「人間五十年、下天のうちをくらぶれば夢幻のごとくなり」と敦盛の一節を舞い、茶漬けを食べながら、螺(ほらがい)を吹け、具足をよこせと出陣していくシーンは映画やドラマでよく出てきます。
引治元年(1555)織田信長公が那古野城から入城、永禄3年(1560)桶狭間の戦いに勝利し、ここ清須から天下統一の第一歩を踏み出した城です。
京鎌倉往還と伊勢街道が合流し中山道にも連絡する交通の要所として重視された。
桶狭間の戦いで今川義元に勝利した後、徳川家康と同盟(清洲同盟)を結ぶのも清州城。やがて本能寺の変が起き、信長亡き後の織田家の跡目をどうするか柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、池田恒興の4人が話し合った(清州会議)のも、この城です。
これが賎ヶ岳の他戦いにつながります。
門に続く、『信長塀』。
信長が、桶狭間の戦勝祈願した熱田神宮へ、勝利のお礼に奉納した塀をモデルに作られています。
何層にも重なった瓦が、風情を感じさせます。
ちなみに、三十三間堂の太閤塀。
西宮神社の大練塀。
と並び、日本三代塀の一つといわれています。
本丸石垣(復元)
この本丸石垣は「清洲ふるさとのやかた」の北側すぐの所に移築復元されたもので、平成8年の河川事業に伴う遺跡調査により清洲公園前の五条川右岸で発見され、清須から名古屋への遷府いわゆる「清須越」が行われた直前の南側本丸石垣と思われます。
石垣の基礎には軟弱な地盤に耐える松材を用いた「梯子胴木」と呼ばれる構造で、石垣は野面積みで積み上げられています。
『右大臣織田信長公古城跡』
清洲古城跡公園
本丸跡で、幕末に建てられた2基の石碑や信長公を祀る小社があり、信長公の命日6月2日には郷土の偉人を偲び「信長公顕彰祭」が行われます。
清洲公園の信長公銅像と濃姫像。
信長は桶狭間の方角を向いています。
疑似天守の上から名古屋方面を望む。
現在、城跡は開発によって大部分は消失し、さらに東海道本線と東海道新幹線に分断されており、現在は本丸土塁の一部が残るのみである。
東海道本線以南の城跡(清洲公園)に信長の銅像が、以北の城跡(清洲古城跡公園)に清洲城跡顕彰碑がある。
疑似天守より庭を望む。
名古屋方面の遠望、画像左に名古屋城が見える。
清洲城の天守または小天守の部材を転用または、移築したものとされる名古屋城御深井丸西北隅櫓は現存し重要文化財に指定されている。
石落としの模様を再現した像が展示されている。
芸能文化館ホール。
御殿の庭、白砂敷きの枯山水に、美濃石を配し、ポイントとして水琴窟が設けられている。
農姫のことなど
斎藤道三の三女。
母は明智光継の娘・小見の方。
兄弟に斎藤利治。斎藤義龍とは異母兄妹。
明智光秀とは従兄妹同士という説があるが、光秀自身の前半生が不明であるため確定は出来ない。
本能寺の変の際に薙刀を振るって夫・信長とともに敵兵と戦って戦死したという説もある(司馬遼太郎の小説『国盗り物語』等はこの説を採用している)。
寛永15年(1638年)成立の『濃陽諸士伝記』には、道三を殺した道三の息子・義龍が1561年に病没したすぐあとに濃姫が既に死去していると窺わせるような文章がある。
その理由として、政略結婚の意義を失った濃姫との婚姻は無用のものとなり、生駒氏懐妊(弘治2年夏ころ)を契機に織田家を追放され、実父の敵の義龍を嫌って母方の叔父・明智光安の明智城に身をよせたが、義龍の美濃統一戦の時に攻撃を受け、城とともに滅んだためと推測されている(津本陽の小説『下天は夢か』はこの説を採用している)。
一方で、濃姫の生存を示すのではないかと考えられる史料として、信長が足利義昭を擁しての上洛の後の永禄12年(1569年)7月の『言継卿記』に斎藤義龍後家を庇う「信長本妻」の記述がある。
また、同年の日記に「姑に会いに行く信長」の記述も見られる。
『近江國輿地志』にも、信長と御台所が共に成菩提寺に止宿したと言う記述もあり、おそらく永禄11年(1568年)頃の記述と思われ、前述の『言継卿記』の記事の前年であることから帰蝶のことと考えられる。
