水の底に消えた蕪村の故郷・毛馬村

大阪府

江戸・天明期の俳壇革新者であり、南宋画の開拓者、俳画の創始者といえる与謝蕪村は享保元年(1716)、摂津国東成
郡毛馬村(大阪市都島区毛馬町)に生まれた。

20歳のころには江戸にあり、夜半亭宋阿に師事し、俳諧を学びました。

もともとは淀川の本流でしたが、明治後期の淀川改修工事で毛馬の洗堰、閘門が作られた際、そこから下流の大阪湾に注ぐ旧淀川13.83kmを大川と呼ぶようになった。

飛鳥時代には難波津、平安時代には渡辺津と呼ばれた要衝です。
弥次さん喜多さん、森の石松、幕末の志士たちまでが乗ったという三十石船(長さ約15m、幅1.9m、定員28人)は、昼夜、上下便あわせて毎日320便、約9000人が利用したといわれ、大変な賑わいでした。

平安中期、このあたり一帯は「善源寺荘」と呼ばれ、大江山の酒呑童子を退治した源頼光が支配する荘園でした。

頼光は長徳年間(995~999)、ここに武神・八幡大神を祀ったさいに自ら楠を植えました。

この地の管理を任されていた頼光四天王の筆頭、渡辺綱が、この楠に馬をつないで参詣
したことから「駒つなぎの楠」と呼ばれました。
樹齢900年、周囲12m、高さ約30mもの大樹で、昭和初期、大阪府の天然記念物第一号に指定されましたが、戦災で枯死しました。

しかし、その後も倒れず現在にいたっています。

橋の名は、与謝蕪村の句「春風や堤長うして家遠し」にちなんでつけられました。
この句は蕪村の最高傑作ともいえる抒情詩「春風馬堤曲」の発句で、「やぶ入りや浪花を出て長柄川」と並んで出てきます。

やぶ入りで大坂の町なかの奉公先から実家へ帰る娘に託し、わが生誕の地・毛馬村への望郷の念を18首の歌に詠み込んだ、蕪村62歳の作品です。

10代後半には両親ともなくなり、家は没落、そして出奔。
20歳のころには江戸にあり、京都で68歳の生涯を閉じるまで、二度と毛馬の地を踏
まなかった蕪村ですが、失意のうちに幼い日々を過ごした淀川べりの村を終生忘れることはなかった、といえるでしょう。

平成21年(2009)3月に開園したばかりの蕪村を顕彰する公園(約1ha)。

「春風馬堤曲」に詠われている毛馬の堤を再現し、淀川原ののびやかな広がりのある風景が表現されています。

園内には、蕪村自筆の13句を刻んだ句碑が並べられています。
松尾芭蕉、小林一茶とともに近世俳諧史を彩った蕪村は、浪漫的、抒情的な俳風を築き、生涯で3000近い句を詠んでいます。

13句はその代表作ともいえ、多くは生まれ故郷、毛馬を詠んだ作品が連ねられています。

江戸・天明期の俳壇革新者であり、南宋画の開拓者、俳画の創始者といえる与謝蕪村は享保元年(1716)、摂津国東成郡毛馬村(大阪市都島区毛馬町)に生まれました。

20歳のころには江戸にあり、夜半亭宋阿に師事し、俳諧を学びました。

寛保2年(1742)27歳のとき、師の死にあって江戸を去り、下総国結城(茨城県結城市)を拠点にあこがれていた松尾芭蕉の足跡をたどって東北を周遊するなど、俳諧の道と画技を磨きました。

その後、丹後・与謝地方で4年余を過ごし、42歳で京都に居を構え、画業に専念します。45歳のころ結婚。
娘くのの誕生からしばらくして讃岐へと旅立ち、55歳で師を継ぎ、夜半亭二世に推戴されました。

このあたりから、「春風馬堤曲」「澱河歌(でんがか)」「老鶯児(ろうおうじ)」の三部作を刊行した62歳ごろが蕪村の絶頂期といえます。

天明3年(1783)12月、「しら梅に明る夜ばかりとなりにけり」の辞世句を残し、68歳でなくなりました。
墓は芭蕉庵のある京都市左京区一乗寺、金福(こんぷく)寺にあります。

かつての淀川は、蕪村の故郷・毛馬村付近で中津川と分岐、南へ
大きく湾曲していました。
その豊かな水量で農作物には恵まれたものの、一方でたびたび洪水に見舞われ、有史以来といわれる明治18年(1885)の大洪水、さらに22年、29年の洪水が大きな被害をもたらしました。

18年の洪水の惨禍を目の当たりにした東成郡榎本村放出(現在の大阪市鶴見区)生まれの大橋房太郎(1860~1935)が淀川治水事業に取り組み始め、その努力で明治29年(1896)には河川法が制定されるとともに、淀川改修経費が国会を通過。

オランダ人技師、デ・レーケが計画立案、内務省土木監督署の技師、沖野忠雄の指導のもと、新淀川開削を含む改修工事がスタートしました。
新淀川は毛馬付近から下流を、旧中津川の一部を利用する形で開削、大阪湾に直線的に注ぐようにし、旧川(現在の大川)には必要な水量を流す洗堰と船舶航行のための閘門を設けるという大規模なもの。

完成までに10年余を要しました。
その後も改修は続けられ、戦後は洗堰部分に淀川大堰も建設されました。
残念なのは、新淀川工事で、淀川が南へ大きく湾曲する部分の左岸に位置した蕪村の故
郷・毛馬村の大半が水没してしまったことです。

蕪村生誕地の石碑のあたりから見下ろす北側がその地です。

淀川改修紀功碑。
明治31年に始まった淀川改修工事が明治43年に完了したのを記念して石碑が建てられました。

眼鏡橋

新淀川開削を含む淀川改修工事で計画され、明治40年(1907)8月、普段の川の水を流
すための「毛馬洗堰」と、水位が違う大川、新淀川間の船舶の通過をスムーズにする「毛馬閘門」とが完成しました。

閘門は沖野忠雄の指導で作られ、両岸はレンガ造り。水路の前後に鉄製観音開きの制水扉が設置され、両岸からハンドルを回して開け閉めしました。
しかし、その後の大川しゅんせつ工事で水位が大きく下がり、淀川との水位差が広がって役に立たなくなったため、大正7年(1918)、この閘門下流に二つ目の閘門が作られました。

現在使用されている閘門は3代目で、昭和49年(1974)に完成しました。
旧毛馬洗堰と初代閘門は貴重な近代産業遺産として平成20年(2008)6月、国の重要文化財に指定された。

旧毛馬第一閘門に残る「係船環」というもので、閘室内で船を安全に繋ぎとめておくもの。
係船環に高低差があるのは、新淀川と旧淀川の水位が異なるためである。
調度その高さの違いは1mで、当時の水位差は1mだったことを表している。

「毛馬の残念石」という大きな石が数個転がっており、江戸時代に大坂城を再建するときに伏見城から運ばれた石垣の石がその途中で運搬船から転落し、淀川改修工事の際に引き上げられたものとされる。

河川沿いを歩くと、足元にポツポツと現れてくる距離標のマーク。
約200m毎(河川中心での距離)に設置されている様々な距離標は、河川管理上で位置・高さ等の基準点となる大切な物。
建設省→国土交通省の管理となっています。

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