだ土地柄らしく、囲碁や将棋クラブも盛況で、ガラス越しに観戦するのも楽しい。

1950年にストリップ主体の「温泉劇場」(通称・温劇)に業態変更して復活。

近隣の飛田遊廓へ向かう者やあいりん地区の労務者などが詰めかけ、新世界名物として知られるようになった。

温劇の幕間コントからは間寛平が巣立っている。

店をのぞいてみるとどの店もほぼ満席の状況。

昼間から飲むのは感心しないが店がにぎわっていることにある種の安ど感を覚える。

新世界 おもろっ
路面電車を追っかけてて終点恵美須町まで来たのでついでに新世界をのぞく。 通天閣に … 続きを読む →

そして今なお古きよ き市場の面影を残し、地元住民に愛さ れています。  
長さ約150mのアーケードで行われ る、昭和レトロなバザールナイト。

今回は入り口をのぞいただけで素通り、しかし、なかなか面白いことやってそうで゛す、改めて来てみよう。

新世界市場で奇祭「セルフ祭」
久しぶりに新世界市場へ、なんか催しをやっている、セルフ祭りってなんや。 シャッタ … 続きを読む →

ユニークなポスター市場 新世界市場
新世界市場の商店街をあげて盛り上げようと、このポスター展が企画された模様。 商店 … 続きを読む →

大阪芸人発祥の地 新世界
地下鉄動物園前駅、壁面にリアルな大自然や動物が描かれた空間が広がる。 1918年 … 続きを読む →

今でき希少価値となったチンドン屋に出くわす。

チン電と通天閣
通天閣5F展望フロアから阪堺電車をとらえる。 画像中央の白い屋根が新世界市場、最 … 続きを読む →

100年前の恵美須町駅の様子。

大阪歴史博物館
久し振りに同館を訪れたが10年1日のごとく何も変わっておらず、唖然とした。 水都 … 続きを読む →

初代の通天閣は明治36年に開催され、五ヶ月で500万人以上の人を集めた第5回内国勧業博覧会の会場跡地の一部に明治44年に建設されたもので、エッフェル塔を模したデザインでした。

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道明寺


道明寺周辺は菅原道真の祖先にあたる豪族で、野見宿禰の子孫である土師(はじ)氏の根拠地であった。

推古天皇2年(594年)、聖徳太子の発願により土師連八嶋がその邸を寄進して土師氏の氏寺・土師寺を土師神社(現・道明寺天満宮)の南に建立し、やがて神宮寺となった。

当時は七堂伽藍や五重塔のある大規模なものであった。

天正3年(1575年)には、高屋城の戦いの兵火で天満宮を含む寺の大部分が焼失するが、後に再興する。

正徳6年(1716年)には石川が氾濫したため、道明寺を天満宮境内に移転させると、道明寺本堂が天満宮本殿のすぐ西隣に建てられるなど両者はやがて一体化していった。

1872年(明治5年)神仏分離することとなり、道明寺の五坊のうち二之室が神職家となって6月に天満宮は土師神社(現・道明寺天満宮)に改称する。

翌1873年(明治6年)9月、道明寺はついに天満宮と分離し、道を隔てた西隣の現在地に移転した。

境内には当時の堂の大きな礎石が残る。
当寺の南には五重塔跡の礎石も残る。

和菓子の材料として用いられる道明寺粉は、道明寺の尼が乾燥した糯米(糒)を挽き粉状にしたのが始まりという。

謡曲。脇能物。観世・金剛・喜多流。

僧尊性(そんじょう)が霊夢により道明寺に行くと、白太夫の神が数珠にするための木槵樹(もくげんじゅ)の実を授ける。

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道明寺天満宮梅が見頃


天満宮には、なぜどこにでも「使いの牛」があるかご存じですか。

大宰府天満宮
大宰府天満宮の紋は梅紋。 現在、京都の北野天満宮とともに全国天満宮の総本社とされ … 続きを読む →

右大臣であった菅原道真は昌泰4年(901年)に左大臣藤原時平らの陰謀によって筑前国の大宰府に員外帥として左遷され、翌々延喜3年(903年)に同地で薨去した。

薨後、その遺骸を安楽寺に葬ろうとすると葬送の牛車が同寺の門前で動かなくなったため、これはそこに留まりたいのだという道真の遺志によるものと考え、延喜5年8月、同寺の境内に味酒安行(うまさけのやすゆき)が廟を建立、天原山庿院安楽寺と号した。

