藤原三代栄華の跡 中尊寺

東北
カレンダー
2024年10月
 123456
78910111213
14151617181920
21222324252627
28293031  

中尊寺は天台宗の東北大本山。
創建は嘉祥3年(850)に慈覚大師円仁によって開山されたとされる。

その後奥州藤原氏初代の清衡が長治2年(1105)から中尊寺の再建に着手し、天治元年(1124)に金色堂が竣工、基本的な伽藍が完成したのは21年後の大治元年(1126)。

岩手山SAに石川啄木の歌碑がある。

ふるさとの山に向ひて

言ふことなし

ふるさとの山はありがたきかな

市立函館図書館啄木文庫所蔵「歌稿ノート」より

石川啄木が深い悲しみを抱いて北海道へ移住したのは明治40年5月4日のことである。
以後27歳で客死するまで二度と故郷に帰ることはなかった。
しかし東京時代の啄木は岩手の山河を思い浮べ尽せぬ望郷の念を短歌に託し歌集『一握の砂』を編んだ。
これが無二のものとして現代人の心を打つのである。

昭和から平成への改元にあたって日本道路公団は啄木と故郷のえにしを記念し、歌碑を建立して天才のおもかげを永く世に伝える。
歌碑の歌は明治43年8月28日東京本郷弓町時代の作歌で、啄木自筆の原稿ノートより採録した。

平成元年4月20日

日本大学教授文学博士 岩城之徳

国道4号線を挟んだ平泉文化史館前と駐車場には、武蔵坊弁慶立ち往生(矢を受け立ちながら絶命)の旧石碑や多数の案内板、碑が点在しています。

弁慶立ち往生旧跡傍の弁慶力石。

中尊寺入口の『武蔵坊弁慶の墓』。

陸羽街道 (国道4号) から月見坂と呼ばれる参道を登った丘陵上に諸堂が点在する。
山内には中尊寺本坊のほか、17か院の子院がある (大徳院、地蔵院、瑠璃光院、願成就院、金剛院、積善院、薬樹王院、真珠院、法泉院、大長寿院、金色院、釈尊院、観音院、常住院、利生院、円教院、円乗院)。

道の両側には、江戸時代に平泉を治めていた伊達藩によって植樹された樹齢30~400年ほどの杉の並木が続き、歴史の長さを物語ってくれます。

八幡堂の創建は天喜5年(1057)当時鎮守府将軍であった源頼義と子の義家が俘囚の長である安倍氏を討つ(前九年合戦)為、この地(中尊寺境内月見坂)で戦勝祈願した事が始まりとされます。

弁慶堂は中尊寺の参道沿いにある建物で、入母屋の金属板葺きの屋根でかなり細かい彫刻が施されています。

案内板によると「この堂は通称弁慶堂という文政9年(1826)の再建である。
藤原時代五方鎮守のため火伏の神として本尊勝軍地蔵菩薩を祀り愛宕宮と称した傍らに義経公と弁慶の木像を安置す。

弁慶像は文治5年(1189)4月高館落城と共に主君のため最期まで奮戦し衣川中の瀬に立往生悲憤の姿なり更に宝物を陳列国宝の磬及安宅の関勧進帳に義経主従が背負った笈がある代表的鎌倉彫である。」とあります。

中尊寺の表参道を本堂に向かう途中、見晴らしの良い物見台があります。
ここに二度平泉を訪れて歌を詠んだ西行法師の歌碑があります。

「きゝもせず 束稲やまのさくら花 よし野のほかに かゝるべしとは」

清衡の願文(がんもん)の意の大文字   梧逸

中尊寺の向いの、束稲山(たばしね山)の大文字焼は、初代清衡の平和への願いなのだ・・・という句。

この薬師堂は藤原清衡公が中尊寺境内に堂塔40余字建立の一字であった。
その旧跡は現在の所ではなく、他に建立されたのであったが明暦3年(1657)に現在地に建立された。

観音堂は、観世音信仰の広がりから全国各地に建立されている。
観世音の住むところは、南海補陀洛山(ふだらくせん)とのことから、多くは山の中腹や断崖の上、海岸の岬等に建立されているようだ。

参道である月見坂を登った右手の中尊寺本坊内にある、中尊寺の本堂である。
1909年 (明治42年) の建築。

2013年3月24日、新本尊の丈六釈迦如来坐像の開眼法要が行われた。

願成就院宝塔(重文)。

本堂から金色堂に向かう途中にある不動堂は、中尊寺の祈祷道場です。
ご本尊の不動明王は、右手に宝剣(剣)を持ち、どんな邪悪をも切って破る。

しかし、左手の羂索(ロープ)は救いを求める人を搦めてすくい上げてくださる、そういう姿を示しています。

この世に生きる私たちの過ちを直し、苦悩を取り除いてくれるご尊体です。

鐘楼は案内板によると「当初は2階造りの鐘楼であったが、建武4年(1339)の火災で焼失。
梵鐘は康永2年(1343)の鋳造。

銘に中尊寺の創建や建武の火災のことなどを伝え貴重である。撞座の摩耗はなはだしく、今ではこの鐘を撞くことはほとんどない。
鐘身高さ113.2cm口径86cm・・・(後略)」とあります。

弁財天堂は金色堂の丁度向い側にあたり、茅葺の寄棟造りの屋根で間口3間の建物です。
弁財天を祀っている場所にふさわしく廻りを池で囲まれた小島の上に建立され、基礎束が高くなり湿気から護ると同時に印象深い容姿になっています。

