新開池伝説の西堤から高井田村へ、古の長栄寺へ


長瀬川は旧大和川分流のなかでも本流となる大きな川。

流域の小高い土地に開けた高井田の集落。
いまは大和川付け替え後、長瀬川は灌漑水路となって高井田村を潤しました。

また、暗越奈良街道が横切り、古代から東西往来の要所でもありました。

昭和43年(1968年)、第二寝屋川ができるまでは、この周辺には楠根川が流れていた。

新開池伝説

西堤神社

西堤の地名は楠根川の西の堤ではなくて、現在の大東市に内介淵(ないすけがふち)という池があり、その西堤に住んでいた人たちがこの地に移転したことで命名された。


境内社に、水神社がある。
「鱗殿(うろこ殿)」とも呼ばれ、内介淵で大蛇を退治した時にはがされた大蛇の鱗が祀られているという。

日照りの時、この鱗殿をお参りすると、雨が降ったと伝えられている。
鳥居をくぐってすぐ右側(北側)にあり、祠の周囲の堀には昔は亀が住んでいたという。

江戸時代前期の貞享2年(1685年) に刊行された井原西鶴『西鶴諸国はなし』にも、内介に関する逸話が記載されている。

他に、天満宮(菅原道真公)がある。
脇には素朴な牛の彫像が安置されている。
その後ろに、御神木のクスノキがある。

幹周5.5メートル、樹高は約25メートル、樹齢は推定400年。
市の保存樹木で、「施無畏(せむい) 八大龍王」を祀る。

「楠さん」として親しまれる御神木で、「おかかえ石」やお百度石も安置されている。



古代から大和川の本流としてその水運は利用されてきた。
当時は長瀬川という名称ではなく、大和川であった。

中世以降は大和川の支流である平野川とともに大阪と奈良を最短距離で結ぶ水路としての利用も活発で、流域には八尾・久宝寺(ともに八尾市内)といった集落が発達した。

このため、中世には大和川は一部地域では久宝寺川とも呼ばれていた。

しかし大和川は非常な暴れ川でもあった。

大和川は流域面積のうち保水能力に富んだ山地の占める割合が大きく、降った雨が蓄積されるのだが、梅雨や台風の際には保水能力を超えることもあり、また、奈良盆地から大阪平野(河内平野)に注ぎだす柏原口が狭く漏斗の役割を果たし、紀州山地や奈良盆地で蓄えられた多量の水を吐き出すために、急流となり、大和川の通常の流れである蛇行しながら北上する河道を通る際に溢れ出し水害となるのである。

また河川の勾配が大阪平野に入ると緩いために流送土砂が堆積して天井川となり、洪水の被害をさらに甚大なものとしていた。

1703年10月に幕府は大和川水路修治の令を発して1704年2月に付替工事が始まった。

3年計画の工事は、作業に協力した近隣の庄屋の指揮のもと動員された多くの百姓らと、財政的に支援した大阪の多くの商人の働きによってわずか8ヶ月足らずで完成し、同年10月13日に付替地点の古い堤防を切り崩して水の流れる方向を変えた。

その結果、大和川は大阪平野を西流して大阪市と堺市の境で大阪湾に注ぐようになった。

次第に埋め立てられていった旧河道には新田が開発されたが、元々が川底であることから砂地であり稲作には不向きであった。

このため砂地での栽培に適した桃の栽培、木綿の栽培や綿業が盛んになり、河内木綿と呼ばれるまでになった。

また綿業の副産物として綿種油の生産も盛んになり、現在も長瀬川沿いには油脂関連の企業が立地している。

宝永元年(1704年)柏原市安堂付近から大阪湾に流れ込む新川が掘削されると、水量が激減した旧川筋では、川床を埋め立てた新田が多数開発されました。

新喜多新田もその一つで、開発を請け負ったのは、鴻池家の一統で有力な両替商であった鴻池新七とされていますが、また鴻池新十郎・鴻池喜七・今木屋多兵衛の三名がたずさわり、その名の一字づつをとって『新喜多』と名付けたとも言われています。

新田は、川を埋め立てた土地だけに区域は南北に細長く、現在のJR学研都市線放出駅の手前まで続いています。

暗越奈良街道(くらがりごえならかいどう)

大阪から奈良へ通じる旧街道として、4~500年前に開けた街道です。

暗峠越奈良街道は、大阪高麗橋を起点として西から東へと通じ、生駒山地を暗峠で越える最短ルートの街道です。

江戸時代には旅客・貨物の重要な交通路として利用され、特に伊勢参りの旅人により大いに賑わいました。

西岸地蔵

大坂と奈良とを結ぶ暗越奈良街道(くらごえならかいどう)筋の長瀬川西岸に位置することから、その名が付いたとみられます。

以前は新喜多地蔵と呼ばれていましたが、昭和五十五年地蔵堂改修の際、建築材に「西岸地蔵」の墨書が発見され、もとはこの名で呼ばれていたことがわかりました。

堂内には一辺 43cm ・高さ 27cm の花崗岩の台石をを置き、その上に直径 34cm ・高さ 20cm の蓮華座と高さ 94cm の地蔵菩薩立像とが安置されています。