その他菅原道真公の生年が承和12年(846年)6月25日で乙丑の年だからという説。

また薨去されたのも延喜3年(903年)2月25日の丑の日だからとの説があります。

この説から「使いの牛」は、ほとんど臥牛と呼ばれる座った姿勢をしています。

菅公をご祭神とする当天満宮には、ご神霊をお慰めするために、約1万坪の境内に紅白約80種800本の梅樹を植樹し、豊かな香りとともにまさに豪華絢爛、春の訪れを百花に先立って咲き匂います。

当梅園は「大阪みどりの百選」に選ばれています。

また、参拝者の方々に目の高さで梅を観賞していただくために、梅の剪定を何度か行なっています。

2月25日には道真公の御命日であることから、例祭(梅花祭)が行われます。

梅の花をお供えして御神霊をお慰めする行事で、道明寺天満宮の最も重要な祭典です。

埴輪を作って殉死の風習を変えた功績で、垂仁天皇32年(3年)に野見宿禰は土師臣(はじのおみ)の姓とこの地を与えられた。

そして、その子孫である土師氏は野見宿禰の遠祖である天穂日命を祀る土師神社を建立した。

仏教伝来後に土師氏の氏寺である土師寺が土師神社の南側に建立され、やがて神宮寺となった。

伝承では推古天皇2年(594年)に聖徳太子の発願により土師八島がその邸を寄進して土師寺としたという。

この土師氏からはやがて菅原氏や大江氏、秋篠氏が分流していく。

平安時代、土師寺には菅原道真のおばに当たる覚寿尼が住んでおり、道真も時々この寺を訪れている。

この寺のことを「故郷」と詠んだ詩もある。

昌泰4年(901年)、道真は大宰府に左遷される途中に当社に立ち寄って、覚寿尼との別れを惜しんだ。

道真遺愛の品と伝える硯、鏡等が神宝として伝わり、6点が国宝の指定を受けている。

うそかえ神事(1月25日)

菅原道真が左遷先の大宰府に到着した神事の際、襲来した無数の蜂を一群のうそ鳥が飛来して蜂を食い、人々を救ったという故事にちなみ、参拝者たちが授与された木彫りの「うそ鳥」の入った袋を「かえましょう、かえましょう」という掛け声とともに周囲の人と交換しあう行事である。

近年では、縁起として「一年の凶事をウソに替える」や「ウソを誠に替える」などの願いも込められている。

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野田・福島界隈散策

かつてこの辺りは鹿飢島(餓鬼島)と呼ばれていたが、九州太宰府に左遷させられる菅原道真公が、当地の住民に慰められ、そのさいに福島へと改名した。

野田城跡伝承地 地下鉄千日前線玉川駅前

享録4年(1531)頃、三好元長と細川晴元が対立し、三好方の浦上掃部の軍勢が野田・福島に陣取ったさいに砦を築いたのが城の起源とされています。

元亀元年(1570)に三好三人衆と織田信長が対立すると、打倒信長をめざす石山本願寺が呼応して三好勢と籠城。

石山合戦がはじまって、天正4年(1576)に明智光秀・荒木村重の猛攻で落城しました。

現在、野田城の遺構は全く残っていませんが「城之内」「弓場」という地名が明治はじめまで残されていたことから、玉川付近にあったと推察されています。

極楽寺

真 宗 大 谷派(東 本 願 寺)の 野 田 御 坊 です。天 文 2 年(1533)、本願寺第10世証如上人が布教活動中、六角定頼と法華宗徒に襲撃されました。

この時、野田福島の一向宗門徒の百姓たちが、命がけで証如上人を守って紀州へ逃がしましたが、21人が殉教死しました。

その菩提を敬うため、門徒宗の墓所に建てられたのが極楽寺です。

江戸初期には、大阪・南御堂(難波別院)の掛所となり、その後、野田御坊として今日に至っています。

恵美須神社

社伝によれば永久元年(1113)、当地開発のさいに恵比須神を歓請したのが起源とされます。

神社に保存されている建石には「永久三乙未年三月」と刻まれています。

当時このあたりは「難波八十島」と呼ばれ、漁業が盛んな地域でした。

恵比須神は古来から漁業の神として祀られており、当社も野田福島の漁民の守り神として信仰されていたと考えられます。

円満寺

天文2年(1533)、証如上人を守るために殉教死した21人の門徒宗の菩提のために、久左衛門と申す者が証如上人より教圓という名を授けられて、天文3年(1534年)に一宇の坊舎を建立しました。

