泉南地域で最も古い寺内町貝塚を散策

大阪府

-泉南地域で最も古い寺内町-


貝塚駅を降りると朝顔の大群に遭遇、鬱蒼とした並木が延々と続き、圧倒されてしまった。

願泉寺の寺内町を中心に発展してきた。
古代より櫛の生産が行われ、日本最古の櫛の産地ともいわれる。
1960年代に「東洋の魔女」と称されたニチボー貝塚女子バレーボールチームの活躍で知名度を上げた。

貝塚道場及び寺内町は、天正5年(1577年)の織田信長による雑賀攻め(紀州征伐)の際に織田信忠によって焼き討ちされて全焼した。

町は、紀州街道を軸にして構成されています。
町のすべての道路は、紀州街道に平行、直行して配置されています。

また、紀州街道から内陸部は段丘になっているため、段丘上にある願泉寺と段丘下にある街道とは3~4mの高低差があり、東西方向の道路は紀州街道の手前で急坂を下ることになります。

感田神社 — 登録有形文化財


貝塚寺内町の産土神で、天照大神、素戔嗚(すさのおのみこと)尊、菅原道真を祭神とします。
当初の祠が陶器製であったことから、「感田瓦大明神」と呼ばれました。

江戸時代には、境内に併設された天台宗の宗福寺の住職が神事を執り行っていました。
社殿や神門は、国の登録文化財に登録されています。

境内に残る濠(ほり)は貝塚寺内の環濠の一部で、平成27年3月6日に貝塚市史跡に指定されています。

尊光寺のカイヅカイブキは一見の価値あり


尊光寺のカイヅカイブキ

カイヅカイブキは、ヒノキ科ビャクシン属、ビャクシンの変種とされており、東北地方以南の主に海岸部に分布します。
尊光寺のものは、植栽されたものと考えられますが、樹齢は300年から400年(当寺の伝承によれば約400年)と推測され、幹の直径は60センチメートルを越えます。

手入れが行きとどき、老木としての風格が感じられます。
市の木”カイヅカイブキ”の代表的なものとして、価値の高いものです。

願泉寺 — 重要文化財は寺内町の中心


現在は、浄土真宗本願寺派に属し、阿弥陀如来を本尊とします。
貝塚寺内町の中心寺院としての性格に加え、まちの政治の中心でもありました。
隣接する北小学校の敷地には、江戸時代を通じ政庁の建物が建ち並んでいました。
寛永13年(1636)、卜半家第四世了周は、徳川家の菩提寺である江戸の東叡山寛永寺において得度を行い、慶安元年(1648)に「真教院」の院号を、寛文八年(1668)に「金凉山」の山号を授与されます。
この後、明治維新まで、浄土真宗の教義以外はすべて寛永寺の支配下に入ることとなりました。
現存する本堂は寛文3年(1663)建立で最も古く、表門、太鼓堂等とともに重要文化財に指定されています。
境内にある建造物は、17世紀末から18世紀にかけて建立されたものです。
地元では、「ぼっかんさん」と呼ばれ、親しまれています。

重要文化財 願泉寺表門
表門は、延宝7年(1679)に再建されたものです。大規模な四脚門の様式で、屋根は切妻造、本瓦葺です。
正面の冠木長押(かぶきなげし)上の龍の彫刻は、元禄3年(1690)に、岸上和泉守の弟子、和泉嘉右衛門によって作成された見事なもので、今回の修理により、一部の彩色が復元されました。

重要文化財 築地塀(附)・目隠塀(附)
築地塀は、寛文11年(1671)の再建です。壁面の横線は「定規筋」と呼ばれ、五本線は本院が「門跡寺院」であることを示しています。
本堂正面に設置された目隠塀は、本瓦葺の築地塀です。類例の少ない建造物で、その用途は明らかではありません。
築地塀や目隠塀は、鐘楼とともに重要文化財の附(つけたり)として、伽藍を構成する大切な建造物です。
目隠塀(重要文化財)

重要文化財 願泉寺太鼓堂・鐘楼(附)

鐘楼は、昭和20年の空襲によって焼失したため、昭和23年に貝塚市森の青松寺から移築されたもので、元禄15年(1702)の建築です。
平成大修復では、屋根瓦葺替等のほか、基壇の改修や礎石の交換も行っています。
つりさげられている銅鐘は、鎌倉時代の貞応3年(1224)に鋳造され、現在は大阪府文化財に指定されています。

