葛城古道界隈は風情のある民家が続く。
綏靖天皇は神武に次ぐ第二代の天皇で、その存在については疑問視されています。
しかしながらこの辺りは葛城襲津彦の子にして第十六代仁徳天皇の皇后である磐之姫の古郷と言われ、古事記には磐之姫が熊野に行っている間に天皇が八田若郎女を宮中に入れ遊び戯れている話を知り、大いに怒って(磐之姫は嫉妬深いことで有名)宮中に帰らず、堀江を遡って山代へ向かい、更に奈良山の手前まで行き次の歌を詠んだとされます。
「つぎねふや 山城川を 宮のぼり わがのぼれば あおによし 那良を過ぎ をだて 大和を過ぎ わが見がほし国は 葛城高宮 吾家のあたり」
いずれにしてもこの地が古代の天皇家と深い関わりがあったのではないでしょうか。
嫉妬にまつわる逸話
古事記下巻仁徳天皇条には「その太后石之日売命、甚(いと)多く嫉妬(ねた)みたまひき。
故、天皇の使はせる妾(みめ)は、宮の中に得臨(えゆ)かず、言立てば、足もあがかに(=地団太踏んで)嫉妬みたまひき」という記述が見られるように、妬み深い人物として知られる。
その様から他の妾が宮殿に会いに行けず、仁徳天皇は宮殿を離れた時か、彼女が宮殿から出かけた時に迎えいれるしかなかったという。
ただ、裏を返せばそれだけ仁徳天皇が多情であったということであろう。
『古事記』には、仁徳は黒日売(くろひめ)という美女を見初めたが、黒日売は石之日売の嫉妬を怖れて国に帰ったという話を伝えている。
『日本書紀』には、仁徳が女官の桑田玖賀媛(くわたのくがひめ)を気に入ったが磐之媛の嫉妬が強くて召し上げられないと嘆く話が出てくる。
天皇が八田皇女(八田若郎女)を宮中に迎えたことへの太后の怒りについては記紀ともに伝えている。
太后が豊楽(とよのあかり。酒宴のこと)の準備のために、料理を盛る木の葉御綱柏(みづなかしわ)を採りに紀伊の国へ行った留守中に、天皇が八田皇女を後宮に納れたことを知り、採取した御綱柏をすべて海に投げ捨て、天皇の元へ戻らなかった。
『古事記』では、独り身を歌った八田皇女の天皇への返歌が添えられており、そのことから、八田が身を引き天皇と石之日売は和解したという研究者の解釈がある。
また、その後起こった女鳥王(八田皇女の妹)とその夫・速総別王の討伐(仁徳に求婚された女鳥王は石之日売の怒りを怖れて速総別王と結婚したが仁徳の怒りを買って二人とも殺害された)ののちの酒宴に再び石之日売が登場し、討伐を実行した武人・山部大楯連(やまべのおおたてのむらじ)の妻が女鳥王の腕輪をつけていることに気付き、「主君の屍から腕輪をはぎ取り、妻に与えるとは無礼だ」と激怒し、山部を死刑に処した、と記している。
『日本書紀』では、天皇の浮気を知った磐之媛は実家の葛城高宮を懐かしみ、近くの筒城(筒木)岡に宮室を造営して以後そこに暮らし、天皇が面会に来ても会うことはなく筒城宮で没したと伝える(『日本書紀』では八田皇女の妹夫婦討伐の話は太后の死後としている)。
研究者の大久間喜一郎は、太后が八田皇女を頑なに認めなかったのは、豪族出身の太后に対し、八田皇女は応神天皇の娘であるため、格上の家柄の女性を宮中に迎えたくなかったからではないかとしている。
また、天皇が即位後に、それまでの妻に代わって位の高い女性を皇后に改めて迎える例は多々あるが、八田皇女が皇后となるのは太后の死後であり、太后の4人の息子のうち3人が連続して天皇に即位したことから見ても太后の権威は大きかったと推測している。
日本最古の歌集とされる万葉集には彼女の愛情の深さを表す歌が四首収められている。なお、ここでいう「君」はもちろん仁徳天皇を指す。
君が行き 日長くなりぬ 山たづね 迎へか行かむ 待ちにか待たむ
かくばかり 恋いつつあらずは 高山の 磐根し枕きて 死なましものを
ありつつも 君をば待たむ 打ち靡く わが黒髪に 霜の置くまでに
秋の田の 穂の上に霧らむ 朝霞 何処辺の方に わが恋い止まむ
3首目の意味は「豊かな私の黒髪が白くなるまであなたを待ちましょう」という意味であり、この歌を詠んだのが上記と同一人物とは信じられず、後の時代に別の誰かによる創作とも考えられている。
「いちごんさん」の石段をのぼると目の前にはムクロジの大樹があり、本殿前には銀杏の大樹がありす。
樹齢650年といわれるムクロジの大樹。
ムクロジは神社・寺によく植えられる落葉高木。
ムクロジの実は果皮に多量のサポニンを含み、水を泡立てる働きがあるので、洗濯などに広く利用されてきました。