これが居原山円満寺のはじまりです。

創建時は摂津国下仲嶋野田村惣道場と称していました。

境内には証如が与えた感謝の文書と供養碑があります。

二十一人討死之碑(玉川コミュニティセンター)

玉川地区には21人討死碑が4基あります。

玉川コミュニティセンター内にある「21人討死之碑」は昭和15年(1940)に西野田青年団が生涯橋のすぐ西側に建てたもの。

下福島中学校のプール建設のため昭和52年(1977)に現在地へ移されました。

大阪市中央卸売市場本場

農水産物などの市場が形成されたのは、豊臣秀吉が大阪城を築城した頃から。

以後、江戸時代を経て発展。

現在の市場は、昭和6年(1931)に開設されたもの。

天神社

福島三天神のひとつで、福島天満宮が上の天神というのに対して、天神社は下の天神といわれています。

昌泰4年(901)に菅原道真が九州・太宰府へ左遷させられたさい、当社に参拝して海路の平穏を祈ったと伝えられています。

当時、この辺りが「鹿飢島(餓鬼島)」と呼ばれていましたが、地元の人たちに非常に親切にもてなされた菅原道真は、好字の「福」をつけて「福島」へと改めさせました。

今はちょうど梅が見頃です。

天神社(下福島天神社)

江戸時代の「摂津名所図会」に記されている福島三天神のの一つ。

あとの二天神は、現福島天満宮の上の天神と、太平洋戦争で焼失した中の天神(福島天満宮に合祀)。

菅原道真公が船で大宰府に流される際、旅の安全を祈願し、この辺りを福島と名付けたとも伝えられている。

福島聖天了徳院

東寺真言宗の仏教寺院。

創建年月は、洪水で記録が失われたため不明。

「浦江の聖天さん」の名で親しまれている。

ご本尊の11面観世音菩薩は、福島の海に沈んでいたのを地元漁師が引き上げ、奉ったと言われている。
また、松尾芭蕉も訪れ「杜若 語るも旅の ひとつ哉」と句を詠んでいるほど、カキツバタの名所でもある。

聖天通商店街・福島聖天通商店街

JR福島駅まで東西600mほどの商店街。

聖天さん(福島聖天了徳院)の参拝道であることから商店街の名が付けられた。

また、易相(占い)の大家・水野南北(1760~1837年)が聖天さんと縁があり、「売れても占い商店街(占い商店街)」の誕生のきっかけとなっている。

多くの占い師がおり、占いの館も常設。
占いを目当てに訪れる人が多い。

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九条島に眠る朝鮮通信使の悲話


現在の松島橋。

明治2年(1869)に松島橋が架橋され、大きな反橋(船を通すため)で有名になり、初代長谷川貞信の『浪花百景』にも描かれましたが、残念なことに明治18年(1885)の淀川大洪水で流出。

現在の橋は昭和5年(1930)に架けられたもの。

豪農・池山新兵衛によって開発された九条島。

大坂市中への海の玄関口として賑わい、松島の竹林寺は朝鮮通信使節の宿坊にもなりました。

一条も二条もないのに何故「九条」。

本格的に開発したのは、江戸初期の幕府役人・香西晳雲らと言われており、交友のあった儒学者・林羅山が「衢壌(くじょう)島」と命名。

「衢」は「ちまた、賑やか」を意味し、「壌」は「土地」に通じ、賑やかな場所になるように願ってつけられたとのこと。

その後、「九条」に変わったのは、諸説あるものの、「衢壌」が難しすぎるので簡単な字になったのが真相らしい。

古代縄文期の「九条」は、なにわの海の底で、上町台地を除いて陸地の面影はなかった。

その後、淀川などが運んだ土砂が堆積して陸地化が進み、なにわ八十島と言われるほど多くの島々が大阪湾に誕生。
その一つが九条島。

対岸は以前取り上げた「トコトコダンダン」

木津川遊歩空間(愛称:トコトコダンダン tocotocodandan)
今日は24節季の一つ「雨水」。 空から降るものが雪から雨に変わり、積もった雪も解 … 続きを読む →


