元伊勢とも伝わる、古社 阿紀神社

奈良県

宇陀の神武東遷ゆかりの地、元伊勢「阿貴宮」の唯一の比定地 神宮元宮。

崇神天皇60年2月15日、ヤマトヒメはアマテラスを奉じて当地に参り、「宇多秋志野宮」を営んで4年間奉斎した。
当社は元伊勢「宇多秋宮(阿貴宮)」の唯一の比定地。

神社から川ひとつ隔てたところに「高天原」と呼ばれる丘があり、阿紀神社の式年造替の際に仮遷座を行う場所であったと伝えられている。

この高天原がパワースポットとされている。

阿紀神社(あきじんじゃ)は奈良県宇陀市大宇陀迫間(おおうだはさま)に鎮座する神社。
旧社格は県社、延喜式内社。旧称は阿貴宮および神戸大神宮、通称は神戸明神。

神代に神楽岡に創建され、崇神天皇の勅によって神戸大神宮の号を賜わる。

安土桃山時代(天正年間)に本郷川西岸の現在地に遷座されたときに、現在の社名へと改められた。

江戸時代前期に能舞台が建設され、能が上演されるようになる。1902年(明治35年)に郷社から昇格して県社に列格した。

創建には様々な説がある。

一つは神武天皇が東征の際、宇陀の阿紀の地に天照大御神を祀ったことが始まりという説。

また一つは、崇神天皇の御代、皇女倭姫命(やまとひめのみこと)が天照大御神を祀ったのが始まりと伝わる。

元和年間(1615~1623年)に織田藩が宇陀の地を治め、3代目当主の織田長頼のころ、能楽が奉納されたのを起源に寛文年間から大正時代にかけて能楽興業が行われてきた。

夏の「献能 あきの蛍能」が有名。
乱舞するホタルと薪能が織り成す幽玄の世界が楽しめる。

問い合わせはあきの蛍能保存会事務局(宇陀市役所商工観光課)まで、電話:0745-82-2457。

当社北側に高野山真言宗の天益寺があり神宮寺とみられる。

天益寺は薬師如来を本尊とする古い寺院。

1999年1月31日の不審火により、本堂・大威徳堂・倉庫の三棟が全焼。
本尊;薬師如来立像(焼失)。

小高い丘の森の中にひっそりと立ち、かわいらしいかたちの茅葺き屋根の本堂と遠くからでもよく目立つトレードマークの二本杉で多くのプロ・アマ写真家に愛されていた。

枝垂桜は樹齢300年以上、室生大野寺の枝垂桜はここの株を移植したものと云われている。

大徳寺如意庵の元住職・立花大亀(大徳寺511世住持)は昭和55年に大宇陀の地に松源院を再興し師が所持する墨蹟、茶道具などの美術品、民具等を保存するとともに、広く一般に公開して美術品の鑑賞・学術研究の資料として(財)松源院民芸館を設立した。

師の死後「大亀和尚民芸館」に名称変更している。

現在は臨済宗寺院の修業道場と成って居て参観謝絶の札の懸かる旧山岡家住宅の茅葺き屋根。

この屋敷は江戸末期の大庄屋「旧山岡家」の住宅でしたが、昭和55年、明治初期に廃仏毀釈で廃絶した京都大徳寺(臨済宗)の塔頭寺院だった「松源院」に譲り渡され、現在に至っている。

大和へと通じる道。

穂積皇子と但馬皇女との激しい恋 2人の歌が物語る 恋のせつなさ

天武天皇と藤原鎌足の娘氷上娘(ひかみのいらつめ)の間に生まれたのが、但馬皇女。
異母兄の高市皇子に嫁いだが、同じく天武天皇と蘇我赤兄の娘大蕤娘(おおぬのいらつめ)との間に生まれた穂積皇子を熱愛する歌で知られる。

但馬皇女、高市皇子(たけちのみこ)の宮に在(いま)す時に、穂積皇子を偲(しの)ふ御作歌(みうた)

