タチアオイ咲く相国寺

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相国寺は足利将軍家や伏見宮家および桂宮家ゆかりの禅寺であり、京都五山の第2位に列せられている。

正式名称を萬年山相國承天禅寺(万年山相国承天禅寺、まんねんざん しょうこくじょうてんぜんじ)という。

相国寺の境内は出入り自由で、時として地元の人たちが行き交う通り道にもなっています。

金閣寺、銀閣寺が観光客で賑わっている一方、本山である相国寺は歴史ある有名寺院であるにも関わらず、その広い境内に人影は少なく、静寂さが漂う貴重な存在になっている。

「鐘楼」(しゅろう。しょうろう。)といえば、普通、内向きに傾いた4本の柱で鐘を吊っているものを思い浮かべますが、これは鐘楼の下の方が城の城壁の石垣のようにすそ広がりとなった形をした「袴腰(はかまごし)付鐘楼」といわれます。

楼上には梵鐘が吊られ、相国寺のこの鐘楼は袴腰付のものでは大型のものです。
江戸時代初期の寛永6年(1629)の造立とされます。
右下には宗旦稲荷社の鳥居が小さく見えています。
京都府指定有形文化財。

宗旦稲荷。

あるときに相国寺で千宗旦の茶会が開かれた。
宗旦の見事な点前は、出席した茶人たちはもちろんのこと、普段からそれを見慣れている弟子たちですら見とれるほどだった。

ところが宗旦がその場を去った後、また宗旦が現れ、遅刻して来たことを詫びた。そのようなことが何度かあり、弟子たちは宗旦に偽者がいると考え始めた。

後日、茶室に宗旦が現れたときを見計らい、弟子たちは宗旦本人が自宅にいることを確かめた上で偽宗旦を問い詰めた。
すると偽宗旦は素直に自分が偽者であることを明かし、自分は寺の藪に住む古狐であり、ずっと宗旦の点前に憧れていたので、いつか自分もそのような点前をしてみたかった、もう二度と悪さをしないと詫び、狐の姿となって逃げ去った。

弟子たちは宗旦狐の腕前に感心し、狐を追うことはなかった。

時は流れて幕末。宗旦狐は雲水に化けて相国寺で勉強をしていた。
他の雲水たちと共に座禅を組み、托鉢に回り、時には寺の財政難を建て直すべく力を尽くした。
門前の家で碁を打つこともあった。

碁に熱中するあまり、狐の尻尾を出してしまうこともあったが、人々は狐の正体を知りつつも付き合っていた。

ある年の盆。
門前の豆腐屋が資金難から倒産寸前に陥っていた。
宗旦狐は蓮の葉をたくさん集めて来て、それを売って金に換えて大豆を買うよう勧めた。

豆腐屋はそのお陰で店を建て直すことができた。
お礼をしようと考えた豆腐屋は、狐の大好物である鼠の天婦羅を作って宗旦狐に贈った。
しかし宗旦狐は、それを食べると神通力が失われるといって遠慮した。

とはいうものの目は大好物に釘付けで、つい我慢できずにそれを食べてしまった。
途端に宗旦狐はもとの狐の姿に戻り、それを見た近所の犬たちが激しく吼え始めた。
狐は咄嗟に藪の中に逃げ込んだが、慌てたために井戸に落ち、命を落としてしまった(別説では猟師に鉄砲で撃たれた、または自ら死期を悟って別れの茶会を開いたともいう)。

相国寺は寺のために尽くしてくれた宗旦狐の死を哀れみ、宗旦稲荷として祠を築き、狐を僧堂の守護神とした。
現在でも宗旦稲荷は、相国寺境内に祀られている。
「ウィキペディア」

タチアオイは梅雨入りの頃に根本近くの蕾から開花し、徐々に上へ上へと咲き登って、天辺の花が開く頃には梅雨が明ける…と言われていますが、訪れた時はすでに梅雨明け後で天辺の花のみが残る状態でした。

現在の法堂(はっとう)は、慶長10年(1605)、豊臣秀頼の寄進により5回目の再建になるもので、桃山時代にできた禅宗様建築の最大最優作と評価されています。

夏の特別公開で蟠龍図が公開されているが堂内は撮影禁止で看板の画像を掲載しています。

狩野光信画家が作成した図で、堂内中央付近で手をたたくと、天井に反響してゴロゴロという 音が返ってくるので、一名「鳴き龍」とも呼ばれている。

円相外に雲が画かれていたのですが、剥落し、今は 僅しか残っていません。

正面から見た法堂。
400年を超える歴史を持ち、現存の法堂では日本最古のものとされ、正面28.72m、側面22.80mにして威容を誇っています。

無畏堂(むいどう)とも呼ばれます。
国指定重要文化財。

方丈前庭、白砂を敷き詰めただけのすっきりした前庭は、太陽光を反射して室内を明るくする効果があるのだとか。
左に見えている門が「唐門」です。

縁側に腰掛けてのんびりと庭を眺めるのもいいかも。

廊下西端のつきあたりは白象を描いた杉戸絵があった。
さっぱりした(ちょっと殺風景な)廊下と前庭のはざまで、象の姿はくっきりと目立っていた。

釈迦の母・摩耶夫人が、6本の牙をもつ白象が胎内に入り込む夢を見て釈迦を身ごもった、というお話に由来して描かれているようだ。

もっとも、この象の牙は2本しかないようだが。

開山堂の坪庭。
白川砂だけの庭ですが、妙に落ち着きます。

写真ではわかりづらいですが、掃き清めた白砂の上に松の葉を散らしています。
庭師の遊び心でしょうか、不足の美でしょうか。

承天閣美術館への通路、静かです。

紅葉が種を付けています。

相国寺 の境内には  第108代 後水尾天皇 ( ごみずのお ・ 1596~1680 ・ 89歳 )の毛髪や歯を納めた 『 後水尾天皇 髪歯塚 』( はつしつか )が現存します。

キキョウが咲いています、大光明寺の静かな庭。

大光明寺は相国寺が建立される以前、暦応二年(1339)に後伏見天皇(1288~1336)の皇后、広義門院西園寺寧子が天皇の菩提を弔うため、伏見離宮の傍らに一寺を建立したのが始まりであり、皇后の法号大光明院を寺号としました。

薩藩戦死者墓は、臨済宗相国寺派の大本山・相国寺(上京区相国寺門前町)の塔頭・林光院の境外墓地で、相国寺東門を抜けて約四十メートル東にあります。

柵で囲まれて墓地内への立ち入りは出来ませんが、広い敷地を占め、左側には大正時代建立の戦没者合同碑もあります。

この地には、元治元年(1864)七月の蛤御門の変(禁門の変)と、慶応四年(1868)一月の鳥羽・伏見の戦いで戦死した七十二名の薩摩藩士が合葬されているということです。

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相国寺へのアクセス、行き方歩き方

住所:京都市上京区今出川通烏丸東入ル
電話:075-231-0301

地下鉄烏丸線「鞍馬口駅」から徒歩7分

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