長居植物園 ヒガンバナが見頃です

初秋の花ヒガンバナを求めて長居植物園へ、ボタン園の西側に群生しています。

同好の士が自然に何人か集まっています、それぞれに熱心にカメラを向ける。

壱師(いちし)は具体的に何をさすのかは確定していません。ギシギシ、イタドリ、イチゴ、エゴノキなどの説がありますが、彼岸花(ひがんばな)が最有力候補といわれています。

万葉集には1首だけに登場します。

道の辺のいちしの花のいちしろく人皆知りぬ我が恋妻は
柿本人麻呂 巻11-2480

道端のいちしの花が目立つように、私の恋しい妻のことをみんなに知られてしまいました。

ヨメナはキク科の多年草。道端で見かける野菊の一種。

若芽を摘んで食べる。
古くは万葉集の時代から使われていたようで、オハギ、あるいはウハギと呼ばれている。

ヨメナご飯なども有名。
名前の由来は嫁菜とも夜目菜とも言われ、はっきりしない。
一説には、美しく優しげな花を咲かせるため「嫁」の名がつくといわれている。

春日野かすがのに 煙けぶり立つ見ゆ をとめらし 春野のうはぎ 採みて煮らしも

作者不詳 巻10-1879

春日野の方に青い煙が立ちのぼっているのが見えるけれど、あれはきっと、乙女たちがヨメナを摘んで煮ている煙に違いない。

ハギの花が目立つ季節になりました。

ハギは、マメ科ハギ属の総称。落葉低木。秋の七草のひとつで、花期は7月から10月。

をとめらに ゆきあひのわせを かるときに なりにけらしも はぎのはなさく

手に取れば袖さへにほふをみなへしこの白露に散らまく惜しも
作者不詳 巻10-2115

手に取ると袖まで美しく染まりそうな女郎花(おみなえし)が、この白露に散ってしまうのが惜しいことです。

ヒオウギはアヤメ科アヤメ属の多年草。

黒い種子は俗に射干玉(ぬばたま・むばたま・ぬぼたま)と呼ばれ、和歌では「黒」や「夜」にかかる枕詞としても知られる。

ぬばたまの、夜さり来れば、巻向(まきむく)の、川音(かはと)高しも、あらしかも疾(と)き

作者不詳 巻7-1171

秋づけば、尾花(をばな)が上に、置く露の、消ぬべくも我は、思ほゆるかも

日置長枝娘子(へきのながえのをとめ) 巻8-1564

秋になると尾花(をばな)につく露のように、はかなく消えてしまいそうなくらいに、あなたさまのことを思っています。

大伴家持(おおとものやかもち)に贈った歌です。

フジバカマはキク科ヒヨドリバナ属の多年生植物。秋の七草の1つ。

萩の花 尾花葛花なでしこの花を みなへしまた藤袴朝顔の花    山上憶良 巻8-1538

ボケが立派な巳を付けています。

シコンノボタンは、ノボタン科ティボウキナ属(和名シコンノボタン属)の常緑低木。別名スパイダーフラワー

紫紺野牡丹の花色である紫色は、人の気持ちをリラックスさせる効果があります。
そのことのから、「平静」という花言葉が付けられました。

「謙虚な輝き」という花言葉は、英名のGlory bush(輝きの木)に由来します。

ムクゲはアオイ科フヨウ属の落葉樹。
別名ハチス、もくげ。
庭木として広く植栽されるほか、夏の茶花としても欠かせない花。

『万葉集』では、秋の七草のひとつとして登場する朝貌(あさがお)がムクゲのことを指しているという説もあるが、定かではない。

言に出でて、云はばゆゆしみ、朝顔の、穂には咲き出ぬ、恋もするかも
作者不詳 巻10-2275

口に出して言って悪いことが起こるといけないので、朝顔の花のように、目立たないように恋をするのです。

バタフライガーデンで、オトコエシが咲いています。

秋の七草の1つオミナエシの仲間。

オミナエシによく似ていますが、花が白く、全体に太く、毛が多いのが特徴。

漢字では「男郎花」と書きます。和名の語源は諸説あり、はっきりしません。

バタフライガーデンは身近なチョウをいつでも観察できて、旅をするチョウ・アサギマダラなどの長距離を移動するチョウたちが、大都会の大阪市内で休憩できるオアシスです。

アサギマダラの成虫は長年のマーキング調査で、秋に日本本土から南西諸島・台湾への渡り個体が多く発見され、または少数だが初夏から夏にその逆のコースで北上している個体が発見されている。

