ササラ峠越えのエピソードを残す 富山城

本能寺の変後、越中に居た佐々成政は徳川家康の決起を促すため富山から雪の立山を徒歩で超え浜松に行きます。

佐々成政の努力に係わらず徳川家康は動かず、佐々成政はまた立山越えをして富山に帰ります。
この立山越えが「雪のささら峠越え」と言い有名な話です。

1543年(天文12年)に越中守護代の神保氏が築城したが、それ以前に築城の歴史が遡る可能性もあるという。

現在は富山市郷土博物館として使われている模擬天守、富山城には天守がなかったし、当然なんのゆかりもない場所に、史実と無関係なものが建っているわけです。

その後、富山城は神保氏、上杉氏や一向宗の間で抗争の地となり領主は目まぐるしく変わる。

本能寺の変の後、豊臣秀吉と離れた佐々成政は、天正13年(1585年)8月、秀吉自ら率いる10万の大軍に城を囲まれ降伏し(富山の役)、富山城は破却された。

越中一国が前田家に与えられると、前田利長が大改修を行い金沢城から移り住み隠居城としたが、慶長14年(1609年)に建物の主要部をことごとく焼失したため、高岡城を築いて移り、富山城には家臣の津田義忠が城代として入った。

1639年(寛永16年)に富山藩が加賀藩から分藩されると富山城は再び蘇り、以降明治まで富山前田家の居城となった。

城内では大々的に修復作業が進められている。

突然出現した虹に歓声が上がる。

また、滝廉太郎の「荒城の月」の着想の元になった城の一つといわれている。

前田正甫(まえだ まさとし)は越中富山藩の第2代藩主。
製薬業に興味を持ち、江戸城腹痛事件で名をあげた反魂丹を製薬して諸国に広め、越中売薬の基礎を作った。

何事もかわりはてたる世の中に知らでや雪の白く降るらん」と書かれた成政の歌碑。

静態保存されている国鉄9600形蒸気機関車、保存状態は最悪です。

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富山城へのアクセス、行き方歩き方

住所:富山市本丸1
電話:076-443-2072富山市観光振興課

JR富山駅から徒歩約10分、又は富山空港より連絡バスで約20分(城址公園前下車)