蓮華座と地蔵菩薩立像は砂岩製で同じ石から掘り出されたもののようです。

このうち蓮華座の周囲の蓮弁表面にだけ風化の痕が残ることからかつては蓮華座だけが外気にさらされていたと考えられます。

また、台石の全面中央に太字で「法界(ほっかい又はほうかい)の二文字、その右側に寛延二年(1749)、左に十月吉と刻んでいます。

このことから、この地蔵菩薩立像は大和川付替えから四十五年後の寛延二年十月に建立されたことが知られます。

暗越奈良街道沿い、旧大和川(長瀬川)の堤防だったところと交わった場所にあります。

大和川付け替え後に設置されたもので、当時川幅が推測できます。

高井田地蔵尊(清水地蔵)

立派なお堂と解説板付きなのですが、それだけで街中地蔵よりも格上、史跡地蔵だとか思ってしまいます。

中のお地蔵さんは、光背に梵字9文字が刻まれているのが特徴です。

『渡シ地蔵と旧高井田村の石仏

堂前の線香立の石柱に「渡シ地蔵」と刻まれている地蔵石仏は、高さ 95cm・幅 30cm の舟形光背に高さ 70cm の地蔵菩薩立像をまつっています。

年号などは確認できませんが、江戸時代初期の作と推定されています。

この場所は旧大和川の本流である長瀬川の西堤にあたり、大和川付替え以前は川幅が 200m ちかくもあって、舟の渡し場になっていたようです。

付け替え後は川床が埋め立てられ、新喜多新田となりました。

渡シ地蔵の南 150m にある喜楽地蔵堂内には、高さ 68cm・幅 30cm の舟形光背に両手で宝珠もつ高さ 46cm の地蔵菩薩立像が半肉彫されています。

像の左に宝暦九年(1759)の銘が刻まれています。

長栄寺は、聖徳太子の開創と伝えられ、本尊の十一面観世音-重要文化財-も太子が自ら刻んだものといわれ、府の文化財に指定されています。

本堂は火災で焼失し、文政8年(1825年)に再建されました。

境内の奥には、慈雲尊者が修禅研学をしたという双龍庵禅那台が端正な姿で残っています。

後年荒れてしまった当寺を延享元年(一七四四)二十七歳の慈雲尊者が中興。

ここで弟子たちと修行し、正法律(真言律)の復興を唱え、その道場としました。

享保三年(一七一八)大坂中之島の高松藩蔵屋敷で生まれた慈雲は、大阪南田辺の名刹真言宗法楽寺で得度。
のち、二十七歳でこの長栄寺へ来たということです。

以後高貴寺とともに正法律の一派として幕府に認可され、広められることになります。

慈雲は宗派にとらわれず、それまで漢訳仏典でこと足れりとしてきた日本の仏教界を批判しました。

梵学(サンスクリット学)をもきわめた彼はその後有馬、長尾の滝、京都、河内高貴寺などに転住しますが、この寺へはよく立ち寄り、大阪における説法は常に長栄寺でおこなわれました。

高貴寺に石上露子を訪ねる
開山は役行者で、文武天皇の勅願によるといわれている。河内高貴寺縁起によると、役行 … 続きを読む →

慈雲尊者霊廟。京都阿弥陀寺で亡くなった尊者の遺体は、郡山城を経由して運ばれ、ここ高貴寺の奥の院に埋葬された




鴨高田神社

一説には、鴨高田の神は「迦毛大御神」すなわち鴨氏の祖神・阿遅鉏高日子根神であり、古くから高井田の里に鎮座していたとも。

中世には、石清水八幡領となったため「八幡宮」と呼ばれていたようだ。
おそらくはこの時に「神功皇后」「応神天皇」が勧請されたのだろう。

また、社頭の説明には、醍醐天皇・延喜18年(918)、大洪水に見舞われ五穀が稔らず困窮したとき、諸民が当社に祈願したところ霊験があり、百姓がおおいに喜んだ。

後桃園天皇の安永年間(1772?80)、悪疫が流行したとき、時の神職・久左衛門が1月9日から10日間、断食して悪疫祓除を祈願し、全村その厄をまぬがれた。

という逸話が掲載されている。

牛頭天王=速須佐之男命が祀られてたのは、悪疫祓除の祈願の頃だろうか。

社伝によると、白鳳2年(673年)に古代豪族の鴨氏がその開祖である大鴨積命を祀ったのが始まりだという。

ちなみに、京都の上賀茂神社の創建が白鳳6年であるから、それよりも4年早く創建されていることになる。

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