松島橋の碑

かつては寺島と呼ばれ、木津川と尻無川との合流地点であるので、舟大工職人が数多く住んでいた。

明治元年(1868)に町名をつけるさいに、島北端の戎社に推定樹齢300年の「えびす松」があって景勝地として有名であったため、そこから松島と名づけられた。

明治初めには川口に外国人居留地が造られ、松島はその遊興地として開発。

大阪最大の遊所・松島遊郭が開かれ、のちには松島文楽座も出来て殷賑を極めました。

ジオラマで知る「川口居留地」
大阪住まいの今昔館8F、明治から戦後にかけての大阪を代表する住宅地を再現した住ま … 続きを読む →


九条島と朝鮮通信使の碑

朝鮮通信使は徳川将軍が代替わりした時などに朝鮮から日本へやって来た友好親善の使節で、江戸時代には計12回来日しています。

正使と副使の他に書記、通訳、書家、画家、僧侶、医師など、時には500名以上にもなる大集団でした。

異国情緒溢れる通信使が来訪すると、大坂三郷はおろか近隣からも見物者が訪れ、大坂中がお祭騒ぎになったといいます。

彼らは釜山を出港して対馬、瀬戸内海、九条島を通って川口で船を降り、そこから川御座船に乗り換えて淀へ向かい、淀からは陸路で江戸に向かいました。

梅本橋顕彰碑

明治3年(1870)、川口居留地と松島を結ぶために戎島渡が廃止されて梅本橋が架けられました。

橋名は西詰の梅本町からつけられましたが、梅本町の町名の由来は、竹林寺境内にあった「浪速津香之梅」という名樹に因むといいます。

大正4年(1915)には市電(松島~安治川線)が通るほど賑わいましたが、昭和27年(1952)頃、運河埋立工事で撤去されてしまいました。

現在では松島公園の一部となっています。

竹林寺は九条島を開いた豪農・池山新兵衛と幕府役人・香西皙雲によって慶安2年(1649)に建てられたといわれています。

朝鮮通信使の墓

江戸に行かず大坂に残った朝鮮通信使の宿舎としても使用され、明和元年(1764)、11回目の朝鮮通信使の金漢重(キムハンジュン)の墓があります。

金は朝鮮東莱府草梁の人ですが大坂で病に臥せ、同寺で亡くなりました。

本国には愛する妻と2人の子供がいて、望郷の念に駆られて子供に逢いたいと縋る金の姿に、大坂の医者たちも心を痛め、同じ年頃の日本の子供2人を金の枕元へ呼んで、我が子に見立てて看病させたといいます。

また同年の朝鮮通信使では、対馬の通詞・鈴木伝蔵が、御堂御台所で行列奉行の朝鮮人と口論になって打擲され、その恥辱を晴らすために全く関係ない通詞の崔天悰を殺害するという「唐人殺し」が起こりました。

鈴木は逮捕されて処刑されましたが、崔天悰の供養は同寺で行われました。

ちなみに事件は当時の常として面白おかしく脚色され、『世話料理鱸包丁』(『今織蝦夷錦』)『漢人韓文手管始』『世話仕立唐縫針』などの歌舞伎狂言の演目になっています。

九島禅院

江戸時代の大坂名所案内『蘆分船』に「龍渓禅師庵」として小さい草庵の図が掲載され、『九条村絵図』にも「屋舗五歩、興禅庵大隨」と記載されています。

山号は霊亀山で、これは龍渓禅師が弟子に招かれて九島院の開山法要をした際、亀が花を背負って祝福に来たという故事によるもので、境内には「亀の墓」もあります。

寛文10年(1670)8月、九条村が洪水に襲われたとき、弟子たちが禅師に再三、避難を勧めましたが、禅師は沈着冷静に「生死は数なり」と一偈を書いて、座禅を組んでお経を唱え、泰然として入寂したと言い伝えられます。

