戦国武将は神仏や神秘的な威力に頼るものが非常に多い。
上杉謙信の春日山城には毘沙門堂があります。
謙信は合戦の前には護摩を焚いて勝利を祈願したという。
毘沙門堂(復元)
この毘沙門堂は昭和6年に復元されたものなので、大きさ形などが謙信がこもったと言われる毘沙門堂とどの程度似ているのかは不明。
戦の前にこもったと言われる毘沙門堂としてはちょっと小さいように思う。
参照:上杉謙信の牙城 春日山城
その反面、城の石垣に墓石や石塔が無造作に積まれていたりする。
この大手道上部に転用石があります。
参照:天下人・信長か築いた幻の天守と城 安土城
石組みの間から奥を覗き込むと、逆さになった状態で石の間に埋もれている地蔵を確認することができ、これは逆さ地蔵と呼ばれている。
この天守は逆さ地蔵の祟りや大和大地震で倒壊したという俗説が残っている。
庭石、五輪塔、寺院の礎石などかき集めて築いた野面積み 。
お地蔵様には花が供えられている。
参照:筒井家の本拠 高石垣の城 郡山城
天守台跡には古墳に埋葬された石棺の蓋まで使用されている。
一説には縁起を担いだものとも言われる。
参照:蒲生氏郷が築いた名城 松阪城
不開門(あかずのもん)
この門は城の鬼門である北東に位置します。昔の陰陽道ではこの方角は塞いでも、開け放してもいけないとされ、門は造るが普段は閉ざし、不浄なものを運ぶときだけこの門を開いたと言われている。
現在は入城口として使用しており、伝統工芸館への近道。
国の重要文化財に指定されている。
参照:秋の九州爽やかウォーキング 熊本城
死を象徴するものを利用すれば、価値の逆転が起こり、「縁起が良くなる」とする考え方があるという。
それが民俗学の”穢れの逆転”というキーワードだ。
陰陽道の鬼門(北東の方角)除けもよく見られる傾向で、鹿児島城本丸では北東石垣の角が落とされている他、江戸城では北東の上野に寛永寺を置くという大掛かりな鬼門除けも行っている。
ところが、寛永寺以外にも、城を守るための鬼門除けがされていました。それが、今も残る北東角の石垣の凹みです。
鹿児島城本丸石垣
北東の角(鬼門)を凹ませる「鬼門除け」の角落とし形状となっている。
参照:あまりにも質素な薩摩藩の拠点 鹿児島城
艮櫓跡石垣
参照:断崖を利用して築いた高石垣の名城 仙台城
王城を守る神社仏閣
桓武天皇は、平安京造営にあたって都城の整備を進めるとともに、まず「鬼門封じ」を行ったという。
古来中国では、北東を陰陽が転化する方角と考え、鬼が出入りする「鬼門」とよんで恐れたのでした。
天皇が住まう内裏から見て、はるか北東には比叡山がそびえている。
最澄が、のちに延暦寺を築くのは偶然ではなく、当時の人々は、比叡山そのものを鬼門封じの要とし、災いが生じると、ここで加持祈祷がなされた。
都には様々な鬼門封じが仕掛けられている。
その一例が「猿」
そもそも比叡山の鎮守社、日吉大社の神獣であるが、内裏の鬼門にあたる塀が「猿が辻」とされ、その外側に建つ幸神社(さいのかみのやしろ)、そして延暦寺別院である赤山禅院にも猿の彫刻が置かれて、都をより強固に守ったのである。
同志社大学前にある今出川御門から南へたどると御所の築地塀に突き当たる。
塀に沿って左(東)へ道をとり、塀が尽きた角にあたるところが御所の建物の東北角、鬼門である。
鬼門除けに直角ではなく、L字型に隅をわざと欠いて鬼門除けにしてある。
その築地屋根の下の蟇股(かえるまた)に金網で囲まれて一匹の猿が閉じ込められている。
かついだ御幣の白さで目をこらすと、確かに烏帽子をかぶった猿が浮き彫りにしてある。
猿は比叡山東麓の王城鎮護の寺である比叡山延暦寺の地主神・日枝神社の使いで、御所の鬼門を守っていたが、この猿は夜な夜なその辺りをうろついていたずらをしたので、金網の中に閉じ込められたのだという。
この猿にちなんで、鬼門のある辻は猿が辻と呼ばれている。
猿は災いを去るにつながった。
参照:京都御所の猿/京都御苑の不思議
幸神社の主神は猿田彦神であるが、もっと有名なのが社殿の東北隅にある御幣を持った「鬼門の猿」である。
猿は日吉神社のお使いで悪霊の侵入を防ぐのが役目。
神社の猿と同様の役目を持った猿が、御所の猿ヶ辻にも、洛北の赤山禅院にも祀られている。
幸神社の猿も東北に張られた二重三重のバリケードの一翼を担っているわけである。
左甚五郎の作とする説もある。
参照:皇城鬼門除 出雲路幸神社
例えば洛北に位置する鞍馬は魑魅魍魎(ちみもうりょう)の目撃談が多い魔界であった。この魔界を封じるために建立されたのが鞍馬寺である。
鬼門封じ
牛の角を持ち、虎の皮を身にまとった鬼が来るといわれる丑寅の方角「鬼門」(東北)を封じるために、社殿の石垣を切り取った造りになっています。
また、古くから遠方へ出かける時、その方向がよくない場合に、一度別方向に向かってから出かける風習「 方違え(かたたがえ)」がありました。
方違神社(ほうちがいじんじゃ)
社伝では、応神天皇の時代に天神地祇ほか三座を祀り、方違大依羅神と号し、この社を方違宮と称したとされる。
社地は摂津、河内、和泉の境の三国山(現在は三国ヶ丘と称される)にあり、三令制国のいずれにも属さない地、方位のない地であるとして、古くから方位、地相、家相などの方災除けの神社として信仰を集めてきた。現在でも、転勤、結婚などでの転宅や海外旅行などの際に祈願する参拝者が多い。自分の在所からでかけていく先の方位についてのお祓いをしてもらい、清めの御砂を頂いて、自分の家の四方に撒く。
神功皇后(じんぐうこうごう)の三韓征伐の凱旋帰国時には、
現在の住吉大神を創建する際の方違えの祓いを、方違神社で行ったと伝わります。
そのときに皇后が霊力豊かな方違神社の土を菰(こも)の葉に包み、粽(ちまき)として祀りました。
以後この粽を持てば、方角における災いを除去できると信仰され、
毎年5月31日に行われる「粽祭」という珍しい神事として伝承されてきました。
城巡りの楽しさはそんな武将たちの真剣な思いを感じられることにもあります。