  秋の田の 穂向きの寄よれる こと寄りに 君に寄りなな 言痛かりとも
  あきのたの ほむきのよれる    ことよりに  きみによりなな こちたかりとも

                                           但馬皇女
                                           巻2 114

秋の田の穂が同じ向きに向くように、ただひたむきに君に寄り添いたい。
たとえ世間のうわさがひどかろうとも。

この歌の作者、但馬皇女は異母兄の高市皇子の妻となり、夫の「香具山宮」に住んでいました。
しかしながら題詞によると、高市皇子の宮に住んでいるにもかかわらず、穂積皇子を偲んでこの歌を作ったといいます。

穂積皇子に勅(みことのり)して近江の志賀の山寺に遣はす時、但馬皇女の作りましし御歌一首

  遺れ居て 恋ひつつあらずは 追ひ及かむ 道の隈廻に 標結へ我が背
  おくれゐて こひつつあらずは   おひしかむ みちのくまみに しめゆへわがせ

                                           但馬皇女
                                            巻2 115

あとに残って恋い慕っていずに追って行って追いつきたいのです。
道しるべを曲り角に結ってください、あなた。

但馬皇女、高市皇子の宮に在(いま)す時、竊(ひそ)かに穂積皇子に接(あ)ひて、事すでに形(あら)はれて作りましし御歌一首

  人言を 繁み言痛み 己が世に 未だ渡らぬ 朝川渡る
  ひとごとを しげみこちたみ おのがよに いまだわたらぬ あさかはわたる

  人の噂がひどく私の心に突き刺さり、自分が生まれてからこの方、未だ渡ったこともない朝の川を渡る
                                           但馬皇女
                                            巻2 116
穂積皇子と但馬皇女との激しい恋は、皇女の死で終わる。
「降る雪よ、そんなにたくさん降らないで。あの人の眠る猪養の岡が寒いから」。
皇女が死んだのは和銅元(708)年6月25日。
それから半年後の冬、死を悼み詠んだ。丘は吉隠(よなばり)東北の山腹と考えられているが、定かではない。
山並みを望む小学校跡地を利用した公民館前に碑がある。

但馬皇女(たぢまのひめみこ)の 薨(こう)じて後に、穂積皇子(ほづみのみこ) 、冬の日雪の降るに、御墓を遙かに望み、悲傷流涕(ひしゃうりうてい) して作らす御歌一首

降る雪は あはにな降りそ 吉隠の 猪養の岡の 寒からまくに (2・二〇三)

▼降っている雪は、たくさんは降るな。吉隠の猪養の岡が、寒いだろうから。

但馬皇女は、天武天皇と藤原鎌足の娘である氷上夫人との間に生まれた。
高市皇子の女性でありながら、異母兄穂積皇子に恋をして苦しんだ。

この歌は和銅元年(七〇八)六月二十五日に薨じた皇女を追悼した穂積皇子の挽歌で、 降る雪よ多くは降るなと訴え、皇女の埋葬された猪養の岡を命あるもののごとくに歌ったところに哀切な思いがこもる。

穂積親王(ほづみのみこ)の御歌一首

  家にありし 櫃に鑠さし 蔵めてし 恋の奴の つかみかかりて
   いへにりし ひつにかぎさし をさめてし こひのやつこの つかみかかりて

                                           穂積親王
                                            巻16 3816

右の歌一首は、穂積親王の、酒酣(たけなは)なる時に、好みて斯(こ)の歌を誦して、以ちてつねの賞(めで)と爲したまひき。

家にあった櫃にかぎをかけて、厳重にしまっておいた恋の奴が、いつのまにかぬけ出して、私につかみかかって、私を苦しめることだ。
 
穂積皇子は宴がたけなわになり酒に酔うと、好んでこの歌を歌い、いつまでももてはやしたと言います。

大伴坂上郎女、跡見の田庄にして作る歌(二首のうち一首)
吉隠の 猪養の山に 伏す鹿の つま呼ぶ声を 聞くがともしさ (8・一五六一)

▼吉隠の猪養の山を住みかとしている鹿の、妻を呼ぶ声を聞くことの羨ましさよ。
 坂上郎女は大伴家持の叔母にあたる。 穂積皇子の妻となった女性であり、その坂上郎女に猪養山の歌があるのは興味深い。

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阿紀神社へのアクセス、行き方歩き方

奈良県宇陀郡大宇陀町

近鉄大阪線 榛原駅 から奈良交通バス「大宇陀」行きで20分、終点下車、徒歩15分