東海北陸20名城 田原城

東海

田原城は海に面した小さな丘に築かれており、海や水堀に囲まれた城郭の形状から別名を巴江城という。

枡池の向こうに楼門が見える。

天文16年(1547年)、戸田康光のとき、人質として今川氏の本拠地駿河国に送られる松平氏の嫡男竹千代(後の徳川家康。康光は義母の父に当たる)を護送する任を受けるも、寝返って竹千代を今川氏の敵方の織田信秀に送ってしまったため今川義元の怒りを買い、田原城は今川方の攻撃を受けて落城、城主康光も戦死した。

その後今川氏に属する城代が入るが、桶狭間の戦いの後、今川氏から自立した家康によって攻略され、松平氏譜代の本多広孝が城主に入って、東三河の旗頭として吉田城(豊橋市)を与えられた酒井忠次の指揮下に入った。

さらに天正18年(1590年)、家康が関東へと移封すると代わって吉田城に入封した池田輝政の持ち城となり、田原城には重臣筆頭の伊木忠次が城主となって田原に在城した。

輝政の統治期に、石垣の修築や曲輪の整備などが行われたと考えられる。

田原城復元桜門。

二ノ丸には二の丸櫓が再建されているが、古写真で見ると櫓は下見板張となっており、過去にあったものとは異なる外見となってしまっている。

“コ”の字型に坂を登って行くと、正面に博物館があり、左手には「二の丸櫓」と「桜門」があります。

本丸が三宅氏の家祖である南朝の忠臣児島高徳を祀る巴江神社になっており、9月半ばには年に一度の祭りが大々的に行なわれて、地区住民のシンボルとなっている。

この神社は、三宅氏が文化年間に二ノ丸に建立した社から、魂を移したものである。

護国神社は、田原城「三の丸」になります。

幕末の蘭学者で画家でもある渡辺崋山は、寛政5年(1793)江戸の田原藩上屋敷で生まれた。

幼少のころから優れた絵の能力があったそうです。
40歳で藩の家老職についてから、田原藩繁栄に貢献。

「報民倉」を設け、天保の飢饉のときに一人の餓死者も出さなかった事は有名です。

一方で高野長英らと西洋事情を研究し、鎖国の非を「慎機論」で記しましたが、幕府の批判とされ、田原で蟄居を命ぜられました。

1841年、藩に災いが及ぶのを恐れ自刃。
享年49歳でした。

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田原城へのアクセス、行き方歩き方

住所:田原市田原町巴江11-1
電話:0531-22-1720 田原市博物館

豊橋鉄道渥美線三河田原駅から北へ徒歩10分