新薬師寺という名前は「新しい薬師寺」ではなく、「霊験新たかな薬師如来さまを祀ったお寺」という意味で、西ノ京の薬師寺とは全く無関係。
聖武天皇の病気平癒を祈願して光明皇后が創建された寺。
本堂(国宝)
堂内中央には円形漆喰塗りの仏壇を築き、中央に本尊薬師如来像を安置、これを囲んで十二神将像が外向きに立つ。
この建物は創建当初の金堂ではなく、他の建物を転用したものではあるが(密教的修法が行われた「壇所」であったという説がある)、遺構の少ない奈良時代の建造物として貴重。
新薬師寺の最大の見どころは、ご本尊の「薬師如来像(国宝)」の周りを、「十二神将立像(11体が国宝)」がグルリと円形に取り囲む姿。
まさに「薬師如来さまを守る!」という十二神将の本来の仕事を全うするかのように、その周囲に並ぶ姿は圧巻!
南門をくぐって左手にある「観音堂(元は地蔵堂)」。
鎌倉時代作の重要文化財。
格子越しにしか見ることができませんが、薬師如来・地蔵菩薩・十一面観音の3体が祀られています。
元興寺の鐘楼にあった鐘は、いつしか新薬師寺に移されましたが、その鐘には小僧と闘ったときの鬼の爪痕がたくさん残されている。
また、勇敢な小僧とは後の道場法師。
実忠和尚御歯塔。
実忠和尚は東大寺の僧で、あの東大寺二月堂のお水取りを創始した方。
元々は十三塔だったが、倒壊やらで現在は五塔になっている。
境内の南西隅にある石仏群。
小屋の中には、地蔵菩薩三軀(く)、阿弥陀如来一軀、薬師如来一軀、二面阿弥陀名号石がある。
一番小さな地蔵菩薩は、光背の上部に六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天)の姿が刻まれ、脇侍には冥界を司(つかさど)る十王を配しています。
稲荷社
会津八一歌碑。
「ちかづきて あふぎみれども みほとけの みそなわすとも あらぬさびしさ」
(うっとりとした眼の)香薬師に近づいて仰ぎ見るのだが、はるか彼方を見られているようで、私をご覧になっているようには思えないこの寂しさよ。
新薬師寺より香薬師堂へ向かう。
新薬師寺の香薬師堂に「夜泣き地蔵」が祀られている。
春日大社の社殿から夜毎に泣き声が聞こえてきた。
神官が不思議に思って社殿の扉を開いてみると、一体のお地蔵様がおられた。
よく聞いてみると「新薬師寺へ帰りたい。」と泣いていたので、すぐに新薬師寺へ移した。
ということはもともと新薬師寺にあったお地蔵様が何らかの理由で春日大社の方に置かれていたのでしょうか?
香薬師堂庭先に置かれた露盤。
文化10年(1813)癸酉の銘。
南都鏡神社
大同元年(806年)に新薬師寺の鎮守として境内南側にて創建された。
藤原広嗣が処刑された唐津の鏡神社から勧請を受けたものと伝えられる。
現在の本殿は、延享3年(1746年)に春日大社の第三殿を譲り受け、移築されたもの。
一間社春日造り建築で、奈良市指定文化財となっている。
新薬師寺のことなど・・・・
創建時の新薬師寺は金堂、東西両塔などの七堂伽藍が建ち並ぶ大寺院であったが、次第に衰退した。
『続日本紀』によれば宝亀11年(780年)の落雷で西塔が焼失し、いくつかの堂宇が延焼している。
また、『日本紀略』『東大寺要録』によれば、応和2年(962年)に台風で金堂以下の主要堂宇が倒壊し、以後、復興はしたものの、往時の規模に戻ることはなかった。
治承4年(1180年)の平重衡の兵火で、東大寺、興福寺は主要伽藍を焼失したが、新薬師寺は焼け残った。
鎌倉時代には華厳宗中興の祖である明恵(みょうえ)が一時入寺し、復興に努めた。現存する本堂以外の主要建物は鎌倉時代のものである。
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新薬寺へのアクセス、行き方歩き方
奈良市高畑1352
近鉄奈良駅から新薬師寺へは徒歩約30分