近江八景「堅田の落雁」 浮御堂

歴史を訪ねる旅
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近江八景「堅田の落雁」で名高い浮御堂は、寺名を海門山満月寺という。

平安時代、恵心僧都が湖上安全と衆生済度を祈願して建立したという。

現在の建物は昭和12年の再建によるもので、昭和57年にも修理が行われ、昔の情緒をそのまま残している。
境内の観音堂には、重要文化財である聖観音座像が安置されている。

伝によれば、源信(恵心僧都)(942年 – 1017年)が比叡山横川から琵琶湖をながめると、毎夜、その光明の赫々(かくかく)たるを怪しみ、網でこれを掬(すく)いとらせると、1寸8分の黄金の阿弥陀仏像であった。

よって魚類殺生供養のために阿弥陀仏像1体を造り、その体内にこれをおさめ、1000体の阿弥陀仏像をも奉安し、浮御堂を創建したという。

荒廃したときもあったが、桜町天皇(1720年 – 1750年)(在位1735年 – 1747年)は禁中の能舞台をたまわり、これを再興した。
松尾芭蕉(1644年 – 1694年)も訪れた。

先代の堂は昭和9年(1934年)に室戸台風によって倒壊、現在の堂は昭和12年(1937年)に再建されたものである。
室戸台風の直後に竜巻も近くで発生している。

対岸の山は標高432mの三上山、近江富士とも呼ばれている。

湖畔にたたずむおんなひとり・・・・・・

ここは「おとせの浜」。

おとせの石の伝説

源平争乱の時代、堅田の出身で京都の源氏の屋敷に奉公していた、おとせと言う女性がいた。

おとせは、平家滅亡の際に源氏の白旗を守って大津に逃れ、平家の追手をさけて湖に飛び込むが、平家の侍に白旗を握った手を切り落とされて死んだ。

片腕はこの地に流れ着き、浜の石を血で染めた。

そして、片腕はおとせの子が指を開かせるまで、忠義を貫いて白旗を離さなかったという。

以来、この浜は、おとせの浜と呼ばれるようになった。

その子は母の遺志を継いで白旗を守護し、のち木曽義仲の武将手塚太郎光盛になったという。

この話は、寛延二年(1749)浄瑠璃「源平布引滝」に役名を小万と替えて取り入られている。
(大津市史より)

近江八景は比良の暮雪、堅田の落雁、唐崎の夜雨、三井の晩鐘、粟津の晴嵐、瀬田の夕照、石山の秋月、矢橋の帰帆、室町時代末期に選定された。

陽に輝くヨシがきれいです。

おとせの浜はかくれ桜の名所。

近くには「勾当内侍」の伝説も残る、桜のころにもう一度ゆっくり訪れたいものだ。

南北朝時代の武将として有名な新田義貞は、太平記によると、足利尊氏と戦って破れ、越前へ落ちのびる途中に、妻の匂当内侍を堅田に残したまま越前の藤島で戦死し、この知らせを聞いた内侍は京都嵯峨に草庵を構えて義貞の菩提を弔いながら余生を送ったとされています。

しかし、ここ、堅田に残る伝承によれば、匂当内侍は悲しみのあまり近くの琵琶湖琴ケ浜で入水自殺し、のちに村人たちによって内侍の霊を慰めるため石積みの塚が築かれ、野辺送りをした人々が野神神事衆をつくって内侍の霊を慰めてきたそうです。

その後、室町時代になって同地に野神神社が建立され、野神神事衆によって野神祭りが続けられています。

現在も毎年10月には入水伝説にちなむ野神祭りが行われるなど、悲しい物語が現実感を伴って感じられるところです。

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