山号は伊富貴山。
本尊は十一面千手観音。
通称:大原観音寺。
仁寿年間(851年 – 854年)、三修によって創建された。
もとは伊吹山四大護国寺として法相宗に属していたが、弘和(永徳)3年(1383年)に天台宗に改めた。
長浜城主の羽柴秀吉が鷹狩りで立ち寄った際、寺の小僧をしていた石田三成を「三碗の才」で見出したことで有名。
お寺の正式な名称が『伊冨貴山大原観音護国寺』。
『伊冨貴山』という山号は、関ケ原との境にあります伊吹山から頂戴しておりまして、元々このお寺は伊吹山の方にあり、『伊吹山四大寺』の一角を占めておりました。
弥高寺・太平寺・長尾寺の三ヶ寺と、それとこの観音寺の4つで四大寺を形成していて、現在は天台宗の末寺となっていますが、かつては山岳信仰の拠点だったとされています。
鎌倉時代にこの地に移ってきて、それから800年ほど、こちらでお世話になっているということです。
『大原』というのは、鎌倉時代にこの辺を佐々木大原氏という方が治めておられたことから、この地が『大原荘』と呼ばれていることに由来します。
しばらく佐々木氏の庇護を受けてまいりましたが、戦国時代には、浅井氏・羽柴氏から寺領を安堵され、その後、江戸時代には、彦根藩の井伊家へと変遷しながら庇護を受けてきた歴史がありました。
そうしたご縁もあって、本堂には豊国大明神と東照大神宮を並べてお祀りしています。
豊臣秀吉公と徳川家康公をお祀りしつつ、南北朝の北朝である光厳天皇も南朝の後醍醐天皇の両方を奉賛しているのも、先人の知恵で栄枯盛衰の激しい時代を生き抜いてきた当院の歴史を物語っているのではないでしょうか。
石田三成公の「三献茶」の逸話の水を汲んだといわれる井戸。
この「三献茶」のエピソードが出ているのは、三成死去から100年以上後に成立(1716年)した「武将感状記」からであり、創作の可能性が高いのではないかといわれています。
この秀吉と三成が出合った寺の名称も不明であり、召し抱えられた時期も不明ですが、天正2年(1574)頃で14歳の時ではないかとされています。
但し、18歳の時に姫路で召し抱えられたという史料もあります。
江戸時代に最盛期を迎えたと言われる観音寺は、参道の両脇に23ものお寺がズラリと並んでいたとか。
おそらく、当時の参拝者にとってはかなり壮観な光景だったのではないでしょうか。
現在は、石垣や盛り土の段差から、往時の様子をしのぶしかありませんが、本堂に隣接する薬師堂は、天保の時代にこの地に建てられたといいます。
近年、注目されているのは、坐像としては日本最古のものとされる伝教大師像。
高さは65㎝の一木造りで、国の重要文化財にも指定されています。
銘によれば、彫られたのは、1224年で、社会科の教科書でもたびたび掲載されるなど、広く伝教大師のイメージを伝える歴史遺産として、今も大事に保存されています。
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