西行ゆかりの寺 花の寺勝持寺

京都府


大原野神社から2~3分山道を進むと勝持寺への参道に合流します。
合流する手前に橋が架かり鳥居が建っています。

『勝持寺は、小塩山の東麓、標高130~170mに位置し、寺伝では役小角の開創といわれる山林寺院です。

京都第2外環状道路の新設工事に先立って、平成22年(2010)から平成24年(2012)にかけて、勝持寺の旧境内にあった子院跡と推定される場所で発掘調査が実施されました。

調査では、建物・井戸・石垣や石塁などが見つかり、当該地において鎌倉時代から室町時代の複数の子院跡の存在が確認されました。
この奥に石塁の一部を移築して保存しております。

勝持寺は京都の西南郊外の大原野に位置する。

勝持寺は古くから桜の名所として知られるが、創建についてはあまり明らかでない。

寺伝では天武天皇8年(679年)に天武天皇の勅によって役小角が創建したと伝えられる。

その後延暦3年(784年)に大原野神社が創建されると、勝持寺は大原野神社の別当寺とされ、延暦10年(791年)に桓武天皇の勅により最澄が再興して小塩山大原寺と称したという。

保延6年(1140年)10月、佐藤義清が当寺で出家し、西行となっている。
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勝持寺は古くから桜の名所として知られ、西行ゆかりの寺として知られるが、創建についてはあまり明らかでない。

平安時代の仁寿年間(851~854)に仏陀上人が伽藍を復興したと伝えられています。

堂中には薬師如来像・金剛力士像・日光菩薩像・月光菩薩像・十二神将像・西行法師像といった重文がずらり。

室町時代には、足利尊氏の帰依などにより寺運は隆盛し、現在の勝持寺の周辺には多くの子院(本寺に付属する小寺院)が存在したといわれています。

不動堂へ上がる石段の下、小さな池の奥に鏡石が在ります。

鏡石は、西行が勝持寺で出家し、この石を鏡の代わりに使って頭を剃ったと伝わります。

瀬和井の泉 – 西行が髪を剃った後にこの泉で自らの出家した姿を見たという。

不動堂前の石段を下って、右側に進むと小さな池の中に石の観音像が祀られています。

この観音像は魚籃観音(ぎょらんかんのん)で、魚籃とは魚を入れる籠のことで、組み合わせた手に籠を持っています。

三十三観音の一尊である馬郎婦観音(めろうふかんのん)と同体とされています。

中国・唐の時代、魚を扱う美女が、観音経・金剛経・法華経を暗誦する者を探しだし、結婚しましたが、まもなく亡くなりました。

この女性は、法華経を広めるために現れた観音とされ、馬郎婦観音(魚籃観音)として信仰されるようになりました。

鳥羽上皇に仕えていた北面の武士佐藤兵衛義清が、保元6年(1140)当寺に於いて出家し、西行と名を改めして庵を結び、一株の桜を植えて吟愛していた。

世人はその桜を「西行桜」と称し、寺を「花の寺」と呼ぶようになった。

鐘楼堂
西行桜 – この桜の横に西行の庵があったという。
現在の桜は3代目である。

西行と桜の老精とのやり取りを描いた、室町時代の世阿弥作・謡曲「西行桜」の舞台となったところだと云われています。

「花見んと むれつつ人の くるのみぞ あたらさくらの とがにはありける」西行法師

鐘楼堂の脇の石段を下りると、小川(三春川)があり石橋が架かっています。

「仁王門」は、応仁の兵火を免れた仁寿の旧構を残す勝持寺最古の建造物になっている。

戦国の争乱をも睨み続けてきた仁王さん。
痛々しく傷ついても、なお迫力満点の風貌。

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