後世の人々は「九条の人柱」といってその死を悼み、後水尾法皇は龍渓禅師の弟子であったので、以後、毎年8月に水灯施餓鬼を修して禅師の菩提を弔いました。

10年後に幕府が河村瑞賢に命じて九条島を開削して安治川を通しましたが、それには「龍渓禅師の人柱」も動機のひとつになったといわれています。

九島禅院の境内、左手に亀の墓があります。

茨住吉神社

茨住吉神社の茨は、当時この地域に茨が群生していたからという説や、摂津菟原郡(茨郡)の住吉神社から分祀したので元は「うばら」で、それが「いばら」に転訛した・・・といった説がありますが、確かな事は判っていません。

かつて当地には楠があり、その傍に祀られていた小祠でしたが、池山新兵衛の勧請で新田・河川の守護神として祀られました。

楠は戦前、樹齢約700年といわれていましたが、大阪空襲で焼け、しかし御神木として今も大切に保存されて「焼け楠」と呼ばれています。

にぎやかなアーケード商店街を抜けると九条新道。

大阪市電創業の地碑、花園橋停留場があった場所に建つ、かの、松下幸之助氏は、この大阪市電を眺めながら「これからは電気の時代!」と思いついたと、松下電器の社史にも記されています。

明治36年(1903)9月、九条新道の花園橋を起点に築港埠頭までの約5キロメートルに大阪市電が開通。

公営による電気鉄道は日本初の快挙でした。翌年(1904)には、これまた日本初の試みで「2階付電車」が走り、これは路面電車の上に長椅子が並ぶテント屋根付きのデッキを備えたもので、夏は「納涼電車」、冬は「魚釣り電車」と呼ばれて一躍、大阪名物となりました。

この「2階付電車」は市電創業50周年記念のさいに模擬電車が作られ、現在、緑木検車場(住之江区)に保存されています。

その後も大阪市電は拡張し続け、最盛期には総延長約110キロメートルまで路線が拡大、市電としては東京都電に次ぐ規模に達しました。

しかし戦後、中馬馨大阪市長が大阪港の防波堤工事を田中角栄大蔵大臣に陳情したさいに「防波堤工事は国がやるが、代わりに大阪市電廃止を」(角栄は日本列島を高速道路、新幹線で結ぶ列島改造論者だったので)と言われ、結局、大阪市側はそれを承諾。