今回もレンズベビーの練習です。
テーマは花園で遊ぶ娘たち。

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長居植物園へのアクセス、行き方歩き方

住所:大阪市東住吉区長居公園1-23
TEL:06-6696-7117 FAX:06-6696-7405

地下鉄御堂筋線「長居駅」より徒歩10分

京都 西山 善峯寺

山号は西山。西国三十三所第20番札所。善峰観音宗(天台宗系単立)。
桜や紅葉の名所になっているとともに境内各所から京都市街、比叡山を一望できる。

急な階段を登り切ったところが東門。

かなり急勾配の石段の参道を上がると、大きな「山門(仁王門)」(左の写真)が眼前に現れる。

山門前の広場は「山門」の大きさに比べ狭小であり、通常のカメラで「山門」の全体像を捉えるのは困難。

承久の乱が起こったとき、後鳥羽上皇の皇子道覚法親王が避難したのがきっかけとなり、それ以後、青蓮院の宮様である慈道、尊円、尊道、尊祐、尊真、尊寶、尊証の各法親王が歴代の住職となった関係から、この寺が「西山の宮」といわれるようになったとされている。

山門の標示「西山宮門跡」がそれを表している。

山門、観音堂は元禄5年(1692年)建立。

寺に伝わる『善峯寺縁起絵巻』(江戸時代)等によれば、長元2年(1029年)、源信の弟子にあたる源算が創建したという。

その後、長元7年(1034年)には後一条天皇から「良峯寺」の寺号を賜った。

鎌倉時代初期には慈円が住したことがあり、このころ後鳥羽上皇直筆の寺額を賜ったことによって寺号が善峯寺と改められた。

青蓮院から多くの法親王が入山したため「西山門跡」と呼ばれた。
応仁の乱に巻き込まれて伽藍が消失したのち、江戸時代になってから桂昌院の寄進によって再興された。

護摩堂から多宝塔へ。

境内にある遊龍の松(天然記念物)は、高さ2メートル余だが、横へ37メートル以上も幹を伸ばし、龍の姿に似ている。

「開山堂」横を通り、一寸した坂を上り多宝塔の北側に当たる小高い場所に出ると、善峰寺の再興に力を尽くした「桂昌院廟」が建てられている。

この廟には宝永2年(1705年)6月に79歳で他界した桂昌院の遺髪が納められているという。
源算上人ほどでないにしても、桂昌院も当時としては長命である。

山内最古の建物である多宝塔は元和7年(1621年)の建立。

国の重要文化財に指定されている。本尊は愛染明王。

他の諸堂宇も大部分は江戸時代、桂昌院の援助で整備されたもの。

十三仏堂・弁財天堂・毘沙門堂・護法堂の四社があり、全て元禄5年(1692)建立。

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善峯寺へのアクセス、行きかた歩き方

善峯寺公式サイト

京都市西京区大原野小塩町1372
TEL 075-331-0020

JR京都線向日町駅または阪急京都線東向日駅から、阪急バス66系統善峯寺行にて終点善峯寺下車、徒歩8分
冬季の間、善峯寺行バスは手前の小塩止まりとなる。

弥勒谷十三仏


柳谷参詣道から、古刹「乗願寺」への岐れ道角に苔むした石仏がある。

弥勒谷十三仏と言われるもので、岩壁に不動明王・大日如来・地蔵菩薩など13体の仏様が安置されています。

十三仏(じゅうさんぶつ)は、十王をもとにして、江戸時代になってから日本で考えられた、冥界の審理に関わる13の仏(正確には仏陀と菩薩)。

また十三回の追善供養(初七日~三十三回忌)をそれぞれ司る仏様としても知られ、主に掛軸にした絵を、法要をはじめあらゆる仏事に飾る風習が伝えられる。

死亡した時を1日目として数え、初七日は命日から7日目(6日後)。
他の日数・年数も(一周忌以外は)全て同様。(関西地方では、死亡した日の前日から数えることもある)

