酉島小学校の脇を淀川の堤防へ出る。
大阪市バスを酉島車庫前で降り、酉島小学校の脇を淀川の堤防へ出る。
吹き付ける風は冷たい。
河原の流木を眺めながら淀川を上っていく。
伝法川の名残
前方に水門が見える、伝法水門だ。
昔の伝法川の河口であり諸国船舶が入港して繁栄した。
元禄年間、安治川の開削により入港は少なくなったが、小都市の景観はあった。
戦後の昭和26(1951)年に高潮対策で伝法川が埋め立てられ一部が漁港となり、昭和39年水門が設けられた。
新淀川開削で伝法川の川としての機能はほぼ失われてしまいましたが、高潮対策で埋め立てられるまでかつてのままの川が残されていました。
現在、伝法漁港になっている入り江は伝法川の名残というわけ。
護岸にはかわいい絵があしらわれている。
散歩中のネコに出くわす、しばらく撮影を楽しんだ。
住宅街に突然現れる漁港。
豊臣秀吉築城時の巨石運搬ルート
豊臣秀吉が大阪城を築いた時、海上交通の要だった当地を通り城壁となる巨石を船で運んでいたそうだが、運搬途中で船から落ちた石が「残念石」と呼ばれ、何百年もしてから川から引き上げられて、伝法漁港の船溜まりを眺めるこの場所でころがっている。
「大阪市漁業協同組合」と書かれたこの建物に、漁業関係者の作業場を兼ねて、ふぐ料理屋「克政」の店舗も入居している。
市内の料亭で珍重される漁業
付近は淡水と海水が混ざる汽水域のため、ウナギやシジミ、ボラ、ハゼ、モクズガニなどの川魚が多種棲息しており、古くからこれらを狙った漁業が盛んだった。
近年こうした漁獲が見直され、「淀川産(もん)」と称し流通に力を入れているという。
伝統の筒漁「たんぽ漁」で漁獲される天然ウナギのほか、シジミも「ベッコウシジミ」と呼ばれブランド化されている。
棲息域が砂地のため、名の通りの色なのが特徴。
泥地に棲む殻の黒いシジミより澄んだ味わいのため、市内の料亭で珍重されているそうである。
申村(さるむら)の庚申堂
少し歩くと、大阪市此花区伝法の庚申堂、別名「申(さる)神社」がある。
このあたりはかつて、申村(さるむら)と呼ばれていたそうだ。
住吉社・愛宕社・庚申社の三社を祀った申村神社として創建されましたが、後年に住吉社・愛宕社は近くの澪標住吉神社に合祀され、庚申堂だけが残った形になったようです。
節分の巻き寿司の丸かぶりの風習は、伝法の申村が発祥です。
最近全国的に有名になってきた、節分の巻き寿司の丸かぶりの風習は、伝法の申村が発祥です。
江戸時代の幕末に若衆宿の風習が今に伝わったものです。
又、岩見重太郎の狒々退治の逃げた狒々の屍骸が見つかったのも申村の庚申堂と云われています。
申村は明治36年に新淀川開削で河底になり、1部が残り庚申堂が名残りをとどめています。
尼崎街道を進むと地元の人しか通らない道が・・・
ここは昔尼崎街道と言って大和田街道の1本南(川口から佃あたりで大和田街道に合流する)だったようです。
西念寺をすぎて尼崎街道を進むとなんと想像もしなかった事態が^^;
なんと道は途切れています。
階段により徒歩ではなんとか歩くことができる状態でした。
今はこの道ほとんど地元の人しか通らないのでしょうね。
トンネルの内部は絵が描かれています。
地元の人しか通らない道があるなんで・・・・
阪神なんば線淀川橋梁改築工事が大掛かりに進められている。
阪神なんば線淀川橋梁改築工事が大掛かりに進められている。
阪神なんば線淀川橋梁改築事業 – 阪神電気鉄道株式会社
工事完了は2032年を予定のようです。
現状の橋より国道43号線側(海側)に、新たな橋梁を建設。
新しい橋梁へ線路を振替後、現在の橋梁を撤去します。
福駅周辺は、高架橋の線路を設置するまでの期間、駅の北側に仮の線路を敷設し、列車を運行。
地元の人しか通らない道の上を列車が通過するところを撮影しようとしたが近すぎて列車が写っていません。
少し遠ざかって再度撮影、かろうじて写りました。
クリックして画像を拡大してみてください、左下に黄色いトンネルの一部が写っています。
当初予期しなかったことが続出
撮影を進めて行くに従って予期しなかったことがいくらでも出てきます。
これは、面白いツァーになりそうです。
10時から始めて夕方までかかってしまいました。
続編は順次アップロードします、乞うご期待。
アクセス
酉島車庫前バス停
約261m 徒歩で約3分
酉島二丁目バス停
約266m 徒歩で約3分