なお当該記事には、御台出産が書かれている。
また『勢州軍記』には、信長の御台所である斎藤道三の娘に若君が生まれなかったため側室が生んだ織田信忠(幼名、奇妙または奇妙丸)を養子とし嫡男とした、などの記述も見られる。
また『明智軍記』にも尾張平定後の饗膳の際に、信長内室(正室の濃姫)が美濃討伐の命令を望む家臣達に感謝し、家臣達にたくさんのあわびなどを振舞ったという記載がある。
『明智軍記』は元禄年間(最古の元版は1693年版)の幕府作成のものであるので、史実と異なる点や歪曲している点なども多くみられるが、少なくとも作成時の段階では一般的に濃姫は尾張平定後も信長の正室として存在しており、道三亡き後濃姫が離縁された、亡くなったというような事実はなかった、という認識だったのではないかと推測できる。
『織田信雄分限帳』に「安土殿」という女性が、600貫文の知行を与えられているのが記載されており、女性としては織田信雄正室、岡崎殿に続き3番目に記載され、信長生母と推測される「大方殿様」よりも先に記載されていること、安土城の「安土」という土地を冠されていることから、織田家における地位の高さがうかがえ、信雄の亡き父・信長の正室にあたるのではないかとも考えられる。
また(「局」が「妻子の居住する空間」を示すことから、奥でもっとも権威のあった正室を「御局」と称したとも考えられ)、『織田信雄分限帳』に記載されているもっとも知行の多い「御局」という人物が濃姫という可能性もある。
あるいは、信雄から見て父信長の正室である濃姫は、「大方殿様」の立場にあたるため、「大方殿様」が(土田御前ではなく)濃姫だとも考えられる。
「安土殿」「御局」「大方殿様」のいずれかが濃姫だとすれば、この時点で生存していたことになる。
『氏郷記』『総見院殿追善記』などには本能寺の変直後、安土城から落ち延びた信長妻子の中に「御台所」「北の方」の記述が見られ、安土殿(または御局)と同一人物とも推測できる。
この「御台所」「北の方」が濃姫だったとすると、本能寺の変の翌日であることから考えて、変時に彼女が本能寺にいたとするのは時間的に無理がある。
結婚後は歴史の表舞台に一切名を残さなかったせいか、病弱説や離婚説、奥を取り仕切るだけの器量がなかったなどという評価がなされることがあったが、実際は信長の閨房における醜聞が一切表に出ず、きちんと取り仕切られていたことから、決して無能な女性ではなく、一正室・多側室・多愛妾・多伽係という当時の奥制度をきちんと管理出来る女性だったと考えることもできる。
また、婿である信長を美濃国の後継者と定めた道三の国譲状がある以上は、濃姫を正室としておくことが信長にとっても必要不可欠であったこともあり、その道三と対立した、兄・斎藤義龍筋の斎藤氏との諍いにより離縁して実家に返したという可能性は考えられず、美濃攻略を推し進めて行った背景には、道三の息女であり土岐氏の傍流明智氏の血を引く濃姫の(義龍が道三実子であった場合、土岐氏と血縁関係はないことになる)、婿である信長こそ正統な美濃の後継者であるという大義名分があったため、という推測も成り立つこと、美濃攻略後に美濃衆が尾張衆と同様に待遇されていることからも、濃姫が美濃攻略前に病気などで亡くなったという可能性も少ないと思われる。
信長嫡男の信忠は濃姫が養子にしているが、濃姫があえて信忠を養子に迎えた理由として、道三の国譲状により信長の美濃支配の正当性はあるものの、斎藤氏、土岐氏の血を引く濃姫の子供が信長の嫡男であれば、より円滑な美濃支配と後継者の正統性を強調できるためではないかと思われる。
事実、信長は家督を信忠に譲り、美濃と尾張の支配を信忠に委ねている。
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清州城へのアクセス、行き方歩き方
住所:愛知県清須市朝日城屋敷1番地1
名鉄名古屋本線 「新清洲駅」 徒歩15分
JR東海道本線 「清洲駅」 徒歩15分