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西山の大仏 乗願寺

楊谷寺へ向かう峠道から別れ、峠を越えた山間の浄土谷に、乗願寺(じょうがんじ)はある。
号は浄土山。

本尊の「阿弥陀如来坐像」は、大仏(おおぼとけ)、浄土谷の大仏、西山の大仏ともいわれ、京都府下でも数少ない大仏の一つ。

平安時代後期作、定朝様式で、その後の補修も多い。近年復元された。
恵心の作ともいう。八角の蓮華上に定印、結跏趺坐する。丈六(2.8m)ある。府の指定文化財に指定されている。

札所本尊は左脇侍(向かって右)に安置されている「十一面観音立像」。

寺伝によれば、比叡山の恵信僧都源信が弥陀の影向を拝してその姿を刻み草庵にまつったのが乗願寺のはじめという。

栄える比叡山を避けて静かな地で修行や隠遁を願う僧が開いた地であったのがこうした寺伝を生んでいったのかなどと想像される。

ところで、この仏像の前には、「正しい拝観の仕方」が書かれた紙が置いてある。

それによると、仏のまわりを回ること、膝に触ることとある。
触るなという注意はよく見るが、触れというのは珍しい。

さらに回り方、触り方にも決まりがあって、これまで幸福だった人はどっちまわり、そうでなかった人はその逆、また、男はどっちの膝、女はどっちの膝と決まっている。

この寺には猫がたくさんいて愛嬌をふりまく。
何か語りかけるような目つき。



決定的瞬間、どうもおおきに。

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乗願寺へのアクセス、行きかた歩き方
長岡京市浄土谷堂ノ谷4
075-957-4148

1) 阪急長岡天神駅から阪急バスで10分奥海印寺下車- 徒歩で40分
2) JR長岡京駅から阪急バスで15分- 徒歩で40分
3) 阪急西山天王山駅から阪急バスで5分金ヶ原口下車- 徒歩で45分

独鈷水(おこうずい)の寺 楊谷寺

楊谷寺(ようこくじ)は京都府長岡京市にある西山浄土宗の寺院。独鈷水の寺として、また近年は紫陽花の寺としても知られている。
通称柳谷観音(やなぎだにかんのん、楊はヤナギ)。

参道を奥に進むと石段があり、これを上ると『立願山』の額のかかった「山門」が建っている。

山門脇には不動尊像、観音像等がある、餓鬼の表情も何とも言えない。

本堂右手奥には弁天堂があり、淀君像の後ろには弁財天が祀られている。

寺伝では清水寺の開祖延鎮が806年に開山したとされ、延鎮が夢告によりこの地で十一面千手千眼観世音菩薩像を感得し、堂を建て安置したのが始まりとされる。

その後延鎮が清水寺に帰った後に空海が度々、ここで修行をした。

その際に猿が瞑れた目をここの湧き水で洗っていたのを見た空海が眼病に効く独鈷水として広めたという。

「本堂」前の広場東側から奥の院に上がる石段があり、それを上ると奥の院までなだらかな坂が続いている。
本堂の前から奥の院までは歩いて数分の距離。

独鈷水

弘法大師が度々、当寺に参詣されていたが、弘仁2年(811年)のある日、岩屋からしたたり出る水で小猿の目を洗う親猿を見て、これは霊験のある水であると悟ったという。

猿に効く水ならば人にも効くはずと考え、弘法大師は17日間加持祈祷を続け独鈷で水をかきまわし続けたといわれている。

以来、眼病平癒をはじめとして諸病治癒に霊験のある霊水として「柳谷の独鈷水」と呼ばれ、全国に知られるようになり現在に至っているという。

弘法大師像、独鈷水近くに立つ。

伽藍は山の斜面に造られており、奥ノ院と本堂は美しい庭園のある長い回廊で結ばれて いる。

ここに湧出する霊水・弁天水は麗顔成就にご利益があるとされている。

平成9年6月には「あじさいのみち」が整備され、約4,000本のあじさいが植栽されている。

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楊谷寺へのアクセス、行きかた歩き方

楊谷寺公式サイト

京都府長岡京市浄土谷堂ノ谷2
(075)956-0017

阪急「長岡天神駅」から5.2km    
JR「長岡京駅」から6.2km    
阪急「長岡天神駅」下車徒歩90分又はタクシーにて20分    
阪急バス「奥海印寺」下車徒歩55分

