山城 善峰寺 アジサイ紀行

アジサイ
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アクセスJR向日町~阪急東向日~向日市役所前~右京の里~灰方~小塩~善峯寺 (JR阪急各駅より所要 約30分 片道370円)

ここから山岳登山開始。

観音堂へ着くとアジサイの生け花がお迎え。

ここからは比叡山が一望。

寺号の由来
「善峯寺(善峰寺)」という寺院は全国でも1つしかないと言われています。
寺号の由来はいくつか伝えられています。

後一条天皇により鎮護国家の勅願所と定められ、「良峯寺」の寺号が下賜されました。

干ばつの時、源算上人の祈りで、龍王が雨を西山の峰より降らした奇瑞によって、後冷泉天皇より「良峯」の勅額を賜りました。

後鳥羽天皇より、慈鎮和尚ご住山の時に「善峯寺」の勅額宸筆を賜りました。

「本名は阿知坂なりしを改めて善峯山と名附らる諸善奉行の教を流布せんためなり」とあります。

※尚、寺号「峯」の字は歴史上「峰」「峯」ともに使われており、

現在当山では便宜上「峯」に統一しています。

山城善峰寺

南北朝の争乱や応仁・文明の乱でもこの地に戦が行われているように、軍事的な要衝の地にあった山岳寺院は城郭として利用されたと考えられる。

江戸時代の再興であるが、山門から本堂への石段と石垣や釈迦堂付近は、お城好きにはお寺がお城に見えて仕方がない光景がそこにあった。

善峰寺は、長元3年に源算によって創建されたとされている。

建久3年には官寺に列せられ、後に後嵯峨天皇の勅願所となった。

承久の乱の際には後鳥羽天皇の皇子道覚法親王が善峰寺へ避難しており、その後も法親王が住持を歴任している。

南北朝時代の文和2年、南朝方の山名時氏と北朝方の高師詮が善峰寺で戦い寺は焼失した。

その後、室町時代は足利幕府の庇護を受けたが、応仁・文明の乱で焼失して衰退し、江戸時代の元禄4年に徳川綱吉の生母桂昌院によって再興された。

桂昌院(1627~1705)は徳川家光の側室で、名は光子。
五代将軍綱吉の生母。

諸書によれば「京都堀川通西藪屋町」の八百屋仁左右衛門の子で、父の没後、母鍋田氏は二条家家司本庄太郎兵衛に嫁した。

寛永16年(1639年)に部屋子として家光の側室・お万の方に仕え、後に春日局の目にとまり、「秋野」という候名で、局の指導を受けるようになる[2]。

長じて将軍付き御中臈となり、家光に見初められて側室となり、正保3年(1646年)1月に綱吉を産んだ。

慶安4年(1651年)に家光が死ぬと落飾して大奥を離れ、筑波山知足院に入る。

4代将軍・家綱の死後、延宝8年(1680年)に綱吉が将軍職に就くと、江戸城三の丸へ入った。

貞享元年(1684年)11月に従三位を、元禄15年(1702年)2月には女性最高位の従一位の官位と、藤原光子(または宗子)という名前を賜る。

宝永2年(1705年)6月に79歳で没。

『薬師如来献詠』桂昌院筆
元禄11年(1698)に薬師如来に歌を献じます。

たらちをの 願いをこめし 寺なれば われも忘れじ 南無薬師仏

「たらちを」とは実父のことで、将軍の生母となってからも父の薬師信仰を忘れずにお過ごしになりました。

山城を思わせる遺構が随所に見られます。

途中には打たせ滝である青蓮の滝がありましたが水が流れていません。

本殿を中心に、ぐるりと山を登って参拝を楽しめる善峯寺。

階段が多いにも関わらず、ご年配の方が沢山元気に参拝しておられました。

善峯寺参拝は今回で3回目です。

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