高速道路主体、自動車偏重の都市計画が進み、大阪市民に愛惜されながらも、昭和44年(1969)に、大阪市電は、その栄光の歴史を終えました。

千代崎橋

明治初期の木津川は、高い帆柱を有した船が数多く往来したため、橋を架けるのにも舟運と陸上交通を両立させる工夫が必須でした。

明治5年(1872)に架橋された初代千代崎橋は、その課題を克服するために、橋板の中央部分が開く構造になっていました。

また、この橋の反りは大きく、端部の最急勾配は18%にもなっていました。

珍橋として浪花名所になりましたが、この橋も明治18年(1885)の淀川大洪水によって流出。

その後、普通の木桁橋が架けられましたが、これは関西の貿易港として神戸がどんどんと隆盛していき、大阪(安治川、木津川、尻無川)が没落していった証明でもありました。

千代崎橋は松島橋、伯楽橋と同様に戦前の都市計画事業によって、現在の橋に架け換えられています。

なお、地盤沈下によって橋が低くなったこともあって、昭和31年(1956)に嵩上げ工事が行われています。

安治川河底トンネル
かつて安治川上流には、マストの高い船の航行に邪魔にならないよ うに、ロクロを利用 … 続きを読む →

大阪歴史博物館
久し振りに同館を訪れたが10年1日のごとく何も変わっておらず、唖然とした。 水都 … 続きを読む →

水都大阪の安治川河口の様子。

天満宮行宮

天神祭のクライマックスである船渡御は、現在は大川上流に遡りますが、明治期から昭和初期までは大川から堂島川、木津川へと進み、木津川橋下手の江之子島に上陸。

その後、陸路で松島の天満宮行宮(御旅所)を目指しました。その後、松島遊郭で夜通し遊び、翌朝に天満に帰っていったといいます。

しかし、戦後の地盤沈下によって船が橋をくぐれなくなったため、現在のようなコースに改められました。

京セラドーム大阪

平成9年(1997)に大阪ガス工場跡地に完成。東京ドーム、福岡ドームに次ぐ日本3番目のドーム球場です。

プロ野球のオリックス・バファローズの本拠地で、阪神タイガースも主催公式戦の一部を開催しています。

草野球向けの一般貸し出しも可能。

施設命名権(ネーミングライツ)売却で、平成18年(2006)から呼称を京セラドーム大阪としています。

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お帰りノムさん


大阪球場跡地に建つ「なんばパークス」の「南海ホークスメモリアルギャラリー」に、昨年2月11日に84歳で急逝した野村克也さんの愛用品が新たに展示され、14日に記念式典が開かれた。

同チームで活躍した野村克也さんの資料がなかったことから、現役時代一緒にプレーしていた江本孟紀さんが発起人となり、昨年11月からクラウドファンディングでリニューアルの資金を募っていた。

リニューアルでは既存の展示パネルに野村さんを加えるほか、野村さんゆかりの品を展示する予定だったが、支援金が目標額を上回ったことで、外観も併せてリニューアル。

「野村克也 青春のホームベース」「栄光の南海ホークス」「大阪球場ヒストリー」など5つの映像作品も館内放送用として追加されている。

1977年に南海監督を解任された経緯から、2017年12月に亡くなった沙知代夫人が野村さん関連の展示を断っていたが、44年ぶりに「南海・野村」が大阪球場に帰ってきた。

南海ホークス
若い人は「南海ホークス「」と聞いてもピンと来ないかもしれない。 今の「福岡ソフト … 続きを読む →

バットやユニフォームなどの展示がないだけではない。
年表にさえも「野村克也」の文字は一切ない。

先日亡くなられた時も献花台すら用意されなかった。
いろいろと確執があったようだがそれにしても寂しすぎる。

ノムさんが帰ってくる日
9階はなんばパークスの最上階。 パークスガーデンという、緑豊かな空中庭園となって … 続きを読む →

03年の「メモリアルギャラリー」完成後、テレビ番組の収録で訪れた本人は「野村の“の”の字もない」とボヤいたものだが、一転して“野村だらけ”にリニューアル。

ユニホーム、バット、ミット、サインなど南海時代のゆかりの品であふれかえった。

三冠王色紙 1965(昭和40)年 「運鈍根」

家族の協力により、南海でのラストシーズンとなった1977年に着用した背番号「19」のユニホームやバット、キャッチャーミットなどが展示された。

いつも静かなギャラリーだがこの日は熱心なファンが詰めかけ、「杉浦の血染めの4連投」とか「江夏の21球」のエピソードに花が咲いてる。

球団史もノムさんが加わることによりがぜん華やかになった。

1954年、南海にテスト生として入団。
背番号は60。

同期入団には皆川睦雄や宅和本司がいる。

3年目の1956年には背番号が19に変わる。

ハワイでの春季キャンプで一軍メンバーに抜擢されると、そのまま正捕手に定着し、レギュラー1年目で早くもベストナインに選ばれた。

杉浦忠

卒業後は日本ビールか朝日新聞社への入社も考えていたが、1958年に南海ホークスへ入団。

夢にまで見た大阪・御堂筋の優勝パレードで、ファンの歓呼に応える(先頭車左から)杉浦忠投手、中沢不二雄パ・リーグ会長、野村克也捕手ら南海ナイン=1959(昭和34)年10月31日。

1965年には戦後初の三冠王に輝く。

捕手の三冠王はメジャーリーグでも前例がなく、鶴岡は「捕手という重労働の中で、ノムは三冠王をものにした。

それだけに、ほかの選手がやる以上にりっぱなものです。

捕手で三冠をとったのは、もちろん世界で初めてです」と祝辞を述べている。

杉浦忠

下手から浮き上がる速球と横に大きく曲がるカーブで相手打者を手玉に取り、この年は27勝を挙げて新人王を獲得、鶴岡を「これでやっと西鉄を叩くことが出来る」と喜ばせた。

