信長の定宿は本能寺でなく妙覚寺

京都府
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今回妙覚寺を訪問して初めて、信長の定宿が妙覚寺であったことを知った。

特に本能寺の変が歴史的に有名なため、本能寺が信長在京中の定宿だったと思われている節がありますが、実は信長が定宿としていたのは上京区の妙覚寺です。

織田信長が上洛時の宿所に妙覚寺を選んだのは、当寺の19世日饒(にちじょう)上人が斎藤道三の子であった縁からだとされています。

斎藤道三は美濃の領主で、娘の濃姫は織田信長に嫁いでいます。

信長の上洛20数回のうち、妙覚寺を宿所した回数は18回です。

妙覚寺大門は、豊臣秀吉が1590年に建設した聚楽第の裏門を1663年に移建したものと言われています。

大門は、聚楽第の裏門を移築したもので、梁の上には伏兵を配置できる空間が設けられている。

西本願寺の飛雲閣、大徳寺の方丈・唐門などとともに数少ない聚楽第の遺構です。

春になると桃山時代の豪壮な大門前で、枝垂れ桜が花を咲かせ、地元の人たちの目を楽しませてくれます。

妙覚寺(みょうかくじ)は、京都府京都市上京区にある、日蓮宗の本山(由緒寺院)。

山号は具足山。塔頭が三院ある(善明院、實成院、玉泉院)。

1378年(永和4年)、日実によって創建された。

日実はもと妙顕寺の僧であったが、教義や後継問題をめぐる寺内の意見対立のため同寺から離脱し、小野妙覚の外護により、四条大宮に妙覚寺を建立した。

実質的な創立者は日実であるが、妙覚寺では日像を開山、日実を4世としている。寺は1466年(寛正7年)、近隣の本覚寺と合併し、寺域を広げる。1483年(文明15年)には足利義尚の命により、二条衣棚(現・京都市中京区)に移転した。

1536年(天文5年)の天文法華の乱際に寺は焼失し、堺に避難した。

その後、1542年(天文11年)、後奈良天皇は法華宗帰洛の綸旨を下し、妙覚寺は1548年(天文17年)、二条衣棚の旧地に再建された。

1582年(天正10年)の本能寺の変の際、織田信長の嫡男織田信忠は妙覚寺を宿舎としていた。

明智光秀の謀反を知った信忠は寺を出て、明智勢を討つべく二条御所へ向かうが、果たせず自害する。

明智軍によって信長と信忠が討たれるに伴い、本能寺と二条御所の一部が放火され焼失したことが『兼見卿記』『日々記』などに書かれているが、妙覚寺がこの事件に遭難して焼失したということを伝える史料は現在の所一つも確認できない。

このため、妙覚寺は本能寺の変では焼失どころか無傷であった可能性も指摘されている。

唐門わきにある狩野元信の墓の石標。

寺は1583年(天正11年)、豊臣秀吉の命により、現在の地に移転している。
1595年(文禄4年)、妙覚寺21世の日奥は、不受不施の立場から、秀吉が主催した方広寺大仏の千僧供養への出仕を拒み、秀吉に「法華宗諌状」を提出した。

寺は1788年(天明8年)、天明の大火により焼失するが、その後再建されている。

妙顕寺、妙覚寺、立本寺の三寺はいずれも山号を具足山と称し、「龍華の三具足(りゅうげのみつぐそく)」と呼ばれている。

妙覚寺庭園は、紅葉の穴場。

本堂前の庭園に密集して紅葉が植えられていてココでしか見れない風景。

庭園拝観者は、お茶とお茶菓子がいただけます。

一般公開はしていますが、法要・行事で拝観できない時があるので出来れば連絡を入れてから拝観するのが望ましい。京都駅からのアクセスは、京都市営バス9系統、乗車時間約27分。

塔頭の善明院。

こちらももくれんは今盛りだが桜はまだ蕾。

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