継体天皇の真の陵墓?高槻市・今城塚古墳古代歴史館 訪問記

造今城塚古墳は営時の6世紀前半では最大級の古墳。
宮内庁の治定は受けていないが第26代継体天皇の真の陵とする説が有力で、発掘調査が可能な大王陵になる。

古代体験ミュージアムとして2011年(平成23年)4月に開館。

シンボルマークは古代船、発掘されたハニワの線刻画からとられている。

古代船の線刻画が描かれた円筒埴輪。

巨大な復元模型。
6世紀前半に築造された今城塚古墳は淀川流域で最大級の前方後円墳。

周囲は二重の濠でめぐらされており、その規模は、外濠までふくめると、何と約350メートル!
後円部に比べて、前方部が大きく開き、巨大化しているのも、この時期の前方後円墳の特徴。

埴輪祭祀区から発掘された多くの埴輪。

国内最大の家形埴輪。

石棺に使われた凝灰岩は、奈良や兵庫県、遠くは熊本県などから入手している。
並外れた権力のもとに造られたことがうかがえる。

思わずギョッとする、石棺内部、被葬者の模型、継体天皇を想定しているのか?

古墳築造の様子をジオラマで。

真の継体天皇陵である可能性が高いことから、戦前《1935年-1944年(昭和10年-昭和19年)》に設けられた臨時陵墓調査委員会においても、この古墳を「陵墓参考地に編入すべし」との答申が行われた。

しかし、宮内庁は今城塚古墳の陵墓参考地指定については現在も難色を示しており、今城塚古墳から1.3キロメートル西にある大阪府茨木市の太田茶臼山古墳を継体天皇陵に治定している。

太田茶臼山古墳の築造は5世紀中葉と考えられており、継体天皇が没したとされる年代よりも古い時代の古墳と考えられる。

墳丘の荒廃が著しいことは、一時は織田信長が三好家を攻めた1568年(永禄11年)の摂津侵攻に際し築いた城砦として使われたためと理解されていたが、発掘調査の結果、1596年(慶長元年)の伏見大地震によって墳丘が地すべり性の崩壊を起こしたものと判明している。

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今城塚古墳古代歴史館へのアクセス、行きかた歩き方

高槻市郡家新町48番8号
072-682-0820

JR摂津富田駅より<南平台経由・奈佐原>行き「今城塚古墳前」徒歩すぐ または<関西大学・萩谷・萩谷総合公園>行き「氷室」徒歩8分

乱世を生きた戦国武将最後の地を巡る 若江の戦い

八尾・若江の戦いは、豊臣家の江戸幕府に対する最後の抵抗を鎮圧するために行われた大坂の陣(大坂の役)のうち、1615年(慶長20年)に発生した大坂夏の陣における戦いの一つ。

東大阪市岩田町3丁目 飯島三郎右衛門の墓

飯島三郎右衛門は、市内高井田村の生まれで、幼少の頃より弓道が得意で成人して、戦国武将織田信長に仕えた。

信長の死後、豊臣秀吉に仕え、秀吉死後は、その子秀頼に仕えた>

元和元年(1615)年五月「大坂夏の陣」の若江、八尾付近の戦いで、木村長門守重成に属して徳川軍と戦い、相手方の武将山口伊豆守重信に槍で突かれ、この地で戦死。

重成、重信ともに戦死するという壮烈な戦いであったといいます。

また、三郎右衛門の戦死のこの地は沼地で大小の用水の集合地であり、若江村と岩田村を結ぶ「雁戸樋橋(かりんとばし)」という細い橋がありましたが、今も道路の下には昔と変わる事無く、楠根川にそそぐ水が流れています。

