鬼夜が行われる大善寺玉垂宮

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国の重要無形民族文化財で、日本三大火祭りの一つである鬼夜(おによ)が行われる玉垂宮(たまたれぐう)は、福岡県久留米市大善寺(だいぜんじ)に位置し、玉垂命(たまたれのみこと)、八幡大神(はちまんおおかみ)、住吉大神(すみよしおおかみ)の三柱(みはしら)を祀る。

へこかき祭で有名な筑後一ノ宮の高良大社(こうらたいしゃ)と同じ祭神であるのが興味深い。

大善寺の玉垂宮は、長い間、じいんと神社が一体的に祀られた典型的な神仏習合の神社でしたが、明治2年(1869)の廃仏毀釈により大善寺は廃され玉垂宮のみ残り現在に至る。

玉垂命(藤大臣、高良明神とも称する)    

藤大臣は神功皇后の三韓出兵に大功がり玉垂宮と神功皇后との関係が深い。
   
「吉山旧記」によれば藤大臣は仁徳天皇55(367)年、賊徒退治の勅命を受け、この地に下り筑紫を平定し、同75(369)年、高村(大善寺の古名)に御宮を造営し筑紫の政事を行ったが、仁徳天皇78(390)年、この地に没し祀られ、高良玉垂宮と諡されたと伝える。

創建は天武天皇の672年頃と云われる玉垂宮(たまたれぐう)の社殿。

後に天台宗となり、814年(弘仁5)、殿堂、楼門、回廊など新たに建立し、善美を尽くしたので大善寺に改められた。

この鬼がわら、獅子の顔に角をつけて、虎の牙をつけているんだとか…。
そう、ここの神様は「鬼」なんです。

ここ大善寺玉垂宮では正月7日に「鬼夜」と呼ばれる火祭りが行われる。

玉垂宮の鬼夜は、久留米市の大きな行事であり、鞍馬の火祭りと那智の火祭りとともに日本三大火祭りとして全国的に名高い。

境内のあちらこちらに松明の材料、孟宗竹を3本束ねた芯の周囲に笹竹を寄せ、さらにその周りを真竹で包む。
これに縄をかけて結ぶが、縄の本数は上から7・5・3・3・5・7本とされる。

松明上部は点火のために杉の枯葉を入れて整える。
松明下部は蔓で縛り、尻引綱を取り付ける。

尻引綱は松明を移動させる際に氏子が手にして引っ張るのに用いられる。

大松明を移動させる時、松明を支えるため男性はカリマタと呼ばれる3メートルほどの二叉の樫の棒を用いる。

大松明の下で支えるため火の粉を浴びる。

鬼夜の様子、ウィキペディアより。

大松明は全長13メートル。
点火する松明上部の直径は約1メートル。
重さは約1.2トンある。

締込み姿の若者が煌々と燃え盛る巨大な松明によじ登るさまや、雨のような火の粉を素肌に浴びながら大松明を引き回す光景は、誠に勇壮・豪快で、裸祭りの極致ともいえる素晴らしい夜祭りである。

寒い冬であるにもかかわらず、日本男子の裸の美学が鬼夜には残されている。

大松明の1/5レプリカ

大善寺玉垂宮 二の鳥居

大善寺玉垂宮の参道に立つ鳥居は、元和4年(1618年)に建立され、高さ約5.9メートル、幅約4.5メートル。

市内では、県指定有形文化財の北野天満宮鳥居の慶長12年(1607年)が最も古く、それに次ぐもの。

同鳥居は、元は一の鳥居として、広川に架かる傘橋の南側町内に立っていましたが、昭和9年(1934年)に現在地に移されたといわれています。

筑後国主の初代藩主田中吉政は、慶長6年(1601年)に境内地の一部などを、慶長9年(1604年)には鐘を寄進。

二代藩主忠政は、同鳥居を寄進し玉垂宮を手厚く保護しました。

田中家が筑後地域を治める上で、玉垂宮が重要な役割を担っていたことを示す貴重な資料です。

筑後川の支流である広川に面して建つ玉垂宮の一ノ鳥居

鬼夜大善寺玉垂宮のモニュメント。

現在、社務所の傍にかなりの高さの石柱が立っています。

これは傍を流れる広川に架けられていた神幸橋の橋脚石。
当時は現在の川幅の半分位で25mほどだった。

当時は、川の氾濫で簡単に橋が流失するため、川にこの橋脚石を立て、これに両岸から橋桁を差し、川が氾濫するとすぐに橋桁を外すことができた。

このとき、夜明神社にあった道君首名の大きな墓石3つを運んで橋脚の基礎石に使った。
最も大きな石には、丸い何かの文様が彫られた痕跡が残っている。

「抜河曳橋」この姿がからかさを開いた姿に似ていたので「傘橋」と名付けられたが、嘉永4(1851)年の大洪水で流失したという。

大善寺旧庫裡 市指定有形文化財

「大善寺は、玉垂宮の神宮寺で、盛時には四五の僧坊、三〇〇〇町歩の寺領を誇った大寺で、その歴史は、白鳳元年(672)建立の高法寺までさかのぼると伝えられます。

しかしこの大寺も明治元年(1868)の神仏判然令により廃される。

明治五年この地に洋学校が創設されるや、旧庫裡を御船新氏(最後の座主)が校舎として寄贈され、その後も小学校等に使用されながら、現在まで地元の人々の手によって保存されてきました。

このように大善寺の旧状をしのぶ唯一の建物であり、明治初期における教育史を知る上で貴重な歴史的遺産です。

体育館用地にあったものをこの他に復元(昭和五七年三月)し永く後世に伝えます。」 久留米市

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大善寺玉垂宮へのアクセス、行き方歩き方

久留米市大善寺町宮本1463-1
0942-27-1887

西鉄天神大牟田線「大善寺駅」下車(徒歩5分)
またはJR「久留米駅」より西鉄バス(15)番利用、「宮前」バス停下車(徒歩3分)