大阪城に残る戦災の傷跡

あまりにも平和ボケしてしまった現代人は、つい半世紀ほど前の戦災のことなど忘れてしまっていますが、身近な大阪城周辺にも戦災の傷跡はたくさん残っています。

ここにお届けしたものはほんの一部にしかすぎず、まだまだ戦後を引きづっている遺物もあり、そのうち続編をお届けしたいと思っている。
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山里丸石垣の機銃掃射痕
石垣の表面に残る傷は、第二次大戦末期の空襲による被害の傷跡で、機銃掃射によってついたものと推定される。

昭和20年(1945)3月から終戦前日の8月14日まで、大阪は8度におよぶ大空襲を受け、陸軍の中枢機関や軍需工場があった大阪城も標的となった。

山里丸ではこのほかにも爆弾によって南側石垣上部が吹き飛ばされ、北側内堀に面した石垣も数カ所ひずんだが、現在はいずれも修復されている。
-歴史街道・案内板より

「被弾痕」のある石垣は、「山里口出桝形」の北東の石垣にある。

昭和20年(1945年)8月14日、米軍は大阪市を空襲し、「大阪陸軍造兵廠」(現在の大阪城公園周辺)に多数の1トン爆弾を投下した。
この時、1トン爆弾の命中によって、天守閣石垣の北東が歪んだ。

石垣の一部が歪んでいるのが分かる。
隙間はコンクリートで補強してある。
また石が黒くなっているのは、被弾による焼け焦げの痕跡である。

本丸地区の中央、「金蔵」の西の植込みに「杼樟之記の碑」が遺されている。
「杼樟之記の碑」は、明治31年(1898年)3月15日、当時の大坂衛戍司令官(陸軍第四師団長)であった小川又次陸軍中将が、本丸地区のこの場所に杼樟樹(クスノキ)を植樹した記念に建てられた。

「教育勅語の碑」は「日本庭園」の直ぐ北側、「杼樟之記の碑」の西の植え込みの中に建てられている。
側には売店があり、売店の裏にあたる。
教育勅語制定40周年を記念して、昭和5年(1930年)10月30日に起工し、昭和6年(1931年)2月11日に竣工した。

当時の大阪市教育会等の協賛を得て建てられた。
戦後、教育勅語はその内容が曲解され、昭和23年(1948年)6月19日に廃止されてしまった。
併しながら、人が成すべき道徳は不変である。

公衆道徳が乱れつつある現代に於いてこそ、教育勅語を読み返す事が必要だろう。

「大阪砲兵工廠本館跡地(大阪城ホール)」
昭和56年(1981年)5月2日、当時の大阪市(大阪市公園局長)は、保存運動を無視して突然取り壊しを強行、一帯は完全に更地にされ、「大阪城ホール」の建設が開始された。
馬鹿な役人の代名詞のようなものだ。

「大阪城ホール」の直ぐ南、太陽の広場地区の茂みの一角に「砲兵工廠碑」が遺されている。
「砲兵工廠碑」は、工廠の殉職者の慰霊とこの場所に工廠があった事を記念する為、、昭和34年(1949年)8月14日、工廠の関係者によって、昭和20年(1945年)8月14日の米軍の空襲で多数の犠牲者をだした第三施工場跡地に建てられた。
昭和58年(1983年)、現在の場所に移設された。

「陸軍第四師団司令部庁舎(中部軍管区司令部庁舎・大阪市立博物館)」
昭和6年(1931年)、市民の募金(150万円)で天守閣が再建された際に、その内80万円が陸軍に寄付された。
それを資金に建設され、「陸軍第四師団司令部庁舎」となった。

戦後一時期は進駐軍に接収されていたが、その後「大阪府警察本部庁舎」となった。
昭和35年(1960年)、「大阪市立博物館」となったが、平成13年(2001年)11月3日、大阪城南西側の「大阪歴史博物館」に移転した為、現在は使用されていない。

二の丸地区(本丸北側)の東端に「青屋口」がある。
創建は江戸時代で、元和6年(1620年)頃と考えられている。
当時は上部の櫓部分が石垣沿いに細長く伸びていた。

明治維新の大火(明治元年・1868年)によって焼失したが、その後に陸軍によって再建され、現在の姿になった。
併しながら、昭和20年(1945年)、米軍の空襲によって焼失した。
昭和44年(1969年)、大阪市が焼残った部材を用いて再建した。

三の丸地区の「筋金門跡」(「大阪砲兵工廠正門跡」)付近に「大阪砲兵工廠化学分析場(化学試験場)跡」が遺されている。
この建物は、工廠の「化学分析場(化学実験場)」であった。

建築家の置塩章(砲兵工廠建築部)が設計、大阪橋下組の施工によって大正8年(1919年)に竣工した。
戦後、昭和39年(1964年)~平成10年(1988年)、自衛隊大阪地方連絡部が建物を使用していたが、現在は使用されていない。

