高野山宿坊へ 目の前は壇上伽藍

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宿泊した西禅院(さいぜんいん)は、高野山根本大塔の裏側に位置、総本山金剛峯寺にも歩いて5分ほどの距離。
お寺の境内からも根本大塔が見えます。

西禅院は「昔ながらのスタイル」を踏襲している。

トイレやお風呂は共用であり、部屋には鍵がなく、部屋と部屋が襖で仕切られているという宿坊。

でも門限になると入り口の山門は固く閉ざされますので、外部とのセキュリティー上の問題はありません。

せっかく高野山の宿坊に泊まるのであれば、一度はこの昔ながらの宿坊スタイルに泊まってみるのもいい。

石碑には見真大師古跡坊とあり、浄土真宗の開祖・親鸞上人(見真大師)がこの地にあった阿弥陀堂に逗留、その跡地に西禅院は建っています。

ご本尊の阿弥陀如来は親鸞上人が逗留した阿弥陀堂にあったものと伝わり、西禅院自体も今から約850年以上前に建立された古刹です。

表門を出た参道の脇で存在感を主張する石灯篭が...。

パナソニックの創業者松下幸之助氏は、少年時代に丁稚奉公した大阪船場の五代商会の五代五兵衛氏の勧めもあり、松下家累代のお墓と従業員物故者慰霊碑を建立、この西禅院を松下家の菩提寺とされたらしい。
    
その松下幸之助氏と五代五兵衛氏が寄贈された石灯篭が建っている。

昭和26年から28年に作られた庭園は京都の東福寺方丈庭園、松尾大社庭園などを手掛けた昭和を代表する作庭家・重森三玲(しげもりみれい)氏の作。

西禅院の勤行は毎朝6時30分から。

住職の後藤慈延さんが導師を勤める際は法話を聞く事ができます。
この日も数人の外国人が宿泊し、荘厳かつ壮麗な朝のお勤めに触れていました。

勤行の後精進料理の朝食です。

夕食後、夜の壇上伽藍へ。

壇上伽藍(だんじょうがらん)はお大師さまが高野山をご開創された折、真っ先に整備へ着手した場所。

お大師さまが実際に土を踏みしめ、密教思想に基づく塔・堂の建立に心血を注がれた。

その壇上伽藍は、〈胎蔵曼荼羅〉の世界を表しているといわれています。

高野山全体を金剛峯寺という寺院と見たとき、その境内地の核にあたる場所で、古来より大師入定の地である奥の院と並んで信仰の中心として大切にされてきました。

画像は灯の入った御影堂(みえどう)。
持仏堂だった御影堂が御影堂と呼ばれるようになった由来は真如親王(しんにょしんのう)によって描かれた弘法大師の御影を安置した事から御影堂と呼ばれるようになった。

根本大塔(こんぽんだいとう)は真言密教の根本道場で高さ約48.5mある多宝塔。
多宝塔としては、日本で最初に建てられたものではあるが、再三の落雷で幾度となく焼失した記録があります。

現在の建物は昭和12(1937)年に再建されたものになります。

根本大塔内部には多聞天と持国天の二体の像が安置されています。

根本大塔の前に『常夜灯』があります。高さは3mくらいありとても立派な物で、奈良県東大寺にある常夜灯と同じものです。

金堂の南西に建つ小さな塔は、平安時代末期、美福門院が鳥羽法皇の菩提を弔うために建立した「六角経蔵」。

美福門院は鳥羽法皇の后として権勢をふるった女性で、保元の乱の原因を作ったと言われています。

一方で美福門院は高野山に深く帰依しており、この経蔵に納める一切経のため、紀州荒川の荘園を高野山に寄進。
このことから、六角経蔵は「荒川経蔵」とも呼ばれています。

美福門院は鳥羽法皇の遺言に背いてまで、自らを高野山に葬るよう切望しました。
女人禁制の高野山は反発しますが、この寄進の効果があったためか、例外として納骨が許されました(不動院境内の美福門院陵)。