黒い種は羽子板の羽に使われていました
拝殿前にはイチョウの古木(乳銀杏)があり、樹齢1,200年ともいわれ神木とされている。
この一言主神に関しては、『日本書紀』[原 3]『古事記』[原 4]における雄略天皇との対面説話が知られる。
両書によれば、雄略天皇が葛城山中で狩猟をしていた際、天皇と同じ姿の一言主神(一事主神)が現れ、天皇と狩猟を競ったという。
ただし、『古事記』では天皇が大御刀・弓矢・百干の衣服を神に献じて拝礼したとして一言主神の方が優位に記述されている一方、『日本書紀』では天皇が物を献じることはなく一言主神と天皇が対等に近い立場で記述されている。
『古事記』の方が原初的と見られることから、『古事記』の説話は一言主神の奉斎氏族とされる葛城氏が皇室外戚として強い勢力を持った頃の政治情勢を反映したもので、『日本書紀』の説話は葛城氏勢力が衰えて一言主神の地位も低下した頃の情勢を表すと考えられている。
さらに時代が下り、平安時代の『日本霊異記』[原 1]や『今昔物語集』[原 5]では、一言主神は役行者(役優婆塞/役小角)によって金峰山・葛城山の間に橋を架けるために使役され、さらに役行者の怒りにふれ呪縛された、と記されるまでに神威の低下が見られる。
なお、この使役の時に一言主神は自らの顔の醜さを隠して昼は働かず夜のみ働いたとされるが、その説話を受けて松尾芭蕉は『笈の小文』に歌を残している。
松尾芭蕉 『笈の小文』
“
やまとの国を行脚して、葛城山のふもとを過るに、よもの花はさかりにて、峯々はかすみわたりたる明ぼののけしき、いとど艶なるに、彼の神のみかたちあししと、人の口さがなく世にいひつたへ侍れば、
猶(なお)見たし 花に明行(あけゆく) 神の顔
その意は、一言主は顔が醜かったというが、本当は、この花盛の山々の曙にふさわしく、きっと美しかったにちがいない。
そんな神の顔を見たいものだ、ということか。
葛城(かづらき)の 襲津彦(そつひこ)眞弓(まゆみ) 荒木にも たのめや君が わが名告(の)りけむ(万葉集巻11-2456)
この荒木の神をたよりとして、あなたは私の名前を人に明かしてしまったのでしょうか
この並木が、昔はもっと立派で美しい、しかも松並木だったらしい。
どのくらい昔かというと、これは分かっていて、昭和の後半。
奈良と和歌山を結ぶ県道建設のせいで参道が分断され、貧相な姿になってしまったという。
一言主は、どうも時代の巻き添えをくいやすい体質らしい
葛城連合は、古い時代には三輪王朝とタメを張って貫禄勝ちしていたが、やがて婚姻などを通じて大和連立政権に仲間入りして、一定の地位を確保する方向に動く。
実際5世紀頃の葛城氏は、次期大王推戴の豪族会議でも大きな発言権を有し、独自の経済力・軍事力を保っていたようだ。
それが衰退するのは、雄略という荒っぽい大王の登場がきっかけになっている。
王位継承のごたごたに絡んで、先帝の重臣だった葛城円(つぶら)が殺されてしまう。
雄略は、他の王位継承候補者をやたら殺しているが、円はそれに抵抗したのだろうか?
その時に、円の一族郎党が、まだ未開の地であった土佐に追いやられた可能性が考えられる。
土佐には、一言主を祀る都佐(土佐)神社という古社がある。
葛城に残った子孫が、後世の王朝に願い出て、葛城の一言主神社として祀りなおしたと伝えられる。
やがて藤原氏の台頭と律令制の整備によって、古代豪族という存在自体が影響力を失う。
葛城連合の末裔は、歴史の表舞台から消え、過去の事蹟も正史からはほとんど抹消され、神話と伝説の霧の中にかすかな足跡を残すだけになってしまった。
多分そういった経緯を反映して、書かれた時代によって異なる一言主の伝説があるのではないかと思われる。
蜘蛛塚--神武天皇即位前紀に、「高尾張邑(タカオハリムラ・当地の古地名)に土蜘蛛がいた。
その人態は身丈が短くて手足が長かく、侏儒(シュジュ)に似ていた。皇軍は葛の網を作って覆い捕らえ、これを殺した。
そこでこの邑を改めて葛城とした」と伝え、境内には、この土蜘蛛の頭と胴と足を三つに分けて埋められたという塚が三つ伝えられている
柱と島木の接続部分に、一枚の台輪と称する座をはめてあります。
防腐効果を持たせるためと言われていますが、多分にデザイン的なものでしょう。
両部鳥居の中に、台輪を使用しているものを多く見かけます。
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