三の丸地区の「筋金門跡」に「大阪砲兵工廠正門跡(守衛所・煉瓦壁・石門)」が遺されている。

「守衛所」は現存しているが、当時の屋根は失われており、煉瓦の一部も崩れているなど、痛みが激しい。
現在の「守衛所」は柵で囲われ立ち入り禁止になっている。

大阪城三の丸の北外堀付近(筋金門跡)に「明治天皇聖躅碑」が遺されている。
この碑は、大正14年(1925年)5月10日、「大阪砲兵工廠」の「正門」前に建立された。

碑の側面には「砲兵工廠」「大正十四年五月十日建之」と彫られている。
また、裏面には「大阪市青年聯合團」と彫られている。

「京橋口」から二の丸地区(本丸北側)に入った場所に「中国製の狛犬(こま犬)」が遺されている。
「こま犬」は、中国の明の時代のものであった。
支那事変中の昭和15年(1940年)、中国大陸に出征していた日本軍部隊が、占領地での戦利品としてこの「こま犬」を入手した。

「こま犬」は日本本土に運ばれ、陸軍第四師団司令部のあった大阪城内に置かれた。
当時は、山里丸地区の「山里口出桝形」東側の「山里口門(現存せず)」跡の石垣上部に置かれており、戦後も長らくその場所にあった。

昭和58年(1983年)、中国で「こま犬」の返還運動が起きたが、昭和59年(1984年)、中国政府はこれを改め、日中友好の記念として「こま犬」を大阪市に寄贈する事を決定した。
この時「こま犬」は現在の場所に移された。

「こま犬」はそれぞれ、高さ約3.2m・重さ約2.9tある。
「こま犬」の側には中国政府から寄贈された時の「記念碑」がある。
碑には「中日友好 萬古長青」と彫られており、当時の中国政府駐日本国特命全権大使であった宋之光の筆によるものである。

二の丸地区(本丸北側)にの西側に「京橋口」がある。
「京橋口」には江戸時代に造られた「京橋口門」「京橋口多門櫓」があり、明治維新の大火(明治元年・1868年)も免れた。

その後は大阪城内の陸軍関連施設への入口として使用され、「京橋口門」は歩哨によって警備されていた。
「京橋口門」「京橋口多門櫓」は、昭和20年(1945年)8月14日、米軍の空襲によって焼失し、現存しない。

「桜門」の裏に「銀明水井戸の井筒」がある。
元々、「銀明水井戸」は本丸地区の南西にあった。
昭和6年(1931年)、「陸軍第四師団司令部庁舎」が新築された際に、井筒と周囲の敷石が現在の場所に移され、水道水が引かれた。

本丸地区南東側の空掘に、大東亜戦争中に中部軍管区司令部が構築した「地下壕入口」が遺されている。
写真中央、空掘南側の石垣底部に「入口」が見える。
写真右側(西側)にはもう1ヶ所の「入口」があるが、こちらは草と土に覆われて外部からは見えにくい。

二の丸地区(本丸南側)に「大阪陸軍兵器支廠本部門跡」が遺されている。
「陸軍兵器支廠」は、兵器・兵器材料の保管・修理等を担当する部署でった。

現在の西の丸庭園地区一帯(約15 万㎡・5 万坪)には、「大阪陸軍兵器支廠」の倉庫等が多数あったが、全て撤去され、現在は無い。

二の丸地区(本丸北側)に「陸軍士官学校施設跡地」が遺されている。
江戸時代には、この場所に幕府の要職である大坂定番の大名屋敷(公邸)があったが、慶応4年(明治元年・1868年)大阪城開城の際に焼失した。

明治維新後の明治2年(1869年)、この場所に「陸軍兵学寮」が置かれた。
「陸軍兵学寮」は「陸軍士官学校」の前身となる陸軍の将校養成施設であった。
現在、この場所は緑地・遊歩道が整備され、当時の痕跡を残すものは全く無い。

「大阪城ホール」の直ぐ北西に「大阪砲兵工廠荷揚門跡」が遺されている。
「大阪砲兵工廠荷揚門跡」は第二寝屋川(旧名:平野川)に面しており、向かいには「大阪ビジネスパーク(OBP)」がある。

この荷揚門(水門)は、明治4(1871年)年5月、落成された。
当時、重量物の輸送は平野川の水運を利用しており、工廠内に材料をに搬入したり、工廠から製品を搬出する為に造られた。
「水門」の内部は戦後に埋められた様であり、現在は「水門」としては機能していない。

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大阪城 へのアクセス、行き方歩き方

地下鉄 【谷町線】谷町四丁目駅1-B号出口 、天満橋駅3号出口
【中央線】谷町四丁目駅9号出口、森ノ宮駅1号出口、3-B号出口
【長堀鶴見緑地線】森ノ宮駅3-B号出口、大阪ビジネスパーク駅1号出口
JR 【大阪環状線】森ノ宮駅、大阪城公園駅
【東西線】大阪城北詰駅
京阪 天満橋駅
いずれも徒歩で約15分から20分。

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