山王院は御社の拝殿として建立された、両側面向拝付入母屋造り(りょうがわめんこうはいつきいりもやづくり)の建物で、桁行21.3メートル、梁間7.8メートルあります。

山王院とは地主の神を山王として礼拝する場所の意味であり、現在の建物は文禄3年(1594年)に再建されたもの。

このお堂では、毎年竪精(りっせい)論議や御最勝講(みさいしょうこう)などの重要行事や問答が行われます。
また毎月16日には明神(みょうじん)様への御法楽として、月次門徒・問講の法会が行われています。

翌朝、再度壇上伽藍を散策。

画像は六時の鐘(ろくじのかね)

伽藍の入り口の高い石垣にある鐘楼は、福島正則公が父母の追福菩提を祈って、元和4年(1618年)に建立された。

福島候といえば、豊臣秀吉と柴田勝家(かついえ)との戦いで、賤ヶ岳七本槍(しずがたけしちほんやり)といわれた、豊臣家きっての勇将。

寛永7年(1640年)に、正則の子である正利によって再鋳されましたが、その鐘銘がかなまじり文であることで有名。
現在でも午前6時より午後10時まで、偶数時に時刻を知らせています。

東塔(とうとう)は大治2年(1127年)、白河院の御願によって醍醐三宝院勝覚権僧正(だいごさんぼういんしょうかくごんのそうじょう)によって創建。

当初は上皇等身の尊勝仏頂尊(そんしょうぶっちょうそん)が本尊として奉安され、不動明王、降三世(ごうさんぜ)明王の二体も脇侍(きょうじ)としてまつられました。

天保14年(1843年)に焼失してからしばらくの間再建されず、140年たった昭和59年(1984年)にようやく再建されました。

三昧堂(さんまいどう)は済高(さいこう)座主(870年~942年)が延長7年(929年)に建立されたお堂で、もともと総持院(そうじいん)境内に存在していた。

済高師はこのお堂で「理趣三昧」という儀式を執り行っていたため、三昧堂と呼ばれるようになりました。

後に壇上へ移されるのですが、修造にかかわったのが西行法師だと伝えられています。
三昧堂の前の桜は、西行法師手植えの桜として、西行桜と呼ばれています。

伝説にはこのお堂を修造した記念に植えられたそうです。
現在の建物は文化13年(1816年)の再建です。

中門(ちゅうもん)は金堂の正面手前の一段低い所に、そびえる五間二階の楼門。

壇上伽藍はかつて天保14年(1843年)の大火により、西塔のみを残して、ことごとく焼き尽くされました。

先代の中門もその折に失われ、今日までなかなか再建叶わずにおりましたが、高野山開創1200年を記念して170年ぶりに、この度再建。

持国天(じこくてん)像・多聞天(たもんてん)像・広目天(こうもくてん)像・増長天(ぞうちょうてん)像の四天王がまつられています。

なお、持国天像と多聞天(毘沙門天)像は二天門であった先の中門に安置されていた像で、類焼をまぬがれてこの度保存修理が完成。
広目天像・増長天像は現代の大仏師松本明慶師の手により新造されたものです。

国史跡 蓮池と善女龍王社

蓮池は高野山上最大の池であり、その期限は平安時代にさかのぼる。

古くは金堂池と呼ばれていたが、江戸時代に蓮が植栽されてからは蓮池の名で親しまれてきた。

昭和のはじめまでは水面を覆い尽くす蓮の群生がみられたが、改修工事等によひ池の環境が変化したことにより現在はほとんど植生していない。

蓮池の中央の小島には善女龍王が祀られた社がある。
この社は明和八年(1771)春の旱魃(カンバツ)時、瑞相院の慈光僧正が善女龍王を勧請して雨乞いの法を修されたことに由来している。

善女龍王とは龍神の一種であり、天候や農耕など水に関する信仰に絶大な御利益をもたらすとされている。

東塔、三昧堂、根本大塔を眺めながら壇上伽藍を後にした。

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