南北朝時代以来の歴史を残す若江城跡、現在の東大阪市立若江小学校の近くに石碑が建つ。

畠山基国は実力派の重臣遊佐長護と共に守護所を定める時点で河内に下向し、防衛に適してなお河内の政治を統括し、周辺の経済活動の中心としての将来性、周辺事態に対しての軍事行動が容易であるなど観点から、若江鏡神社が祀る大伊迦槌火明大神を城の守り神とし、神社に射す朝日を遮らぬようにその西側に城の中心を定めた。

長護は近隣の村落に檄をとばして農夫を集め、築城を開始した。

1382年、後に室町幕府の管領となる畠山基国によって築かれた若江城は、以後、河内国の要衝としてたびたび兵乱の舞台となった。

1573年、織田信長によって京を追放された室町幕府第15代将軍・足利義昭が羽柴秀吉の警固を受けて当地に入城したことでも知られる。

お城自体は1583年に破却されるが、大坂夏の陣に際して、東西両軍が当地で激しい攻防を繰り広げた背景に、かつての若江城が背負っていた地政学的な重要性があったことは充分に考えられます。

若江という名称の由来は河内国若江郡に由来する。

若江郡の若江は神功皇后の4年6月に大旱魃があり、この地域の農作物が大被害を受ける可能性が高まった際に、大般若経を唱和し雨乞いの祈願をしたところ、14日目に雨乞いは叶わなかったもののこの地に清水が滾々と湧き出し農作物が大被害を受ける危機から救われた。

このことから、大般若経の「若」と清水の源という意味の「江」をとり、若江郡と称せられたという。

また、一説に、古代の新開池は河内湖というほど大きく、その入り江のひとつが「若江」という名であったともいう。

東大阪市若江南2ー3-7の蓮城寺にある木村重成陣所跡。

蓮城寺・位牌堂にまつられている重成の肖像。

母親が豊臣秀頼の乳母であったことから、重成は幼少時より秀頼の小姓として仕えていたとされる。

夏の陣にさきがけておこなわれた冬の陣では今福砦の戦いで活躍し、その武勇を全国にとどろかせています。

当時、重成の本陣が置かれていた地には、現在、蓮城寺が建っており、その境内には重成の肖像画を安置した位牌堂も存在する。


蓮城寺の北東約150mには木村重成の像が建てられ、その後方には「木村長門守夫人負烈碑」なるものが建てられている。

木村重成と妻の青柳は、大坂夏の陣より少し前に結婚をしたが、戦国期の武将としては珍しい恋愛結婚だったという。

重成没後、残された青柳は尼になり、重成の一周忌を終えると自害してしまったといわれるが、夫人・青柳を偲んでのものでしょう。

木村重成に由来する地名として東大阪市若江南町1丁目には『若江木村通』という交差点がある。

木村勢と戦い、戦死した東軍の武将・山口重信の墓。

重成の墓と恩智川を挟んだ対岸には、山口重信の墓も残されています。

重信は井伊勢に参加していた東軍の武将。重信は旧領の回復を願って東軍に参戦していましたが、若江の戦いで戦死。

しかし、その死によって、重信の宿願は後にかなえられた。
重信のお墓は、1647年、重信の三十三回忌に際して建てられた。

若江名勝図会に描かれた木村、山口両武将の墓。

両軍の武将の墓が恩智川を挟んだ両岸に残されている点は当時の合戦の様子を伝えたものでもあり、東西両軍が激しい戦いを繰り広げた若江の戦いを象徴する構図であるといえるでしょう。

