今日から魏志倭人伝(伊都国・奴国)を訪ねる旅。
まず宗像大社を訪問、『宗像大社』は沖ノ島の沖津宮、筑前大島の中津宮、宗像市田島の辺津宮の三社の総称であるが、現在では「辺津宮」のみを指す場合も多い。
宗像大社は日本各地に七千余ある宗像神社、厳島神社、および宗像三女神を祀る神社の総本社。
また、道の神としての総合神、貴(むち)の称号を伊勢神宮(おおひるめのむち)、出雲大社(おおなむち)に並び持ち、道主貴(みちぬしのむち)と称す。
神宝として古代祭祀の国宝を多数有し、裏伊勢とも称される。
伝えられる伝承では日本神話に起源を持つ。
天照大神と素戔嗚尊の誓約(うけい)の際、天照大神が素戔嗚の剣を噛み砕き、プッと吹き出した破片から生まれたのが宗像三女神である。
彼女たちはアマテラスの神勅を奉じて、皇孫ニニギノミコトを助けるため玄界灘に浮かぶ筑紫宗像の島々に降り、この地を治めるようになったのが宗像大社の起源とされている。
記紀に記載される「天から地に降りた神」はニニギノミコトと宗像三女神だけである。
宗像大社の神紋は、表紋に皇統守護の神勅(しんちょく)を戴く鎮祭の守護から「菊の御紋」を、裏紋に歴代の宗像大宮司家の家紋である「楢(なら)の葉紋」を用いている。
宗像は『古事記』では胸形という字が当てられ、また胸肩、宗形とも表記されるが、もとは水潟であったとする説もある。
古くから当地の民の氏神として信仰を集めてきたが、神功皇后が三韓征伐の際ここに航海の安全を祈り霊験があったといわれ、事あるごとに宗像に奉幣使を派遣する習いになったとされる。
大和朝廷から重視され、またこの逸話からは航海安全の守護神として崇められるようになった経緯がうかがえる。
高宮祭場、宗像三女神の降臨地と伝えられている。
沖ノ島と並び我が国の祈りの原形を今に伝える全国でも数少ない古代祭場。
現在の拝殿は小早川隆景が天正16年(1590年)による再建。
こけら葺きの大屋根が美しい本殿は天正6年(1578年)に大宮司宗像氏貞が再建したもの。
この楢の木は辺津宮(へつぐう)本殿横に約550年の樹齢を重ね、ご神木として人々を見守っています。
世界文化遺産への登録を目指している、「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群」について、ユネスコの諮問機関は「世界遺産にふさわしい」と勧告し、ことし7月に世界文化遺産に登録される見通しとなりました。
沖ノ島は玄界灘のほぼ真ん中に浮かぶ絶海の孤島。
その中腹に、 田心姫神(たごりひめのかみ)を祀る沖津宮が鎮座し、辺津宮より 神職が10日交代でたった一人で奉仕している。
住人はなく、女人禁制、上陸時の海中での禊、一木一草一石たりとも持ち出すことは禁ずるなどの掟が、いまでも厳重に守られている神聖な島です。
島全体が宗像大社の境内地であり、御神体島として皇室・ 国家安泰の祈りが連綿と捧げられている。
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