静御前と源義経の出会いの場 神泉苑

京都府
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延暦13年(794年)の平安京遷都とほぼ同時期に、当時の大内裏の南に接する地に造営された禁苑であった。

当初の敷地は二条通りから三条通りまで、南北約500メートル、東西約240メートルに及び、池を中心とした大庭園であった。
また、静御前と源義経が雨乞いを通じて出逢った場所としても知られる。

神泉苑には竜神(善女竜王)が住むといわれ、天長元年(824年)に西寺の守敏と東寺の空海が祈雨の法を競い、空海が勝ったことから以後東寺の支配下に入るようになったという。
今、神泉苑の池を『法成就池』、赤い太鼓橋を『法成橋』と呼ぶ。

いずれも空海の雨乞い修法が成就したことからの命名という。
また、貞観5年(863年)に都に疫病が流行り、神泉苑で御霊会が行われた。

貞観11年(869)には神泉苑の南端(現在の八坂神社三条御供社の位置)に66本の鉾を立てて祇園社から神輿を出し、現在の祇園祭の元になったと言われている。

お池の中心に祀られた善女龍王。
中世期以降は神泉苑も荒廃・縮小する。

徳川初代将軍家康は、慶長8年(1603)二条城の外濠を築くにあたり、神泉苑の池の水を利用するため、苑の北側を削った。
神泉苑の中興は慶長12年(1607)で、敷地も当初の十分の一と大幅に縮小している。

雨乞い儀式で有名な話は、寿永元年(1182)の雨乞い儀式で神殿に供える舞を舞う百人の白拍子の中に静(静御前)がいた。
一ノ谷の戦いの後、源義経は京都の神社仏閣の保護、町の治安維持そして朝廷行事に参加することを天皇から遣わされていた。

義経は、舞を舞う白拍子の静(しず)の美しさが忘れられず、その夜、堀川の館へ静を呼び宴を開いたという。
これが義経と静との最初の出会いとされている。

また小野小町(809-901?)も祈雨したという伝承が残る。
小町は「ことわりや 日の本ならば 照りもせめ さりとてはまた 天が下とは」と歌ったと伝えられる。

二条城の南(押小路堀川東入ル)には昔の神泉苑の東端を示す石碑がある。
これは京都市営地下鉄東西線に関わる工事の際に判明したものである。

義経って「反っ歯の小男」と知っていました?

永井路子さんが直木賞をもらった「炎環」の中で、彼を「反っ歯の小男」と書いたそうだ。
たちまち読者から「義経の描き方には失望したなぜ反っ歯なとどと描いたんだ」と叱責されたと。
が、これは思いつきで書いたのではない。

典拠となったのは有名な「平家物語」。
「壇浦合戦」の章にはこうある。
すでに平家方は敗色濃く、この一戦にすべてを賭けていた。

もう雑兵などに目をくれている場合ではない。
敵の大将をこそ狙え、ということになった。
そのとき、越中の次郎兵衛という武者が言った。

「九郎(義経)は色白うせいちいさきが、むかばのことにさしいでてしるかんなるぞ」

つまり、色白で向歯(むかば)が特に出ばってはつきりしているぞ、というので、とりもなおさず反っ歯が特徴だということである。
写真などのないそのころ、平家軍の多くは義経の人相を知らない。

だから、彼を見たことのある越中の次郎兵衛は、最も印象的なトレードマークは反っ歯だと言い、「それを目当てに狙え」と叫んだのである。
江戸時代の歌舞伎になると、彼は間違いなく美男日本一。

たとえば「勧進帳」に出てくる義経をつとめるのは、当代人気第一の女形(おやま)、と決まっている。
ああ、なんと!!

数百年かかって、彼の反っ歯は見事に整形されてしまったのだ・・・・・
この整形外科の名医は、もちろん庶民のみなさん。

永井路子わが千年の男たちより

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神泉苑へのアクセス、行き方歩き方

神泉苑公式サイト

住所:〒604-8306京都市中京区御池通神泉苑町167
地下鉄東西線「二条城前」3番出口から徒歩約4分、市バス・京都バス「神泉苑」下車すぐ