和歌浦散策

カレンダー
2024年4月
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
2930  

和歌浦(わかのうら)は和歌山県北部、和歌山市の南西部に位置する景勝地の総称。
国指定の名勝。

住所表記での「和歌浦」は「わかうら」と読むために、地元住民は一帯を指して「わかうら」と呼ぶことが多い。

三断橋と妹背山、海禅院。

海禅院観海閣
妹背山と呼ばれる小島にあり、紀州藩初代藩主徳川頼宣が木造の水上楼閣として建立したもの。

この観海閣から名草山にある紀三井寺を遥拝したと伝えられている。
昭和36年の室戸台風にて当時の建物が倒壊したため、現在のような建物になった。

海禅院多宝塔は徳川頼宣の思い出の地に建つ。

和歌浦河口に浮かぶ小島の妹背山の中腹にあり、徳川頼宣は承応2年(1653)に頼宣の母、養寿院(ようじゅいん)が亡くなると、母を弔うために多宝塔を改建しました。

高さ13mの本瓦葺 造りで、宝塔内には題目碑が安置され、背面には建立の由来が記されています。

塔下の石室からは、「南無阿弥法蓮華経」と書かれた約15万個以上の経石が発見されました。

和歌浦は元々、若の浦と呼ばれていた。聖武天皇が行幸の折に、お供をしていた山部赤人が『万葉集』巻六の919番歌に、

若浦爾 鹽滿來者 滷乎無美 葦邊乎指天 多頭鳴渡
(若の浦に 潮満ち来れば 潟をなみ 葦辺をさして 鶴(たづ)鳴き渡る)

と詠んでいる。

「片男波」という地名は、この「潟をなみ」という句から生まれたとされる。

画像中央はその歌碑。

不老橋は片男波松原にあった紀州東照宮御旅所の移築に際して、第10代紀州藩主徳川治寶の命によって架けられた。

第13代藩主徳川慶福の治世の嘉永3年(1850年)に着工し、翌4年(1851年)に完成した。よく三断橋と混同されるが、三断橋は初代藩主徳川頼宣が架橋したものである。

石材は和泉砂岩を使用し、敷石やアーチ部分の内輪石には直方体状の石材が使用されている。

不老橋は、徳川家康を祀る紀州東照宮の和歌祭の際に、紀州徳川家や東照宮関係者の人々が、御旅所に向かうために通行した「御成道」に架橋したものである。

塩竈神社と和合の松。
大正6年(1917年)、塩竈神社は玉津島神社の祓所から神社になった。海産物、安産の神として信仰されてきた神社で、神体の塩槌翁尊は輿の窟という岩穴に鎮座する。

長く風雪に耐えた和合の松。
江戸時代から長い間名勝和歌の浦を見守ってきた和合の松。

和合とは、男女が結ばれ、結婚し子供を授かり、家族をつくり、一生懸命に生きることです。

古来より、塩釜神社の神様は、男女の子授けを助け見守り、安産を助けてきました。

玉津島神社は古来玉津島明神と称され、和歌の神として住吉明神、北野天満宮と並ぶ和歌3神の1柱として尊崇を受けることになる(近世以降は北野社に代わって柿本人麿)。

社伝によれば、仲哀天皇の皇后息長足姫(神功皇后)が紀伊半島に進軍した際、玉津島神の加護を受けたことから、その分霊を祀ったのに始まるという。

玉津島は古くは「玉出島」とも称されたが、大阪市西成区玉出には生根神社が鎮座しており、そこは元々、一帯は住吉大社の神領であったことから、何かしらの関係性を期待できるところもあるといった記述を散見する。

和歌の神様らしく、境内には万葉集歌碑があり、山部赤人の歌が刻まれている。

やすみしし わご大君の常宮と 仕え奉れる 雑賀野ゆ

そがひに見ゆる 沖つ島 清き渚に 風吹けば 白波騒ぎ

潮干れば 玉藻刈りつつ 神代より しかぞ貴き 玉津島山

若の浦に 潮満ち来れば 潟をなみ 葦辺をさして 鶴鳴き渡る

江戸幕府が開府されると、和歌山は御三家である紀州徳川家の城下町として賑わうこととなった。

その際に建てられたのが紀州東照宮である。
初代紀州藩主の徳川頼宣は祭神に実父である東照大権現(徳川家康)を勧請し、正式に東照宮から遷宮を行ったものである。

その例祭、和歌祭は今日に至るまで和歌浦を代表する祭礼として脈々と伝わっている。

本殿は108段の階段「侍坂」を登りきったところに鎮座する。

東照宮本殿。

振り返ると、深い木立の間から、和歌浦の海、遠くにマリーナシティが見られる。

和歌浦天満宮の楼門へと続く男坂。

正面の50段の石段は男坂と言われて急登になっています。
左側には少し緩やかな階段の女坂と言われるコースがあります。

自然石の急な石段を登ると、一間一戸、入母屋造、本瓦葺の楼門があり、一間楼門としては、全国でも最大規模を誇る雄大なものです。

延喜元年(901年)に菅原道真が大宰府に向かう途中、海上の風波を避けるために和歌浦に船を停泊した。

その時、神社が鎮座する天神山から和歌の浦を望み、2首の歌を詠んだ。
その後、村上天皇の康保年間(964 – 968年)に参議橘直幹が大宰府から帰京する途中に和歌浦へ立ち寄り、この地に神殿を建て道真の神霊を勧進して祀ったのが始まりとされる。

学問の神様、菅原道真を祀る天満宮は、古来より太宰府天満宮、北野天満宮とともに日本の三菅廟といわれています。

手前が前拝殿、その奥に拝殿が…

参拝を終えて、楼門をくぐり、階段を下りる前、眼下に広がる和歌浦湾の景色を堪能しよう。

和歌山市のマンホール、毬と殿さま」にちなみ、まりが図案化され、左の鞠中心部に和歌山市章。

クラブツーリズムのお勧めツアーはこちら!

コメント