近代築城技術の粋を尽くす美しき巨城 姫路城

兵庫県

姫路城は、現在の姫路市街の北側にある姫山および鷺山を中心に築かれた平山城で、日本における近世城郭の代表的な遺構である。

江戸時代以前に建設された天守が残っている現存12天守の一つで、ほぼ中堀以内の城域が特別史跡に、現存建築物の内、大天守・小天守・渡櫓等8棟が国宝に、74棟の各種建造物(櫓・渡櫓27棟、門15棟、塀32棟)が重要文化財に、それぞれ指定されている。

堀の向こうに平成19年に再建された桜門橋が見えてきました。

戦国時代後期から安土桃山時代にかけて、黒田氏や羽柴氏が城代になると、山陽道上の交通の要衝・姫路に置かれた姫路城は本格的な城郭に拡張され、関ヶ原の戦いの後に城主となった池田輝政によって今日見られる大規模な城郭へとさらに拡張された。

現在「大手門」と呼んでいる大型の高麗門は昭和13(1938)年に完成したもので、位置や大きさは江戸時代のものとは全く異なっています。
昔は「桐の二門」と呼ばれた。

明治時代には陸軍の兵営地となり、歩兵第10連隊が駐屯していた。
この際に多くの建物が取り壊されたが、陸軍の中村重遠工兵大佐の働きかけによって大小天守群・櫓群などが名古屋城と共に国費によって保存される処置がとられた。

「世界遺産 姫路城」の文字を前面に、修理中の天守閣が見えてきました。
西小天守、乾小天守を従えた立派な姿が想像されます。

別名、羽柴秀吉が居城し、その後の出世の拠点となったことから 出世城。

幕末に新政府軍に包囲されたり、第二次世界大戦で焼夷弾が天守に直撃したりしているものの、築城されてから一度も大規模な戦火にさらされることや甚大な被害を被ることがなかったことから 不戦の城。とも呼ばれる。

菱の門  
姫路城の入口となる門。
両柱の上の横たわる冠木と呼ばれる木に、菱の紋が彫られていることからこの名が付いた。

櫓門とも呼ばれ、姫路城の中でも、最も大きな門である。
国内を見ても、その大きさは最大級とか。

伏見桃山城から移築したと伝えられ、全体に安土桃山時代の華やかな様式を残している。

門をくぐるとすぐ右手に三国濠がありその上に天守が見えます。

いの門
菱の門をくぐってまっすぐ前にある門です。
通常の見学コースでは、いの門へ向かわずに菱の門をくぐり左に向かいます。

「ぬの門」は、重厚な鉄板がで作られ、門の上に二階建ての櫓がある姫路城内で唯一の三層の門です。

この門は、上山里と呼ばれる広場へ続く門で、チの櫓、リの一渡櫓、リの二渡櫓などと繋がり一連の建物になっています。

見学順路にそって歩いていると、そこに門があるとは思えない場所に「るの門」はあります。
この門をくぐると天守までの道のりが早くなるため、近道として用いられていましたが、実際、戦などの場合はこの門を埋めて敵を遠回りさせるように作られました。
別名「埋め門」とも呼ばれます。

天守の修理中「りの一渡櫓」が特別公開されています。
江戸、明治、昭和の各時代のシャチが展示されています。
一番右側の鯱は今回の修理のために大天守大屋根から降ろされたもの。

「りの一渡櫓」に展示されている甲冑。

歴代の城主が、修繕の際に取り替えた瓦の紋が、ここに並べて展示されている。
揚羽蝶の家紋って今の時代から見てもオシャレですね。
ちなみに、揚羽蝶紋は「池田氏」、丸瓦の下にある三葉立葵紋は「本多氏」のものです。

水二門を抜けたところには瓦紋の説明がありました。

築城時の石不足で、既存の石造物を利用した転用石。
貧しい老婆が寄付したと言われる姥が石や灯篭の台座、(古墳の)石棺など。

本丸上山里内に「お菊井戸」が残る。
播州皿屋敷 浄瑠璃などの元となったと言われるが、原型となった話は現在の姫路城ができる以前のものと言われる。

りの門、お菊井戸のある上山里とよばれる広場につながる門。

腹切丸(帯郭櫓)
この櫓の南側は、深い濠になっています。
その濠を渡ってくる敵を上から攻撃できる櫓です。

近くには城主の住まいがあり、そのような場所で切腹することはまず考えられないのですが、薄暗い雰囲気と石打棚が検死役人の座、下の板場が切腹場、前にある井戸が首を洗うよう場所のように見えたため、いつしか「腹切丸」と呼ばれるようになりました。