2年目の1959年は38勝4敗(勝率.905)という驚異的な成績で南海のリーグ優勝に貢献し、MVPを獲得、日本シリーズ(対読売ジャイアンツ戦)では第1戦から4連投し、4連勝の大活躍で南海を初の日本一に導き、シーズンに続いて日本シリーズMVPを獲得した。

大阪球場で迎えた第1戦と第2戦、杉浦は第1戦に先発、第2戦にもリリーフ登板し、2勝を挙げた。

ここで監督の鶴岡は、一気に勝負に出る。

舞台を敵地・後楽園球場に移した第3戦、雨天中止を挟んで迎えた第4戦にも杉浦を先発登板させ、ともに完投勝利を収める。

その第4戦では、指のマメをつぶしながらの「血染めの4連投」を完封で飾り、杉浦擁する南海はついに悲願の「打倒巨人」を成し遂げた。

野村氏と南海の確執

南海の監督兼捕手だった野村氏は1977年のシーズン(2位)残り2試合で解任された。

球団が当時交際中の沙知代夫人(17年死去)の言動を問題視したため。解任理由を不服とする野村氏は大阪府豊中市刀根山の自宅マンションに江夏豊、柏原純一らと籠城。

「鶴岡元老の圧力に吹き飛ばされた」と元監督の鶴岡一人氏(00年死去)を批判し、ロッテに移籍。

球団だけでなく、恩師とも絶縁状態になった。

18年2月の巨人とのOB戦でホークスの総監督を務めるなど、近年雪解けの気配があった。

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木津川遊歩空間(愛称:トコトコダンダン tocotocodandan)

今日は24節季の一つ「雨水」。

空から降るものが雪から雨に変わり、積もった雪も解けて水になるころ、という意味。

農耕の準備を始める目安とされたが、世間では雪花が散り、北風が吹き荒れる寒い日が続いています。

春まではもう少しかかるようです。

トコトコダンダンは、水都大阪再生の取り組みの一環として、水辺の回遊性を向上させるための遊歩道事業のうちの一つとして整備されました。

細い入り口から奥に300mほど広がっています。

地域の方々のくつろぎの場、憩いの場、散歩道、遊び場などとして活用されています。

この日も階段部分でお昼をいただく人、犬と散歩する人たちの姿が見られました。

途中広くオープンスペースになる部分が独特の平面形状になっているが、元々は広場の方向に続く堀と木津川の接続部を埋め立てた箇所にあたる。

第2回 日本建築設計学会賞(大賞候補作品)、グッドデザイン賞2018、土木学会デザイン賞2018年度,2019年度奨励賞を受賞している。

もともとは大阪城築城時に材木の物流拠点として使用された材木浜だったが、1955年以降、数回にわたり防潮堤が築かれ、水辺が遠い状況にあった。

2010年までに耐震補強された護岸を土台とし、その上部に広場と片持ち梁の雛壇状の遊歩道が設置される。

川に面する「だんだん畑」がコンセプト。
『トコトコダンダン』の名前の由来は、こんな風に、広場にたくさん段差があることなのです。

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モダン大阪発祥の地 川口居留地


~木津川橋を渡ってみれば文明開化の音がする~

慶応4年(1868)に架けられた木津川橋を渡った先に川口居留地がありました。

木津川橋は明治9年(1876)に木橋から鉄橋に架け替えられ、馬車道と歩道が区別されました。

明治初めの新風俗は川口から入り、大阪に暮らす人々の生活に多大な影響を与え、変化をもたらしました。

開港時の様子を思い浮かべながら歩いてみたい。

船手会所は元和6年(1620年)に設けられた江戸幕府の役所で、大阪湾から木津川・淀川に出入りする船の管理と、湾内に停泊している船の管理を行う船番所は、川口の会所と、春日出と三軒家にあった。

会所は元治元年(1864年)廃止され、神戸海軍操練所に業務移転した。

旧川口居留地は、1868年から1899年まで現在の大阪府大阪市西区川口1丁目北部・同2丁目北部に設けられていた川口外国人居留地の跡地。

旧大阪居留地、旧大阪川口居留地ともいう。

開市開港直前の大阪では、安治川と木津川の分岐点に位置する川口に船番所や組屋敷を設置していた大坂船手が軍艦奉行の勝海舟の提言によって1864年に廃止され、その跡地を外国人居留地に充てることが予定されていた。

