秀吉出世の地 墨俣一夜城

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1561年(永禄4年)ないし1566年(永禄9年)の織田信長による美濃侵攻にあたって、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)がわずかな期間でこの地に城を築いたと伝えられている。

これがいわゆる墨俣一夜城であるが、不明な点が多く、様々な議論がある。

現在、墨俣城跡の北西側は一夜城跡として公園に整備されている。
公園内には大垣城の天守を模した墨俣一夜城歴史資料館が建てられているが、史実上の外観とは異なる。

墨俣一夜城の周りを流れる犀川の堤防沿いに、約1000本の樹齢50年を超えるソメイヨシノの桜並木が2kmにわたり続いています。

桜のトンネルを抜けると墨俣一夜城(大垣市墨俣歴史資料館)があり、城と桜が見事に調和して風情があります。

飛騨・美濃さくら33選にも選ばれ、ライトアップされた墨俣一夜城を背景にした桜は必見です。

この地は秀吉出世の地といわれ、資料館へは「太閤出世橋」を渡ってはいる。

後に秀吉の旗印として有名になる千成瓢箪は岐阜城攻略の際の武功による。
木下藤吉郎の千成瓢箪発祥の地は戦国武将の野望を物語る 岐阜城で紹介している。

資料館の入り口には秀吉の像が鎮座する。

ここでは資料館入り口付近の紅葉が真っ赤で印象的であった。

西行法師の歌碑もあります。

春がやってきて「うぐいす」が、梅に止まり梅の実が成り始めて、花が散って終わる頃に美濃(岐阜県)と尾張(愛知県)の境にある洲俣に来たというほどの意味か。

裏手にまわる途中に「藤吉郎の馬柵」が再現されています。

永禄九年(一五六六年)九月墨俣築城において斎藤税の騎馬を防ぐため、地上高さ一間、地中三尺、松桧材使用藤づる二重巻きにて結び、城の周囲に二重に柵総数延長千八百間をめぐらした。

資料館最上階から西を望む、雪を頂いた山は伊吹山かな。

目を転ずると画面左端に岐阜城が望まれる。

最大限までズームアップして見る、確かに山上に天守閣が認められる。

館には織田信長公時代の岐阜城図が展示されていた。

当時の、墨俣城築城の略図、配置図、戦況などが記されている。

信長 秀吉 生駒屋敷の出会いの図

武功夜話では信長の側室で生駒氏の屋敷に奉公していた秀吉が、信長と生駒屋敷で出会う場面が設定されている。

話としてはありそうであるが、話が余りにも出来すぎており、逆に疑問が湧く。

秀吉は小兵でが、武辺を好み、生駒屋敷に出入りしては吉乃の身辺にあっていつも吉乃のご機嫌をとっていた。

話も上手だったので、信長と吉乃の前でも憚らず人が口にしにくい色話等も話して、二人を笑わせたりしていました。

そして信長に武者奉公を願い出たのです。
吉乃のお付きの者の口添えもあり、秀吉は信長に奉公することになりました。

吉乃は信長の孤独を感じ取ることができました吉乃もまた夫を失い孤独だったからです。吉乃は、たおやかな外見からはうかがえない、落ち着きと強さを備えている女性でした。

信長は吉乃に実母からは得ることができなかった母性を感じたに違いありません。

常に「暗殺」という恐怖がつきまとっていた信長にとって吉乃は「慈母観音」のような存在でした。

信長は、吉乃とともにいる時、恐怖や凝り固まった緊張がほぐれ、彼女とひとときを過ごすことで、勇気と決断力を取り戻していたと思います。

信長にもそういう心の支えは必要だったのです。

信長は、吉乃の連れ子を養子にし、嫡男の信忠と、次男の信雄、長女の徳を産ませました。

信長の子供は24人いましたが、織田の姓を名乗らせているのは、吉乃の産んだ信忠と信雄の二人だけです。

墨俣城のジオラマ、簡素な櫓がついただけの屋敷だったようです。

一夜城跡から出土した兜。

蜂須賀正勝の肖像画、とても盗賊の首領とは考えられません。

盗賊伝説について

司馬遼太郎の『街道をゆく43 濃尾参州記』に、こんな記述がある。

茂韶(もちあき)が宮中に参内して応接室で待たされたとき、ふと卓上にあった紙巻タバコを一本失敬したところ、やってこられた明治天皇がそれに気づかれ、諧謔(かいぎゃく)を以って「蜂須賀、先祖は争えんのう」と嬉しそうに茂韶をながめられたという。