内外陣境の欄間には、、中国の説話「二十四考」を題材とする生き生きとした彫刻が施されている。

当寺は紀州藩主が参勤交代をする際に立ち寄り、宿泊施設として使用されている。

貝塚寺内町は、貝塚御坊願泉寺を中心に発達した寺内町で、江戸時代には、卜半家を領主とする諸役免許の地として都市的発展を遂げ、さまざまな商工業が発達しました。

「貝塚寺内町めぐりみち」を散策


中世の終り頃、願泉寺中心に形成された寺内町で一帯には石畳みの道が整備され、土蔵や格子戸を持つ旧家が並び、かつての繁栄を伝えています。

右側に見えているのが願泉寺。

貝塚寺内町めぐりみちの表示のある石畳道。

また、紀州街道は、寺内町の経済・文化の発展に深くかかわってきた主要街道で、寺内町・紀州街道沿いには、重要有形文化財願泉寺をはじめとする指定文化財、社寺があり、国登録有形文化財の町家は、古い街並みとして残っています。

天正15年(1581)に記されたという「貝塚寺内基立書」によりますと、貝塚の地は、往古五丁余りの松原で民家三十六軒と庵寺がありました。
庵寺は奈良時代の僧、行基の開基と伝えられ、応仁年間(1467~69)には本願寺第八世蓮如上人が立ち寄り、教えを説いたといわれています。

天文14年(1545)、村人達は無住であったこの庵寺に京都の落人、右京坊を迎えます。
右京坊は卜半斎了珍と名乗り、天文19年(1550)には本願寺第十世証如上人より「方便法身尊像」を下付されます。
天文24年(1555)には、貝塚は石山本願寺より寺内に取り立てられ、一向宗の門徒による環濠城塞都市「寺内町」の建設が始められたのです。

天正4年(1576)、天下統一をめざす織田信長は、最後の難敵である石山本願寺に対し総攻撃を開始しました。
貝塚の門徒衆も石山本願寺を支えるため、雑賀衆とともに戦いましたが、貝塚は天正5年(1577)に信長軍の攻撃を受け、町は焦土と化したといわれています。

天正8年(1580)、石山本願寺が信長と和睦し、第十一世顕如上人が紀州鷺森へ退去しますとようやく平和が戻り、貝塚の町も復興されました。
天正10年(1582)には、信長を引き継いだ豊臣秀吉から貝塚に対し「禁制」が発せられ、諸役免除と寺内が公認されました。

天正11年(1583)7月、顕如上人は紀州から貝塚へその本拠を移し、これより二年余りの間、貝塚は本願寺の本山となったのです。
貝塚の町の興隆は想像に難くありません。

慶長十五年(1610)、卜半家第二世了閑は徳川家康より寺内諸役免許の黒印状を授与されます。
これにより、卜半家は地頭(領主)として明治維新まで貝塚寺内を支配することとなりました。

すなわち、貝塚の町はどの藩にも属さず、幕府の直轄地でもなく、卜半家が町の家来衆とともに治めるところとなったのです。

町には人々が集まり、商工業が盛んとなって泉州随一の発展を遂げました。

願泉寺に伝わる慶安元年(1648)に描かれた町絵図を見れば、当時の繁栄がしのばれるとともに、当時の町割り(道路網)や寺社がその姿を現在にそのまま引き継がれていることがよくわかります。寺社の建物や町家の多くは、長い年月を通じ守り伝えられてきたのです。

マンホールの蓋、市の花「コスモス」がデザインされています。

全国から集めたという18種類のお漬物セットののランチををいただく


締めくくりは、菫堂という店でお漬物ビュッフェのランチをいただいたこと。

なんと全国から集めたという18種類のお漬物セットののランチををいただいた。

味噌汁付きで、ご飯味噌汁はおかわりほうだいとのこと。
普段ご飯は1膳しか食べない私ですが今日は漬物のおいしさについおかわりしてしまいました。

締めは葛アイスのデザート。
久しぶりにおいしいランチをいただきました。

今回の反省点。

帰りに観光案内所に寄ったらなと、「寺内町界隈街あるはマップ」があるではないか。(訪問時にはまだ観光案内所がオープンしてなかった)
詳細なマップです、モデルコースとされているところを回るには1日では無理だ、グルメ情報も掲載されている、再度チャレンジしよう。

アクセス

貝塚駅の「まちの駅かいづか」でガイドマップをもらい、寺内町に向かいます。 寺内町は駅からすぐのところにあります。

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