天守からの眺め、手前は三の丸広場、まっすぐ伸びるのは大手前通り、その向こうには姫路駅。

西を望めば手前に西ノ丸、その向こうの櫓群は左からヲの櫓、ルの櫓、ヨの渡櫓、ヌの櫓、カの渡櫓、化粧櫓。

修理中の大天守、ほとんどの修理はほぼ終わりに近づいている。
来年からは足場の解体が始まる。

水二門 
この付近は、天守閣の入り口に続く道でありながら、下り勾配がつけられています。
ここまで攻め入って来た敵は、下り勾配のため、天守は左手に見えるが、入れないのではないかという疑惑の念を抱かせるための構造なのだろうと言われております。

姫路城 ロの渡櫓

内部には井戸があり、天守に近い貴重な水源だった。

にの門東方上土塀

「にの門」の西面(裏面なので順路ではわかりにくい)にある「黒田孝高の紋瓦」。
秀吉に力を貸した功績として、秀吉の姫路城には黒田孝高の紋瓦が使われました。
黒田孝高はキリシタン宗に帰依し、十字の紋瓦を使っていました。

築城のとき、石不足のため姫山などにあった佛石を多く石垣などに転用しています。
この六角形の石も灯籠(とうろう)の台石です。

この坂道を下ると「ろの門」が。

「ろの門」、この門を抜けて左に向かうと西の丸、右に向かうと本丸方面へと連結している。

もう一度修理中の大天守を振り返ります。
西小天守、乾小天守を従えてりりしく立ちます。

天守の庭
入城ゲート近くに大小の石を並べただけの広い場所があります。
これは築城以来天守を支えてきた礎石の配置を再現したものです。

昭和の大修理の祭にこれらの礎石から現在の鉄筋コンクリートの基礎に変更されたようです。

好古園は、世界遺産・姫路城を借景にした本格的な日本庭園です。
姫路城の南西に広がる庭園の面積は、約1万坪。

池泉回遊式の[御屋敷の庭]や本格的数寄屋建築の茶室・双樹庵のある[茶の庭]など9つの庭園群で構成され、江戸の情緒を醸し出すそのたたずまいは、時代劇や大河ドラマのロケ地としても使われています。

お菊井戸のいわれ

この井戸は、播州皿屋敷怪で知られるお菊さんゆかりの井戸でよく知られた怪談話が残されています。

約450年前の室町時代中期、姫路城執権の青山鉄山(てつざん)は、城を乗っ取ろうと、城主を増位山の花見の宴で毒殺しようと企てていました。

それを察した城主の忠臣、衣笠元信(きぬがさもとのぶ)は、愛人であるお菊を鉄山の屋敷に奉公させて企みを探らせ、鉄山の息子小五郎から父の陰謀を聞き出しました。

この知らせを聞いて元信は、花見の宴で城主を毒殺しようとする鉄山の陰謀を阻止することができました。
その後もお菊は、鉄山の屋敷で動向を探り続けていましたが、鉄山の同士町坪弾四朗(ちょうのつぼだんしろう)に気づかれてしまいます。

ところが、以前からお菊に好意を持っていた弾四朗は「黙っている代わりに自分のものになれ」とお菊に言い寄りました。
しかし、お菊はその条件を聞き入れず、弾四朗に折檻されます。

それでも強情に言うことをきかないお菊を憎らしく思うようになった弾四朗は、ある日、お菊が預かる家宝の十枚の皿うち一枚を隠してその罪をお菊に負わせ、ついにお菊を切り殺し庭の井戸に投げ込みました。

それからというもの夜ごと井戸の底から悲しげな女のか細い声で「一枚、二枚、三枚、四枚、五枚、六枚、七枚、八枚、九枚・・・・・」と皿を数える声が聞こえるようになりました。

そのお菊が投げ込まれた井戸がお菊井戸だと言われています。

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姫路城へのアクセス、行き方歩き方

住所:〒670-0012 兵庫県姫路市本町68番地
TEL:079-287-2013
FAX:079-287-2014

JRまたは山陽電鉄の姫路駅から北へ徒歩で15分。