これは明治天皇が『太閤記』の記述に基づき阿波の徳島藩主蜂須賀氏の初代蜂須賀正勝が盗賊あがり(土豪あがり)だと思っていたためだろう。

これがきっかけとなり、蜂須賀家では歴史学者の渡辺世祐(わたなべ よすけ)に依頼して、正勝が盗賊ではないことを立証してもらったという。

また、司馬の著書に先立つ河盛好蔵の『人とつき合う法』には、名前は伏せてあるが(H侯爵家となっているが、武家の侯爵家でイニシャルがHになるのは他に細川氏しかない)、明らかに蜂須賀家を指して、先祖が夜盗として有名であったが、何とか先祖の汚名をそそぎたく、夜盗ではなかったと立証してもらいたいと、喜田貞吉に依頼したという記述がある。

しかし喜田は調査の結果、「H侯爵家の先祖はたしかに夜盗であった。
しかし夜盗というものは、その時代には決して恥ずべき職業ではなかった、ということなら、歴史的に証明してみせます」と回答したため、それでは困ると沙汰やみになったという。

ただ、茂韶の父斉裕(なりひろ)が11代将軍家斉と皆春院の間に生まれた子なので、茂韶に蜂須賀正勝の血は流れていない。

また、明治天皇の祖父・仁孝天皇の生母・東京極院(ひがしきょうごくいん)の母は池田仲庸(いけだ なかつね)の娘であり、池田仲庸の曽祖父池田光仲の母は蜂須賀至鎮(はちすか よししげ)(正勝の孫)の娘・三保姫である。

蜂須賀正勝━家政━至鎮━三保姫━池田光仲━仲澄━仲央━仲庸━数計子━勧修寺婧子━仁孝天皇━孝明天皇━明治天皇

人のことが言えた義理か、なんともはや、目くそ鼻くそとはこのことか。

墨俣一夜城に関する書籍

『甫庵太閤記』小瀬甫庵著、寛永3年(1626年)成立
永禄9年(1566年)に秀吉は敵地の美濃国内で新城の城主になった、という記述がある。

城の場所や城名は明らかではなく、また墨俣の地名は甫庵が著作中で何度も使用しているのにもかかわらず、この箇所の記述においては用いていないことから、ここで秀吉が入れられた城は墨俣とは別の、木曽川沿いの場所のどこかであったとも読みとることができる。

また、記述の中にも閏月が考慮されていないなどいくつか問題点がある。

『武功夜話』(前野家古文書) 昭和34年(1959年)に発見された前野家古文書のうちの『永禄州俣記』、一部が『武功夜話』昭和62年(1987年)。

江戸時代初期までにまとめられたと言われている同書には、墨俣一夜城築城の経緯が克明に記録されており、ほとんど伝説として扱われてきた一夜城の実態を知りうる史料と考えられている。

しかし、偽書説も根強く、資料としての信頼性は意見が分かれるところである。

現在、墨俣一夜城の逸話が史実として紹介される場合、その詳細はこの『前野家古文書』に多くを拠るもので、墨俣城跡にある墨俣一夜城歴史資料館も『前野家古文書』に基づいて展示を行っている。

『絵本太閤記』武内確斎著・法橋岡田玉山挿絵、読本、寛政9年(1797年)初編刊行
永禄5年(1562年)の6月中旬に洲股砦城が建てられたという逸話が伝えられている。

信長の命令で、最初に佐久間信盛、次に柴田勝家が修造を試みるが失敗。

そこで、秀吉は信長に7日のうちに完成すると言上し、美濃勢を伏兵奇計で撃退しながら、砦城の建造準備を行い、とき6月中旬の雨で戦闘中断、材木を組み立て、一夜にして完成。

馬出し・柵・逆茂木を備えた龍に似たる長城。
砦の普請まったく整い、清洲の信長に報告、金銀を褒美として賜る、と表現している。

『新史太閤記』司馬遼太郎著、新潮文庫、昭和43年(1968年)
墨俣築城に関して、美濃攻めにおいて織田信長の軍にとっては戦場が遠いことから前線基地として墨俣に築城する必要があるとの木下藤吉郎の進言で信長は築城を任せたところ、藤吉郎は3日でほぼ完成させた、と表現している。

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墨俣一夜城へのアクセス、行き方歩き方

墨俣一夜城(墨俣歴史資料館)公式サイト

住所:大垣市墨俣町墨俣1742-1
電話:0584-62-3322

JR大垣駅南口2番のりばから発車の名阪近鉄バス岐阜聖徳学園大学行きに乗車、「墨俣」で下車、徒歩5分

JR岐阜駅6番のりば、名鉄岐阜駅1番のりばから発車の岐阜バス墨俣行きに乗車、終点「墨俣」で下車、徒歩5分

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