木村公園(八尾市幸町6-2)には木村重成の墓があります。

大坂夏の陣で戦死した重成の墓は、もとはここから東五〇メートルの地点にあったが、 昭和四二年第二寝屋川の開削工事により、その川筋にあったのでここに移された。

豊臣方は、大坂城が大坂冬の陣ののち堀をすべて埋められてしまったため、夏の陣では城を出て戦わざるをえない状況になっていた。

幕府軍は河内方面、大和方面および紀伊方面より大坂城に迫った。

河内方面隊は藤堂高虎、井伊直孝を先鋒とし本多忠朝、前田利常、松平忠直など総勢55,000の兵で構成されており、立石街道から道明寺へ向かっていた。

そのあとに徳川家康、秀忠ら本営が続いた。

5月2日、豊臣軍では、河内口から来る幕府軍に対し、大坂城東方、大部隊の機動には適さない低湿地帯で迎撃することにし、木村重成の兵6,000が大坂城を出発した。

長宗我部盛親、増田盛次の兵5,300もそのころに出発したと思われる。

5月5日朝、木村重成は今福方面を視察し、こちらに幕府軍が来襲する可能性は低いと見た。
そこで徳川家康・秀忠本営に側面から迫るべく、若江に兵を進めることにした。

5月6日、木村重成は午前0時頃には出発したいと考えていたが、兵の集結が遅れ、午前2時頃にようやく出発できた。
途中道を間違え沼地で立ち往生するなど、木村自身や兵の練度に問題があり、進軍は順調にはいかなかった。

午前1時、井伊直孝は部隊に命令して食事させ、進軍の命を待たせた。

午前4時頃、藤堂勢の右先鋒藤堂良勝が若江に向かう豊臣軍を発見した。

幕府軍は勝手な戦闘は慎むよう命令されていたが、藤堂高虎は良勝の「豊臣軍は、家康・秀忠の本営への攻撃を企図しているのではないか、ただちに攻撃するべきだ」という進言をうけ開戦を決断、各隊に進撃を命じた。

午前5時頃、木村勢は若江に着陣、先鋒を3手に分け、敵に備えた。

その右手に藤堂勢の右先鋒、藤堂良勝、同良重が攻撃をかけた。

藤堂勢は兵の半数を失い敗走、藤堂良勝、良重は戦死した。
木村は玉串川西側堤上に鉄砲隊を配置し、敵を田圃の畦道に誘引して襲撃しようともくろんだ。

午前7時頃、井伊直孝は若江の敵への攻撃を決断、部隊を西に転進させた。
井伊勢の先鋒は右手庵原朝昌、左手川手良列。

木村勢を発見した川手は、玉串川東側堤上から一斉射撃後、敵に突入した。

堤上にいた木村勢は西に後退し、堤は井伊勢が占拠した。
川手はさらに突進したが戦死した。

そこに庵原も加わり激戦となった。
木村重成は自身も槍を取って勇戦したが戦死した。

山口弘定、内藤長秋も戦死し、木村本隊は壊滅した。

五月雨や啼いて今夜は不如帰

重成辞世の句

美女堂遺愛石碑。

いまの若江北町に美女堂氏という旧家があった。

その祖は、摂津国多田庄(現在の兵庫県川西市多田)の出身であり、摂津源氏として知られる源満仲の四男で、名を美女堂丸といい、故あって河内国若江に住した。

その子孫相承けて近世に及んだが、明治時代に大阪に移った。
若江には美女堂川・美女堂田の呼称をのこし、この美女堂氏が栄えたころを物語っている。

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お初さんの眠る 小浜 常高寺

常高院(お初)は「もし、将来国替えがあっても常高寺だけはこの若狭の地に、留めおいて下さい」と遺言に残している。

本名は浅井 初(あざい はつ)、一般に「初」の呼び名で知られる。
また、幼名は御鐺(おなべ)、於那。浅井三姉妹の一人。

常高寺(じょうこうじ)は、福井県小浜市小浜浅間にある臨済宗妙心寺派の寺院。
山号は凌霄山。浅井三姉妹の次女「初」、京極高次の正室(常高院)の祈願により建立され、常高院の墓所およびゆかりの文化財がある。