野外能楽殿入り口。

野外能楽殿に向かう途中に木の根道の美しい参道がありました。

白山神社能舞台 (重文)
境内北方に位置する、中尊寺の鎮守・白山神社内に建つ。
嘉永6年 (1853年) に仙台藩によって再建されたもの。

近世の能舞台遺構としては東日本唯一のものとされ、日本の芸能史上貴重な遺構として、2003年に重要文化財に指定されている。

明治天皇が御東巡の折りに当社に御臨幸あらせられた場所。

境内末社は、それぞれの干支にちなんだ宮が12社あります。

山口青邨句碑

人も旅人われも旅人春惜しむ

郷里に叔母の病気を見舞った帰途平泉に下車、中尊寺を訪ねた。
山桜が散る金色堂のほとりに立って瞑想。
ここには西行も来た、芭蕉も来た。

とあります。

現存する金色堂の上棟は、棟木銘から天治元年 (1124年) と判明する。
この堂は清衡が自身の廟堂として建立したもので、内部の須弥壇内には清衡と子の基衡、孫の秀衡の3代の遺体 (ミイラ) が安置されている。

経蔵 (重文)
金色堂の近くにある。国宝の一切経を納めていた建物で、一部平安時代の古材が使用されているが、建築年代は鎌倉末期と推定されている。

内部には国宝の螺鈿八角須弥壇 (実物は讃衡蔵へ移動) が置かれ、壇上には獅子に乗った文殊菩薩像と従者4体からなる文殊五尊像 (重文) を安置していた。

金色堂の脇に建つ芭蕉の「五月雨の降のこしてや光堂(あたりの建物が、雨風で朽ちていく中で、光堂だけが昔のままに輝いている。

まるで、光堂にだけは、五月雨も降り残しているようなことではないか)」の句碑。

中尊寺境内の最奥地の高台に鎮座している天満宮。

源義経が平泉に自害し、奥州藤原氏が滅亡して500年目にあたる元禄2年(1689)、松尾芭蕉は門人の曽良と2人、「奥の細道」の旅に出ます。

芭蕉46才、曽良41才の春です。
江戸を発ってから44日後の5月13日、細道のはて平泉を訪れた芭蕉は、まず義経公の居館があったと伝えられる高館の丘陵にのぼります。

丘の頂きに忽然とあらわれるのは束稲山のふもとに悠然と横たわる北上川と、それに合する衣川。
そこには往時の栄華はなく、旧跡は田野となってひろがっているばかりです。

金色堂旧覆堂 (重文)
1962年、金色堂の解体修理工事が始まるまでの約500年間、金色堂を風雨から守ってきた堂で、1964年に100メートルほど北西の現在地に移築された。
建築年代は室町時代中頃と推定される。

旧覆堂を出たところからの大長寿院山門は美しい。

旧覆堂を出て坂道を少し下ると、左に山門があって奥に、中尊寺の中でも、最初院と呼ばれる多宝塔の次に古い大長寿院の本堂が見える。

大長寿院は、庭が美しい。
苔むした庭に、春に芽吹いたカエデが、秋には真っ赤になってこの庭を染める。

釈迦如来百体を安置した「釈迦堂」。

藤原清衡と中尊寺

奥州藤原氏の初代、藤原清衡は前九年の役のさなかの天喜4年 (1056年) に生まれた。
清衡の家系は藤原秀郷の流れを汲むという。

清衡が7歳の時、彼の父藤原経清は、安倍氏に味方したかどで斬殺された。
清衡の母は安倍氏の出であったが、夫経清が殺害された後、安倍氏とは敵対関係にあった清原家の清原武貞と再婚。

清衡は清原武貞の養子として「清原清衡」を名乗ることになる。
つまり、清衡は前九年の役で滅亡した安倍氏の血を引くとともに、後三年の役で滅びた清原家の養子でもあった。

清衡の兄弟には兄・真衡 (清原武貞と先妻の子) と、弟・家衡 (清衡の母と清原武貞の間に生まれた子) がいた。

真衡は弟の清衡・家衡とは対立していた。
真衡の死後、彼が支配していた奥州の奥六郡は、清衡と異父弟・家衡に3郡ずつ与えられたが、これが元となって今度は清衡と家衡の間に争いが生じた。

清衡は源義家の助力を得て戦いに勝利し、清原氏は滅亡した。
この一連の内紛を「後三年の役」と称する。

この合戦のさなか、清衡は館に火を放たれ、妻と子を失っている。

その後、清衡は現在の岩手県にほぼ相当する奥州奥六郡を支配下に収め、父の姓である「藤原」を名乗って「藤原清衡」と称するようになる。

清衡は寛治3年 (1089年) には陸奥押領使に任命され、嘉保4年 (1094年) 頃には居館を江刺郡豊田館 (とよたのたち、奥州市) から、中尊寺のある平泉に移している。

このように、藤原清衡の前半生は兄弟・親族が相争うもので、多くの近親者の死を目の当たりにしてきた。

壮年以降の清衡が平泉の地に、都の大寺院にも劣らぬ仏堂を造立したのは、その莫大な経済力の背景があったこととともに、戦いに明け暮れた前半生を省み、戦没者の追善とともに、造寺造仏、写経の功徳により、自己の極楽往生を願ってのことであったと推測されている。

クラブツーリズムのお勧めツアーはこちら!

中尊寺へのアクセス、行き方歩き方

住所:〒029-4102 岩手県西磐井郡平泉町平泉衣関202 
電話:0191-46-2211

JR平泉駅から中尊寺月見坂入口までは約1.6km。
徒歩で約25分程度。