小京都を見下ろす尾根に広がる山城 津和野城

カレンダー
2024年4月
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
2930  

津和野城は津和野盆地の南西部に横たわる標高367メートルの山上にある山城。
江戸時代には津和野藩亀井氏の居城であったが、藩庁は急峻な山城を避け山麓の津和野盆地に置かれた。

登頂には途中までリフトが利用可能。

中世、吉見氏時代の堀切。

織部丸。
リフトを降りて15分ほどで到達します。
津和野城の出丸で,形状も石垣も往時のままの様で,いかにも出丸といった位置と形状です。

出丸の上部は平坦になっている。
広さは東西約18m、南北44.5mあるそうだ。

前方に巨大な石垣が見えてきました。

東門の三段櫓台。
津和野城の魅力は何と言っても大規模な石垣遺構群です。

この石垣のほとんどは,吉見氏ではなく坂崎直盛によるものです。
この三段櫓台は,東門のすぐ近くにあり当時は来城する者を圧倒していたものと思われます。

西櫓門跡の石垣。

本丸石垣です。
算木(角の互い違いの石積み)も美しく,打ち込み接の石積みも苔を湛えて雰囲気を出しています。

西櫓門跡の先に人質櫓の石垣がそびえる。

三の丸海老櫓台より御台所を望む。
緑に覆われた木々を縫って進むと,どこまでも石垣遺構が続くといった感じです。
三の丸は城の西側に位置しており,木々に覆われ,そこの空気も緑色に染まっています。

三十間台〔本丸〕跡。

三十間台から北側展望

三十間台より望む南門方向。
周囲の山々と比べてもかなりの高所に大規模な城を築いたかが伺えます。

三十間台虎口。

南門跡。

南櫓門から望む人質櫓台。
台形の人質櫓台の上に見えるのは三十間台の石垣です。

城全体が雑草に覆われていて荒廃した感じですが,初夏の頃は美しい新緑の中に時の流れを感じられ素晴らしいものがあります。

津和野城の概略

鎌倉時代、元寇の翌年の弘安5年(1283年)吉見頼行は沿岸防備のため西石見地方の地頭としてこの地に赴任した。
永仁3年(1295年)より三本松城(津和野城の旧名)の築城を開始し正中元年(1324年)完成した。以後、14代にわたり吉見氏が居城した。

吉見氏は戦国時代には当初、大内氏に属したが、戦国末期には最終的に毛利氏に属した。
この間、11代当主正頼は天文23年(1554年)に大内氏を滅ぼした陶晴賢と100日以上に及ぶ籠城戦の末、陶軍を撃退した。
この際に毛利軍の援護を受け、これ以後、毛利氏に属した。

14代当主広長は慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いにおいて毛利配下として大坂城を守った。
しかし、毛利輝元を総大将とする西軍が敗れ、毛利氏は防長2国に押し込められた。
吉見氏も津和野を退去し、毛利氏とともに萩に移住した。

代わって東軍に属した坂崎直盛が3万石(後に加増され4万3468石)で入城し、城の大改修を行った。
大手の位置を吉見氏時代の搦手側に改め、出丸や織部丸を築いた。
この時、二の丸に天守を築いた。

直盛は元和2年(1616年)かの千姫事件で自害(または家臣に殺されたとも)し、坂崎氏は改易となった。

元和3年(1617年)因幡国鹿野藩より亀井政矩が4万3千石で入城。以後、明治維新まで11代にわたり亀井氏の居城となった。
貞享3年(1686年)城は落雷にあい火災が発生した。
この際に天守も焼失し、以後再建されることはなかった。

クラブツーリズムのお勧めツアーはこちら!

津和野城へのアクセス、行き方歩き方
住所:島根県津和野町後田 地図を見る
電話:0856-72-0376(観光リフト)

JR津和野駅→石見交通バス鴎外旧居・長野行きで5分、バス停:森下車、徒歩10分のリフト乗り場から8分、リフト(所要5分)を降りてから本丸跡まで徒歩15分

コメント