お初(1568?~1633)は父が浅井長政、母が信長の妹・お市の方で三姉妹の二女として生まれ小浜藩主・京極高次(1563~1609)の妻となった。

姉が秀吉の側室・淀殿(お茶々、二の丸殿、西の丸殿、淀君は後世の呼称)であり、妹が第二代将軍・秀忠の正室・お江である。

お初は夫・高次が没すると常高院と称して剃髪し仏門に入ってしまい歴史の舞台から姿を消した。

しかし、その後京都・方広寺の梵鐘の銘「国家安康・君臣豊楽」をきっかけに起こった1614年大阪冬の陣で、お初が家康に和睦の使者を申し出ると家康は、秀頼の参勤交代、大和へ国替、淀殿を江戸へ人質として差し出す、等を和解の条件として示した。

お初が再び歴史の舞台に現れたのがこの時でお初の調停により大阪城の外堀を埋める事で和解が成立した。

それにもかかわらず内堀まで埋められた大阪方の憤怒により1615年起きた大阪夏の陣でもお初は和平と姉・淀殿の救助を目指して豊臣・徳川間を幾度も往き来した。

しかし、淀殿と秀頼は幾度にもわたる家康の裏切りについに妥協する事はなかった。

お初が姉・淀殿に最後の別れを告げて大坂城を去ったのは1615年4月7日、大坂城落城は翌8日だった。

秀吉(1537~1598)没後17年で豊臣家は消滅した。
露と落ち露と消えにし我が身かななにはのことも夢のまた夢(太閤秀吉)

京極氏は北近江の守護で本来は浅井氏の主筋に当たるが、臣下の浅井氏の下克上を受け、高次はその庇護のもと、浅井の居城内で生まれた。

京極家の旧家臣である浅井家の娘・初(父は浅井長政)を正室とする。高次と初は従兄妹同士であった。

夫、高次の出世は自身の功ではなく、妹や妻の尻の光(閨閥)に拠ったといわれ、高次は陰で蛍大名と囁かれた。

しかし近江国支配を円滑に進めたい豊臣家は、浅井家以前に大名羽柴家の草創地である北近江の代々の領主であった京極家の名望を利用する目的があったものと思われる。

文禄2年(1593年)、高次の侍女於崎が忠高を懐妊すると、初(常高院)は嫉妬し殺害を企てた。
高次の家臣・磯野信高は、忠高を預かって浪人となり、初の機嫌が和らぐ文禄4年(1595年)まで幼い忠高をかくまったという。