しかし、貿易港としては短命に終わっている。

川口および当時の大阪港である安治川左岸の富島は、安治川河口から約6km上流に位置する河港であるため水深が浅く、大型船舶が入港できなかった。

1872年には外国船の入港が途絶え、川口の外国人貿易商は良港を有する神戸外国人居留地へ続々と転出した。

川口居留地の廃止

明治27年(1894)7月、第2次伊藤博文内閣の外務大臣・陸奥宗光は、英国と新しい通商航海条約に調印し、安政五箇国条約(1858年調印)の改正に成功しました。

この条約改正により明治32年(1899)7月に日本各地の居留地は廃止されることになりました。

同年7月、居留地議事館裏のグラウンドではお別れパーティが開かれ、居留民らは別れを惜しみました。

居留地議事館では第126回居留地会議が開かれて居留地は大阪府に引き渡され、大阪府は大阪市に居留地を引き継ぎました。

居留地時代の建物は現存しないが、1920年竣工の壮麗な大聖堂である日本聖公会大阪主教座聖堂川口基督教会(ウィリアム・ウィルソン設計、大阪府指定文化財)が当時の街の面影を伝えている。

川口には外国人貿易商に代わってキリスト教各派の宣教師が定住して教会堂を建てて布教を行い、その一環として病院、孤児院、学校を設立し経営を行った。

1884年には、26区画の内、キリスト教関係の施設が20区画を占め、2年後には10区画が増設されるほどだった。

平安女学院、プール学院、大阪女学院、桃山学院、立教学院、大阪信愛女学院といったミッションスクールや聖バルナバ病院等はこの地で創設されたのである。

それら施設も高度な社会基盤が整備されるに従い、武家屋敷の破却により空地が生じた玉造をはじめ、現在の天王寺区や阿倍野区域に当たる上町台地へ広い敷地を求めて次々と移転して、川口は衰退への道をたどることになる。

カッフェー・キサラキ゛跡

明治末に大阪で最初に開業したカフェで、川口教会の南東側にあり、木津川に面した洋風2階建ての建物であった。

カフェには画家・詩人・演劇人などの芸術家が集まるサロンとして賑わった。

大阪開港の地(川口運上所跡)
大阪電信発祥の地(川口電信局跡)
川口運上所跡と大阪電信発祥の地
西区川口二丁目の9

慶応3年(1876年)この地に大阪税関の前身である「川口運上所」が設置され、外国事務、税関事務を取り扱っていた、今も隣接に大阪税関富島出張所がある。

諸外国の貿易取り締まり、関税徴収を担当する運上所は、幕末から明治初年に各開港場、開市場に設置されました。

大阪の運上所では、慶応4年(1868)4月末から五代友厚らがその任にあたって大阪開港前後の諸問題を解決しました。

また、運上所は川口居留地造成のための地上げ普請請負業者の募集や競売開催などを含む居留地関係の事務も担当しました。

明治3年(1870年)に川口運上所内に川口電信局が設置され、川口運上所から神戸まで電信線が架設開通しました。

これが日本最初の電信線であり大阪電信発祥の地である。

後に明治天皇がこの地に立ち寄られたので「明治天皇聖躅」の石碑が大正14年に建立されている。

富島天主堂跡

明治12年(1879年)頃、フランス副領事の請願にもとずき、ここ富島に本格的な赤レンガ造りゴシック様式の建物で「カトリック礼拝堂」をこの地に建てました。

今はありませんが大阪府庁江の子島庁舎と共に当時は洋風建築の代表的建造物でした。

今は聖マリア教会と聖マリア幼稚園になっています。

またこの辺はかっては外国人雑居地であった、多くの中国人が中華料理店や理髪店を開いていた。

安治川橋之碑

川口居留地設置後、明治6年(1873)に新たに架けられた安治川橋は、中央の二径間が鉄橋で、高いマストの船が航行する際には橋桁が旋回する可動橋であり、「磁石橋」というあだ名が付けられました。

明治18年(1885)の淀川大洪水では、浪華三大橋(難波橋、天神橋、天満橋)など多くの橋が流出し、流木となって安治川橋に引っ掛かりました。

危険を回避するために安治川橋はそのときに爆破され、以後架けられませんでした。

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