鴻池新田会所は、江戸時代に豪商鴻池家が開発した新田の管理・運営をおこなった施設です。
江戸時代中期以来の古建築群と庭園、鴻池家から寄贈された民具類を現代に伝えています。
表長屋門
近代的な市街化が進んだ東大阪市周辺に残る数少ない歴史的建造物群のひとつです。
10,662m2の 会所敷地は国の史跡で、本屋、屋敷蔵、文書蔵、米蔵、道具蔵と江戸時代の本屋座敷の棟札、米蔵の御札は重要文化財です。
江戸時代中期に、大阪の豪商・鴻池家三代目、。
当初の入植者は8軒ほどで、二回目に10数軒が入植。2010年時点で13代目位の人々が住んでいる。
主な入植者居住場所は鴻池本町(会所の北東エリア)となっており、最も古い地域となる。
朝日社境内の絵馬堂には明治・大正時代の浄瑠璃番付や相撲番付が掲げられていて、いずれも村人が勧進元になって興行が行われていたようです。
鴻池家の先祖は山陰の戦国大名尼子氏の家臣、山中鹿之助幸盛 ( 遠祖 ) であると言われています。
鹿之助の長男新六幸元 ( 始祖 ) は戦難を逃れるため、摂津国長尾村鴻池 ( 現伊丹市 )
で大叔父の山中喜六信直 ( 太祖 ) に育てられました。
のちに屋号となる「鴻池」はこの地に由来するものです。
新六はこの地で商才を発揮し、慶長年間 (1596 ~ 1615) には造酒屋で成功を収めています。
また、元和 5 年 (1619) には大阪内久宝寺町にも店を構えました。
さらに寛永 2 年 (1625) には海運業を始めて、江戸・大坂間の物資輸送をつとめたほか、大名蔵屋敷の蔵物 ( 年貢米 ) を担保に金を貸し付ける大名貸しも始めています。
また、宝永 2 年 (1705) からは鴻池新田での農業経営に参画し、のちに海運業・酒造業を廃止しました。
宗利は事業を安定させるために家訓や店則を定め、代々、両替商や大名貸しをはじめとする金融業と新田経営に専念させ、幕末ごろには、「日本の富の七分は大坂にあり、大坂の富の八分は今橋にあり」というように形容されるほど鴻池家は財をなしました。
旧鴻池新田会所 本屋
北面突出部 桁行3.0m、梁間11.8m、北面下屋附属、入… 河内平野を流れる大和川の付け替え後、町人請負として開発された鴻池新田の会所で、宝永年間に開設された。 周囲に堀を回した敷地の中央に本屋が建ち、その北に屋敷蔵、西方に文書蔵・米蔵・道具蔵が並ぶ。
本屋土間
河内平野を流れる大和川の付け替え後、町人請負として開発された鴻池新田の会所で、宝永年間に開設された。
周囲に堀を回した敷地の中央に本屋が建ち、その北に屋敷蔵、西方に文書蔵・米蔵・道具蔵が並ぶ。本屋は大規模で、土間には豪壮な梁組を見せるが、床上部は質素であり、また、屋根は破風を多用して城郭風の趣もみせるなど、会所の建築としての特色をよく示している。
四棟の蔵は屋敷構えの一環として重要であり、米蔵が特に大規模なのも特色の一つである。
本屋内部 勘定場と座敷
宝永元年(1704年)に大和川付け替え工事が行なわれ、旧河川・水位が減少した湖沼に広大な敷地が生じた。
そのうちの新開池という大きな池のあった辺り(現在の東大阪市北部の鴻池町周辺)二百町歩あまりの開発権利を、大和屋六兵衛・庄屋長兵衛 両名が落札した。
それを 鴻池善右衛門が譲り受け、新田開発をおこなった。
新田開墾のため伊勢や枚方などあちこちから農民を入植させた。
村高は「天保郷帳」・「旧高旧領」共に1706石余。
宝永2年(1705年)に工事が開始され、大和川付け替え工事でできた新田の中でも最大の開発面積(約119ヘクタール)となった。
本屋の広壮な土間と高い梁、開放的で簡素な座敷、中庭に面して建ち並ぶ蔵、米つき場など、民家建築とは異なり、新田経営のなかで生み出された飾りの少ない大きな造作が特徴です。
鴻池、三島、新庄あたりは米農家が多く台所が土間の家がいくつか平成近くまで現存していた。
村の人達は互いに 「鴻池の⚪︎⚪︎」「三島の⚪︎⚪︎」と村の名前をつけて呼び合い 互いに婚姻をするなど結びつきが強かった 鴻池本町はとくに水路が多く 各々の所有する舟が家の軒先につってあり、それで米を会所まで運んでいた。
その痕跡は重要文化財の会所の内側に船着場が残されており 残念ながら1970年代重要文化財に指定される改築時、無粋な壁を作られ外からは見えず半分埋れた形となっている。
昭和時代後期以降の宅地開発によって、耕作地は住宅地へと変貌していった。
鴻池新田会所庭園
鴻池新田の管理事務所として、宝永4年(1707年)に完成した。当時の建築物や濠がほぼそのまま現存しており、貴重な文化遺産であるため、敷地は1976年(昭和51年)に日本国の史跡に指定され、また本屋、屋敷蔵、文書蔵、米蔵、道具蔵の5棟が1980年(昭和55年)に日本国の重要文化財に指定された。
現在は東大阪市が所有・管理している。
かつて東に遠望できた生駒山を借景とした庭園は、弁天池を設け、植木の種類や刈り方を変えたり、庭石や石燈籠を配して、庭を巡って変化を楽しむように造られています。
江戸時代末のいわゆる池泉鑑賞式の平庭です。
常緑樹が多く、カヤ、クスノキの巨樹がみられ、「大阪みどりの百選」のひとつです。
会所は、新田とともに竣工し、240年あまりにわたって使われました。
会所では、鴻池家から派遣された支配人の管理下で、小作農民からの小作料、肥料代の徴収、幕府への年貢上納、耕地、家屋の管理・補修、宗門改帳の作成・整理、老人への米の配給、幕府や鴻池家からの指示伝達、新田内での争いの裁定をおこないました。
新田では、小作農民がおもに米と綿を栽培しました。
江戸時代には、綿とその製品はこの地方の主要な産物でした。
生駒山を借景にした回遊式庭園や、本屋/米蔵(国の重要文化財)など当時の様子を思わせる家屋は、時代劇のロケに使われたこともあり、現在でもときおり特別展示や講演会などが催されている。
10,662m2の 会所敷地には、本屋、蔵のほか、長屋門、居宅、朝日社などの伝統的な建物群と庭園が残されています。
敷地は1976年に国の史跡に指定され、1980年には本屋、屋敷蔵、文書蔵、米蔵、道具蔵と本屋座敷の宝暦9年(1759)棟札、米蔵の享和2年(1802)御札が重要文化財になりました。
米蔵
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