生駒親正が玉藻の浦に築いた名城 高松城

別名「玉藻城」は、万葉集で柿本人麻呂が讃岐国の枕詞に「玉藻よし」と詠んだことに因み、高松城周辺の海域が玉藻の浦と呼ばれていたことに由来するとされている。

高松城は、豊臣秀吉の四国制圧の後、1587年(天正15年)讃岐1国の領主となった生駒親正によって、「野原」と呼ばれた港町に築かれた。

現在見られる遺構は、江戸初期に徳川光圀の兄で常陸国から12万石で高松に移封された松平頼重によって改修されたものである。

高松城の実質的な大手口といわれる旭門。
手前に架かる橋が旭門。

堀を斜めに渡る珍しい「筋違橋(すじかいばし)」といわれ、守りやすい構造なのだそうです。

「桝形門」の一角をなすと櫓門(太鼓門)跡の石垣。

天守台の石垣が老朽化してきたため、その対策として2006年より石垣の解体修理工事が実施され玉藻廟も解体された。

この修理作業は将来の天守復元も視野に入れ、石垣の内部構造の確認と石垣の積み直し工事が実施された。

内堀と水門、後は高松港。
北は海、三方に堀をめぐらし海水を引き入れた水城で、完全に海水を堀に取り入れた城は、この高松城だけである。

城郭の形式は輪郭式平城で、本丸を中心に二の丸、三の丸、北の丸、東の丸、桜の馬場、西の丸が時計回りに配置され、3重に堀が廻らされていた。

かつては城壁が瀬戸内海に直接面し、外濠・中濠・内濠の全てに海水が引き込まれ、城内に直接軍船が出入りできるようになっており、水軍の運用も視野に入れ設計されていた日本初の本格的な海城である。

縄張りは黒田孝高(よしたか)が手掛けたといわれ、細川忠興、小早川隆景、藤堂高虎などによるとも言われている。

高松城をはじめとする海城は海上封鎖が難しく、水攻めや水断ちといった攻城手段が使えないため戦争時の篭城や物資の搬入、脱出ができ、近世の縄張りとしては有利であった。

内堀に架かる鞘橋(さやばし)、本丸と二の丸を結んでいる唯一の連絡橋で、当初は欄干橋であったが、江戸時代中期末頃にはこのような屋根付きの橋になっていたようである。

城内側から見た月見櫓、月見櫓は、総塗籠造りの三層三階・入母屋造・本瓦葺で、初層は切妻破風、二層は唐破風と屋根の形を対象させている。

改修なった天守台、後は天守の復元が待たれる。

近世城郭の海城としては、最初で最大の例で、「讃州さぬきは高松さまの城が見えます波の上」と謡われている。

本丸に建てられた天守は、最下重が萩城や熊本城の天守のように天守台より出張り、最上重が小倉城や岩国城の天守のように「唐造り」であった。

その様子は、解体される以前に写真におさめられ、また1884年にイギリスの週刊新聞「ザ・グラフィック」でイギリス人のヘンリー・ギルマールの絵によって紹介されている。

艮櫓(うしとらやぐら)は、1677年(延宝5年)に東ノ丸の北東の隅櫓(すみやぐら)として建てられたもので、現在残されている月見櫓と同時期に建てられたも。

北東の方角のことを丑寅(艮)ということから名づけられました。

東ノ丸は生駒氏にかわって入府した松平氏によって新造された部分で、1671年(寛文11年)頃より行われた大改修の際に北方の海辺を埋め立てて築かれた曲輪です。

櫓の構造としては、3重3階の総塗籠で、初重には二重の屋根を貫く大きな千鳥破風が南北に設けられているほか、城外側の隅には袴型の石落としが設けられている。

また、各階の窓の土戸に特異な形状をもち、さらに2階と3階には城内側にも銃眼を設けるなどの特徴が見られます。

1950年(昭和25年)8月29日に重要文化財に指定されました。

披雲閣と内苑御庭。

水門と渡櫓(重要文化財指定)

琴電築港駅。

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高松城へのアクセス、行き方歩き方

住所:香川県高松市玉藻町2-1
電話:087-851-1521 玉藻公園管理事務所

JR高松駅より徒歩約5分、琴電築港駅より徒歩約2分、高松中央ICより車で約30分

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