弘法大師空海を宗祖と仰ぐ真言宗大覚寺派の本山。
正式には旧嵯峨御所大本山大覚寺と称し、嵯峨御所とも呼ばれる。
平安初期、嵯峨天皇が檀林皇后とのご成婚の新室である離宮を建立されたが、これが大覚寺の前身・離宮嵯峨院である。
小雨そぼ降る日訪れた。
雲照律師は、幕末から明治初期の混乱の中で真言宗の基礎を確立した名僧。
江戸時代、後水尾天皇より下賜された寝殿造りの建物。
天皇に入内された徳川2代将軍秀忠の娘、東福門院和子が、女御御殿の宸殿として使用していたもの。
妻飾り、破風板、天井などに装飾がこらされている。廊下・広縁はすべてうぐいす張りとなっている。
慈性入道親王、世は尊王攘夷が叫ばれる混迷の時代、あろうことか有栖川宮慈性門主は幕府から勤皇討幕の疑いをかけられ、大覚寺は宗祖を弘法大師と仰ぐ真言宗の寺院であるにもかかわらず、宗派の違う天台宗の徳川家菩提寺、江戸の輪王寺の住職を兼務するよう命が下りました。
命に背くこともできずいよいよ江戸に出発の時、勅使門より出られましたが何度も何度も振り返られ、大覚寺に未練を残されたということから「おなごりの門」と呼ばれるようになりました。
右は弘法大師。
正寝殿 桃山時代(1573~1603)の建物、部屋数は12。
一番奥の上段の間は 後宇多法皇 が院政を執られたお部屋。
各室には襖絵があり、中でも「牡丹の間」の牡丹図と「紅梅の間」の紅梅図の襖絵(ともに狩野山楽筆)は著名。
襖絵はすべて複製だが逆にすべての襖絵の撮影が可能であり、ありがたい。
庭にも心和ませる木々がありくつろげる。
嵯峨院の園池を引き継ぐものと推定されているが、これは南東にゆるく傾斜する地形を利用して南から東にかけて長い堤を築することで北西側からの流れをせき止めて築造された人工の池として知られる。
この池はまた周辺水田の灌漑用水として重要な役割を果たしてきたことが知られている。
かもが小雨に打たれています。
中国の洞庭湖を模して嵯峨天皇が築造したものといわれ、当時の唐風文化の面影を今に残す、平安時代前期の名残をとどめ、日本最古の庭池とされている。
堰堤には楓、桜、松が植えられ、心経宝塔を水面に映す。
「滝の音は絶えて久しくなりぬれど 名こそ流れてなほ聞こえけれ」と藤原公任によって百人一首に詠まれた名古曽の滝跡がある名勝。
近衛忠熙篆額による村岡の顕彰碑があります
津崎村岡 1786~1873年 京都に生まれる。
幕末から維新にかけての女流勤皇家で、大覚寺門跡諸太夫津崎筑前守の妹として生まれ、幼少より近衛忠熙に仕え、村岡局となる。
時勢の変遷に明るく、成就院僧の月照、西郷隆盛らと交友を持ち、維新を助ける。
1863年、幕府に捕らえられたが、維新後従四位を贈られる。
(案内板より)
望雲亭(ぼううんてい)、嵯峨天皇から高野山に帰山する弘法大師に贈られた詩「道俗相分かれ数年を経たり、今秋晤語するも亦良縁なり、香茶酌みやみて日ここに暮れる、 稽首して離れを傷み雲煙を望む」より望雲の2字をとって命名された。
明治年間に、裏千家のはからいにより建設されたが、昭和48年秋、火災にて焼失。
現在の建物は、裏千家の設計により昭和50年「寺号勅許1100年」の記念事業として再建された。
有栖川宮家より下賜の家具が使用されている。
関連記事