現代に生きる我々は戦国の武将は跡継ぎ確保のため多くの側室を持ったと承知しているが、女の身から考えるとこういうことになるのかな。

秀忠の室お江もそうだったし、頼朝夫人もそうだった。

慶長20年(1615年)、大坂夏の陣で豊臣家が滅亡すると秀頼の娘、後の天秀尼の助命を家康に嘆願したとも言われている。

豊臣家が滅亡後は妹・江とよく会っていた。
江が亡くなる少し前に常高院は江戸で再会し、対談したという。

最終的に豊臣家と徳川家が敵同士となっても三姉妹は最後まで固い絆で結ばれていたとされる。

なお、彼女は三姉妹の中で一番長生きをした

寛永10年(1633年)、京極忠高の江戸屋敷(現・東京都港区虎ノ門)で死去、享年64。
遺言通り小浜に葬られた。

尾崎放哉の句碑が正門脇にある、1885年鳥取県生まれ。

一高~東大とエリートコースを歩んだものの、酒に溺れた事もあって会社勤めを3度も失敗し実社会で暮らすことは不可能と(38歳で)自覚し安住の地を求めて流浪。

ここから死に至るまでの僅か2年間で大量の名句を生みだした。

その放哉が1925年5月、小浜・常高寺に寺男として住みついた。

しかし荒廃した同寺は破産し、僅か2ヶ月で京都に帰らざるを得なくなってしまった。

浪音淋しく三味やめさせている

脇の像を見ているとふと放哉を思う。

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常高寺へのアクセス、行きかた歩き方

福井県小浜市小浜浅間1
0770-53-2327

JR西日本小浜線小浜駅から徒歩で15分

若狭武田氏の拠点 後瀬山城

後瀬山城はJR小浜駅の南西に聳える標高168m程の山に築かれている。
現在主郭には愛宕神社が祀られており、北東麓から整備された参道が続いている。

参道を登り始めると、最初はかなり急な石段が続いていく。

大永2年(1522年)若狭国守護・武田元光(発心寺殿)によって築城された。

のち、三代にわたり守護大名・若狭武田氏の拠点(若狭守護所)として栄えた。

若狭に続き丹後の守護も手に入れた武田家の隆盛をみた皇族や公家の一部は京都の戦乱を避け小浜に下向している。

城主は元光・信豊・義統、そして京極龍子が嫁いだ元明と続くが、龍子が嫁いだ頃には、守護武田氏の武威は衰え、隣国朝倉氏の支援なくしては何事も立ち行かなくなっていたのが実情である。

繰り返される被官人の反乱を抑えるには朝倉氏の武力に頼るしかなかったのである。
 
しかし、永禄11年朝倉氏は混乱する若狭に進攻すると、龍子の夫である守護元明を保護を名目に越前へ拉致する。龍子にとってもつらい日々であった。

主郭への石段。

関ヶ原の戦いの論功行賞により若狭一国を与えられた京極高次が入る。

高次は、町作りのため新たに小浜城の築城に取り係ったが高次および京極忠高の京極家藩主時代には完成せず、後瀬山城が近世に入っても依然若狭支配の居城であった。

主郭に建つ愛宕神社。

右は主郭の石段横の石垣跡。

少し下がったところから主郭部を見上げる。

主郭から北西に伸びる尾根は少し降った標高130m程の所から階段状の曲輪群があり、その先の尾根に堀切で遮断した先端野曲輪群がある。

この堀切に面した曲輪は西から南に掛けて土塁が巡り、西側面には畝状竪堀群が残る。
東山腹には長大な竪堀が数本あり、見所の一つである。

登城口の愛宕神社の鳥居。

かにかくに 人はいうとも若狭路の 後瀬の山の 後も逢わん君」(坂上大嬢 万葉集)
とうたわれているように、後瀬山という言葉には「後の逢う瀬」というロマンティックな意味もあるようだ。

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後瀬山城へのアクセス、行きかた歩き方

JR小浜線小浜駅~徒歩300m(登り口)

京極高次の居城 小浜城

関ヶ原の戦いの戦功により、小浜に近江大津6万石を領し大津城主であった京極高次が若狭一国を与えられ若狭小浜8万5,000石で入る。

先ず、天守閣跡に上る。

天守台跡を望む。
ご覧の通りすぐ近くまで民家が迫り石垣の撮影が極めて困難だ。

状況は分かっていたので秘密兵器を持参、超広角8㎜レンズ、お蔭で至近距離からの撮影も無理なくこなせた。

小天守跡。

江戸時代初期に、京極氏によって後瀬山城にかえて、海と河川を取り込んで築かれた海城である。

1601年、京極高次の代に着工され、京極氏2代にわたって普請工事が行われたが、完成を見ずして京極氏は出雲国松江に加増転封された。

西櫓跡。

替わって入封した酒井氏が二条城の様式を取り入れるなど、大幅に城の縄張を変更し、本丸天守を造営。
その8年後の1642年に小浜城は竣工した。

以降、若狭酒井氏の居城として明治を迎えた。

一旦 本丸内の西側へ戻る。
絵図によると当時はなかった通路のようだが、石垣の一部が切られておりそこから外へ出られるようなので、出てみる。

左側は小天守、右側は西櫓。

明治時代に大阪鎮台の第一分営が置かれたが、失火によって大部分の建物を焼失し残存していた天守も撤去されている。

本丸石垣を望む。
この場所からのこの画角は超広角でないと無理。

北川の河川拡張などにより現在は本丸以外は河川や住宅街となり、城の遺構としては本丸部分の外周石垣を残すのみである。

完全に民家にブロックされているが超広角レンズで難なくクリア、ひずみもそう気にならない。

1875年(明治8年)に本丸跡に藩祖である酒井忠勝を祀る小浜神社が建立された。

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小浜城へのアクセス、行きかた歩き方

福井県小浜市城内1-7-55
0770-52-1920

JR小浜線、小浜駅下車、徒歩15分