「孝養の寺」 耕三寺

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目指す寺、耕三寺は瀬戸田港から徒歩10分。

山号は潮声山(潮聲山)。

1936年(昭和11年)から伽藍の建立が始められた新しい寺院で、日本各地の古建築を模して建てられた堂塔が建ち並び、「西の日光」「母の寺」とも呼ばれる。

このうち、山門・本堂をはじめ15の建造物が国の登録有形文化財として登録されている。

山門

京都御所紫宸殿の門を模したもの。

御所の門は素木造であるのに対し、こちらは鉄鋼13トンを用いた極彩色の門である。
登録有形文化財。

五重塔

鼓楼・鐘楼から階段を上がって一段高くなった敷地に建つ。

室生寺五重塔を模したもので、心柱は鉄鋼製。第二次大戦後の起工で、1955年に完成した。

孝養門

五重塔からさらに階段を上がった敷地に建つ。

10年をかけて1963年に完成した。

日光東照宮陽明門を模したものであるが、陽明門よりも色鮮やかで、「母親を綺麗に着飾らせたいという気持ちで作られた」とも言われる。

五重塔と孝養門は第二次大戦後の建築であるため、登録有形文化財の登録対象外となっている。

陽明門を模した孝養門から「西の日光」と呼ばれるようになり、瀬戸内海の観光地の一つとなった。

平成期に入ってからは、建築物の特殊性が評価され、15棟が登録有形文化財として登録された。

本堂

平等院鳳凰堂を模したもの。

1940年完成。
中堂には本尊阿弥陀如来像を安置。

西翼楼には塑造の不空羂索観音像(第二次大戦後の制作)、東翼楼には奈良・興福寺から移された釈迦如来坐像(重要文化財、平安時代)を安置する。登録有形文化財。

救世観音大尊像

本堂左後方に立つ。コンクリート・漆喰併用の彫像で総高15mで、法隆寺夢殿の御本尊・秘仏救世観音が手本である。
1967年完成。

耕三寺は、広島県尾道市(生口島)に所在する浄土真宗本願寺派の仏教寺院。

耕三寺の開山は、大正・昭和期に大阪で活躍した実業家の金本耕三のちの耕三寺耕三。

1927年(昭和2年)故郷瀬戸田に住む母のために邸宅「潮聲閣」を建て始めた(耕三寺内に現存)。

母が1934年(昭和9年)に没すると、翌1935年(昭和10年)、金本は母の菩提を弔うため出家して僧侶となり名を福松から「耕三」に改め、同年から母への感謝の意を込めて、潮聲閣周辺にて耕三寺の建立を開始した。

金本はかねてより、瀬戸田の地に誇りうる文化財のないことを残念に思っており、境内を日本各地の著名な歴史的建造物を模した堂宇で埋める構想を立てた。

以来、30余年をかけて、日光東照宮陽明門を模した孝養門、平等院鳳凰堂を模した本堂などをはじめとした伽藍が完成した。

なお金本は1956年(昭和31年)以降、自らを「耕三寺耕三」と名乗るようになった。

耕三寺 耕三(こうさんじ こうぞう、1891年(明治24年)12月2日 – 1970年(昭和45年)10月25日)は、福岡県鞍手郡直方町(現直方市)出身の和上。

耕三寺建立者。
旧広島県豊田郡瀬戸田町名誉町民、現尾道市名誉市民。
出身を瀬戸田町とする資料もある。

金本 福松として出生、溶接工から実業家・発明家となり、1935年得度し金本 耕三、1956年耕三寺に改名した。

1908年(明治41年)16歳の時に酸素アセチレン溶接を学びに、大阪桜島(此花区)でフランス人が経営していた日本オキシゼーヌ・アセチレーヌ會社に入社する。

一度は受け入れを拒否されたが福松の熱意が通じ雑役として採用され、のちに影で行っていた努力が評価され正式な溶接工として昇格、フランス人技師のロワイエとセギーの下で学んだ。

酸素溶接がヨーロッパで一般化したのは入社の3年前である1905年ぐらいからであり、後に出版される『全溶連史』(1979年全国高圧ガス溶材組合連合会刊)では福松を「我が国最初の溶接工」と紹介していることから、日本の溶接工の草分け的な存在であったことがわかる。

母ヤツの実家である生口島瀬戸田町との関係は、大阪で成功したこの頃から始まる。

1927年(昭和2年)まず母の別荘として潮聲閣を建て始め、1929年(昭和4年)には島の塩田を買収している。

1934年(昭和9年)、母ヤツ死去。
以降仏教に帰依するようになり、母の菩提寺を瀬戸田に建立しようと動き出す。

1935年(昭和10年)浄土真宗本願寺派で得度、法名「耕三」を受ける。

1938年(昭和13年)山梨県東山梨郡菱山村(甲州市勝沼町菱山)の得祐寺住職に就任、翌1939年(昭和14年)得祐寺を瀬戸田に移転することを許可され、1940年(昭和15年)径大鋼管社長を辞任、1943年(昭和17年)寺号を「耕三寺」に変更することを許可される。

耕三寺の建立は、瀬戸田町からは郷土の発展と失業者対策として期待されたこともあり、様々な様式を取り入れた壮大な寺院が出来上がっていき、附属博物館などとともに晩年まで建立は続いた。

また、瀬戸田病院の新設や瀬戸田学園理事長となり新校舎を新築している。
これが現在は尾道市立市民病院附属瀬戸田診療所、広島県立瀬戸田高等学校として存続している。

1953年(昭和28年)、瀬戸田町名誉町民に顕彰。
1970年(昭和45年)、耕三寺孝庵にて死去。
享年78。

アクセス
[船] 三原港または尾道港から瀬戸田行きの連絡船を利用。瀬戸田港からは徒歩15分。
[自家用車] しまなみ海道 生口島北ICから20分程度。

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