100名城最難関のチャシを攻略

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以前にも書いたが誰がチャシを100名城に入れたのか不思議でならない。
遠く、所在地もわかりにくく100名城を目指す人の最難関になっている。
ここだけを残して涙を呑む人もいるだろう。

学説的にも城跡と認めがたいものがあるようにも思える。

今回、チャシ跡群の中では比較的整備されているヲンネモトチャシを訪れた。

チャシはアイヌ文化の中でも重要な位置を占めていると考えられているが、アイヌ族による文献史料が存在しない為、詳しいことは殆ど判っていない。

またチャシが研究対象となったのもアイヌ研究の歴史の中では新しく、河野常吉や河野広道による先駆的な研究を除くと、1973年以降に順次行われたチャシの分布調査が初めての本格的なチャシ調査であった。

このような事情から、チャシについてはっきり言えることは現在でも驚くほど少ない。

チャシの総数は不明であり、地名や伝承には残っているもののチャシの遺構は見つかっていないものも多い。
1992年時点では526カ所のチャシコツ(チャシ跡)が確認されている。

チャシの用途については現在でも諸説あり、結論は出ていない。
チャシが文献に登場するのは17世紀以降で、殆どが和人の残した記録であるが、この時期にはアイヌ族と和人との間で戦争状態が続いていたこともあり、和人はチャシを砦として認識していたようである。

現在では、チャシの用途は複数あり、時代を経るにつれてチャシの主用途は変化していったのではないかと考える研究者が多い。

すなわち、最初期のチャシは聖域としての性格が強く、次いでアイヌ族内での緊張状態の影響からチャランケの場として用いられるようになり、和人との戦いが激しくなると軍事施設としての役割が大きくなっていったのではないかとの見方である。

ヲンネモトチャシから温根元漁港を望む!
漁港の奥に見える納沙布岬の「平和の塔」が印象的です!

チャシ跡群の中では比較的整備されている方で、ここには案内板が。

根室半島には北側にチャシ跡が分布しており、その一つです。
チャシの分布は東蝦夷地(太平洋側のアイヌ文化圏)と呼ばれた道南、道東に多く、特に根室、釧路、十勝、日高地方に集中している。

これはシャクシャインの勢力圏と一致している為、シャクシャインらが和人と戦う中で多くのチャシが築かれたのではないかと推測されている。

やっと最難関の100名城の攻略を終えた、のどかな田園風景を眺めながら、これからまた中継地点の釧路へ帰ります。
長い北海道の旅であった。

シャクシャインの戦い 松前藩の非道

シャクシャインが和人と衝突する前にシャクシャインは同じアイヌであるが、勢力の違うオニビシと漁場をめぐって争っていた。

この背景には和人とアイヌの係わり合いが進んでおり、アイヌの生活において和人との交易が欠かせないものとなっていた。
その中でも和人と親しくしていたアイヌとそうでないアイヌとに分かれていて、オニビシは前者の、シャクシャインは後者のアイヌであったのが現在の認識である。

シャクシャインがオニビシ配下の者を殺害したことから抗争は激化し、それは松前藩にも聞こえていた。
松前藩にとって交易相手として一目置いていた地域での争いだったため何度も停戦を呼びかけ、ついにはオニビシとシャクシャインを松前に呼び、停戦を誓わせた。

しかし数年後、再び漁場をめぐって抗争が起き、ついにシャクシャイン勢によってオニビシは殺害されるのである。

オニビシ亡きあともオニビシ方アイヌは幾度となくシャクシャインに攻撃をしかけるが成功せず、そのためにオニビシの姉婿が松前に出向き援助を要請したが拒否される。
その帰路の途中でオニビシの姉婿は病に倒れ、死亡してしまった。

このオニビシの姉婿の死は病死ではなく、松前藩による毒殺であると各地のアイヌに広まっていった。
この誤報を期にシャクシャイン勢、オニビシ勢両集団の抗争の矛先は和人へと向けられていった。

このころの松前藩は財政危機に陥っており、そのためアイヌと公平な交易を行っておらず、各地で和人の横暴が続いていた。
これらの現状と毒殺の誤報をシャクシャインは巧みに利用し、各地方のアイヌたちに和人と戦うよう呼びかけていった。

呼びかけに応えた各地のアイヌたちは一斉に蜂起し和人の商船を襲い、和人を殺害していった。
はじめはシャクシャイン勢が優勢であったが、松前軍がアイヌ軍戦力分断作戦を主に総反撃に出てからシャクシャイン勢は追い詰められていった。

シャクシャインの本拠地は北海道日高町、名馬ハイセイコーが余生をおくったところである。
松前藩の大将・佐藤権左衛門はシャクシャインに話し合いを申し出た。

当初耳を貸そうとせずに持久戦に持ち込もうとしていた。 
しかし子のカンリリカの勧めで部下と共に松前藩の陣営を訪れた。

松前軍第一陣の指揮者である佐藤権左衛門が武装を解かせてシャクシャイン以下16名を陣内にいれたところ、シャクシャインは刀類を集めて提出したというから和議を受け入れたことになる。 

権左衛門はアイヌたちを引きとめ、和議の酒宴と称して酒を飲ませると時をみはからって襲いかかったのである。 
結果シャクシャイン以下14名は斬殺された。 
そして松前軍は指導者を失ったシベチャリに攻め寄り、アイヌの砦をすべて焼き払った。
これが松前藩が蝦夷で大名として生き残る「松前藩の伝統」である。 
そしてこの乱によりアイヌの絶対服従を誓わせたのである。

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